SSブログ

#3967 リスク評価がない:夕張石炭博物館火災と原発事故 Apr. 21, 2019 [8. 時事評論]

 夕張市の石炭博物館の炭鉱坑内で火災が発生した。まだ、鎮火の宣言が出ていない。
*北海道新聞ニュース 4/19
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/297891
----------------------------------------
「言葉失う」市民ぼうぜん 改修後に来館者増加 夕張石炭博物館火災
【夕張】模擬坑道からは19日午前も煙が上がり続けた。火災が続く夕張市石炭博物館は、財政再生団体の夕張市が地域再生を象徴する施設として総額7億5千万円を投じ大規模改修を昨年に終えたばかり。2018年度の来館者数は予想を大きく超えた。マチの一筋の光明となっていた施設の火災に、市民らは衝撃と落胆に包まれた。…

----------------------------------------

  昨年7.5億円もかけて改修したとあるが、夕張市は財政再建団体に指定されているので、自主財源はゼロ、だから100%補助金ということ。鈴木前市長が書類を決裁したのだろう、道知事の関連書類決裁もいるし、何より政府が関与している。官邸の了解でもあったのだろうか、とにかくびっくりだ。普通は財政再建団体に石炭博物館改修の許可しないでしょ。維持できなければ消滅でいいのです。取り壊し費用を政府がもてばいいことでした。観光客が来なくていいのです。第3セクターを作り箱物とイベントにうつつを抜かして観光客を集め、財政破綻したのではなかったか。でも、言いにくいものです、「懲りたでしょ、取り壊すなら補助金降ろします」、そうではないですか。言いにくいことを言うべき人が言う。この場合なら、夕張市長、そして北海道知事、そして主管の官庁です。夕張市議会議員も道議会議員も協力したのでしょう。だれも異を唱えられなかった。戦時中、大日本報国会を組織して戦争協力した文化人たちとよく似ています。(⇒「余談」に追記しました)

 夕張市は箱物政策やイベント政策をやり放題の末に財政破綻したのにまた同じことをやっていた、それが今回の火災事故で明らかになった。

 こういう事業をやるときに、都合のよい仮定ばかり並べて、書類上では利益が出るようになっているからゴーサインがだされる。インチキですよ。改修した坑道に火災リスクがあるなんて石炭博物館の改修案には記述がなかったのだろう。あれだけ箱物行政で失敗したのに、前町長はまったく同じことをやっていたのか、性懲りもなく…。
 人口8000人の夕張市から人口5,500,000人の北海道知事にめでたくご栄転されたようだが、行政能力が町長時代と同じでは一生懸命に仕事してさらに大きな災いを引き起こします。仕事のできない者が一生懸命に仕事をしたときほど悲惨な結果はない、いくら善意でも結果はご覧の通りとなります。一部上場企業に勤務していた16年間に自分の眼で見たことがあります。マネジメント能力の低い管理職や取締役に、分に過ぎた大きな仕事を任せると100%失敗をします、あたりまえですね。失敗の責任をとって降格させざるを得なくなります。行政の失敗は首長を選出した地域の選挙民がとることになります。それを承知したうえで自民党と公明党は鈴木弘道という神輿を担いだのでしょうか?4年後の選挙ではもっと慎重に人選びをしてもらいたい。

 純真無垢という言葉の意味を考えてみます。英語でも純真無垢(inocent)というのは「世間知らずのお馬鹿さん」という意味がありますから、日本語と同じです。北海道の選挙民は「純真無垢のお馬鹿さん」だからこんな手合いにころっと騙されました。石炭博物館改修のリスク評価ができなかった新知事に、もっと大きな差し迫ったリスク、泊原子力発電所のリスク評価ができるはずがないのです。
 鈴木新知事は原発に利害をもつ者たちに囲まれて、石炭博物館のときと同じリスク無視の判断をします。選挙の時も泊原発については、はっきりしたこと言わなかったでしょう。選挙の結果に責任をもつのは道民です、推薦をした自民党でも公明党でもありません、党の方針が決まったとたんに鈴木候補になびいた道議会議員でもありませんよ、何か起きたときに被害を受けるのは道民なんです。選挙の時に鈴木道知事候補に投票した人にも、他の候補に投票した人にも、投票所に行かなかった40%を超える人にも、災害はひとしく訪れます。自然災害は、人間の思惑には関係がない、無慈悲なものです。

 いま四百年に一度の巨大地震と高さ20mの津波が根室沖でいつ起きるかわからない状態です。北海道太平洋沿岸では地質学調査でも過去5500年間に13回の巨大津波の痕跡が確認されています。東北で起きた11年前の巨大地震は、あいにくとだれも予測していませんでした。自然にはわからないことがたくさんありますが注意深くみると、海岸近くの地層には巨大地震が引き起こした津波の痕跡が砂の地層となって刻まれています。
 人間の智慧の及ぶ範囲はわずかなものですから、予想外のことが常に起きます。胆振中東部地震はCCS実験によるもので一部の学者が予測した通りでした。人為的に引き起こされる地震は予測のつくものがあります。しかり、自然が起こす地震は予測のできないものが多いのです。そして、予測街の巨大地震が起きたときには後の祭り、福島第一原発のように原子力発電所の大規模な事故へと繋がったらふるさとは元に戻らない。

 石炭博物館事業と同じことが北海道電力泊原子力発電所にも言えます。福島第一原発並みの事故が起きたときのリスク評価も具体的な避難計画もない。使用済み核燃料の廃棄方法すら確立されていないのに、そうしたリスクが評価されていません。十万年単位の使用済み核燃料保管コストを耐用年数40年の運転期間へ適正に配分したら、民間事業として採算の成り立つはずがありません。現在公表されているコストの百倍では済まないでしょうね。
 使用済み核燃料については電気事業会計規則で貯蔵品勘定で処理されているようで、廃棄に関する超長期の保管費用の引当計上の規定が同規則には規定がありません。とんでもないダブルスタンダードです。上場企業に適用されている企業会計基準や財務諸表規則にこういう抜け穴はないから、同様の処理をすれば適正な費用の引当形状がなされていないので粉飾決算になります。会計学者はこういうインチキ会計基準制定に協力してはいけません。会計学会として意見表明すべきです。参考までに電気事業会計規則のURLを書いておきますので、ご覧ください。
*http://roppou.mark-point.jp/条文/電気事業会計規則.html

 事故が起きたときの避難計画もないから、その面でもリスクは評価されていません。札幌190万市民はどこへどうやって避難するのか?子どもたちは放射能感受性が大きいから一両日中に避難を完了する必要がある。放射生物質で子どもたちの遺伝子に瑕がつけば、ありとあらゆる病気になりえます。避難が遅れたら取り返しがつかないのです。ロシアですら、バスを2000台用意して3日間で被災地域住民の避難を完了させました。いったいどこへどういう手段と経路で運ぶのでしょう?狭い国土の日本で200万人が避難できる場所なんてありません。多くの札幌市民がそのまま住み続けるしかないでしょう。妊婦も子どもも毎日内部被爆し続けます。肺から吸い込んだら放射生物質は取り除けません。肺胞にくっついて、放射線を出し続け、遺伝子を壊します。生殖細胞の遺伝子に瑕がつけば、不妊が増えます。
 自分の子や孫が内部被爆することをありありと想像してください。鼻血や下痢、慢性的な疲労感、そして数年たつと放射性ヨウ素の被爆でまず小児甲状腺癌が多発します。遺伝子が障害されたことで、さまざまなホルモン異常や精神疾患が思春期に置き、そして成人してから癌におびえなければならない。どういう癌になるかは全く予測がつきません。癌になって臓器を摘出すれば、そのあとの生活はたいへんです。同じ仕事を継続することもそして低下した体力に見合った仕事に就くこともできない。平均寿命のはるか前で寿命が尽きる人が続出します。なってからでは、後の祭りです。

 森林、畑、住宅地、川、海洋などの放射能汚染リスクも評価されていません。石狩平野はいうに及ばず、日高山脈を越えて十勝平野や根釧原野に大量の放射能が降り注ぎ、稲作も畑作も酪農も壊滅的な打撃を受けます。陸地へ降り注いだ放射性物質は川へ流れ、海を汚染していきますから、沿岸漁業もまた無事ではいられません。
 今月行われた道知事選挙で道内の農業団体と漁業協同組合がこぞって泊原発即時廃炉宣言をださなかったのがわたしには不思議です。かれらは深刻な原発事故が起きたときには甘んじてそれを受け入れるのでしょう。福島の農民も漁民も泣いてます。原発を誘致したこと自体が間違いだったと故郷を失った人たちが後悔しています。できることなら、時間を原発誘致前に戻して誘致に反対したいでしょう。

 北海道の食料自給率は200%と言われていますが、そこが壊滅的な打撃を受けたら、日本人の食糧確保はどうなるのでしょう? 米やジャガイモ、玉葱、生乳の価格は暴騰します。道内産生乳のシュアは50%を超えています。品不足から牛乳500円/Lなんてことになりかねません。
 そして200~300万人の道産子がふるさとを失うリスクがあります。わたしはいやですね。

 事故があってからの廃炉はほとんど不可能ですから、事故が起きる前に廃炉しなければいけません、福島第一原発は事故後8年たっても原子炉内の燃料デブリの処理も目途もついていないし、スケジュールすら立てられません。取り出す具体的な方法すら見つかっていません。

 道産子は、鈴木新知事を選んだことで、どういうリスクを背負いこんだのか、理解できていない。
 夕張の石炭博物館火災は道民への警鐘です、道産子のみなさん、目の前にある巨大なリスクに「ぼーっとしてんじゃないよ!」ってチコちゃんに叱られます。

<余談-1:戦時中の文化人の戦争協力と戦後の沈黙>
 櫻本富雄が戦時中の文化人の戦争賛美の文筆活動を告発しています。かれは数人にインタビューを試みていますが、共通しているのはあの時代には仕方がなかった、心にもないことを書いた。書かなければ生活が成り立たなかったというようなものです。戦争反対の発言ができなかったと当時を悔いた法学者の家永三郎を除いてどなたも反省を口にされることはなかった。「少国民」であった櫻本自身がそういう本を読み耽って航空兵(神風特攻隊)に志願しようとしました。著名な文化人の手になる文を熱心に読んで心の底から航空隊に志願しようとした自分はなんと純真で愚かだったのだろうとこのビデオの最後のところで涙をぬぐっています。有名な文化人たちが口をそろえたように政府の要請にこたえて戦争賛美の文筆活動をした、何を書いたか覚えていないと、戦後はみなさん申し合せたように口をつぐんでいます。何を書いたかまるで覚えていないという人までいました。家永三郎を例外として、みなさん口をつぐんだまま死んでいきました。家永三郎は何もできなかったことを反省して、戦後は教科書検定裁判に挑みます。
 戦時中にドイツの戦時宣伝を見習って日本では大日本報国会が組織され、文学者が戦争宣伝に協力します。菊池寛、武者小路実篤、驚いたことに与謝野晶子の名前もあります。櫻本さんは収集した戦時中の出版物を開いて紹介しています。佐々木信綱、高村光太郎、小説宮本武蔵で有名な吉川英治、児童文学者の与田準一、国民的漫画「フクちゃん」の横山隆一、女性運動家の市川房江、『橋のない川』の住井すゑも戦時中は児童文学者として戦争賛美の文筆活動をしていました。ビデオのURLを書いておくので見てください。
 哲学者市倉先生もその著『特攻の記録 縁路面に座って』の冒頭で「
海に出て木枯らし帰るところなし」という誓子の俳句を引用して特攻兵の心情を汲んだものではないと批判しています。市倉先生自身も特攻兵であり、同期の戦友たちが次々と飛び立っていったのを見送っています。市倉先生は山口誓子が少年を特攻隊志願へと煽る句を読み戦時宣伝に協力していたことを知らなかったのではないかと思います。それでも、うさん臭さをかぎ分けています。
 大政翼賛会文化部出版の『軍神に続け』という本に誓子は次のように書いています。

「山川に 泳ぎてのちの 軍神(いくさがみ)
 軍神と伊勢の青嶺いや継ぎて 神々の若木の梅のごとく散らむ」

<余談-2:靖国神社と軍神>
 軍神とはお国のために戦って死に、靖国神社に祭られることです。
 落下傘部隊員だったebisuの父は訓練地だった宮崎県の港から戦友たちが船に乗ってどこかへ行くのを、左手で敬礼して見送っています。右手は複雑骨折してあげられなかったのです。落下傘部隊は秘密部隊でした。「空の神兵」とか神話になぞらえて「高千穂降下部隊」と言われてました。だから、どこの前線へ行くのかすら同じ部隊の戦友でも伝えることは許されません。戦後、オヤジは自衛隊に勤務する義理の弟から本を贈られて、自分の部隊、戦友たちがどこで戦死したのか知ることになります。田中健一著『沖縄の空に欠ける墓標 帰らぬ空挺部隊』(原書房 1976年刊)、戦後26年も過ぎるまで知る由もありませんでした。
 見送ったのは加藤隼戦闘隊という戦時宣伝映画での降下訓練中の事故で右手複雑骨折して療養中の時期でした。だれも戻ってきませんでした。別れの挨拶は「靖国で会おう」だったそうです。
 オヤジは大腸癌の手術をした翌年に、はじめて靖国神社におふくろと一緒に参拝しています。お袋は兄が侵攻してきたソ連軍と戦って満州の荒野で亡くなっています。桜の咲くころでした、わたしは二人からどこか厳かな感じが漂ってくるような気がして靖国神社についていきませんでした。
 翌年、癌が再発して全身転移、9月に亡くなっています。癌の告知はしてませんでしたが、死期を悟って「ずいぶん待たせたな、もうすぐいく」と報告したのでしょう。
 「戦友は誰も帰ってこなかった、結婚もせずに、子どもも残さず逝った、だからあいつらの分もしあわせになり、靖国で会う。俺は女房ももらったし子どもも3人いる、幸せだ」そんなことを長男のわたしだけに何度か言い残しました。「命の要らないもの集まれ!」と落下傘部隊の募集要項に書いてあったそうです。「どうせ散るならぱっと散りましょ」と応募したそうです。合格してから部隊員には長男がひとりもいないことに気がついたそうです。軍上層部には家を継ぐ長男は落下傘部隊員に採用しないという方針があったのでしょう。
 「靖国で会おう」という一言に、命懸けの訓練を、そして寝食を共にした戦友のきずなが伝わってきました。オヤジが戦後どういう思いで暮らしてきたのかよくわかりました。

*櫻本富雄 
https://ja.wikipedia.org/wiki/桜本富雄
*櫻本富雄が戦時中に戦争賛美した文化人へのインタビュードキュメント
https://www.youtube.com/watch?v=8-dC55hmhbc&feature=youtu.be&fbclid=IwAR3uwGCyhj1oGnxYCiICzw_QmiifPZgkrY22RVwTH_nwQSRfmeaTEVPekq4

*住井すゑ『橋のない川』
https://ja.wikipedia.org/wiki/橋のない川
*与田準一
https://ja.wikipedia.org/wiki/与田凖一

**弊ブログに全文掲載 市倉宏祐著『特攻の記録 縁路面に座って』

https://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/archive/c2306180343-1

*#3903 市倉宏佑著『特攻の記録 縁路面に座って』(2) : Jan. 23, 2019
https://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2019-01-23-1

*#3904 市倉宏佑著『特攻の記録 縁路面に座って』(3):「2.誓子と特攻隊」 Jan. 23, 2019

https://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2019-01-23-2

*#3905 市倉宏佑著『特攻の記録 縁路面に座って』p.10~12 Jan. 24, 2019
https://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2019-01-24



にほんブログ村


帰らぬ空挺部隊―沖縄の空にかける墓標 (1976年)

帰らぬ空挺部隊―沖縄の空にかける墓標 (1976年)

  • 作者: 田中 賢一
  • 出版社/メーカー: 原書房
  • 発売日: 1976
  • メディア: -



nice!(1)  コメント(0) 

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。