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#4456 田塚源太郎先生と根室の大人たち Jan. 15, 2021 [22-1 田塚源太郎遺稿集]

 田塚源太郎先生は家業のビリヤード店の常連のお客様のひとりだった。小学1年生のころからビリヤード台にあがって球を撞いていたわたしを面白がって、遊んでくれたことがあった。冬は鍔のある帽子をかぶり、コートを着てお店へ入ってくるオシャレな人だった。身長は5尺8寸(175㎝)ほど、長身である。お店のお客さんで映画に出てくるようなハットをかぶってくる人は田塚先生ただお一人、他の人が真似しても似合わないだろう。都会的な雰囲気を感じさせる大人だった。豪傑で繊細な感受性のもち主、矛盾したものを内にもっていらしたように思う。


 考古学者で文学博士、㈱根室印刷の創業者であった北構保男先生とは根室商業の同期である。田塚先生は国後島から2か月遅れて6月に根室商業へ入学してきたという。それ以来、二人は親友である。北構先生は豪放碧落な性格で職業や社会的地位で人を分け隔てしない、庶民的なインテリであった。
 根室印刷は梅ヶ枝町にあった自宅兼店舗から15mほどのご近所さん、田塚先生のご自宅兼歯科医院も歩いて3分ほどの距離。落下傘部隊のオヤジは彼らよりも2歳年下で。オヤジから見たら「軍医殿」、中国の四年間の転戦に敬意を払っていたように思える。オヤジも落下傘部隊の前は朝鮮や中国へ通信兵として配属されたから、田塚先生とは話があっただろう。いくつかエピソードがあるが、その内に書くことになる。オヤジは「田塚先生」と読んでいたが、田塚先生はオヤジのことを「五郎さん」と名前で話しかけていた。オヤジを名前で呼んでいた人は田塚先生お一人だけ。
 田塚先生が歌人であったことは、遺稿集で知った。昭和55年ころビリヤード店に置いてあった遺稿集を見ていたのだが、それっきり手に取ることはなかったが、たまたま本棚にあるのを数日前に見つけ、読みふけり、そしてもったいないと思った。
 根室の他の人たちにも知ってもらいたい。市立図書館にあると思うが、限定500部しか刷られていない、貴重な歌集である。

 もう一人、歯科医の福井先生を挙げておかねばならない。福井先生は昭和の元年か2年ころのお生まれではないだろうか。ビリヤード店の常連客のお一人だった。物腰のやわらかい品のよい人だった。いま、息子さんが同じ場所で歯科医をされている。わたしの知っている福井先生は2代目だった。初代の先生は太鼓腹だったそうで、赤ん坊の時にお腹の上にのっけてよく遊んでくれたとお袋。だから3代のお付き合いになる。2代目の福井先生は根室新聞に連載小説を載せていた。時代小説だった。北構先生との雑談のときに福井先生の話が出たことがある、時代小説ばかりでなく現代小説も連載していたとおっしゃった。

 北構先生は昨年亡くなられた。福井先生は平成3年の秋に亡くなられた。田塚先生は昭和54年だから58歳で早世された。凄い人たちが周りにいたことはわたしの人生に少なからぬ影響を与えているかもしれぬ。


 前置きはこれくらいにして、次回から3つくらいずつ田塚先生が日々の暮らしの折々に詠んだ短歌を紹介したい。
  娘さんは一人はわたしと小学校・中学校・高校1年生まで同じクラスだった。お姉さんは1学年先輩、根室高校の美術部長だった。わたしが2年生の時に生徒会会計で予算折衝で話したことがある。もう十年ほど前になるが、美術を習っている塾生がいたので、展覧会を見に行ったときにお会いして話をしたのが2度目だった。


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弊ブログ#4321に、根室商業を卒業した年に東京東横デパート屋上で北構さんと田塚先生とたぶん高坂さんだろうと思うが三人で撮った写真が残っていたので掲載してある。こちらへコピーで来るので貼り付けておきます。真ん中が田塚先生です。右側が北構先生(文学博士考古学者)、左が高坂さん。田塚先生、どう見ても高校を卒業したばかりの人には見えないでしょう。冬にビリヤードの店番をしていると、こういういでたちで入ってきました。帽子とコートを帽子掛けとコート掛けにかける。それから球を撞いてました。独特の雰囲気のある人でしたね。


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