#3869 教育講演会⑥:補遺 学び合い Dec. 1, 2018 [70.秋田県大館市教育長講演会]
講演会のレポートを書き綴って、ある問題に気がついたので、思うところを書いておく。
大館市の小中学校でやっているのは生徒同士の学び合いを主体とする授業、講義は5分程度にとどめ、生徒同士の学び合いに時間を割く。文科省が進めているアクティブラーニングの一つと言ってよいだろう。子どもたちを信頼し、「一人も置き去りにしない」という宮沢賢治の教育論と結びついているところが違いといえば言えるのかもしれない。
アクティブラーニングは学力の高い生徒たちが対象でないと無理だと言われてきたし、実際にもそういう傾向があることは否めない。そうした観点からは、大館市は小中学生の学力レベルが高いから「学び合い」形式の授業がなりたつのだろうか?いや、そうではなく、低学力のクラスでも成り立つ授業なのだろうか?
学校の先生たちの中には、授業技術を磨いている人たちが多数いると思う。TOSSのように授業技術を磨く教員の団体も存在している。それはそれで立派なことだ。
日本にはあらゆる職種で職人が存在し、仕事の技倆を磨くことに熱心である。一人前の職人になれたら、さらにその上の一流の職人になりたいと切に願うのは自然なことである。教師は知の職人である。
このように授業や教師のスキルに関してまったく思想の異なる二つの方法論がある。
それでは学力を向上させるという点からこれら二つの方法論をみたらどうなのか、経験をベースに論点を広げて述べてみたい。
もう10年ほども前になるが、B中学校の理科の学力テストの平均点が他校に比べて10-20点ほど継続的に高かったことがある。担当している先生の授業にはある特徴があった。教えた後にその単元の小テストを頻繁に繰り返すのだ。じっさいの授業を見学する機会はなかったが、学力テストの学年平均点が他校に比べて毎回はっきり高いので注目し、生徒を通じて情報収集した。
もう一人現実の先生に登場願おう。C中学校の授業参観で社会科の先生の授業を3回見た、DVDや実物投影機を上手に使った名講義であった。たとえば、「オンダンシツジュン」という地理用語が出てくると黒板に「温暖湿潤」ときれいな字で書き、漢字の字義の説明をする。生徒たちの半数は「オンダンシツジュン」と聞いてもなんのことか意味が分からない。語彙力不足で漢字に置き換えられないのだ。ある時(ニムオロ塾で)、2年生に英語授業で「形容詞は名詞をしゅうしょくする」と説明したときに、ちゃんと伝わったのか不意に気になって漢字で書いてみるように指示したら、一人は「就職」と書き、もう一人は書けなかった。どのような漢字なのか、話の文脈から判断できなかったのである。成績は中位の生徒であったが、知らなかった。「形容詞は名詞を就職する」では発話の意味が理解できないし、もちろん「形容詞は名詞をシュウショクする」と聴いた生徒もちんぷんかんぷんだろう。発話の意味を理解するには、言葉を聞いて脳内で正しい漢字に置き換えることができなければならない。それができない生徒にはその語彙を含む前後の話が理解できないということだ。
したがって、この先生の授業は生徒の語彙力の実態から判断してツボを押さえたものなのである。DVDや実物投影機を巧みに利用し、そこまで生徒たちの貧弱な語彙力に配慮した授業をしているのに学力テストの平均点には他校と有為な差がなかった。継続してモニターしたのだが、やはり有為な差がない、どうしたことだろうと、これには驚いた。このベテラン教師の授業技倆に五段階評価をつけるとすると、まぎれのない’5’であるから、数少ない優秀な教員の一人である。
このことから、名講義が必ずしも生徒たちの学力向上にはつながらないことを知った。学力中位あるいは下位の生徒たちの学力をアップするのに授業技術がよくても、さしたる効果が認められない、指導技術の巧拙が生徒の学力向上に差を生むと頭から信じていたからショックだった。
そんなことよりも、小テストを繰り返し、泥臭く教えた内容の記憶定着を進めたほうが学力向上に大きな効果がある。記憶の定着を考えたら、まったく当たり前のことなのに、自分の技倆をあげることに目がいってしまって、単純な事実に気がつかなかった。
小テストで記憶の定着を図るというのはとっても単純なことだが、そういうありきたりのことよりも、なにか別の、奇をてらった指導法あるいは「上手な授業」が先生たちの研修でもてはやされているのではないか。教員たちの研修が効果を上げられないのはなぜか。学力向上という視点からデータの裏付けのまったくない研修が多いのではないか?
私自身はどうしているかというと、個別指導で一つのクラスで数人から7人を相手にしているので、学校とはまるで事情が違う。小学6年生から高校3年生、大学受験問題まで同じクラスで同時に教えている。同じ学年でも使う問題集は学力に応じて使い分ける、あるいは各自の好みの問題集をやってよいことにしている。生徒は自分で問題を選び、解く。なるべく予習方式で学習させるようにしているが、学力の低い生徒は最初の内は副朱方式である。わからなければ生徒は挙手して質問をする。わたしは生徒に問題を音読させている間に解法を組み立てて、生徒が読み終わると同時に黒板で問題を整理し、解説を始める。生徒の学力に応じて同じ問題でも解説のしかたを変えている。学力の高い生徒は計算の一部を端折っても理解できる、ヒントを与える場合は最小限で気がつくからだ。だから学力の高い生徒には中学生にも高校の範囲まで教えてしまうし、学力の低い生徒が入塾してきたら、中学生でも分数や小数の四則演算に戻った解説を入れる。基礎知識のどこに穴が開いているのかチェックするためである。図形の問題もあるいは英語でもやりかたは同じだ。チョムスキーの構造言語学の断片も中高生にわかる範囲で解説する、そのほうが関係詞や比較級や分詞句そして不定詞句は生徒の理解が速いからである。つかえる「道具」は何でも利用する。
どきどき生徒同士で教えあっていることがある。たとえば数学は誰が得意か周りは承知しているから、教科書準拠問題集の問題をやっているときに、隣の生徒に訊くことがある。こうして「学び合い」が自然に生まれる。夢中になって声が大きくなるとうるさいことがあるから、そのときは「小さい声で説明しろ」と注意するだけ。周りに大きな迷惑がかからなければOKである。周囲に気を配る配慮は必要だ、それがミニマム・ルール。
成績がよい生徒は学校でも、周囲の友達から頼りにされる。教えてくれと言われたら、惜しみなく教えてやれとふだんから言っている。塾に通えない生徒もいる、助けが必要な同級生がいたら、助けたらいいのである。札幌の高校(進学校)へ行った生徒からもラインで質問が来て、解説することがあると言っていた。ときに1時間かかることもあるらしい。助けを必要としている友達に教えることで、理解が曖昧なところは説明につまってしまうから、どこが弱いか自分で確認できるし、復習になっている。高校1年生の生徒だが数Ⅱをやっているから、今学校で習っている数Ⅰや数Aの中程度の難易度の問題を教えることは復習にもなるし、知識の再整理にもなるから無駄にならない。自分の問題に集中したいときは、「ebisu先生の説明を聴いた方がいいよ」と振ってくる。(笑) 臨機応変でいい。こういう対応は社会人となったときに生きてくる。
できる生徒も、できない生徒もこうしてコミュニケーションする中で「学び合い」をしている。だから、「学び合い」は塾の教室の中だけにとどまっていない。便利なもので、スマホを斜めにセットしてノートを動画で写しながら、解説するなんて技を発明した。スマホは上手に使えば、根室と札幌という空間をいとも簡単につなげてくれる。社会人となったときに、だれがどのスキルに長けているのか判断するのはとっても重要だ。困ったときにはそういう有能な人に相談できるような人間関係をふだんから築いておけたらいい。
学力の低い生徒たちは塾では別に時間をとり補習対応している。とっても手間がかかるが、それをしないと成績をアップできない生徒がいる。学校で学力の低い生徒たち(学力テストの五科目合計平均点が300点満点で100点前後、数学に限っては60点満点で平均点が14-18点だから半数以上の生徒たち)にそんなことをしていたら、先生たちは部活指導をやめて毎日放課後補習をしないといけないだろう。じっさいに、結構な割合で放課後補習が中学校で組まれている。それでも、生徒たちの学力はなかなか上がらない。釧路市と根室管内の市街化地域の中学校の学力テスト五科目平均点をモニターしているが、B中学校もC中学校も釧路根室管内で最低レベルのままである。
学力の高い生徒が低い生徒の質問に答えて「学び合う」というスタイルは、低学力層の底上げにに強力に作用すると思う。「一人も置き去りにしない」授業は集団の名講義型の授業では不可能である。上位の生徒たちも下位の生徒たちも切り捨てざるを得ない。先生一人で25人の生徒を相手にして「一人も置き去りにしない授業」をやれる先生はほとんどいないだろう。
だから、大館市の教育長が語った「学び合い」の授業は「一人も置き去りにしない」というテーゼを前提にする限り、講義型授業にはるかに優っていると結論せざるをえない。
だが、実際の授業を自分の目で見ないと理解できない。なれない先生が真似をしたら、生徒たちは勝手なことをやりだして、授業崩壊を起こすだろう。就学前教育まで視野に入れて、小学校入学後の1か月で学習に集中するという躾ができなければ、やれない授業形態なのだ。そのかわりそこを上手に通過できたら、あとは楽だ。「学び合い」型授業は生徒の学力向上に大きな力をもつに違いないと感じた次第。
現実のニムオロ塾の授業は中間を歩いている。講義型と学び合いが混在している。
小学校の先生は別だが、極端な話だが、中高の先生は授業スキルは上手でも下手でもいいと思っている。基本はそうだが、ある程度は上手なほうがいい、わかりやすい解説というのはたしかにある。
一月ほど前に生徒から「化学のモルにかかわる計算がさっぱりわからないので、先生は専門外でしょうが教えてくれますか」とお願いされて、受験参考書を読み、問題を数十題解いてみてから教えた。生徒のノートをみてなるほど、この教え方ではわかりにくいと思った。単位を組み込んだ計算式でやると簡単なのである。モルを含む計算は教え方で生徒の理解がまるで違うことがわかった。
落語のように「ツカミ」や「オチ」を考えた授業も楽しいものだ。落語、講談、浪曲という話芸は間のとり方、展開のしかたなど参考になるところは多い。授業も一種の話芸ととらえることができる。
このようにさまざまな視点から授業スキルを磨くことはあたりまえの努力だと思うが、そこにとどまらず生徒の学力向上という視点も同時も併せもちたい。
一方で、大学の先生で授業スキルを磨こうと思う人はごく少数だろう。学ぶ気がない奴にはどんな講義も馬の耳に念仏、学ぶ気のある者には内容がしっかりしていさえすれば伝わる。小学校と大学のあいだにあるのが中学校と高校だから、段階を踏みながらに大人扱いしていくべきで、自律的に学習できる人間に育てることが最終目標だろう。
秋田県大館市教育長である高橋善之氏の講演はいろいろな気づきのあるものだった。惜しみなく具体的な事例を開示してくれたことに心から感謝申し上げたい。m(_ _)m
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大館市の小中学校でやっているのは生徒同士の学び合いを主体とする授業、講義は5分程度にとどめ、生徒同士の学び合いに時間を割く。文科省が進めているアクティブラーニングの一つと言ってよいだろう。子どもたちを信頼し、「一人も置き去りにしない」という宮沢賢治の教育論と結びついているところが違いといえば言えるのかもしれない。
アクティブラーニングは学力の高い生徒たちが対象でないと無理だと言われてきたし、実際にもそういう傾向があることは否めない。そうした観点からは、大館市は小中学生の学力レベルが高いから「学び合い」形式の授業がなりたつのだろうか?いや、そうではなく、低学力のクラスでも成り立つ授業なのだろうか?
学校の先生たちの中には、授業技術を磨いている人たちが多数いると思う。TOSSのように授業技術を磨く教員の団体も存在している。それはそれで立派なことだ。
日本にはあらゆる職種で職人が存在し、仕事の技倆を磨くことに熱心である。一人前の職人になれたら、さらにその上の一流の職人になりたいと切に願うのは自然なことである。教師は知の職人である。
このように授業や教師のスキルに関してまったく思想の異なる二つの方法論がある。
それでは学力を向上させるという点からこれら二つの方法論をみたらどうなのか、経験をベースに論点を広げて述べてみたい。
もう10年ほども前になるが、B中学校の理科の学力テストの平均点が他校に比べて10-20点ほど継続的に高かったことがある。担当している先生の授業にはある特徴があった。教えた後にその単元の小テストを頻繁に繰り返すのだ。じっさいの授業を見学する機会はなかったが、学力テストの学年平均点が他校に比べて毎回はっきり高いので注目し、生徒を通じて情報収集した。
もう一人現実の先生に登場願おう。C中学校の授業参観で社会科の先生の授業を3回見た、DVDや実物投影機を上手に使った名講義であった。たとえば、「オンダンシツジュン」という地理用語が出てくると黒板に「温暖湿潤」ときれいな字で書き、漢字の字義の説明をする。生徒たちの半数は「オンダンシツジュン」と聞いてもなんのことか意味が分からない。語彙力不足で漢字に置き換えられないのだ。ある時(ニムオロ塾で)、2年生に英語授業で「形容詞は名詞をしゅうしょくする」と説明したときに、ちゃんと伝わったのか不意に気になって漢字で書いてみるように指示したら、一人は「就職」と書き、もう一人は書けなかった。どのような漢字なのか、話の文脈から判断できなかったのである。成績は中位の生徒であったが、知らなかった。「形容詞は名詞を就職する」では発話の意味が理解できないし、もちろん「形容詞は名詞をシュウショクする」と聴いた生徒もちんぷんかんぷんだろう。発話の意味を理解するには、言葉を聞いて脳内で正しい漢字に置き換えることができなければならない。それができない生徒にはその語彙を含む前後の話が理解できないということだ。
したがって、この先生の授業は生徒の語彙力の実態から判断してツボを押さえたものなのである。DVDや実物投影機を巧みに利用し、そこまで生徒たちの貧弱な語彙力に配慮した授業をしているのに学力テストの平均点には他校と有為な差がなかった。継続してモニターしたのだが、やはり有為な差がない、どうしたことだろうと、これには驚いた。このベテラン教師の授業技倆に五段階評価をつけるとすると、まぎれのない’5’であるから、数少ない優秀な教員の一人である。
このことから、名講義が必ずしも生徒たちの学力向上にはつながらないことを知った。学力中位あるいは下位の生徒たちの学力をアップするのに授業技術がよくても、さしたる効果が認められない、指導技術の巧拙が生徒の学力向上に差を生むと頭から信じていたからショックだった。
そんなことよりも、小テストを繰り返し、泥臭く教えた内容の記憶定着を進めたほうが学力向上に大きな効果がある。記憶の定着を考えたら、まったく当たり前のことなのに、自分の技倆をあげることに目がいってしまって、単純な事実に気がつかなかった。
小テストで記憶の定着を図るというのはとっても単純なことだが、そういうありきたりのことよりも、なにか別の、奇をてらった指導法あるいは「上手な授業」が先生たちの研修でもてはやされているのではないか。教員たちの研修が効果を上げられないのはなぜか。学力向上という視点からデータの裏付けのまったくない研修が多いのではないか?
私自身はどうしているかというと、個別指導で一つのクラスで数人から7人を相手にしているので、学校とはまるで事情が違う。小学6年生から高校3年生、大学受験問題まで同じクラスで同時に教えている。同じ学年でも使う問題集は学力に応じて使い分ける、あるいは各自の好みの問題集をやってよいことにしている。生徒は自分で問題を選び、解く。なるべく予習方式で学習させるようにしているが、学力の低い生徒は最初の内は副朱方式である。わからなければ生徒は挙手して質問をする。わたしは生徒に問題を音読させている間に解法を組み立てて、生徒が読み終わると同時に黒板で問題を整理し、解説を始める。生徒の学力に応じて同じ問題でも解説のしかたを変えている。学力の高い生徒は計算の一部を端折っても理解できる、ヒントを与える場合は最小限で気がつくからだ。だから学力の高い生徒には中学生にも高校の範囲まで教えてしまうし、学力の低い生徒が入塾してきたら、中学生でも分数や小数の四則演算に戻った解説を入れる。基礎知識のどこに穴が開いているのかチェックするためである。図形の問題もあるいは英語でもやりかたは同じだ。チョムスキーの構造言語学の断片も中高生にわかる範囲で解説する、そのほうが関係詞や比較級や分詞句そして不定詞句は生徒の理解が速いからである。つかえる「道具」は何でも利用する。
どきどき生徒同士で教えあっていることがある。たとえば数学は誰が得意か周りは承知しているから、教科書準拠問題集の問題をやっているときに、隣の生徒に訊くことがある。こうして「学び合い」が自然に生まれる。夢中になって声が大きくなるとうるさいことがあるから、そのときは「小さい声で説明しろ」と注意するだけ。周りに大きな迷惑がかからなければOKである。周囲に気を配る配慮は必要だ、それがミニマム・ルール。
成績がよい生徒は学校でも、周囲の友達から頼りにされる。教えてくれと言われたら、惜しみなく教えてやれとふだんから言っている。塾に通えない生徒もいる、助けが必要な同級生がいたら、助けたらいいのである。札幌の高校(進学校)へ行った生徒からもラインで質問が来て、解説することがあると言っていた。ときに1時間かかることもあるらしい。助けを必要としている友達に教えることで、理解が曖昧なところは説明につまってしまうから、どこが弱いか自分で確認できるし、復習になっている。高校1年生の生徒だが数Ⅱをやっているから、今学校で習っている数Ⅰや数Aの中程度の難易度の問題を教えることは復習にもなるし、知識の再整理にもなるから無駄にならない。自分の問題に集中したいときは、「ebisu先生の説明を聴いた方がいいよ」と振ってくる。(笑) 臨機応変でいい。こういう対応は社会人となったときに生きてくる。
できる生徒も、できない生徒もこうしてコミュニケーションする中で「学び合い」をしている。だから、「学び合い」は塾の教室の中だけにとどまっていない。便利なもので、スマホを斜めにセットしてノートを動画で写しながら、解説するなんて技を発明した。スマホは上手に使えば、根室と札幌という空間をいとも簡単につなげてくれる。社会人となったときに、だれがどのスキルに長けているのか判断するのはとっても重要だ。困ったときにはそういう有能な人に相談できるような人間関係をふだんから築いておけたらいい。
学力の低い生徒たちは塾では別に時間をとり補習対応している。とっても手間がかかるが、それをしないと成績をアップできない生徒がいる。学校で学力の低い生徒たち(学力テストの五科目合計平均点が300点満点で100点前後、数学に限っては60点満点で平均点が14-18点だから半数以上の生徒たち)にそんなことをしていたら、先生たちは部活指導をやめて毎日放課後補習をしないといけないだろう。じっさいに、結構な割合で放課後補習が中学校で組まれている。それでも、生徒たちの学力はなかなか上がらない。釧路市と根室管内の市街化地域の中学校の学力テスト五科目平均点をモニターしているが、B中学校もC中学校も釧路根室管内で最低レベルのままである。
学力の高い生徒が低い生徒の質問に答えて「学び合う」というスタイルは、低学力層の底上げにに強力に作用すると思う。「一人も置き去りにしない」授業は集団の名講義型の授業では不可能である。上位の生徒たちも下位の生徒たちも切り捨てざるを得ない。先生一人で25人の生徒を相手にして「一人も置き去りにしない授業」をやれる先生はほとんどいないだろう。
だから、大館市の教育長が語った「学び合い」の授業は「一人も置き去りにしない」というテーゼを前提にする限り、講義型授業にはるかに優っていると結論せざるをえない。
だが、実際の授業を自分の目で見ないと理解できない。なれない先生が真似をしたら、生徒たちは勝手なことをやりだして、授業崩壊を起こすだろう。就学前教育まで視野に入れて、小学校入学後の1か月で学習に集中するという躾ができなければ、やれない授業形態なのだ。そのかわりそこを上手に通過できたら、あとは楽だ。「学び合い」型授業は生徒の学力向上に大きな力をもつに違いないと感じた次第。
現実のニムオロ塾の授業は中間を歩いている。講義型と学び合いが混在している。
小学校の先生は別だが、極端な話だが、中高の先生は授業スキルは上手でも下手でもいいと思っている。基本はそうだが、ある程度は上手なほうがいい、わかりやすい解説というのはたしかにある。
一月ほど前に生徒から「化学のモルにかかわる計算がさっぱりわからないので、先生は専門外でしょうが教えてくれますか」とお願いされて、受験参考書を読み、問題を数十題解いてみてから教えた。生徒のノートをみてなるほど、この教え方ではわかりにくいと思った。単位を組み込んだ計算式でやると簡単なのである。モルを含む計算は教え方で生徒の理解がまるで違うことがわかった。
落語のように「ツカミ」や「オチ」を考えた授業も楽しいものだ。落語、講談、浪曲という話芸は間のとり方、展開のしかたなど参考になるところは多い。授業も一種の話芸ととらえることができる。
このようにさまざまな視点から授業スキルを磨くことはあたりまえの努力だと思うが、そこにとどまらず生徒の学力向上という視点も同時も併せもちたい。
一方で、大学の先生で授業スキルを磨こうと思う人はごく少数だろう。学ぶ気がない奴にはどんな講義も馬の耳に念仏、学ぶ気のある者には内容がしっかりしていさえすれば伝わる。小学校と大学のあいだにあるのが中学校と高校だから、段階を踏みながらに大人扱いしていくべきで、自律的に学習できる人間に育てることが最終目標だろう。
秋田県大館市教育長である高橋善之氏の講演はいろいろな気づきのあるものだった。惜しみなく具体的な事例を開示してくれたことに心から感謝申し上げたい。m(_ _)m
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2018-12-01 19:02
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コメント(3)
女子栄養大学で毎回の講義の後、4項目の箇条書きで小テストをして、合計点で採点しました。私が多忙。期末テストをする暇がなかったからです。
ほとんど全員が書けるようになり、自己推薦書を書けるようになりました。就職活動が楽になったようです。
高校の非常勤で同じ方法を用い、毎回小テストをしようとしました。2年ほどやりました。でもできるようになった生徒は数人、橋にも棒にもかからない箇条書きを書きました。
それでまとめて全部添削し、一覧表にして、毎回授業の先頭で評価コメントをしました。ほとんどの阿保が何と自己推薦書を書こうとし、添削がとても楽になりました。
毎回、小テストか感想を書かせ、個人の文章と校正結果を配布するのがかなり広いレベルの教育法だと思います。
バドしかできない生徒さんが早稲田大学教育学部に5割の確率で合格しました。落第したのはノリの悪い人でした。教えると、何でも、分かりますが、と前置きする人でした。
個人ごとに、レベルに応じて手法が変わると思います。私は添削や教えて貰うより、回答結果を見て自分で覚えるのが好きでした。家一家は皆その傾向がありますが。
by tsuguo-kodera (2018-12-05 10:10)
うおほっほ〜い。
tsuguo-kodera さん。
あんたも添削してもろた方がええみたや。
話が見えへん。
by 名無しのゴンベイ (2018-12-05 11:28)
koderaさん
こんにちは
女子大生と高校生では文章添削でもずいぶんと差があったようですね。
リンボウ先生、こと林望氏も跡見学園女子短期大学で1年間作文の講義をしたことがあり、百人の受講者の作文を毎回添削したようです。原稿用紙にして2400枚分、たいへんな作業です。
そういう経験を踏まえて『文章術の千本ノック』というユニークな本を書いてます。
朝日カルチャーセンター横浜「表現講座」で実際に文章を添削された実例を本にしたものです。
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いろいろなことをと書きたいという気持ちは分からないじゃあないけれども、あれも書きたい、これも書きたいと思ってやると、結局何を言いたいんだかわからない文章になってしまいますから、とにかく文字はけちって、できるだけ最小限に書く。後にも先にもそれが最大の要諦です。
こういうことは山本夏彦さんなんかもつねづねおっしゃっています。山本夏彦さんは、切って切って、どんどん切りまくって、意味が通じなくなる寸前のところでやめると言っておられるけれども。時々行き過ぎて意味が通じないことがありますね、山本さんの文章は(笑)。しかしそれが文章の要諦というものです。
「文字をおしめ」より引用
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林望さんは「謹訳源氏物語」10巻で品のよい現代語訳をやり遂げています。山本夏彦も切れの良い文体で好きな物書のお一人です。、でも永井荷風の日記『断腸亭日乗』が切れのよさでは天下一品。
林望先生は「添削後語」の章で次のように述べておられます。
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しかしながら、これらの作品を講評する中で、一般の人が作文を書く場合に陥りやすい欠点や、注意すべきところなどは、ほぼ出尽くしているように思う。
これを要するに、以下に自分で自分の文章を批判することがむずかしいかという、この一点に尽きている。
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「こうなりました」から、
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ところが、こうした添削というものは、真っ赤になって帰ってきたのを、ただ「ふーん、そうか」と思って漫然と眺めていただけではいくらも力にならぬ。これをもう一度清書してみることが、最も大切な勉強なのである。自分はこれでいいと思って書いたものが、じつはそうではなかった。それで冷静な目で批判されたとおりに、あるいはその批判に添ってなお考えを重ねて、完成した作品を「書いてみる」ことが大切である。それは一度経験してみればすぐにわかるであろう。…
文章が面白いか面白くないかの違いは、ほんのちょっとしたことなのだ。が、そのほんのちょっとが大きな違いなのである。しこうして、最終的には、だれからも添削されずとも、自分でさっさと自己批判して推敲できるようになることが私の期待である。
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「書けるかもしれないーあとがきにかえて」より
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…ほんとうはそういうふうに、かさねがさね実習するのがよいのである。文章は絵や音楽といっしょで、やはりちゃんと練習しないと(ふつうの人は)じょうたつがおぼつかないが、システマティックに練習を重ねていけばそれなりの効果は必ずある。
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高校生が悪戦苦闘の末にちゃんとした自己推薦書が書けるようになったのは、繰り返し行われた添削と素直なきもちで書き直した結果でしょう。よくわかります。
これ、高校生たちにだいじなことですから、何かの形で本欄で扱いたいと思います。
by ebisu (2018-12-05 15:27)