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#4194 日本の医療行政の人材劣化現象はなぜ起きたか? Mar. 1, 2020 [35. 感染症および自己免疫疾患]

 前回、新型コロナウィルス感染症に対する政策を台湾と日本を比較しながら分析してみた。この感染症に対する特別法は台湾ではまだ感染症患者が出ていないうちから検討され、患者が出始めてすぐに1/25に台湾立法院で可決成立して、ただちに実施されている。マスク不足への対策は、政府がメーカから全量買い上げ、健康保険カードを使って、一人一週間に一度だけ買えるように制限したから、マスクがなくて困っている国民はいない。健康保険カードは1995年に導入され、ICカードになって購入履歴が書き込みできるのでコントロール可能だ。日本にはこういう制度がない。
 日本では1993年ころに臨床検査項目コードが標準化されている。臨床検査会社6社と臨床病理学会の5年にわたる産学協働プロジェクトの成果である。最大手の臨床検査会社SRLに事務局があるが、新型コロナウィルス感染症PCR検査を新規登録すれば、翌日からでも病院から民間検査センターへ検査外注できるから、いま公的機関80施設でやっている900ID/dayの制限がなくなる。20倍は検査可能だ。ラボ側の受け入れ調整があるので、実際には検査項目コード登録から3日後くらいになるだろう。この点では日本は世界中のどの国よりも進んでいる。何しろ、臨床検査項目コードを国内で統一した国はないからだ。
 臨床検査項目コードの標準化も台湾の健康保険カードも医療のインフラと言っていい。ほんらいは行政がやるべき仕事だが、日本の厚生労働省からそういう発想や提案が出てきたことがない。
 「東大村」という仕組みのせいだと思う。人脈が狭いのだ、人脈が狭いと視野も狭くなるようだ。前回のブログで書いたが長くなりすぎたので、こちらへ転記して紹介する。

 2/29に唐突に出された、全国の小中高一か月間一斉休校要請は、集団ヒステリックのようなもの。理由は一連の新型コロナウィルス感染症関係の記事でいくつか書いたのでそちらをご覧あれ。
 新型が厄介なのは、再発率が14%(中国の事例)もあることだ。ウィルスが検出されなくなっても、どこかに隠れていて、薬が切れたり免疫が下がると再び増殖してしまう。まるで、帯状疱疹ヘルペスウィルスのような性質をもっているらしいことだ。それが何に由来するのか、新型コロナウィルスを遺伝子モデリングで分析してもらいたい。インフルエンザウィルスにはいままでそういう性質がなかった。罹患して治療完了すれば抗体ができて再発はなかった。世界中の研究者が競って解析してるから、いずれ学術論文が出てくる。



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<余談:人材考>
 なぜ、厚労省から臨床検査項目標準化というデジタル時代の医療システムのインフラともいうべき重要なプロジェクトが提案されなかったのだろう。そして、わたしたちがやった産学協同プロジェクトは厚生省に声をかけなかったのはなぜだろうか考えてみた
 答えは簡単、必要ないからだった。わたしが集めたのは、臨床検査項目コード制定に必要なメンバーだけ。一つは実務で使っているグループ、それが大手6社(BML,三菱BCL,住友バイオサイエンスなど)のシステム部門と学術部門の専門家だった。臨床病理学会は自治医大の河合先生が国際病理学会長でその一番弟子の櫻林郁之助教授が臨床病理学会の項目コード検討委員長だった。そして彼はSRL顧問でもあったのだ。SRL自身が河合先生の提案を受けて、富士レビオ創業社長の藤田さんが作った会社だった。それらを結びつける接着剤が必要だった。それがわたしの役割。入社1年目に毎月各大学の先生たちを招いて開いた社内講習会があったが、そこで櫻林郁之助(当時は助教授)から項目コード制定の作業を手伝ってほしいと頼まれていた。中途入社まだ1年のわたしは、暗礁に乗り上げていた統合システム開発の中核部分を担当した。会計及び支払い管理システムと投資・固定資産管理システムの二つ、実際には購買在庫管理システムの担当者(3名)が困っていたので、外部仕様書の半分くらいを書いてやった。
 入社3か月目に富士レビオの子会社、東レ富士バイオから腫瘍マーカCA19-9の価格の決め方を向こうの取締役と話して決めてきてくれと、経理部長から頼まれた。輸入試薬の仕入価格に適用する為替レートも、上場審査上関係会社取引になるので、利益操作にならないような方法が求められていた。SRLの前は産業用エレクトロニクスの輸入商社にいたから、そのあたりの書類のフォーマットやコンピュータシステム上の仕組みは、統合システムですでに経験済みだった。関係3課長が数か月協議して、処理案ができなかった。話を聞いて3日後に事務フローや帳票類のデザインを説明して納得してもらったから、経理部長の岩本さん、「ebisu、練馬ラボまで来るように、東レ富士バイオの担当取締役に電話しとくから、行って決めてきてくれ」、課長越しに頼まれた。いまでも腫瘍マーカCA19-9は使われている。汎用性が高いからだ。わたしも岡田医院で3か月ごとにやっている定期検査に年に2度くらいはCA19-9がはいっているようだ。じつになつかしい。(笑)
 上場要件を満たすための統合システムには、わたしの担当した二つのほかに、購買在庫管理システム、原価計算システムと販売会計(売上債権管理と請求書発行)システムがあった。これらサブシステムとのインターフェイスが一番難易度が高かったが、インターフェイス仕様書は依頼されて1週間で完全なものを書き上げた。いまでも、各システム間のインターフェイスは1984年4月に書いた仕様書通りに動いているのだろう。各サブシステムの内容が分かっていないとできない離れ業だった。一番遅れていた会計及び支払い管理システムの担当がわたしに交替して8か月で最初に本稼働した。2か月の並行ランを含んで8か月である。ノートラブルでスタートした。他のシステムは1年半、長いもので3年かかっている。そういう手際の良さをシステム開発部の栗原課長が見ていて、提案書にも目を通していた、それでBML社がラボを新設するので業界標準コードをつくって自社コードにするために大手6社に声をかけて1回目の会合が開かれたので、2回目の会議に一緒に行こうと声をかけてきてくれた。臨床検査部長の川尻部長(女性)を誘おうということになり、彼女へ話した、すぐに櫻林先生の案件になるからというと、よろこんで協力して来れた。櫻林先生は臨床検査部2課の顧問だった。免疫電気泳動分野が研究対象だったからだ。当時わたしは入社3年目で平社員、でもこうして非公式に必要な人材が動かせる面白い会社だった。仕事の実績さえあれば、職位に関係なく、仕事=プロジェクトに必要な社内人材が協力してくれる。人事部も無関係。人事部長がそんな仕事を理解できるはずもないから話すだけ無駄。大事なところは稟議書や提案書を書いて、創業社長である藤田さんの了解をもらえばいいだけ。
 面白いことに、プロジェクトに6社から集まったメンバーに東大卒はいなかった。東大村には関係のないプロジェクトだが、日本の未来の医療制度には不可欠のインフラだった。医療カードとカルテの標準化もそうだった。

 東大理3卒、大学院で応用生物統計を学んだM君が帝人との治験合弁会社立ち上げのときに、必要な人材だったので、研究部から異動してもらった。M君の上司のH川は旧知の間だったから、二つ返事で異動を承知してくれた。(当時の)社長の近藤さんに話して、異動を人事へ伝えてもらった。M君は仕事のできる男だったが、応用生物統計の専門家のF川の評価は厳しいものだった。異動の5年ほど前にF川が「ebisuさん、酒を飲もうと」初めて誘ってくれ、日野駅前の居酒屋で飲んで話した。「Mはセンスがない、センスは教えられない」というのだ。数学や統計学はセンスがない奴にはダメだというので、教え方次第だと議論したのを覚えている。議論は平行線だったが、お互いにそれぞれの分野の職人としての腕のほどは分かっていたから気が合った。F川はわたしが学術開発本部でやった仕事を見ていた。沖縄米軍向けの出生前診断システム開発プロジェクトである。ニュヨークから東女史が取り寄せた資料をわたしの机の上にポンとおいて、「これ、学術営業の佐藤君が困っている、システム部にやれないって断られたの、あなたならやれるでしょ、手伝ってやって」、学術開発本部に異動した数か月後のことだった。東さんわたしの向かいの机、米国で臨床検査の仕事を25年ほどやったことのある人だった。机の上に置かれた英文の学術論文を読み、システム部が断った理由がわかった。検査受託の入力項目に妊婦の妊娠週令、体重、民族の項目がないから、受付処理ができない。受付システムを出生前診断検査で必要な項目を含めるように改造するのは1989年の時点ではお金がかかりすぎてやれない相談だった。別の方法を考える必要があった。とりあえずプログラム仕様書は書かなければならないから、HP41cをつかって載っていたグラフとデータから曲線回帰分析をして2次方程式で近似し、プログラミング仕様書を書いた。沖縄営業所で検査IDと3項目データを入力、3項目の検査後、入力したデータと検査結果報告データファイルとを沖縄営業所に置いたパソコンでファイルの結合処理をすれば、米軍が要求する検査報告書作成が可能だった。上司のI神取締役に、「学術営業の仕事、システム部に断られたから手伝ってやるよ、いいよね」と言うと、OK.学術営業部長は窪田さんだった。いま、一部上場企業ぺプリドリームの社長をしている。その部下で米軍むけの出生前診断検査と慶応大学産婦人科医との産学協同プロジェクトの仕事を担当した佐藤君は8歳下だったが、会社を辞めて留学し、米国臨床栄養士の学位をとって栄養医学研究所を立ち上げ独立起業した(立ち上げの3年間ほど、出資と監査役を頼まれてた。日本の臨床栄養学の草分けとなったが、2年半前に急逝している。癌だったのではないだろうか。亡くなる1か月前の講演会の写真を見たら、痩せていた)。
 パソコンのプログラムだったのでシステム部からC言語のプログラミングのできる上野君の応援を依頼し、1か月でシステムができて、上司のI神さんと学術営業部の佐藤君と上野君、わたしの4人で沖縄米軍を訪れた。ずいぶん喜んでくれて、三沢基地の米軍の取引を全部SRLに出してくれるということになった。米軍は法律の縛りがあって、女性兵士が妊娠したら出生前診断検査を受けさせる義務があった。国内でその要望に応じることができたのはSRLのみ、おまけにSRLは部国の品質管理基準のCAPライセンスも1988年ころに取得していた。上司のI神さん、米軍の「ゼネラルミーティング」に何度か呼ばれて参加していた。
 そのあと慶応大学産婦人科医たちと、出生前診断検査MoM値の基準値研究プロジェクトをマネジメントするために、佐藤君と一緒に信濃町の慶応大学病院を訪れた。多変量解析を伴うので古川の協力が必要だったがかれは二つ返事でOKしてくれた。「ebisuさんから来た仕事だからやるんだ」そう言っていた。わたしが間に入っていなければ、仕事を断って会社を辞めただろう。かれは産婦人科学会で慶応大学のドクターが発表したときに、そのデータがBML社のものだったので、データそのものに信頼性がないこととデータ処理に関する異議を申し立てたことがあった。応用生物統計に関しては臨床検査センターではナンバーワンの職人だから、彼の主張は正しかったのだろう。当時のBML社の検査データは技術レベルや品質管理に問題があった。慶応のドクターはかんかんに怒って、取引停止騒動になったが、社長の藤田さんが慶応大学病院を訪問して頭を下げてこはおさまった。古川は数年にわたってこの仕事を担当していい仕事をやってくれた。Mom値は白人の基準値よりも、黒人が2割高い、日本人は間の110%くらいと見当をつけて妊婦の協力を得て多変量解析を進めたら、130%だった。これは人種的な問題で示唆に富んだ結果である。日本人は白人や黒人とはまったく別のグループに属しているのだ。このプロジェクトが終わると、F川は会社を辞めて独立起業した。帝人との合弁会社の役員をしたときに、仕事をいくつかまわした。かれにとっては必要がなかったかもしれぬが、立ち上げ当初は思い通りにはいかぬものだ。
 このプロジェクトは、必要な三つの検査試薬は製薬メーカ2社に話して、研究結果が出たら論文を販促に自由に使っていいからという条件でタダにしてもらった。そのっ旨慶応大学病院のドクターにも伝えて了解をもらった。4年前に試薬の価格交渉で辣腕を振るったわたしが購買部長になる可能性も、本社でまた予算編成を任される可能性もあったから、製薬メーカは当然協力してくれた。恩を売っておいた方が製薬メーカは得になるから、喜んで受け入れてくれた。検査にかかるコストと多変量解析にかかるコストはSRLもちにしたから、慶応大学病院のドクターたちは予算ゼロで画期的な学術論文が書けた。数年にわたり、6000人ほどの妊婦に協力いただいたので、3項目で1.5万円としたら、多変量解析を含めると1億円を超えたかもしれない。この仕事をやったときの職位は学術開発本部の課長だった。

 東大理3応用生物統計出身のM君は帝人との臨床治験検査及びデータ管理に関する合弁会社で素晴らしい仕事をしてくれた。当初は一緒に役員出向したO部さん(営業担当常務)の部下だったが、データ管理グループを丸ごと管理系役員のわたしの下にもってきた。M君、「SASが必要なんですが…」とさっそく言ってきた。SASは慶応大学病院とのプロジェクトで研究部のF川が使っていたソフトで、仕事に必須のものだった。「SASは生物統計にはなくてはならないソフトだ、いくらするんだ?」、50万円だった、すぐに買ってやった。よろこんでいました。NTサーバを使うつもりだったから、若いほうのシステムエンジニアK谷とM君をパッケージ開発でタッグを組ませた。治験データ管理実務は若手だがベテランの優秀な三宅をメンバーに加えた。プロトタイプは武田薬品向けのデータ管理システムでできていたので、治験検査データ分野の仕事は初めてのかれらでも新しいツールを使ってできた。チャレンジャブルな仕事だった。ラックにマウントしたNTサーバーはかっこよかった。それまで、三菱電機製のオフコンとプリンターをつかっていた。プリンターだけで1000万円を超えていた。もうオフコンの時代ではなかった。わたしは前職の産業用エレクトロニクス輸入商社で1978年から4年間三菱電機製のオフコン2台を使ってシステム開発していたことがあった。NECの汎用小型機への乗り換えと統合システム開発を1983年に経験していた。14年もたっているのに、いまさらオフコンは選択肢になかった。古手のシステムエンジニアのW辺はNTサーバーへの切り替えに反対だったが押し切った。歳を食うと新技術への対応ができなくなる、不安なのだ。プログラミング言語もC++に切り換えている。1997年だったかな。方針を明確に打ち出すことが大事、そして何をやるのかビジョンを具体的に説明して納得してもらう。こうすれば、赤字のこの会社は黒字になり、転籍したときに、親会社以上の給料と賞与を払える、払うよと約束して、がんばってもらった。じっさいに、備品類やパソコンは親会社よりもグレードの上の製品でそろえたから説得力があった。口先だけの約束では人は動かない。決め手は言っている人物が信用できるか否かだろう。
 帝人との合弁会社は赤字部門の治験検査受託だったので、資金繰りが厳しい会社だったが、黒字にすればお金はいくらでも使える。机やいす、パソコン、書架などSRL本社よりもいいものを揃えた。非常勤取締役でSRL本社営業部門担当役員とラボ部門担当役員が月に一度取締役会にきており、備品を見て文句を言ったことがある。「なんだ、ebisuこれ本社よりもいい」、「赤字の会社を黒字にしてくれる社員に使わせるんだから、最高のものを揃えた」といったら黙った。黒字にできなかったら騒ぎ立てるが、それまでの仕事を見ているからぐうの音も出ない。1992年にできた関係会社管理部は営業本部に属していたから、その時代の2年間は、臨床検査会社の経営分析と買収や資本提携交渉がわたしの仕事だったので、親会社の営業担当役員といえどもわたしのすることにあまり口出しできない。営業本部で取引検査センターの経営改善を5件ほどやってあげたし、買収や資本提携もほとんど単独でやって成果を上げていたのである。会社内では相手が誰であろうと仕事の実績がモノを言う。そもそも親会社の営業担当役員を合弁会社の非常勤役員に据えたのは、親会社社長の近藤さんが、わたしたちが親会社と調整ごとがしやすいようにと、営業担当のT村さんと、ラボ担当役員のH泉さん一緒に貼り付けてくれたのである。彼らの役割は親会社との調整事項である。お目付け役だと勘違いされては困る。3年間で黒字化と、資本引き取りによる合弁解消、帝人臨床検査子会社の子会社化が近藤社長からわたしに課せられた課題だった。全部、期限内に片づけた。
 合弁会社では社内の人材がそれぞれの持ち場でしっかり仕事してくれたので、3年足らずで黒字になった。M君に指示してやらせたデータ解析用のパッケージシステム開発が成功して、営業がやりやすくなったためだ。彼とその(データ管理)グループで、利益で2億円貢献してくれた。社員60人ほどの小さな会社だったから、経営への影響は大きかった。赤字部門の切り離しで成立した合弁会社は黒字になった。

 民間企業では東大卒は有能な上司が使ってこそその力が発揮できる。順調に課長そして部長職になって、マネジメント比率が上がるにしたがって、スポイルされてしまうケースが多いのではないか、もったいない。使い方次第でいい仕事してくれる。
 M君に見るように、東大卒は一定の品質の仕事を約束してくれる。具体的な目標を設定し、必要なツールと時間を与えてやれば、いい仕事をしてくれる、速度も大きい、受験エリートの力は侮れないのである
 しかしだ、マネジメントだけはセンスがモノを言う。この面では受験エリートはからっきしである。一ツ橋卒の人5人ほど、京都大学の理系学部の課長とも仕事したが、たまたまなのだろうが、マネジメントのセンスのいい人は一人もいなかった。ズタボロだった人も二人いる。受験エリートは中高の時代に受験勉強に専念する代わりに、その時期にしか身につかない大事ななにかを失っているように見える。慶応・早稲田は一部上場企業ではそれだけでは社内エリートの物の数には入らない。

 わたしが手掛けた産学協同プロジェクト二つには、どちらも東大出身者がいなかったが、プロジェクトはいい仕事をした。これら二つのプロジェクトには東大卒が必要なかった。
 「東大村」だけでやっているのではもう時代遅れで、やれない仕事、プロジェクト、事業が増えている。そういう日本政府の、そして各省庁の政策決定過程と人材の弱点が、今回の新型コロナウィルス感染症で露呈したのである
 「東大村」のなかで仕事に慣れてしまったら、グルーバルなスケールで時代の30年先を行く仕事はできない。財務省や日銀を中心とした財政・金融分野にとくに弊害が著しい。かつては都市銀行にはMOF担なんて言葉があった。もうとっくにそういう時代ではない。
 国全体の人材を考えたときに、東大卒は数がすくない。東大の外にいる人材の方が数の上からは圧倒的に多い。ただ、東大卒は高度な学力レベルの品質保証がある。だから他の大学に比べて、外れは少ない。

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 1986年に原価計算学会へ加入しようと思い、一橋大にある原価計算学会事務局へ電話したことがある。専門を訊かれて、「理論経済学」と言うと、断られた。なぜ、学会に入る必要があったかというと、原価計算システムを発展させて、利益管理用のシミュレーションシステムを創るつもりがあったからだ。新規商品の価格設定による、販売量と売上高とコストの変化をシミュレーションして、最適な価格設定を見つけたかった。
 提案書数枚書くだけで、予算はいくらでも使えたから、会社のコンピュータをお金を使って大きな研究成果が期待できた。会社は利益が増えるのでいくらでもお金を出せる。自分の手でDEC社のミニコンを使って見たかった。統計計算が入るので事務用コンピュータ言語では無理、データ量から考えて汎用機は必要なかった。5000万円もあれがやれた。経理担当役員の岩本さんと管理担当副社長のY口さんがノーと言うはずもない。それまでの原価計算理論が一気に陳腐化してしまう新理論登場のチャンスだった。当時の原価計算の大家は一橋大学の岡本清教授。
 日本の原価計算学者で1986年当時、コンピュータシステムを理解できる者が一人もいなかった。一部上場企業の原価計算はすべてコンピュータシステムでなされていたのに。文系と理系の分野がクロスオーバしていたから、日本の原価計算学者は手が付けられなかった。大学1年のときにはやはり一ツ橋の番場嘉一郎さんの著作を読んだ。番場さんも岡本さんの本も1000ページ近い大著である、役に立ったが、読み終わったら、次のステップがばくぜんと現れだす。そのためのたたき台にすぎない。



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