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#3766 老人介護:尊厳死の定義 july 2, 2018 [37. 老人介護・医療]

 生きる権利という言葉は聞くが、死ぬ権利という言葉はあまり耳にしたことがない。死ぬ権利を行使した者たちはこの世のものではないから言う口をもたぬ。
 死ぬ権利、就中(なかんずく)どのような死を迎えるかについての選択の権利はあってしかるべきではないか、来年70歳を迎える団塊世代のわたしはこのごろかように考えるようになった。

 縁があって首都圏の300ベッド弱の特例許可老人病院を療養型基準適合病院へ建て替えるために1999年に常務理事を引き受けたことがある。その折に老人医療の現場をつぶさに観察することができたことも、死生観に影響したかもしれない。
 70歳を少し過ぎた総婦長は「縛らない看護」を実践する口うるさい人だった。5病棟を見て回り、各婦長が患者を拘束していないか、薬漬けにしていないか自らチェックを怠らなかった。楽をしたい傾向のある婦長もいるし看護師もいる、命にかかわることだから性善説では管理ができない。薬の量を増やして寝たきりにしてしまえば看護や介護は楽になる。夜勤のときもゆっくり眠れるし、手間がかからない。だがそうすると患者の死期は確実に早まる、半年は早くなるだろう。この病院では長い人は13年間の「長期滞在」というケースもあった。看護や介護が手厚ければ病院に入院していても長生きする。
 天気の良い日は歩けない人は車椅子で、歩ける人は敷地内を看護師やヘルパーさんが交代で十数人ずつ散歩させたり、ベンチに腰掛けさせて話しかけている。わたしも何度か付き合ったことがあるが、認知症の老人は5分もしないうちに話が元に戻る、3回目くらいで看護師さんが目で合図してくると、切り上げていた。まるで壊れたテープレコーダのように同じことを繰り返し話すのだが、そうやって話すことが老人の精神と体に良い影響を与える。ニコニコしながら目を見て頷き、相槌を打ち、言ったことをオウム返しに言ってあげる、たったそれだけのことでいいのだ。
 かわいそうなのは意識がもうほとんどないのに管につながれ、点滴で生きている老人である。腎臓がゆるやかに機能を停止しても心臓は動いているし、肝臓も機能している。だが腎臓が機能を停止したら尿の排泄ができない。点滴によって補給された水分は体内にとどまり、細胞は水分でパンパンになる。身体が水膨れ状態になり全身が腫れあがるようになれば3日しかもたぬ。身体が水分過剰でパンパンに腫れあがる前に、無理な点滴は患者のためにもやめてあげた方がよい。クレームが言えぬ患者だから、中には点滴の練習をしたがる研修医もいる。そういうときは潮時を見計らって各病棟の婦長がストップをかける。

 院長は「痛くない、苦しくない、怖くない」の三つの「ない」を日ごろから看護師たちに説いていた。そういう死が迎えられるように親身になって看護してあげなさいということ。「自分の親だと思ってみてあげなさい」、繰り返しそう言っていた。
 この病院では毎月誕生日を迎える看護師さんとヘルパーさんにフランス料理のフルコースの食事会を開催していた。こういう機会でもないとなかなか食べにはいけないだろうから、マナーも含めて学ぶ機会があったほうがいいとの院長の配慮だった。院長(兼理事長)と常務理事のわたしは毎回出席となる。食事中にバカ話をしてよく笑い、笑わせる院長だった。新宿のおかまバーに看護師さんたちを連れて行って遊ばせることもあった。看護師さんたちによれば、おかまバーはとっても楽しいのだそうだ。客あしらいがよいということだろう。
 人を大事にしない企業には人が集まらない時代になった。しっかりした経営哲学のない企業にも人は集まらなくなっている、いい時代かもしれぬ。

 わたしは自力で食べられなくなったら、経管栄養は不要、緩慢な餓死をしたい、そういう状態で死ぬのは自然であり、不安もなければ苦しくもないからだ。人はいつか死ぬ、そのときを穏やかに迎えられたらいい。子どもや孫に死とはどういうものか見せて死んでいきたい。人はいつか死ぬものであり、臨終の床にあるわたしを看取(みと)ってくれる人たちもいずれ死ぬのだから、穏やかな死はどういうものか見せてあげたい。死は怖くない、老いることや病からの解放なのである

<尊厳死の定義>
 死は怖くない、死は老いることや病からの解放なのだと書いて、ようやく本題にたどり着いたようだ、危うく漂流するところだ、危なっかしくてしょうがない。
 尊厳死は法律ができなければやれない、現行法の下では殺人罪になりかねないからだ。また、あまり緩い法律を作ると、悪用されかねない。老人は家族からも邪魔者扱いになる場合が往々にしてある。
 病院が近くだとしょっちゅう見舞いにいかなければいけないから、介護施設はほどほどの距離がある方が歓迎される。あまり近いと、「あの家(うち)、年寄りを施設に預けっぱなしにして見舞いにもいかない」と近所の人の口がうるさいということもある。
 老人病院へ見舞いに来る家族は多くない。預けっぱなりになるケースが多い。それだけ在宅で介護したいたときにたいへんだったのだろう。ほっとしているのである。認知症の症状が出てくればじきに徘徊が始まり、昼夜が逆転すると、家族は夜寝られない状態が続く。仕事もっていたら体力と精神が続かない、介護で疲れ果て精神が壊れてしまう人もいる。仕事との両立ができなくなれば、一人息子で独身者の場合は親の介護で仕事を辞めざるをえなくなる。在宅介護とはそれほどたいへんなのだ。
 排泄も意識がなくなり、手にうんちがついていても本人はわからなくなる。足腰の筋肉が弱るだけではない、括約筋もだめになるから肛門を締めてウンチを切ることすらできなくなる、人は老いると壊れていくものだということが実感としてわかる。介護している家族のほうが精神的に追い詰められて命を削るようなきつい状況になる。介護しているものが先に逝ったら誰が親を介護してくれる?

<失政とわが町の貧困な老人医療の現状>
 特別養護老人施設や精神病院は療養型病床の病院に比べて、看護師の配置人数がすくないから、看護や介護の手厚さが違う。薬漬けにして寝たきりにするとか、拘束するケースが往々にしてみられるのは、看護師の配置人数が少ないからだろう。入院時の病状にもよるが、療養型の病院に比べて平均すれば半年は早く亡くなっているよ。根室には療養型病床がゼロだ。2.6万人の市で老人が8000人いる、そして療養型病床ゼロである
 市立病院建て替えの時に、市立病院職員へアンケート調査を実施したが、そのときに要望が一番大きかったのは療養型病棟の設置だった。ところが長谷川市長はこれを拒否。日本には稀な療養型病床ゼロの市になってしまったのである。中標津町にだって療養型病床の石田病院がある、なんとも情けない。
 民間企業にもいる、課長職なら任せて大丈夫だが、部長職にして大きな権限を与えたとたんにマネジメントできずに次々に仕事でミスを重ね、ラインの管理職を外されるという例がめずらしくない。仕事のできない者が大きな権限を持つとことごとくポイントを外して、とりかえしのつかぬことを次々にやる。四百年に一度の根室沖大地震の危険期間に入っており、78%の確率だという。それなのに、ふるさと納税資金というあぶく銭をつかんだら、使うことばかり考えている。大地震と20mの津波が明日襲ってきても不思議ではないから、全額災害対策として積み立てるべきだ。「広報根室7月号」が回ってきたが、ふるさと納税資金の使途がずらっと並んでいる、アホの極みだ。
 9月の市長選挙には山積みの課題を崩せる人材が立候補してもらいたい。
 ●花咲線廃止問題
 ●市立根室病院の年間17億円の赤字問題
 ●400年に一度の災害対策
 ●地元企業の経営改善による人口減少の緩和
 自分が儲けることのみ考え、経営哲学のない企業はダメだ。もちろんもうからない企業もダメ。
 根室市が取り組むべき大きな課題として以上4項目を挙げておく。


 ところで話の本題は尊厳死の定義であった。法律を作る場合に定義が問題になる。大辞林第3版から定義を紹介したい。

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尊厳死:助かる見込みのまったくないままに長期間にわたって植物状態が続いたり、激しい苦痛に悩まされ続けている患者に対し、生命維持装置などによる人為的な延命を中止し、、人間としての尊厳を維持したまま死を迎えさせること。
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 わたしは、「自力で食事が摂れなくなった場合」を付け加えたい。死ぬべき時が来たら死ぬのは自然なこと、胃瘻(いろう=胃に穴をあけて管を通し直接食べ物を注入する)や経管栄養補給は御免こうむりたい。それで再び元気になって歩いて回れるわけではないのだから。昔からそういう状態になれば、穏やかに息を引き取ってきたのだ。胃瘻なんて手段はたかだか最近20年くらいだろう。

*#3674 カラスの死と介護疲れで起きる尊属殺人のニュース価値
https://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2018-06-30

 
 #3675 尊厳死について議論しよう June 30, 2018
https://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2018-06-30-1


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tsuguo-kodera

 尊厳死とは難しいテーマですね。食べられなくなったら、直る可能性が無くなれば、延命治療は止めるように申請書を書いてあります。病院でも書きました。
 加えて、私は安楽死の選択が可能な国になって欲しい。自分の命を選択するのは自殺ではないと私は考えています。
 昔の偉い坊さんは幸せとはと尋ねられ、早く死ぬことと答えたのでは。死ぬのは怖いがどうせ一度は死ぬのだから、今死ぬと自分で決めて安楽死したいものです。  このように私達夫婦はいつも言っていますので、妻も子供たちも、私の願望を理解しているはずです。
 この間も、私はせっかちですので、おさらばしたいとお願いしました。でも、弘法大師様に追い返されました。本当です。
 なお、追い返された原因の、阿保2人はまだアホの状態。また大病しても、追い返されそうで参ります。南無大師金剛遍照。
by tsuguo-kodera (2018-07-02 20:33) 

ebisu

koderaさん

「申請書」までお書きになったのですか。
わたしたちの世代は同じことを考えているようですね。
老人が死期が近づき、食べられなくなったら積極的な治療をしないでそのまま死なせてもらうというのは、自然死ですから、自殺ではないと考えています。
体に毒を注入して安楽死というのは、わたしの耳にはちっとも「安楽」には聞こえないのです。(笑)

自然に近い状態で死なせてもらいたいと願う人が多ければ、それを可能にする法律を整備してもらいたい、選挙の表になるのだから国会議員の皆さんどうか協力してください。

尊厳死を取り上げたら、やはり安楽死も取り上げなければいけませんね。

わたしたち団塊世代の3人に一人が尊厳死を希望して、希望通りの死に方を選択できたら、医療費は年額どれくらい浮いてくるのでしょう?前提条件を置いて計算してみたくなります。
by ebisu (2018-07-02 23:49) 

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