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#4193 蔡英文台湾総統と安倍総理の力量の差 Mar. 1, 2020 [35. 感染症および自己免疫疾患]

<最終更新情報>
3/1午前10時半<余談:人材考>追記

 安倍総理が新型コロナ感染症対策について、今日午後6時から記者会見を行った。具体策はこれから。台湾の蔡英文総統の対策と比べてみたい。

 台湾ではマスクは国民にいきわたっている。それはある仕組みを利用したからだ。日本の厚生省はそういうものをもっていない、台湾に比べて実にお粗末であることは後で述べたい。
*https://www.msn.com/ja-jp/news/national/新型コロナ“神対応”連発で支持率爆上げの台湾-iq180の38歳天才大臣の対策に世界が注目/ar-BB10xmg9
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 たしかに、台湾の対応の早さは他国と比較しても際立っている。日本では1月16日にはじめて国内の感染者発生が公表されたが、新型コロナウイルスを「指定感染症」として閣議決定したのは1月28日。台湾は感染者が一人も出ていない1月15日の時点で「法定感染症」に定めていた。
...

台湾立法院(国会)は25日、600億台湾ドル(約2200億円)を上限とする経済対策の特別予算案を可決した。大きな打撃を受けている観光産業への支援などが柱になる予定だ。

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 日本政府に比べて素早い対応です。国内の感染者がゼロの時点ですでに具体策の検討を始めて、1/28に「法廷感染症」に指定しています。
 日本では経済対策は具体案すら練られていないが、蔡英文総統は1/25すでに予算案を台湾立法院で可決させています。
 何かをやるにはテクノロジーの支えが必要ですが、日本政府は首相官邸にも厚生労働省にも台湾に比肩するような有能なスタッフがいないようです。大きな目で、長期的な視野で、制度設計とテクノロジーを融合させられる人材がいません。台湾の事情は次のようになっています。
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台湾が誇る天才が、感染症対策でも活躍している。日本と同じく台湾でも、1月後半からマスクの在庫不足が問題になっていた。まずは輸出や持ち出し、転売が禁止され、2月6日にはマスクの購入が実名制になり、7日間で2枚しか買えないようにした。厳しい供給規制に反発がおきる可能性もあったが、タン氏は衛生福利部(保健省)中央健康保険署と協力して、台湾国内の薬局にあるマスクの在庫データをインターネット上に公開。すると、民間のITエンジニアがそのデータを地図上に落とし込み、在庫状況がひと目でわかるアプリを開発して無償配布した。
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 マスクの不足問題を「健康保険カード」を利用して見事に解消しています。日本はこの方面では台湾に20年以上遅れていることが明らかになってしまいました。日本の厚生官僚は台湾のはるか後塵を拝しています。
*https://wedge.ismedia.jp/articles/-/18823
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李登輝が台湾社会に大きく貢献したもののひとつに、全民健康保険制度がある。1995年にスタートした「全民健康保険」は、全国民はもちろん、居留証(外国人登録証に相当)を持つ外国人も加入が義務付けられる。それまでの台湾では、軍人や公務員、教師だけが社会保険制度を享受してきたが、その制度から漏れていた約4割の国民にも安心して医療を受けられる国民皆保険の環境を整備したのである。

 それと同時に、健康保険カードも導入した。このカードはのちにICチップが内蔵され、様々な情報を収められるようになった。氏名や生年月日などの個人情報のほか、いつ、どこの病院で診療を受けたのか、処方箋や薬物アレルギー、過去の予防接種記録、女性の場合は妊娠や出産に関する記録なども収められている。

目下、日本も台湾もコロナウイルスによる新型肺炎の感染拡大防止に躍起になっている。台湾は2003年にSARSを経験したこともあり、政府がとった動きは迅速かつ厳格だった。中国の感染拡大が報じられると、中国人の団体旅行客の入国を拒否したことを手始めに、矢継ぎ早に入国制限(現在は、中国籍の人間は一律入国拒否)した。

 また、折悪しく旧正月とぶつかったため、マスク工場が稼働しておらず、マスク不足のパニックかと思われたが、政府は即座に備蓄を放出すると発表。その後、買い占めや転売を防ぐため、台湾国内で製造されたマスクはすべて政府が買い取ったうえで「記名制」によるマスク販売を行った。

 この「記名制」で活用されたのが健康保険カードである。政府は身分証(外国人の場合は居留証)の末尾によって購入できる曜日を指定し、購入間隔を7日以上空けなければならないと定めた。薬局には必ず処方箋を処理するための健康保険カード読み取り機が設置されているため、ICチップに購入履歴が残る。一人が代理購入できるのは他の一人分までと決まっており、イカサマがやりにくい、公平性のある制度になっている
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 臨床検査項目コードの日本標準を制定する引き金になったプロジェクトは、1986年8月に書いた「臨床診断支援システムとCAI事業化案」です。SRL創業社長の藤田さんが、予算200億円の提案書にOKを出してくれました。入社2年目のことです。入社初年度に材料費のコストカットを提案して、プロジェクトをつくり製薬メーカ相手に20億円の値引き交渉に成功していたことと、上場準備のための統合システムを8か月で本稼働させたので、ご褒美だったのかもしれません。臨床診断支援システムを利用したCAI事業は血液疾患専門医や病理専門医の育成支援をしようというものでした。どこまで対象疾患分野を広げられるかは全国の大学病院や疾患ごとの専門病院と産学共同研究スタイルでやろうと思っていました。1987年から始めた臨床検査項目コード標準化に関する産学協同プロジェクトは、臨床検査会社大手6社のシステム部門と学術部門のメンバーと臨床病理学会項目コード検討委員会・委員長の櫻林郁之助教授で構成され、5年間毎月作業部会をやってようやく制定にこぎつけました。いま全国の病院システムがこの日本標準臨床検査項目コードで動いています。臨床検査項目コードの管理事務局はSRLにあります。
 「臨床診断支援システム及びCAIシステム事業化案」には10個のプロジェクトを考えていましたが、そのうちの二つ目が、カルテの標準化でした。予備調査でICカードは容量が小さいので、開発されたばかりの光カードを使おうかと思い、オリンパスの宇津木台研究所を訪れ、容量とコストについて調査してます。オリンパスがSRLの取引先であり、当時私は購買課でラボの機器を一人で全部購入していたから、光カードの開発担当チームを紹介してもらえました。オリンパスにとってSRLは重要顧客の一つだったからです。八王子ラボとオリンパス宇津木大研究所は目と鼻の先にあります。レントゲン写真も入れたかったので、光カードでも容量が足りません。光カードへの情報はどこまで入れたらよいか、整理しなかればいけません、カルテのフォーマットを考えていました。数十万枚枚単位で買うなら価格がICカードよりも安くなるので、光カードの採用を決めていました。あとは大学病院いくつかと産学共同研究に持ち込むつもりでした。NTTデータ通信事業本部と数回検討会をもちましたが、コンピュータの性能と通信速度の問題、そして臨床診断支援システムの容量などの要求仕様を満たせるのは30年先という結論になり、事業化案はとん挫しました。台湾は「健康保険カード」の標準化を1995年にやっている、えらいと思います。
 日本政府にはそういう視点が決定的に欠けており、新型コロナウィルス感染症に見舞われて、ようやくこれから、この25年間意味のある仕事をしてこなかったことに気づくのでしょう。準備がないから、一月以上たったのに手も足も出ません。
 ちゃんと手を打っている台湾は学校閉鎖なんてやってませんよ日本もインフルエンザのときの学級閉鎖基準、「20%以上か1/3以上」という基準で、粛々とやればいいのです。学校にも経済にも大打撃です
 なにも具体的な手が打てなかったので、突然「小中高の休校要請」なんてことを言い出しました、中身は何もない、これからのようです。

 台湾では2/25に新型肺炎対策特別法が成立していますが、日本はこれから。台湾の蔡英文総統と日本の安倍総理の資質の違い、スタッフの能力の違いが如実に出ていると思うのはわたしだけではないでしょう
*https://www.sankei.com/world/news/200225/wor2002250031-n1.html
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特別法は、新型肺炎の治療に従事した医療関係者への補償や経済的な影響を受けた企業への補助を定めるほか、隔離によって個人が受けた損害の補償を認める。自宅隔離や外出禁止を守らなかった者に最高100万台湾元(約360万円)以下の罰金を科し、衛生当局に個人情報の公開を認めた。虚偽の感染情報を流布した者も懲役3年以下の刑を科す。
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 臨床診断支援システムと専門医育成用CAIエキスパートシステム事業に必要な通信速度、コンピュータの処理速度、巨大サーバ、これらどれもがとっくに要求仕様を満たしています。走り出せば、この分野では世界市場を制覇できます。GAFAのどれよりも巨大なビジネスが生まれる可能性があります。臨床検査項目コードがすでに日本ではあるので、一番有利でしょう。だれかやったらいい。冒険家はいないか?

<余談:人材考>
 なぜ、厚労省から臨床検査項目標準化というデジタル時代の医療システムのインフラともいうべき重要なプロジェクトが提案されなかったのだろう。そして、わたしたちがやった産学協同プロジェクトは厚生省に声をかけなかったのはなぜだろうか考えてみた
 答えは簡単、必要ないからだった。わたしが集めたのは、臨床検査項目コード制定に必要なメンバーだけ。一つは実務で使っているグループ、それが大手6社(BML,三菱BCL,住友バイオサイエンスなど)のシステム部門と学術部門の専門家だった。臨床病理学会は自治医大の河合先生が国際病理学会長でその一番弟子の櫻林郁之助教授が臨床病理学会の項目コード検討委員長だった。そして彼はSRL顧問でもあったのだ。SRL自身が河合先生の提案を受けて、富士レビオ創業社長の藤田さんが作った会社だった。それらを結びつける接着剤が必要だった。それがわたしの役割。入社1年目に毎月各大学の先生たちを招いて開いた社内講習会があったが、そこで櫻林郁之助(当時は助教授)から項目コード制定の作業を手伝ってほしいと頼まれていた。中途入社まだ1年のわたしは、暗礁に乗り上げていた統合システム開発の中核部分を担当した。会計及び支払い管理システムと投資・固定資産管理システムの二つ、実際には購買在庫管理システムの担当者(3名)が困っていたので、外部仕様書の半分くらいを書いてやった。
 入社3か月目に富士レビオの子会社、東レ富士バイオから腫瘍マーカCA19-9の価格の決め方を向こうの取締役と話して決めてきてくれと、経理部長から頼まれた。輸入試薬の仕入価格に適用する為替レートも、上場審査上関係会社取引になるので、利益操作にならないような方法が求められていた。SRLの前は産業用エレクトロニクスの輸入商社にいたから、そのあたりの書類のフォーマットやコンピュータシステム上の仕組みは、統合システムですでに経験済みだった。関係3課長が数か月協議して、処理案ができなかった。話を聞いて3日後に事務フローや帳票類のデザインを説明して納得してもらったから、経理部長の岩本さん、「ebisu、練馬ラボまで来るように、東レ富士バイオの担当取締役に電話しとくから、行って決めてきてくれ」、課長越しに頼まれた。いまでも腫瘍マーカCA19-9は使われている。汎用性が高いからだ。わたしも岡田医院で3か月ごとにやっている定期検査に年に2度くらいはCA19-9がはいっているようだ。じつになつかしい。(笑)
 上場要件を満たすための統合システムには、わたしの担当した二つのほかに、購買在庫管理システム、原価計算システムと販売会計(売上債権管理と請求書発行)システムがあった。これらサブシステムとのインターフェイスが一番難易度が高かったが、インターフェイス仕様書は依頼されて1週間で完全なものを書き上げた。いまでも、各システム間のインターフェイスは1984年4月に書いた仕様書通りに動いているのだろう。各サブシステムの内容が分かっていないとできない離れ業だった。一番遅れていた会計及び支払い管理システムの担当がわたしに交替して8か月で最初に本稼働した。2か月の並行ランを含んで8か月である。ノートラブルでスタートした。他のシステムは1年半、長いもので3年かかっている。そういう手際の良さをシステム開発部の栗原課長が見ていて、提案書にも目を通していた、それでBML社がラボを新設するので業界標準コードをつくって自社コードにするために大手6社に声をかけて1回目の会合が開かれたので、2回目の会議に一緒に行こうと声をかけてきてくれた。臨床検査部長の川尻部長(女性)を誘おうということになり、彼女へ話した、すぐに櫻林先生の案件になるからというと、よろこんで協力して来れた。櫻林先生は臨床検査部2課の顧問だった。免疫電気泳動分野が研究対象だったからだ。当時わたしは入社3年目で平社員、でもこうして非公式に必要な人材が動かせる面白い会社だった。仕事の実績さえあれば、職位に関係なく、仕事=プロジェクトに必要な社内人材が協力してくれる。人事部も無関係。人事部長がそんな仕事を理解できるはずもないから話すだけ無駄。大事なところは稟議書や提案書を書いて、創業社長である藤田さんの了解をもらえばいいだけ。
 面白いことに、プロジェクトに6社から集まったメンバーに東大卒はいなかった。東大村には関係のないプロジェクトだが、日本の未来の医療制度には不可欠のインフラだった。医療カードとカルテの標準化もそうだった。

 東大理3卒、大学院で応用生物統計を学んだM君が帝人との治験合弁会社立ち上げのときに、必要な人材だったので、研究部から異動してもらった。M君の上司のH川は旧知の間だったから、二つ返事で異動を承知してくれた。(当時の)社長の近藤さんに話して、異動を人事へ伝えてもらった。M君は仕事のできる男だったが、応用生物統計の専門家のF川の評価は厳しいものだった。5年ほどまでのあるときF川が「ebisuさん、酒を飲もうと」誘ってくれた、日野駅前の居酒屋で飲んで話した。「Mはセンスがない、センスは教えられない」というのだ。数学や統計学はセンスがない奴にはダメだというので、教え方次第だと議論したのを覚えている。議論は平行線だったが、お互いにそれぞれの分野の職人としての腕のほどは分かっていたから気が合った。F川はわたしが学術開発本部でやった仕事を見ていた。沖縄米軍向けの出生前診断システム開発プロジェクトである。ニュヨークから東女史が取り寄せた資料をわたしの机の上にポンとおいて、「これ、学術営業の佐藤君が困っている、システム部にやれないって断られたの、あなたならやれるでしょ、手伝ってやって」、学術愛発本部に移動した数か月後のことだった。東さんわたしの向かいの机に座っていた。米国で臨床検査の仕事を25年ほどやったことのある人だった。机の上に置かれた英文の学術論文を読み、システム部が断った理由がわかった。検査受託の入力項目に妊婦の妊娠週令、体重、民族の項目がないから、受付処理ができない。受付システムを出生前診断を含めるように改造するのは1989年の時点ではお金がかかりすぎてやれない相談だった。HP41cをつかって載っていたグラフとデータから曲線回帰分析をしてプログラミング仕様書を書いた。沖縄営業所で検査IDと3項目データを入力、3項目の検査後、入力したデータと検査結果報告データファイルとを沖縄営業所に置いたパソコンで結合処理をすれば、米軍が要求する検査報告書作成が可能だった。上司のI神取締役に、「学術営業の仕事、システム部に断られたから手伝ってやるよ、いいよね」と言うと、OK.学術営業部長は窪田さんだった。いま、一部上場企業ぺプリドリームの社長をしている。その部下で米軍むけの出生前診断検査と慶応大学産婦人科医との産学協同プロジェクトの仕事を担当した佐藤君は8歳下だったが、会社を辞めて留学し、米国臨床栄養士の学位をとって栄養医学研究所を立ち上げ独立起業した(立ち上げの3年間ほど、出資と監査役を頼まれてた。日本の臨床栄養学の草分けとなったが、2年半前に急逝している。癌だったのではないだろうか。亡くなる1か月前の講演会の写真を見たら、痩せていた)。
 パソコンのプログラムだったのでシステム部からC言語のプログラミングのできる上野君の応援を依頼し、1か月でシステムができて、上司のI神さんと学術営業部の佐藤君と上野君、わたしの4人で沖縄米軍を訪れた。ずいぶん喜んでくれて、三沢基地の米軍の取引を全部SRLに出してくれるということになった。米軍は法律の縛りがあって、女性兵士が妊娠したら出生前診断検査を受けさせる義務があった。国内でその要望に応じることができたのはSRLのみ、おまけにSRLは部国の品質管理基準のCAPライセンスも1988年ころに取得していた。上司のI神さん、米軍の「ゼネラルミーティング」に何度か呼ばれて参加していた。
 そのあと慶応大学産婦人科医たちと、出生前診断検査MoM値の基準値研究プロジェクトをマネジメントするために、佐藤君と一緒に信濃町の慶応大学病院を訪れた。多変量解析を伴うので古川の協力が必要だったがかれは二つ返事でOKしてくれた。「ebisuさんから来た仕事だからやるんだ」そう言っていた。わたしが間に入っていなければ、仕事を断って会社を辞めただろう。かれは産婦人科学会で慶応大学のドクターが発表したときに、そのデータがBML社のものだったので、データそのものに信頼性がないこととデータ処理に関する異議を申し立てたことがあった。応用生物統計に関しては臨床検査センターではナンバーワンの職人だから、彼の主張は正しかったのだろう。当時のBML社の検査データは技術レベルや品質管理に問題があった。慶応のドクターはかんかんに怒って、取引停止騒動になったが、社長の藤田さんが慶応大学病院を訪問して頭を下げてこはおさまった。古川は数年にわたってこの仕事を担当していい仕事をやってくれた。Mom値は白人の基準値よりも、黒人が2割高い、日本人は間の110%くらいと見当をつけて妊婦の協力を得て多変量解析を進めたら、130%だった。これは人種的な問題で示唆に富んだ結果である。日本人は白人や黒人とはまったく別のグループに属しているのだ。このプロジェクトが終わると、F川は会社を辞めて独立起業した。帝人との合弁会社の役員をしたときに、仕事をいくつかまわした。かれにとっては必要がなかったかもしれぬが、立ち上げ当初は思い通りにはいかぬものだ。
 このプロジェクトは、必要な三つの検査試薬は製薬メーカ2社に話して、研究結果が出たら論文を販促に自由に使っていいからという条件でタダにしてもらった。そのっ旨慶応大学病院のドクターにも伝えて了解をもらった。4年前に試薬の価格交渉で辣腕を振るったわたしが購買部長になる可能性も、本社でまた予算編成を任される可能性もあったから、製薬メーカは当然協力してくれた。恩を売っておいた方が製薬メーカは得になるから、喜んで受け入れてくれた。検査にかかるコストと多変量解析にかかるコストはSRLもちにしたから、慶応大学病院のドクターたちは予算ゼロで画期的な学術論文が書けた。数年にわたり、6000人ほどの妊婦に協力いただいたので、3項目で1.5万円としたら、多変量解析を含めると1億円を超えたかもしれない。この仕事をやったときの職位は学術開発本部の課長だった。

 東大理3応用生物統計出身のM君は帝人との臨床治験検査及びデータ管理に関する合弁会社で素晴らしい仕事をしてくれた。当初は一緒に役員出向したO部さん(営業担当常務)の部下だったが、データ管理グループを丸ごと管理系役員のわたしの下にもってきた。M君、「SASが必要なんですが…」とさっそく言ってきた。SASは慶応大学病院とのプロジェクトで研究部のF川が使っていたソフトで、仕事に必須のものだった。「SASは生物統計にはなくてはならないソフトだ、いくらするんだ?」、50万円だった、すぐに買ってやった。よろこんでいました。NTサーバを使うつもりだったから、若いほうのシステムエンジニアK谷とM君をパッケージ開発でタッグを組ませた。治験データ管理実務は若手だがベテランの優秀な三宅をメンバーに加えた。プロトタイプは武田薬品向けのデータ管理システムでできていたので、治験検査データ分野の仕事は初めてのかれらでも新しいツールを使ってできた。チャレンジャブルな仕事だった。ラックにマウントしたNTサーバーはかっこよかった。それまで、三菱電機製のオフコンとプリンターをつかっていた。プリンターだけで1000万円を超えていた。もうオフコンの時代ではなかった。わたしは前職の産業用エレクトロニクス輸入商社で1978年から4年間三菱電機製のオフコン2台を使ってシステム開発していたことがあった。NECの汎用小型機への乗り換えと統合システム開発を1983年に経験していた。14年もたっているのに、いまさらオフコンは選択肢になかった。古手のシステムエンジニアのW辺はNTサーバーへの切り替えに反対だったが押し切った。歳を食うと新技術への対応ができなくなる、不安なのだ。プログラミング言語もC++に切り換えている。1997年だったかな。方針を明確に打ち出すことが大事、そして何をやるのかビジョンを具体的に説明して納得してもらう。こうすれば、赤字のこの会社は黒字になり、転籍したときに、親会社以上の給料と賞与を払える、払うよと約束して、がんばってもらった。じっさいに、備品類やパソコンは親会社よりもグレードの上の製品でそろえたから説得力があった。口先だけの約束では人は動かない。決め手は言っている人物が信用できるか否かだろう。
 帝人との合弁会社は赤字部門の治験検査受託だったので、資金繰りが厳しい会社だったが、黒字にすればお金はいくらでも使える。机やいす、パソコン、書架などSRL本社よりもいいものを揃えた。非常勤取締役でSRL本社営業部門担当役員とラボ部門担当役員が月に一度取締役会にきており、備品を見て文句を言ったことがある。「なんだ、ebisuこれ本社よりもいい」、「赤字の会社を黒字にしてくれる社員に使わせるんだから、最高のものを揃えた」といったら黙った。黒字にできなかったら騒ぎ立てるが、それまでの仕事を見ているからぐうの音も出ない。1992年にできた関係会社管理部は営業本部に属していたから、その時代の2年間は、臨床検査会社の経営分析と買収や資本提携交渉がわたしの仕事だったので、親会社の営業担当役員といえどもわたしのすることにあまり口出しできない。営業本部で取引検査センターの経営改善を5件ほどやってあげたし、買収や資本提携もほとんど単独でやって成果を上げていたのである。会社内では相手が誰であろうと仕事の実績がモノを言う。そもそも親会社の営業担当役員を合弁会社の非常勤役員に据えたのは、親会社社長の近藤さんが、わたしたちが親会社と調整ごとがしやすいようにと、営業担当のT村さんと、ラボ担当役員のH泉さん一緒に貼り付けてくれたのである。彼らの役割は親会社との調整事項である。お目付け役だと勘違いされては困る。3年間で黒字化と、資本引き取りによる合弁解消、帝人臨床検査子会社の子会社化が近藤社長からわたしに課せられた課題だった。全部、期限内に片づけた。
 帝人との
合弁会社では社内の人材がそれぞれの持ち場でしっかり仕事してくれたので、3年足らずで黒字になった。M君に指示してやらせたデータ解析用のパッケージシステム開発が成功して、営業がやりやすくなったためだ。彼とその(データ管理)グループで、利益で2億円貢献してくれた。社員60人ほどの小さな会社だったから、経営への影響は大きかった。赤字部門の切り離しで成立した合弁会社は黒字になった。
 民間企業では東大卒は有能な上司が使ってこそその力が発揮できる。順調に課長そして部長職になって、マネジメント比率が上がるにしたがって、スポイルされてしまうケースが多いのではないか、もったいない。使い方次第でいい仕事してくれる。
 M君に見るように、東大卒は一定の品質の仕事を約束してくれる。具体的な目標を設定し、必要なツールと時間を与えてやれば、いい仕事をしてくれる、速度も大きい、受験エリートの力は侮れないのである
 しかしだ、マネジメントだけはセンスがモノを言う。この面では受験エリートはからっきしである。一ツ橋卒の人5人ほど、京都大学の理系学部の課長とも仕事したが、たまたまなのだろうが、マネジメントのセンスのいい人は一人もいなかった。ズタボロだった人も二人いる。受験エリートは中高の時代に受験勉強に専念する代わりに、その時期にしか身につかない大事ななにかを失っているように見える。慶応・早稲田は一部上場企業ではそれだけでは社内エリートの物の数には入らない。

 わたしが手掛けた産学協同プロジェクト二つには、どちらも東大出身者がいなかったが、プロジェクトはいい仕事をした。これら二つのプロジェクトには東大卒が必要なかった。
 「東大村」だけでやっているのではもう時代遅れで、やれない仕事、プロジェクト、事業が増えている。そういう日本政府の、そして各省庁の政策決定の弱点が、今回の新型コロナウィルス感染症で露呈したのである

 


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