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#3903 市倉宏佑著『特攻の記録 縁路面に座って』(2) : Jan. 23, 2019 [1. 特攻の記録 縁路面に座って]

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<ebisuメモ>
歌人山口誓子の句「海に出て 木枯らし 帰るところなし」を冒頭に掲げ、芭蕉の句「五月雨の降残してや光堂 」と対置して、特攻兵の心情の分析の端緒とする。

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1.海に出て木枯帰るところなし 注1
 
誓子注1自身が、みずから詠んだ特攻隊の句といわれている。果たしてそうか。句は、見たところ特攻の虚しい悲哀を詠って余りあり、多くの人に感動を与えて、高く評価されている。
 
確かに、日本の敗戦の現状から考えてみれば、特攻機もろとも敵艦に体当たりした搭乗員の痛ましさ。空しさ。悔しさ。悲しさ。苦しさ。そしてその憂愁の思いを文字通り写している。絶唱といってもいい。
 
しかし、この解釈は事実ではないであろう。誓子自身がこの句を特攻に結びつけ、我知らず感動を覚えているとすれば、この間の事態を見落としているような気がしてならない。
 
ひるがえって考えてみると、これは果たして特攻を詠った句であるのか。気にかかることもないわけではない。が、こんな詮索は句そのものの感慨とは、じつは何の関係もないことともいえる。この意味では、つまらない詮索に過ぎないかもしれない。

  「五月雨の降残してや光堂 注2

という芭蕉の有名な句について、誰であったかはっきりとは記憶して いないが、この句の詠まれたときに「雨は降っていたのか、それともいなかったのか」という議論を出していたひとがいた。読んでいて、たいへん面白かったことを覚えている。
 
もっとも、芸術作品そのものとしては、雨が降っていたかどうかということはそれほど重要な問題ではない。むしろ、文字に結晶した作品を通して、そこに表現された美的な状況が、どういう仕方でいかなる感動を呼び起こすかが問題であろうこの意味では、詠まれた状況そのものは絶対の意味をもつものではない。それぞれの人がそれなりに状況を思い浮べて、その状況が作品に結晶する仕方を推測することはよく見かけることであり、これがまた芸術を鑑賞解釈する一つの仕方であることも事実である。
 
その結晶の仕方を「雨が降っていたかどうか」の一点に絞って問題にすることで、芭蕉の芸術感覚を見極めようとしていた論者の意見が、たいへん興味深く感じられた。
 
もっとも、句の解釈に当たって、雨の有無の論議そのものは、本来的な見地からいえば、それほど重要な意味があることではあるまい。ちなみにいえば、特攻隊が盛んに出撃してゆく状況の中で、誓子がこの隊員たちの悲哀のみを感じていたとすれば、彼はよほどのひねくれ者か、反戦論者ということになるかもしれない。

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注1 表記は『山口誓子俳句文庫』春陽堂書店、平成四年、16頁、63頁による。
注2 表記は『新編芭蕉大成』三省堂、1999年、849頁による。



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