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#4162 勉強はなぜ必要か:太宰治の小説より Jan. 4, 2020 [44. 本を読む]

<最終更新情報>
1/5午後1時半 浦島子追記 

 インスタグラムでギャルが「中学生です。勉強ってそんなに大切ですか?」という質問に次のように答えています。
大切な人とぶつかった時、名前のない感情やきもちを適切に伝える言葉を知っていたら、と後悔する日が来ます。自分や誰かを守るためにも最低限、本は読みましょう。
*https://iinee-news.com/post-19962/?fbclid=IwAR3FEftUx6NBt-BGdFCz_wTDCAky4d_zSn-o1ypPUQvIbt_bFQRhmrtvKe0

 その投稿欄に太宰の「正義と微笑」の当該ページの写真が張り付けてありました。それで、太宰の小説の当該部分を紹介する気になりました。
 昭和33年、筑摩書房刊の『太宰治全集』で調べたら、第五巻にありました。16歳の主人公を含む生徒たちに、授業中に黒田先生が学校をやめると言い出すシーンです。
(文中に「中学」とありますが、旧制中学校は現在の高校です。主人公の年齢からも推察がつきますね。)

小説「正義と微笑より」
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学校で金子先生の無内容なお話をぼんやり聞いているうちに、僕は、去年わかれた黒田先生が、やたら無性に恋ひしくなった。焦げつくように、したはしくなった。あの先生はたしかになにかあった。だいいち、利口だった。男らしくきびきびしていた。中学校全体の尊敬の的だったといってもいいだらう。ある英語の時間に、先生はリア王の章を静かに譯し終へて、それからだしぬけに言ひ出した。がらりと口調も変わっていた。噛んで吐き出すような語調とは、あんなのを言ふのだろうか。とに角、ぶっきら棒な口調だった。それも、急に、何の予告もなしに言ひ出したのだから、僕たちは、どきんとした。
「もうこれでおわかれなんだ。はかないものさ。実際、教師と生徒の仲なんて、いい加減なものだ。教師が退職してしまえば、それっきり他人になるんだ。君達が悪いんじゃない、教師が悪いんだ。じつせえ、教師なんて馬鹿野郎ばつかりさ。男だか女だか、わからねえ野郎ばつかりだ。こんな事を君たちに向かって言っちゃ悪いけど、俺はもう我慢が出来なくなったんだ。教員室の空気が、さ。無学だ!エゴだ。生徒を愛していないんだ。俺は、もう、二年間も教員室で頑張ってきたんだ。もういけねえ。クビになる前に、俺の方からよした。けふ、この時間だけで、おしまひなんだ。もう君たちとは逢えねへかもしれないけど、お互ひに、これから、うんと勉強しよう。勉強といふものはいいものだ。代数や幾何の勉強が、学校を卒業してしまへば、もう何の役にも立たないものだと思っている人もあるようだが、大間違いだ。植物でも、動物でも、物理でも、化学でも、時間の許す限り勉強して置かなければならん。日常の生活に直接役に立たないような勉強こそ、将来、君たちの人格を完成させるのだ。何も自分の知識を誇る必要はない。勉強して、それから、けろりと忘れてもいいんだ。覚えるといふことが大事なのではなくて、だいじなのは、カルチベートされるといふことなんだ。カルチュアといふのは、公式や単語をたくさん暗記している事でなくて、心を廣くもつといふ事なんだ。つまり、愛するといふことを知る事だ。学生時代に不勉強だった人は、社会に出てからも、かならずむごいエゴイストだ。学問なんて、覚えると同時に忘れてしまっても、その勉強の訓練の底に一つかみの砂金が残っているものだ。これだ。これが尊いのだ。勉強しなければいかん。さうして、その学問を、生活に無理に直接役立てようとあせってはいかん。ゆったりと、真にカルチベートされた人間になれ!これだけだ、俺の言ひたいのは。君たちとは、もうこの教室で一緒に勉強は出来ないね。けれども、君たちの名前は一生わすれないで覚えているぞ。君たちも、たまには俺のことを思ひ出してくれよ。あつけないお別れだけど、男と男だ。あつさり行かう。最後に、君たちの健康を祈ります。」すこし青い顔をして、ちつとも笑はずに、先生の方から僕たちにお辞儀をした。
 僕は先生に飛びついて泣きたかった。
「禮!」級長の矢村が、半分泣き声で号令をかけた。六十人、静粛に起立して心からの禮をした。
「今度の試験のことは心配しないで。」と言って先生ははじめてにつこり笑った。
「先生、さよなら!」と一斉に叫んだ。
 僕は声をあげて泣きたかった。
 黒田先生は、いまどうしているだろう。ひょっとしたら出征したかも知れない。まだ三十歳くらいの筈だから。 
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culture(名詞)の原義は「耕す」こと、文化

cultivateは動詞形、カルチベートされるということは、耕されること、磨かれること、教化されること。

 黒田先生は、英語の先生である。リア王を譯し終えて、突然惜別の辞を述べる、これが最後の授業だと。代数や幾何、植物や動物、物理や化学の重要性を英語の先生が説くというシーンを太宰は設定した。文学者太宰治は文系に進んべきか理系に進むべきか迷った時期があるのだろうか?
 英語の先生が数学や物理の大切さを説いているところがわたしには妙にリアルに感じられる。高校時代に商業科には物理がなかったという、私自身の経験が重なったからだろうか。たしかに不足を感じている。その思いは切実だ。だから、わたしも生徒たちに同じことが言いたい。
 願わくば、高校は7時間授業にして、7時間目は選択授業にしてもらいたい。数Ⅲ、物理、化学、時事英語、古典講読、簿記この6科目があればうれしい。タイムマシンでそういう環境が整備された高校時代に戻って勉強してみたい。
 教育機関は、勉学の意思のある者すべてに、適切な機会を提供するものであってもらいたい。多くても上位3%の人間に学力相応の勉学の機会を提供するのは、コスト面から言い出しにくいだろうが、その3%の人間が日本の行く末に大きな役割を果たす。将来、AIができない分野の仕事をする人間は1%以下だろう。

 太宰治の自分の境遇に題材をとった小説は、暗くて読むのがつらく、いまだに好きになれませんが、御伽草子のような古典のリライト物は、リライトの域を超えて、じつにイキイキと自在に語り、見事な文章になっています、文豪としての腕の冴えが作品からビンビン伝わってきます。オリジナルよりずっといい、芥川の『鼻』が霞んでしまうほどです。
 「瘤取り」「浦島さん」「カチカチ山」「舌切雀」の4作品は、全集第7巻に所収されてますが、4作品全文載っているサイトがあるので紹介します。太宰治の名人芸をご堪能ください。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/307_14909.html

 浦島太郎の原話に興味のある人は、万葉集の長歌に「浦島子」というのがあります。日本書紀にも載っています。日本書紀の方は「雄略天皇二十二年七月条」に、万葉集は巻九「水の江の浦の島子を詠める一首」(1740、1741)に載っています。元々のお話はとってもリアルで、乙姫と浦島は蓬莱山へ向かって船出しますが、お船の中でエッチが始まります。そのあたりを具体的にちゃんと書いているのです。こういう文学作品を教科書で採り上げてくれたら、古代日本文学に興味をもつ高校生が増えるでしょう。太宰治にリライトしてほしかった。至高の文学作品でありながら、エロ小説の名品の数々が生み出されたでしょう。『枕草子』にも『和泉式部日記』にも、古典はセックスが満載です。大事なところを全部外したのが、高校古典教科書、よくもまあ、あんなにつまらぬ編集ができたものです。

 以下のURLに「正義と微笑」全文が載っていますので、作品まるごとお読みください。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/1577_8581.html

<おまけ>
 中3の男子生徒が、芥川の最後の作品『河童』が読みたいと言ってました。次のサイトに全文載ってます。
read:https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/45761_39095.html

『河童』朗読
https://www.youtube.com/watch?v=vUrkPL681I0

#3026 これが根室の教育長の発言、何かの間違いでは?:釧路新聞より Apr. 16,2015
https://nimuorojyuku.blog.ss-blog.jp/2015-04-16


 #4152 PISA読解力15位の衝撃:なぜ? Dec. 17, 2019
https://nimuorojyuku.blog.ss-blog.jp/2019-12-17


<庭のすずめ>
 小さいものはかわいい。
SSCN3296.JPG



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