#4161 「九人会」の新年会 Jan. 2, 2020 [90.根高 こもごも]
高校同級生に「九人会」(メンバーは11人)というのがあり、毎年正月2日にN山宅で新年会を、3月か4月に温泉旅行を催している。わたしは根室へ戻ってきた2003年の正月から「参加」しているから、新年会は18回目となる。奥方連れで来る人もあり、単身で来る人もいる。九人会ではないが、N山さんの個人的なお付き合いのある人も数人来る。リビングにはテーブルが三つ繋げられ、そこにご馳走が並ぶ。N山さんの奥さんの好意で毎年そうなっている。参加する人たちはそれぞれ自分の好みのビールや酒をもっていく。
いつからということもなく始まるので、わたしは5時半ころに出かけた。歩いて2分のご近所さんなのだ。すでに半数以上が集まって談笑していた。ビールを注いでもらい、みんなで乾杯した。人が来るたびに、乾杯なのである。このあと、北の勝の番頭さんのオトヤ(Y口)が来て乾杯、某水産会社の元経理担当役員のニャンコ(Y崎)が長節湖でアイスヨットを楽しんで風呂に入ってからゆるゆると来て乾杯、雪がないのと雨が降ってから凍結したので長節湖の氷は最高の状態。アイスヨットがよく滑るという。鋼のブレードをつけて自分で研ぐのだそうだ。続けて共産党のアオ(A野)が現れて乾杯、元根室漁業組合のエンちゃん(E藤)が来て乾杯。毎年、だれかが入院したり、癌になったりと寄る年波には勝てないが、今年も一人もかけることなくめでたく新年会。この新年会はもう数十年続いている。
毎度のことなのだが、酔いが回ってくると担任の冨岡良夫先生のことが話題になる。ヨッコ(Y岡)は普通科だったが、あるとき3Gのクラス会に参加していて、冨岡先生に「おまえだれだ?」と問われ、「ebisuの友だちです」と応えたら、先生は「そうか、それではうちのクラスの一員と認めよう」と冨岡先生公認の名誉(?)会員になった。
冨岡先生はお兄さんが中国へ赴任になって、両親の面倒を見る者がいないので、50歳を過ぎたあたりで退職されて東京大田区の実家に戻られた。東京で開かれた同期会では在京の担任は冨岡先生お一人なので、毎回出席してくれた。わたしはY岡をクラス会員として認めた経緯を冨岡先生から直接聞いて、ありがたくて座りなおして正座し丁重に御礼申し上げた。Y岡は顔の広い男で3Gに友人が何人もいて、高校を卒業してからそれぞれと付き合いが深かった。ebisuの中学時代の同級生で数人で遊んだ仲間の一人、親友である。もう一人中学時代のだいじな友H田がいたのだが、16歳から一度もあっていない、どこにいるのかわからぬ。柔道部へはあいつと一緒に入部した。ずっと会いたいと思っている。ブログを読んで連絡をくれたらうれしい。Y岡は真面目で、頑固一徹な性格、うまく立ち回るなんてことができない性分である。太平洋石油の根室支店長だったというと、根室ではたくさんの人が知っている。人柄と実直さが評価されて出世したタイプだろう。
宴たけなわになると、キヨシ(N山)は東京大田区にお住いの冨岡先生に電話を入れるのだが、数年前に他界されてしまった。あちこち癌になって、何度も手術をして20年くらい元気だった。10時ころ、先生が寝てしまっているのに構わず電話して、みんなで順番に出て挨拶するのである。先生、手術を何度もして体調がすぐれないこともあったはず。
高校では2年になるときにクラス編成替えがなされる。EとF組からG組に来た生徒たちは、冨岡先生に拾ってもらったものが多い。問題児(笑)が多いと言い換えてもいい。冨岡先生の説明では成績トップのものを自分のところに置いて、2番と3番を出し、4番を自分のクラスにして、5番と6番を出す…3n-2番目を元のクラスとするというようなルールだったらしい。
毎度のことなのだが、酔いが回ってくると担任の冨岡良夫先生のことが話題になる。ヨッコ(Y岡)は普通科だったが、あるとき3Gのクラス会に参加していて、冨岡先生に「おまえだれだ?」と問われ、「ebisuの友だちです」と応えたら、先生は「そうか、それではうちのクラスの一員と認めよう」と冨岡先生公認の名誉(?)会員になった。
冨岡先生はお兄さんが中国へ赴任になって、両親の面倒を見る者がいないので、50歳を過ぎたあたりで退職されて東京大田区の実家に戻られた。東京で開かれた同期会では在京の担任は冨岡先生お一人なので、毎回出席してくれた。わたしはY岡をクラス会員として認めた経緯を冨岡先生から直接聞いて、ありがたくて座りなおして正座し丁重に御礼申し上げた。Y岡は顔の広い男で3Gに友人が何人もいて、高校を卒業してからそれぞれと付き合いが深かった。ebisuの中学時代の同級生で数人で遊んだ仲間の一人、親友である。もう一人中学時代のだいじな友H田がいたのだが、16歳から一度もあっていない、どこにいるのかわからぬ。柔道部へはあいつと一緒に入部した。ずっと会いたいと思っている。ブログを読んで連絡をくれたらうれしい。Y岡は真面目で、頑固一徹な性格、うまく立ち回るなんてことができない性分である。太平洋石油の根室支店長だったというと、根室ではたくさんの人が知っている。人柄と実直さが評価されて出世したタイプだろう。
宴たけなわになると、キヨシ(N山)は東京大田区にお住いの冨岡先生に電話を入れるのだが、数年前に他界されてしまった。あちこち癌になって、何度も手術をして20年くらい元気だった。10時ころ、先生が寝てしまっているのに構わず電話して、みんなで順番に出て挨拶するのである。先生、手術を何度もして体調がすぐれないこともあったはず。
高校では2年になるときにクラス編成替えがなされる。EとF組からG組に来た生徒たちは、冨岡先生に拾ってもらったものが多い。問題児(笑)が多いと言い換えてもいい。冨岡先生の説明では成績トップのものを自分のところに置いて、2番と3番を出し、4番を自分のクラスにして、5番と6番を出す…3n-2番目を元のクラスとするというようなルールだったらしい。
「ebisu、おまえなにやった、出されるはずがないのにG組になった、N沢さんによっぽど嫌われるようなことしたんだろう」
もちろん胸に覚えがあった。担任で国語の先生のN沢先生とはたしかにウマが合わなかった。現代国語と古典が担当だったが、現代国語では先生の解釈をテストで一度も書いたことがなかった。自分が感じたとおりに書いた。解釈にばらつきの小さい古典でテストが一番でも評定は50だった。それでも現代国語はN沢先生の解釈を一度足りとも書かなかったから、反抗的な生徒に映ったのだろう。なんてことはないのだ、理由は簡単、答案に嘘は書きたくなかっただけ。正直すぎた、そんなところがY岡とウマが合ったのだろう。評価をどのようにつけようが、つける先生の勝手だと思っていた。定年間近か、頭がコチコチ、器量の小さい人だった。こういう相性の悪い人とはお互いに距離があった方がいい。
(N沢先生、わたしを追い出して清々しただろ。わたしにとってもありがたかった。2年生になると国語の担当が変わった。新谷先生になった。函館出身の空手家だったから、話があった。二松学舎大学だったと思う。空手の有段者は柔道部顧問の石間先生と新谷先生だけ。新谷先生は30歳代、部活をもってなかった。)
そういうわけで、Gクラスには個性的な者たちが集まった。事情は各人各様だったが、それらを全部呑み込んでくれた冨岡先生とは心のつながりがあった。授業は下手くそだったが、クラスの生徒たちに慕われた先生のお一人だった。
家が牧場をやっているA野は毎年、農作業で家の手伝いをして学校に来れない時期があった。1学期の終業式は草刈りが忙しくて、出席したことがない、それはよく知っていた。3年になって「商業実践」という週2回2時間連続の授業があった。それぞれが定款作成をして会社を作り、水産物を取引して利益を競う。相場は実際の数値を黒板に書いてやっていた。A野は休むから、市場価格のメモや帳簿の記録や取引ができない。出席日数も問題になった。この科目は同時に2人の先生が担当したと記憶しているが、冨岡先生はY浅先生にA野を卒業させてほしいと頼むと、Y浅先生が複数の生徒の帳簿から数字をピックアップして、資料を作ってくれて無事卒業になった。わたしは大学受験で2月初めから東京へ行って、遊び惚けて3月下旬にもどったから卒業式も出ていない。卒業証書は同級生のだれかが家までもってきてくれていた。何とか卒業できたらしい。
家が昆布漁師の家庭の子どもたちはみんな家の手伝いをしていた。わたしも家業のビリヤードを小学校低学年から高校卒業するまで毎日数時間手伝っていた。ビリヤード場が遊び場だった。さまざまな職業の大人たちと話をして、ゲームを楽しみ、観察できた。個人的な事情はそれぞれ違っているが、みんな冨岡先生のお世話になったのだ。先生の方から見ると、やんちゃで手間のかかった生徒ほどかわいい、なんとしてでも全員無事卒業させたいのである。卒業してから52年たっても、繰り返しそれぞれの思い出が語られている。A野の話は初めて聞いた、これは冨岡先生への供養なのだと話を聞きながらふと思った。
N山は酔うと電話したくなる癖がある、横浜の絵手紙の先生をしている旧姓K尻さんへ電話した。9時ころだったかな。N山が少し話をしてから、電話を回してきた。
「おめでとう」
「わたしのことなんかもう忘れたでしょ」
「わすれてないよ、だれも忘れてなんかいないよ、ご主人お元気?」
「うれしい、なんとかやってる」
50年たって体はポンコツになりつつあるが、こころはいまも変わらない。話をするとあのころに一気に戻る。K尻さんは羅臼の人、当時は羅臼に高校がなかったので、根室高校へ進学する者が多かった。学校の寮があったようだがK尻とヤスベ(A部)は下宿していた。ミネ(D目)は寮だと言っていたような気がする。
K尻は真面目なタイプでよく勉強していた、このグループをXグループとすると、NKやE藤やK谷そしてY崎もまじめでよく勉強したからXグループに分類できる。Y口は絵が得意で個性派だった、かれも頑固一徹派だ。テレビ番組「11pm」に数回出演したことのあるT山も美術部長で個性派、女傑と言っていい、渋谷にビルをもっている。彼ら・彼女たちをYグループとしよう。それとヒロシたちのグループをZとする。勉強も部活もほどほどというグループをTグループとする。3Gはそういう4つのグループに分類できたが、どういうわけかまとまりの好いクラスだった。1年で退学しなけりゃ同じクラスだったT木がいる。ヒロシのポン友だ、銀座に飲食店を2店持った。才覚も度胸もあるやつだ、T木が同じクラスにいればもっと面白かっただろう。根室高校のはねっかえりは銀座でも通用することをT木が証明してくれた。ヒロシの紹介で初めて会ったときに、こいつはモノが違うなと思ったよ。(笑)
1年のときから学校の指名で生徒会会計をしていたから、わたしは生徒会とのつながりが強かった。当時の会計は部活の予算や生徒会予算のすべてについて帳簿をつけて、決算業務もしていた。部長と副部長を個別に生徒会室に呼んで、予算折衝をやるのだが、2年生の時に一人でやらせてもらった。これがエレクトロニクス輸入商社や臨床検査会社SRLで入社早々から予算編成を管理を任されても、すっとこなせた理由だろう。生徒会会計の仕事をちゃんとやれば、予算が500億円の会社の予算編成や管理が可能だ。生徒会会計は簿記が堪能な生徒が指名された。1年先輩のN野さん(同じ大学へ進学)がわたしを指名してくれた。それまで面識がなかった。この先輩と副会長のFさん(室蘭税務署長で退職)がわたしをバックアップしてくれた。2年生の時にやった「丸刈り」の校則改正は、提案したら、3年生の会長と副会長の二人が、「言い出しっぺのおまえがやれ」と任せてくれた。保護者の賛成が鍵だったので、アンケートをとり、全校集会を開いて修学旅行の3か月前に校則改正をした。長髪で東京・奈良・大阪・京都を闊歩した。副会長の二人が応援演説をやるから、会長に立候補しろと指名があったが、校長が強硬に反対した。「会計をやっているから」と変な理屈をつけた。間に入った生徒会顧問の先生が困っているから、退いた。21歳で税理士試験に合格するH勢は1年生の時に同じクラスだったが、応援演説は3年生の普通科のH谷さんと商業科の副会長のFさんにやってもらうから副会長に立候補するように説得した。3年生の副会長二人に事情を話して、H勢の応援演説をお願いした。部活予算査定権は会計が握っているし、生徒会では一番古株で丸刈り校則改正という実績もあった。生徒会長へは旧知のオサムがなったが、何かやりたいことがあって立候補したわけではなかった。だから、生徒会は自由に動かせた。明照高校生徒会・会長の北側さん(元根室市議)とも生徒会室で会合をもった。部活の交流をしようということだった。女子バレー部の練習試合を組んだ。生徒の首に縄は付けられぬ、N村校長は戦々恐々としていただろう。
中大法学部出身のT口先生は生徒会顧問の一人、元革マル派で時事問題研究会の顧問だった。十数人の部員がいたはずだ。女性生徒会副会長のT部が時事問題研究会所属、美術部長のT山と並ぶ女傑だった、思想的にはフラット、利口な生徒だったから多少の感化を受けただけ。そういうわけで生徒会の運営にはT口先生の影響力はゼロだった。毎年夏にキャンプへ行っていたが、2年生の時に生徒会メンバー3人をふくめて十人くらいで長節湖でキャンプを企画したが、そのときに「俺もつれていけ」と頼まれ、一緒に楽しんだ。
ビリヤード店の手伝いをずっとしていたから、本を買う程度の小遣いには不自由しなかった。それに、居酒屋「酒悦」をやっていたお袋に言えば、本代は制限なしで出してくれた。日商簿記1級の問題集ではつまらなくなっていたので、新聞広告に載っていた、中央経済社から出版され始めた「公認会計士2次試験講座」をお袋に買っていいか訊いたら、二つ返事でOKだった。1年ほどかけて、7巻出版された。居酒屋「酒悦」は元々おふくろが始めた小さな店だが、常連客が多かった。本が買えたのはお店のお客さんたちと両親のお陰です。
もちろん胸に覚えがあった。担任で国語の先生のN沢先生とはたしかにウマが合わなかった。現代国語と古典が担当だったが、現代国語では先生の解釈をテストで一度も書いたことがなかった。自分が感じたとおりに書いた。解釈にばらつきの小さい古典でテストが一番でも評定は50だった。それでも現代国語はN沢先生の解釈を一度足りとも書かなかったから、反抗的な生徒に映ったのだろう。なんてことはないのだ、理由は簡単、答案に嘘は書きたくなかっただけ。正直すぎた、そんなところがY岡とウマが合ったのだろう。評価をどのようにつけようが、つける先生の勝手だと思っていた。定年間近か、頭がコチコチ、器量の小さい人だった。こういう相性の悪い人とはお互いに距離があった方がいい。
(N沢先生、わたしを追い出して清々しただろ。わたしにとってもありがたかった。2年生になると国語の担当が変わった。新谷先生になった。函館出身の空手家だったから、話があった。二松学舎大学だったと思う。空手の有段者は柔道部顧問の石間先生と新谷先生だけ。新谷先生は30歳代、部活をもってなかった。)
そういうわけで、Gクラスには個性的な者たちが集まった。事情は各人各様だったが、それらを全部呑み込んでくれた冨岡先生とは心のつながりがあった。授業は下手くそだったが、クラスの生徒たちに慕われた先生のお一人だった。
家が牧場をやっているA野は毎年、農作業で家の手伝いをして学校に来れない時期があった。1学期の終業式は草刈りが忙しくて、出席したことがない、それはよく知っていた。3年になって「商業実践」という週2回2時間連続の授業があった。それぞれが定款作成をして会社を作り、水産物を取引して利益を競う。相場は実際の数値を黒板に書いてやっていた。A野は休むから、市場価格のメモや帳簿の記録や取引ができない。出席日数も問題になった。この科目は同時に2人の先生が担当したと記憶しているが、冨岡先生はY浅先生にA野を卒業させてほしいと頼むと、Y浅先生が複数の生徒の帳簿から数字をピックアップして、資料を作ってくれて無事卒業になった。わたしは大学受験で2月初めから東京へ行って、遊び惚けて3月下旬にもどったから卒業式も出ていない。卒業証書は同級生のだれかが家までもってきてくれていた。何とか卒業できたらしい。
家が昆布漁師の家庭の子どもたちはみんな家の手伝いをしていた。わたしも家業のビリヤードを小学校低学年から高校卒業するまで毎日数時間手伝っていた。ビリヤード場が遊び場だった。さまざまな職業の大人たちと話をして、ゲームを楽しみ、観察できた。個人的な事情はそれぞれ違っているが、みんな冨岡先生のお世話になったのだ。先生の方から見ると、やんちゃで手間のかかった生徒ほどかわいい、なんとしてでも全員無事卒業させたいのである。卒業してから52年たっても、繰り返しそれぞれの思い出が語られている。A野の話は初めて聞いた、これは冨岡先生への供養なのだと話を聞きながらふと思った。
N山は酔うと電話したくなる癖がある、横浜の絵手紙の先生をしている旧姓K尻さんへ電話した。9時ころだったかな。N山が少し話をしてから、電話を回してきた。
「おめでとう」
「わたしのことなんかもう忘れたでしょ」
「わすれてないよ、だれも忘れてなんかいないよ、ご主人お元気?」
「うれしい、なんとかやってる」
50年たって体はポンコツになりつつあるが、こころはいまも変わらない。話をするとあのころに一気に戻る。K尻さんは羅臼の人、当時は羅臼に高校がなかったので、根室高校へ進学する者が多かった。学校の寮があったようだがK尻とヤスベ(A部)は下宿していた。ミネ(D目)は寮だと言っていたような気がする。
K尻は真面目なタイプでよく勉強していた、このグループをXグループとすると、NKやE藤やK谷そしてY崎もまじめでよく勉強したからXグループに分類できる。Y口は絵が得意で個性派だった、かれも頑固一徹派だ。テレビ番組「11pm」に数回出演したことのあるT山も美術部長で個性派、女傑と言っていい、渋谷にビルをもっている。彼ら・彼女たちをYグループとしよう。それとヒロシたちのグループをZとする。勉強も部活もほどほどというグループをTグループとする。3Gはそういう4つのグループに分類できたが、どういうわけかまとまりの好いクラスだった。1年で退学しなけりゃ同じクラスだったT木がいる。ヒロシのポン友だ、銀座に飲食店を2店持った。才覚も度胸もあるやつだ、T木が同じクラスにいればもっと面白かっただろう。根室高校のはねっかえりは銀座でも通用することをT木が証明してくれた。ヒロシの紹介で初めて会ったときに、こいつはモノが違うなと思ったよ。(笑)
1年のときから学校の指名で生徒会会計をしていたから、わたしは生徒会とのつながりが強かった。当時の会計は部活の予算や生徒会予算のすべてについて帳簿をつけて、決算業務もしていた。部長と副部長を個別に生徒会室に呼んで、予算折衝をやるのだが、2年生の時に一人でやらせてもらった。これがエレクトロニクス輸入商社や臨床検査会社SRLで入社早々から予算編成を管理を任されても、すっとこなせた理由だろう。生徒会会計の仕事をちゃんとやれば、予算が500億円の会社の予算編成や管理が可能だ。生徒会会計は簿記が堪能な生徒が指名された。1年先輩のN野さん(同じ大学へ進学)がわたしを指名してくれた。それまで面識がなかった。この先輩と副会長のFさん(室蘭税務署長で退職)がわたしをバックアップしてくれた。2年生の時にやった「丸刈り」の校則改正は、提案したら、3年生の会長と副会長の二人が、「言い出しっぺのおまえがやれ」と任せてくれた。保護者の賛成が鍵だったので、アンケートをとり、全校集会を開いて修学旅行の3か月前に校則改正をした。長髪で東京・奈良・大阪・京都を闊歩した。副会長の二人が応援演説をやるから、会長に立候補しろと指名があったが、校長が強硬に反対した。「会計をやっているから」と変な理屈をつけた。間に入った生徒会顧問の先生が困っているから、退いた。21歳で税理士試験に合格するH勢は1年生の時に同じクラスだったが、応援演説は3年生の普通科のH谷さんと商業科の副会長のFさんにやってもらうから副会長に立候補するように説得した。3年生の副会長二人に事情を話して、H勢の応援演説をお願いした。部活予算査定権は会計が握っているし、生徒会では一番古株で丸刈り校則改正という実績もあった。生徒会長へは旧知のオサムがなったが、何かやりたいことがあって立候補したわけではなかった。だから、生徒会は自由に動かせた。明照高校生徒会・会長の北側さん(元根室市議)とも生徒会室で会合をもった。部活の交流をしようということだった。女子バレー部の練習試合を組んだ。生徒の首に縄は付けられぬ、N村校長は戦々恐々としていただろう。
中大法学部出身のT口先生は生徒会顧問の一人、元革マル派で時事問題研究会の顧問だった。十数人の部員がいたはずだ。女性生徒会副会長のT部が時事問題研究会所属、美術部長のT山と並ぶ女傑だった、思想的にはフラット、利口な生徒だったから多少の感化を受けただけ。そういうわけで生徒会の運営にはT口先生の影響力はゼロだった。毎年夏にキャンプへ行っていたが、2年生の時に生徒会メンバー3人をふくめて十人くらいで長節湖でキャンプを企画したが、そのときに「俺もつれていけ」と頼まれ、一緒に楽しんだ。
ビリヤード店の手伝いをずっとしていたから、本を買う程度の小遣いには不自由しなかった。それに、居酒屋「酒悦」をやっていたお袋に言えば、本代は制限なしで出してくれた。日商簿記1級の問題集ではつまらなくなっていたので、新聞広告に載っていた、中央経済社から出版され始めた「公認会計士2次試験講座」をお袋に買っていいか訊いたら、二つ返事でOKだった。1年ほどかけて、7巻出版された。居酒屋「酒悦」は元々おふくろが始めた小さな店だが、常連客が多かった。本が買えたのはお店のお客さんたちと両親のお陰です。
生徒会室には新聞部が同居していたから、いつも一緒、新聞部のメンバーたちとも名字で呼び捨てか、ニックネームで呼んでいた。覚えているのは「ユカワ」と「ケイジ」、ユカワは学校の先生、ケイジは東京でソフト会社を立ち上げた。
A野が今回こんな話をした。
「3Gの生徒が1年生のIを殴ったと、I君の親戚筋のTひろ子から叱られた」
「だれがそんなことしたのかとTに訊いたら、クラスのKだった」
広子は生徒会中央執行委員の一人であるが、生徒会で頻繁に顔を合わせて気易かったのに、わたしにはそういう話をしなかった。当時の生徒会会計は権限が大きくていわば財務大臣だったから、そういうことをする人とはかかわりがないと思っていたのかもしれない。中年太りもせずに品よく老けた。いまでも仲の良い友人の一人である。
下級生のI君にはちっとも記憶がない。わたしたちが3年生のときには、総番制度もなくなっていたから、下級生を呼び出して「生意気だ」といってぶん殴るやつは聞いたことがなく、初耳だった。
わたしは1年生の時に高さが10㎝ほどの高下駄(アシダ)を履いて通学していたので、すぐに総番グループに目をつけられ、生意気だと2年生2人に呼び出しを食らって殴られたことがある。軍隊とおんなじ、通過儀礼である。根室高校はバンカラな根室商業が前身だから、そういう気風が残っていた。歯を食いしばれば口の中を少し切るだけ。たいしたパンチではないから、歯を折るような危険はない。身体を逃げなければ側頭部に当たったりしないので、どうってことはないのだ。校則で頭は丸坊主、詰襟の学生服と定められていた。呼び出しを食らって殴られた翌日もアシダで通学したが、2度目の呼び出しはなかった。1度目はこちらが下級生だから、おとなしく殴られてやるが、2度目があったら多少のケガをさせても学校から処分を食らうことはない。しつこい方が悪い。
小学生のころは石炭ストーブだった。灯油ストーブになるは東京オリンピックの1964年(高校1年生)ごろからだった。夏から秋にかけて石炭ストーブの焚き付けを山ほど割って積んでおく。小学生が毎年拳と手刀で焚き付けを叩き折っていたから、自然に拳が硬くなってしまった。9年間で数千本叩き折っただろう。腕力をつけるために廃材を大きな鉞で叩き折っていたので、背筋力が強かった。背中をそらせて、鉞(まさかり)を振りかぶって地面にまでつけて、円を描くようにゆっくり持ち上げながら真上にまで来たら、腰のばねを使って狙った一点めがけて渾身の力で振り下ろす。当たるときがマックスになるようにイメージして、四寸角や五寸角の柱の廃材を無心に叩いた。中学生になったころには拳は硬くて骨密度が増し重くなっていた。硬い拳で頭蓋骨を叩いたら、まともに当たれば一撃で砕いてしまっただろう。生木の焚き付け材でも叩き折るタイミングとスピードを身体が知っていた。だから、一度も人を叩いたことはない。だれだって人殺しにはなりたくない。高校を卒業した年にヒロシとムサシと3人で新宿歌舞伎町でパンチボールを叩いたときに180㎏を超えた。腰の回転だけ、踏み込まないでもでそれだけの重さがあった。踏み込めば衝撃は倍加する。オヤジが落下傘部隊員だったので、忍者まがいの訓練の話を聞いていて、屋根から飛び降りたり、薪割りで身体を鍛えた、愉しかった。2階の屋根に上って飛び降りようとして、下を覗いたときに、その高さにビビった。とてもじゃないが、けがは必至と思えた、落下傘部隊は3階の高さから飛び降りる訓練をする。その高さだと五点着地が完全にできないと大けがをする。脚に衝撃を逃がしながら、回転して肩、側面、尻、脚へと衝撃を逃がす。無意識にやれるようになるまで、訓練する。やって見せてくれたら、あるいは2階の屋根から飛び降りる技が身についたかもしれない。やれたのは脚を屈折して衝撃をやわらげながら、片手をついてさらに着地の衝撃を分散する、これは三点着地で、映画で忍者が屋根から飛び降りるときの技だ。オヤジは言葉で説明しただけで、五点着地をやって見せてくれなかった。一緒に厳しい訓練をへた戦友たちが、みんな南方で戦死している。戦時宣伝映画(加藤隼戦闘隊)撮影のための降下訓練中に右手複雑骨折をしたオヤジだけが生き残った。主導索に右腕をひっかけて、飛行機を飛び出した瞬間に複雑骨折、右手はブランとしてまともな態勢では着地できない、よく命があったものだと言っていた。息子には五点着地技を伝えるのが嫌だったのだろう。小学生のころ、オヤジは自衛隊から空挺部隊の教官で来てほしいと要請があったようだった。生き残っている落下傘兵はほとんどいなかったからだろう。オヤジはノーだった。
「戦友たちは、結婚もせず、子どもも作らず、靖国で会おうと言い残して死んでいった、おれは結婚もしたし、子どももいる。幸せだ」
こんどは自分が訓練した空挺兵が戦地で死ぬかもしれない、関わりたくなかったのだろう。
記憶がはっきりしないが、3年生になって、A野によれば数人で総番長のヒロシと総番制度について話をしたようだ。そして何十年間も続いた総番制度を廃止したのだが、統制がとれなくなったという弊害は出た。総番長は本来は外部ともめごとがあったときに、学校を代表して、おさまりをつけなければならない。それがルールだった。生徒の誰かがヤクザとたまたまもめごとを起こしても、総番長が代表して話をつけるから、責任が重かったのである。5代前の総番長までは「仁義」の切り方、そして台詞が伝わっていた。「お控えなすって、さっそくお控えなすって下さったありがとうさんにござんす、手前生国発しますところ…」、滔々(とうとう)とヤクザの流儀であいさつする。台詞を間違えたら、殺されたって文句は言えない、5代前の親戚の総番長が仁義を切って台詞を実演して見せてくれた。小さく折りたたんだ台詞を書いた紙をそのときにいただいた気がするが、机の中にしまったままいつかなくなった。映画の一シーンのような名文句だった。折りたたんでもっていたということは、その次の総番長には伝えなかったということ、そういう時代ではなくなっていたのを感じたからだろう。野球部のキャプテンだった人だ。お祭りのときに総番グループは総番長が足駄を履いて先頭を歩き、数歩下がってグループの十数人が肩で風を切って歩いた。「行列」のときは総番長だけが高い下駄を履き、その他は低い下駄を履いていた、総番長と並んで歩くことはご法度。わたしたちの代にはそういうルールもなくなっていた。
仁義の切り方はヒロシに伝わってなかった。どうやら4代前から総番制度は変質してしまっていた。総番制度の廃止はたまたまヒロシが同じクラスで、ウマがあったから持ち掛けた話だ、わたしたちの役回りだったのだろう。総番グループには関係のないA野や数人で相談して決めたらしい。わたしはそのあたりの詳細な経緯をよく覚えてないのだ。変質してしまった総番制度は不要、潰そうとは思っていた。2年生になってヒロシと一緒のクラスになって、舞台が整ってしまっただけ。ヒロシ、A野、わたし、それぞれが自分の役割を演じた。
総番長は周りが認めなければなれない、人望がいる、なりたい奴は何人かいた。ヒロシは器の大きい奴だったから周りから認められて総番長になった。総番制度を潰したくないやつらがE組に数人いたから、ヒロシは矢面に立って苦労したはず。反対派を潰すので手をかせとヒロシが言えば、言い出しっぺだから否やはなかった。高校は退学になっただろう、それくらい大仕事だったのにヒロシは一人でやった。意外に思うだろうが、大学進学はヒロシが誘ってくれた、あいつから誘われなかったら、東京へ行っていない。冨岡先生に「お前が都市銀行を受験したら落ちる奴がいる、学校推薦するからおまえは日銀釧路支店を受けろ」と言われて、4月から迷って、見送り三振、優柔不断だった。オヤジに大学進学していいか話して3年生の12月からにわかに受験勉強を始めて失敗したわたしは、ヒロシが誘ってくれなかったら進学のために東京へ行ってない。高校2年生の時から始めた公認会計士2次試験の受験勉強をビリヤード店の手伝いをしながらやるつもりだった。突然「トシ、東京へ行こう」、と誘ってくれた、それで決心がついた、いい友だ。
ああ、I君の話だった、ところでI君はいま首長だそうだ。(笑)
気の毒したな、もうとっくに忘れているだろう。
A野が今回こんな話をした。
「3Gの生徒が1年生のIを殴ったと、I君の親戚筋のTひろ子から叱られた」
「だれがそんなことしたのかとTに訊いたら、クラスのKだった」
広子は生徒会中央執行委員の一人であるが、生徒会で頻繁に顔を合わせて気易かったのに、わたしにはそういう話をしなかった。当時の生徒会会計は権限が大きくていわば財務大臣だったから、そういうことをする人とはかかわりがないと思っていたのかもしれない。中年太りもせずに品よく老けた。いまでも仲の良い友人の一人である。
下級生のI君にはちっとも記憶がない。わたしたちが3年生のときには、総番制度もなくなっていたから、下級生を呼び出して「生意気だ」といってぶん殴るやつは聞いたことがなく、初耳だった。
わたしは1年生の時に高さが10㎝ほどの高下駄(アシダ)を履いて通学していたので、すぐに総番グループに目をつけられ、生意気だと2年生2人に呼び出しを食らって殴られたことがある。軍隊とおんなじ、通過儀礼である。根室高校はバンカラな根室商業が前身だから、そういう気風が残っていた。歯を食いしばれば口の中を少し切るだけ。たいしたパンチではないから、歯を折るような危険はない。身体を逃げなければ側頭部に当たったりしないので、どうってことはないのだ。校則で頭は丸坊主、詰襟の学生服と定められていた。呼び出しを食らって殴られた翌日もアシダで通学したが、2度目の呼び出しはなかった。1度目はこちらが下級生だから、おとなしく殴られてやるが、2度目があったら多少のケガをさせても学校から処分を食らうことはない。しつこい方が悪い。
小学生のころは石炭ストーブだった。灯油ストーブになるは東京オリンピックの1964年(高校1年生)ごろからだった。夏から秋にかけて石炭ストーブの焚き付けを山ほど割って積んでおく。小学生が毎年拳と手刀で焚き付けを叩き折っていたから、自然に拳が硬くなってしまった。9年間で数千本叩き折っただろう。腕力をつけるために廃材を大きな鉞で叩き折っていたので、背筋力が強かった。背中をそらせて、鉞(まさかり)を振りかぶって地面にまでつけて、円を描くようにゆっくり持ち上げながら真上にまで来たら、腰のばねを使って狙った一点めがけて渾身の力で振り下ろす。当たるときがマックスになるようにイメージして、四寸角や五寸角の柱の廃材を無心に叩いた。中学生になったころには拳は硬くて骨密度が増し重くなっていた。硬い拳で頭蓋骨を叩いたら、まともに当たれば一撃で砕いてしまっただろう。生木の焚き付け材でも叩き折るタイミングとスピードを身体が知っていた。だから、一度も人を叩いたことはない。だれだって人殺しにはなりたくない。高校を卒業した年にヒロシとムサシと3人で新宿歌舞伎町でパンチボールを叩いたときに180㎏を超えた。腰の回転だけ、踏み込まないでもでそれだけの重さがあった。踏み込めば衝撃は倍加する。オヤジが落下傘部隊員だったので、忍者まがいの訓練の話を聞いていて、屋根から飛び降りたり、薪割りで身体を鍛えた、愉しかった。2階の屋根に上って飛び降りようとして、下を覗いたときに、その高さにビビった。とてもじゃないが、けがは必至と思えた、落下傘部隊は3階の高さから飛び降りる訓練をする。その高さだと五点着地が完全にできないと大けがをする。脚に衝撃を逃がしながら、回転して肩、側面、尻、脚へと衝撃を逃がす。無意識にやれるようになるまで、訓練する。やって見せてくれたら、あるいは2階の屋根から飛び降りる技が身についたかもしれない。やれたのは脚を屈折して衝撃をやわらげながら、片手をついてさらに着地の衝撃を分散する、これは三点着地で、映画で忍者が屋根から飛び降りるときの技だ。オヤジは言葉で説明しただけで、五点着地をやって見せてくれなかった。一緒に厳しい訓練をへた戦友たちが、みんな南方で戦死している。戦時宣伝映画(加藤隼戦闘隊)撮影のための降下訓練中に右手複雑骨折をしたオヤジだけが生き残った。主導索に右腕をひっかけて、飛行機を飛び出した瞬間に複雑骨折、右手はブランとしてまともな態勢では着地できない、よく命があったものだと言っていた。息子には五点着地技を伝えるのが嫌だったのだろう。小学生のころ、オヤジは自衛隊から空挺部隊の教官で来てほしいと要請があったようだった。生き残っている落下傘兵はほとんどいなかったからだろう。オヤジはノーだった。
「戦友たちは、結婚もせず、子どもも作らず、靖国で会おうと言い残して死んでいった、おれは結婚もしたし、子どももいる。幸せだ」
こんどは自分が訓練した空挺兵が戦地で死ぬかもしれない、関わりたくなかったのだろう。
記憶がはっきりしないが、3年生になって、A野によれば数人で総番長のヒロシと総番制度について話をしたようだ。そして何十年間も続いた総番制度を廃止したのだが、統制がとれなくなったという弊害は出た。総番長は本来は外部ともめごとがあったときに、学校を代表して、おさまりをつけなければならない。それがルールだった。生徒の誰かがヤクザとたまたまもめごとを起こしても、総番長が代表して話をつけるから、責任が重かったのである。5代前の総番長までは「仁義」の切り方、そして台詞が伝わっていた。「お控えなすって、さっそくお控えなすって下さったありがとうさんにござんす、手前生国発しますところ…」、滔々(とうとう)とヤクザの流儀であいさつする。台詞を間違えたら、殺されたって文句は言えない、5代前の親戚の総番長が仁義を切って台詞を実演して見せてくれた。小さく折りたたんだ台詞を書いた紙をそのときにいただいた気がするが、机の中にしまったままいつかなくなった。映画の一シーンのような名文句だった。折りたたんでもっていたということは、その次の総番長には伝えなかったということ、そういう時代ではなくなっていたのを感じたからだろう。野球部のキャプテンだった人だ。お祭りのときに総番グループは総番長が足駄を履いて先頭を歩き、数歩下がってグループの十数人が肩で風を切って歩いた。「行列」のときは総番長だけが高い下駄を履き、その他は低い下駄を履いていた、総番長と並んで歩くことはご法度。わたしたちの代にはそういうルールもなくなっていた。
仁義の切り方はヒロシに伝わってなかった。どうやら4代前から総番制度は変質してしまっていた。総番制度の廃止はたまたまヒロシが同じクラスで、ウマがあったから持ち掛けた話だ、わたしたちの役回りだったのだろう。総番グループには関係のないA野や数人で相談して決めたらしい。わたしはそのあたりの詳細な経緯をよく覚えてないのだ。変質してしまった総番制度は不要、潰そうとは思っていた。2年生になってヒロシと一緒のクラスになって、舞台が整ってしまっただけ。ヒロシ、A野、わたし、それぞれが自分の役割を演じた。
総番長は周りが認めなければなれない、人望がいる、なりたい奴は何人かいた。ヒロシは器の大きい奴だったから周りから認められて総番長になった。総番制度を潰したくないやつらがE組に数人いたから、ヒロシは矢面に立って苦労したはず。反対派を潰すので手をかせとヒロシが言えば、言い出しっぺだから否やはなかった。高校は退学になっただろう、それくらい大仕事だったのにヒロシは一人でやった。意外に思うだろうが、大学進学はヒロシが誘ってくれた、あいつから誘われなかったら、東京へ行っていない。冨岡先生に「お前が都市銀行を受験したら落ちる奴がいる、学校推薦するからおまえは日銀釧路支店を受けろ」と言われて、4月から迷って、見送り三振、優柔不断だった。オヤジに大学進学していいか話して3年生の12月からにわかに受験勉強を始めて失敗したわたしは、ヒロシが誘ってくれなかったら進学のために東京へ行ってない。高校2年生の時から始めた公認会計士2次試験の受験勉強をビリヤード店の手伝いをしながらやるつもりだった。突然「トシ、東京へ行こう」、と誘ってくれた、それで決心がついた、いい友だ。
ああ、I君の話だった、ところでI君はいま首長だそうだ。(笑)
気の毒したな、もうとっくに忘れているだろう。
毎年のことだが、NKさんの奥さんに感謝。ずいぶんとこまかい配慮をしてくれている。
Y岡の奥さんが毎年美味しい蕎麦を打ってきてふるまってくれる。腕前は2段だったかな。福島県の有名お蕎麦屋さん(磐梯熱海の2店、郡山市内の蕎麦屋、そば道場、会津桐屋など)、山形県のお蕎麦屋さん、仙台郊外大滝村のお蕎麦屋さん、そういう名店と比べても、遜色のない味と香りと歯ごたえのお蕎麦である。
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2020-01-03 10:32
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