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#4613 久々のサイクリング&壊れちまったコンデジカメラ Sep.11, 2021 [85.サイクリング]

 牧の内T字路までの往復のコースを走ってきた。平地走行で時速18-22km、いつもは30㎞前後で走っていたが向かい風でもないのにサッパリ速度が上がらなかった。前回走ったのは7/30である。1か月半近くもお休みしていたので、筋力が落ちたようだ。
 根室高校前からT字路までの5200mに15分10秒かかった。いままでは10-12分のタイムだった。行きで速度が出なかった分、帰りは16分で戻ってこれた。
 光洋町のセブンイレブンの前を横切ったら、見知らぬ中学生が2人、手を振ってくれた。サイクリングして遊んでいたようだ。こんなことは初めて。

 午後2時の気温15.8℃、東南東の風4.0m/s、湿度87% 
 走行距離12.8km、累計距離5726km
 平均時速18.4km、最大速度43.1km

 これくらいのペースが無理がなくていい。
 ところで、コンデジカメラが壊れたようです。真ん中あたりに黒い影が映るようになりました。ニコンにも部品がないそうなので、新しいのを買お,

うと思います。200gほどの重さで安くて軽くて取り扱いがしやすいのがいいですね。(笑)
 重さや大きさが気にならないなら、1眼レフかミラーレスカメラをいじってみたいのですが、たぶん買ってもほとんど使わないでしょう。

 ピントやシャッター速度や絞を自分で合わせた昔の一眼レフが懐かしい。赤い電球をつけたにわか暗室で現像していると、撮った像が浮かび上がるように出てくると現像液から引き揚げて停止液につけて、次いで定着液の入ったバットトレーに放り込む。そのあとがまたひと手間でした。ステンレスの薄い板に濡れた印画紙を貼り付けて乾燥機にセットします。しばらく待つと出来上がりです。そんなことをしていた高校時代が懐かしい。オヤジが買ってくれた引き伸ばし機と必要な道具一式。ほしいなんて言ったことないのに、ある日突然、「行くぞ」というので後をついて行ったら着いたところは緑町三丁目の写真屋さんでした。トドワラの写真で運輸大臣賞を受賞した30歳代の写真家さんのお店でした。そこで新品の道具一式を受け取り、引き伸ばしの手順を教えてもらって、翌日自分でやってみました。小学生のころから毎日家業のビリヤード店の店番を手伝っていたので、ご褒美だったようです。サプライズでした。(笑)オヤジは戦後間もなく根室へ来た頃、中村写真館を中心にあった写真仲間の一人だったのです。結婚資金を作るためにカメラを売ったといつか聞いた記憶がありました。息子にやらせてみたかったのでしょう。根室高校で写真の引き伸ばし機をもっていたのはわたしだけでした。
 根室高校で生徒会会計で全部のクラブの予算編成をわたし一人で担当してました。当時は予算編成も帳簿の記帳も決算も生徒がやっていました。N先輩が2年生のわたしに単独で予算折衝やらせてくれたからです。一切口出しなしで任せてくれました、それがとってもいい経験になりました。
(売上が40億円の産業用エレクトロニクスの会社でも売上500億円の臨床検査最大手のSRLの予算編成だって同じことでした。どちらの会社も中途入社してその年に、大きなプロジェクトを任されると同時にルーチンワークは翌年の予算編成でしたね。損益予算と投資予算、資金計画を含む総合予算と戦略策定です。)
 各部長と副部長に生徒会室に来てもらって、理解と納得ずくで予算査定してました。だから写真部の引き伸ばし機が古くて錆が浮き出たポンコツなのも知っていました。気の毒でした、買ってやりたかったけど、全体の予算枠に余裕がありません。部長は友人のK君でした。引き伸ばし機は当時の高卒の給料の3倍ほどの値段でした。
 若いころはボクシングや、自転車レースレースで活躍した元気な若者、そして秘密部隊であった元落下傘部隊員、好いオヤジでした。そういえば、明日はオヤジの命日です。
 オヤジの大腸癌の診断をつけてくれたのは岡田医院のお爺さん先生でした。平成3年に一度目の手術、2年後に再発し全身転移、数か月間市立根室病院でターミナルケアをしてもらい、平成五年に亡くなっています。50歳以上の人は焼き肉店「酒悦」のオヤジといえば知っている人が多いでしょう。とってもよく流行ったお店でした。釧路の屠場の責任者が兄弟子だったので、その人が選んで肉を送ってくれてました、だからとってもいい肉を仕入れられました。その方が亡くなって仕入れルートが失われ、数か月別ルートを模索したようですが、同じレベルの品質の肉を仕入れることができないとわかると、さっさと店を閉めました。常連のみなさんに同じ値段で同じレベルの品質の肉を提供できない、それなら店仕舞い、潔いオヤジでした。銀座の焼き肉店でも食べたことがありますが、オヤジの切った肉の方がうまかった。タレもね。たまに帰省した時にふんだんに食べて味になれてたからかもしれません。オヤジにもらったタレのレシピがありました。二十数種類大きな甕で一月ほど発酵させて作ります。その甕はまだあります。好い材料ををふんだんに使ってましたから、当時でも1回つくるのに材料費だけで10万円前後かかってました。店をやめてからどなたからからか要望があったのでしょうね、数年間2種類のタレを作って常連さんに配っていました。
 当時中学生で「酒悦」の焼き肉を一番食べたうちの一人はたぶん岡田医院の岡田優二先生でしょうね。お父さん先生に連れられてよく来ていたようです。「食べっぷりが好いんだ」とオヤジが嬉しそうに言っていたのを思い出します。わたしは中高生の優二さんはまったく知らないのです。初めてお目にかかったのは癌の診察をしていただいたときでしたから。オヤジも、目の前で焼き肉をほお張っている中学生が、将来の息子の主治医になって、スキルス胃癌の診断をつけ、ほとんど手おくれだった命の窮地から救ってくれるとは、想像もできなかったでしょう。運命の歯車は不思議です。
 わたしは根室高校を卒業してから35年間東京住まいで根室にはいませんでした。
 運命の糸車はさらに回り、35年ぶりに古里へ戻ってきて、癌の手術をして数年後に、今度は優二さんの息子の太志君をニムオロ塾で預かることになりました。納得がいくとじつに素直ですが、納得がいかないと芯の強いところを見せる生徒でした。預かったあの小学5年生の1月にはすでに性格の基本的な部分はできあがっていましたね。7年間の歳月でさまざまな経験を経てさらに磨きがかかったことは事実です。授業の合間に話を聞いてました。数学の問題を解きながら、論理的な議論を並行してできる生徒でした。その都度自分の意見がしっかりありましたね。わたしの方は根室高校から国公立大学医学部現役合格をターゲットに長期教育戦略を立てて、着実に実行しました。優二さんは地元の根室高校から進学させたいとの強い希望があったので、1浪させてかまわない、それでいいと聞いていました。太志君の希望は少し違っていましたから、本人の希望を優先したのです。現役で合格したいという願いが次第に強くなったのです。7年間は速いものでした、太志君は高校生になってから時間の使い方が上手になりました。
 三代目の彼は予定通りに現役合格していま旭川医大生。将来根室の地域医療を担ってくれたらうれしい。
 どうやら古里に戻ってきて私が担うべきいくつかの仕事のうちの一つがこれだったのかと納得です。根室には彼と同水準の生徒が学年に3-5人います。小学校4年生から受験勉強をスタートさせたら、余裕で国立旭川医大以上の難関大学へ合格できます。その具体的な道程は弊ブログに記録しておきましたので、チャレンジしたい生徒や保護者のみなさん、学校の先生たちは参考にしてください。

 ところでカメラの実際の使い勝手は手に取ってみないとわからない。キャノンの安めのコンデジをいくつか手に取ってみましたが、望遠の倍率を挙げたときに自動焦点のマークが画面の中をうろつく挙動が出て、2台はなかなかピントが合わない。一番小さいのが倍率40倍のマックスにしても、ぴたっとピントが合いました。こういうことは手に取ってやってみないとわからないのです。ソニーはコンデジにもツァイスのレンズを使っているのですね。何がわたしには好いのかいまのところさっぱりわかりません。しばらく買えないかも。
 


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