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#3389-2 総番制度の終焉と3年G組の役割 Aug. 10, 2016 [90.根高 こもごも]

<余談:団塊世代の高校同期会>
 神輿の先導役を毎年やっているK浦と神社境内で立ち話した。9月3日の高校同期会は参加55名、東京から16名ほど来るという。懐かしい顔に会えそうだ。同期は7クラス350名だったから、1/7が集まる。地元に残っている者は半数の参加だそうだから2割強の80名くらいがいるのだろう。高校を卒業してから、8割がふるさとを離れたということ。そういうことが今も続いているのですから、根室の人口が減るわけです。


<余談-2:総番制度という伝統>
 昔、根室高校には総番制度がありました。団塊世代よりも5年先輩の総番長は親戚のお兄さん、野球部のキャプテンでした。お祭りの時には、10人ほど後ろに従えて闊歩していました。総番と並んで歩くものはいません、一歩下がって後ろからついていきます。権限と背負っている責任が大きかったので、誰もが認めていたのでしょう。統率がとれていました。
 高校生のときに、その人から「仁義」のきり方を見せてもらいました。「お控えなすって、早速お控えなすってくださってありがとうござんす、手前生国発しますところ・・・」、右手を前に出し、左手を後ろに回して、型と台詞が代々引き継がれていました。小さく折り畳んだ紙切れは代々渡されたものだったようです。昔は、町のやくざとの揉め事があると、総番長の出番です。台詞を間違えたら、殺されたって文句は言えないと言ってました。総番長になるのは覚悟のいることだったのです。生徒会長よりもずっと責任が重かった。あの紙切れを卒業した後ももっていたということは、後輩に引き継がなかった可能性があります。責任が軽くなれば、権限も軽いものにならざるを得ません。
 団塊世代の1年先輩のときにはすでに型がなくなっていました。同期の総番とは仲がよかったので、仁義の仕方を受け継いでいるかと2年生のときに訊いたことがあります。伝わっていませんでした。下級生には総番にふさわしい人材がいなかった。それで、相談して総番制度を廃止しました。A野と三人のプロジェクトだった。当事者は総番長のK泉だけですから、彼が決断しなければならなかった、男気があって偉かった。20人ほどの番長グループには総番制度の廃止に反対の勢力もありました、Kはたいへんだったはずですが、やり抜いてくれました。先輩たちを含めて人脈や複雑な事情がありました。A野は地元でずっと共産党でがんばっています。異色のトリオだったからこそなんとかなったのです。これだけで小説が一つ書けそうです。
 2年生の時に、「根室高校生は丸坊主にすべし」という校則の改正をしました。いまから見るとおかしいでしょう、でも丸坊主にしないと根室高校へ入学できなかったのです、わたしも入試直前の一月に丸坊主にしました。
 丸坊主・校則改正は2年生のわたしの発案で段取りも生徒会の先輩たちから任せてもらった。言いだしっぺのおまえがやってみろということだったのでしょう。会長のSさんも、副会長のH谷さんとF堂さんも快く賛成してくれました。ガリを切り、輪転機を回してアンケート用紙を作成し、学校側の弱みであるPTAにアンケート調査を実施、その結果を集計して、全校集会を開き、校則改正を実現。修学旅行のときには髪を伸ばして東京・京都へ行きました。3ヶ月前でした。
 勝つ段取りをちゃんとすれば、ことはそれほど難しくありません。段取り=戦略が7割、残り3割は何があってもたじろがないことです。
 わたしたちがやらずとも、校則はいずれ後輩たちが変えたでしょう。だが、総番制度だけは型が崩れたまま残してはいけないものでした。総番制度にはもともと厳しいルールがありましたが、1年先輩たちのときにはそれが崩れてしまっていました。ただのワル・グループでは、百害あって一利なし、残しておく意味がないのです。しっかり、伝統が受け継がれていたら、総番制度はいまもあったかもしれません。あれはあれで、効用もあったのです。
 副番が3人いました。二人は大学へ進学し、一人はあるテレビ局の取締役になりました、おとなしいけど目に凄みがあるんです。大学が同じだったので、東京の同窓会のあと二人だけで銀座で飲んでから、もう二十年ほど経ったような気がします。人材がそろっていて楽しかった。異色の人材が手をつなぐと思いもかけない結果が生まれます、そういうことを高校時代に経験できたのは幸せなことでした。

 ユニークな友人が何人もいるので、「勉強だけではない」というのはよくわかるんです。総番長は勉強はしませんでしたが、統率力に優れていました。でも、昔は根室高校に入学できたのは同期の三人に一人だけでしたから、入学できただけで、なかなかの成績だったのです。当時の商業科は3クラス、150人の定員で、競争率は2倍を超えていました。だから、ワルでも上位1/3に入っていないと根室高校へは入学できませんでした。わたしを東京へ誘ったのは総番のKです、彼がいなかったらいまのわたしはありません。「ebisu、一緒に東京へ行こう」、あいつのこの一言がなかったら根室から出ませんでした。高卒でそのまま勉強して地元で公認会計士くらいにはなっていたかもしれません。公認会計士が必要な会社なんて根室では根室信金ぐらいなものでした。
 一人、高校1年のときに中退して、銀座で飲食店2店のオーナーになったT木君がいます。中学時代は別の学校で、1年生の時には別のクラスでしたから、まったく面識がなく、1年足らずの在学中の記憶がありません。だから「君」をつけて書いています。でもなかなかの奴であることは、東京でKの紹介であったときにわかりました。銀座のお店はひとつは高級店でしたから一度も顔を出したことがありませんが、もうひとつのお店は数回行ったことがありました。T木は在学中は総番長になるKとつるんでいました、中学時代からのポン友だった。高校中退して、東京に出て、銀座で働き、お店を持つにはそれなりの出来事がいくつもあったでしょう。それを乗り切るパワーのある奴であることは、一目見てすぐに了解できました。家業のビリヤード店を小学校時代から高校卒業までずっと手伝っていたので、さまざまな職業の大人と接して、人を見る目が自然に磨かれたようです。
 慥かに、「学力だけではない」のです。喧嘩が強いだけでは人がついてきません、根っこに人の信用と覚悟がいるんです。三つともあったら社会人としては「鬼に金棒」でしょう。総番グループは「玉」が3割、「カス」が3割、どっちつかずが6割でした。6割には人っ子のいいのもいました。羅臼のボンボンのA部、美容師になって一時は数店舗の経営者になった温根沼のA野、副番の一人M蔵も花咲港のボンボンで人っ子のいいやつでした。
 人生の大半は高校卒業までの生き方で決まったように感じます。高校卒業までに「性根」が育ってしまうんです。その時期に曲がってしまうとなかなか直らないし、直せないものだから、若い人たちは高校卒業までにしっかりした生き方の基礎、「性根」を鍛えてください。
 どんなやつでも本気で自分を変えようと願えば変われます。たまたまその時期に性根が曲がって育っても、決してあきらめず、自分の性根をまっすぐにする努力を怠らないでください。神様がそうするように、どこかでそういうあなたの姿をあたたかく見ている人がいます。


<余談-3:根高ラグビー部創設の思い出>
 新任の村田先生が明大ラグビー部のご出身であることがわかりました。すぐに3人ほどに声をかけて、ラグビー同好会結成を持ちかけました。必要な人数をそろえられそうなので、村田先生に顧問になっていただけるか伺いました。人数はそろいそうです、規則があり、いきなりクラブにはできないので、1年間同好会として活動してもらえば翌年には責任を持ってクラブへ昇格させますと約束して引き受けていただきました。明大ラグビー部のトレーニングメニューを持ち込んでいただいたので、すぐに強豪校の一角である中標津高校に勝てるようになりました。翌年、約束どおりにクラブへ昇格の約束を果たしました。
 当時の生徒会会計は国で言うと大蔵大臣のような存在で、権限が大きかったのです。もちろん仕事の責任も大きかった。予算・決算の両方を単独でやっていました。手書きで帳簿をつけていたのです。2年先輩の女性が作成した帳簿は、字が実に丁寧できれいでしたから、わたしの字は恥ずかしかった。N野先輩の字があまり上手ではなかったので、ほっとした記憶があります。
 クラブ活動の予算は2年生のときから、先輩の生徒会会計のN野さんに「おんちゃ、やれ!」と任されて、各部の部長と副部長を生徒会室へ呼び、予算額を決めていました。予算と決算は会計が単独でやらなければならない仕事だったのです。学校祭や文化祭の支払い関係も、生徒会担当の先生と二人で各商店を回ってやっていました。
 この各部の責任者との予算交渉は企業人として働くようになったときに、全社予算編成作業にそのまま使えました。30億円の売上規模でも300億円の売上規模でもスタンスは同じでした。輸入商社へ中途入社したときにも、SRLへ東証Ⅱ部上場準備要員として中途入社したときにも、半年経ったら全社予算編成を任されていました。すべては根室高校生徒会会計のときに基礎ができていたのです。予算編成を任せてくれた先輩のN野さんに感謝です。公認会計士志望だったN野さんは大学の学部も一緒で、たくさんお世話になりました。先生にも、いい先輩たちにも恵まれていました。

<余談:3年G組>
 高校3年生の秋に、高校を中退してゴルゴ13の斉藤タカオの一番弟子になり、「劇画家」となった神田猛、『御用牙』シリーズがヒット作だった。テレビ化もされた。
 アンダーグランドで有名になった富山加津江は漁師の娘で美術部の部長だった。
 総番長のK、副番で花咲港のボンボンのM蔵、羅臼の漁師のボンボンのA部、共産党のA野、変わった奴が多かった。ベクトルが不ぞろいだが、エネルギーだけは大きい。大きく分けて男女ともに3グループぐらいに分かれていた。それでもなんとなくまとまってしまうのである。
 加津江は大橋巨泉の「11pm」に何度か出演していた、「女傑」といっていいだろう。アンダーグラウンドの女王、渋谷に自分のビルを持っている。3年間同じクラスで仲がよかったので弥生町の彼女の家に遊びに行ったことがあった。「お汁粉食べるか?」と訊かれて、うっかり「うん、食べる」と言ったら、1階の台所に下りていって、直径40cmはあろうかという大きなお鍋からお玉で何杯か掬って、どんぶりで「はい、どうぞ」。これでは加津江が太るはずだ。漁師の家の鍋は大きい。1年生のときは教室でストーブを囲みながら、よく雑談した。A部やA野(和田村)やA野(温根沼)と話していると、そこに加津江が割り込んでくるのである。わたしの家は1階がお店で、2階が住まいだった、玄関に入って「こんにちは」と大きな声で一声かけて、わたしの部屋に上がってくるのは女の友達では加津江だけだった。
 羅臼の漁師の娘のK尻は趣味が高じて、横浜で「絵手紙」の先生をしているようだ。富士銀行へ勤めたA部さんは千葉で食堂をやっているそうだ。M保さんは道銀だったかな、その後はS学会の熱心な信者であちこち飛び回っていた、よく笑う人だった。どうしてこんなに個性的な人が集まったのだろう。扱いにくい生徒を一番端のGクラスに集めた、担任の富岡先生はさぞご迷惑だっただろう。わたしもGクラスの重要メンバーの一人だった。1年生のときの担任(現代国語と古典担当)に嫌われてF組を「追放処分」になったのだ。富岡先生が「お前の成績では元のクラスに残すことになっているのだが、...よっぽど嫌われたんだ、何やった?」(笑)
 何にもしていない、ただ、テストのときにN村先生が黒板に書いたことは一切書かなかった。自分の考えを書き通した。現代文の解釈なんて、年齢と感性が違えばいく通りもありうる。

*富山加津江の消息 ウィキペディアより 「イメージフォーラム」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%A0

 富山加津江の映画作品
http://movie.walkerplus.com/person/52266/

 「記憶のかなたへ」 ・・・加津江の写真が載っていた
http://d.hatena.ne.jp/elmikamino/20081011/1223740649


*#3390 金刀比羅神社例大祭8/11: 金棒 Aug. 11, 2016
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2016-08-11


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