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#3662 NHK朝までドキュメント72時間:岩田先生 Dec. 16, 2017 [21. 北方領土]

<更新情報>
17日朝10:15 追記 術場(手術室)の看護師さん他

 NHKで表記の番組が12/15午後10時50分から25分間放送された。西浜町のタイエー(地元のコンビニ)の72時間だ。おにぎりを買った90歳の老人がこれから車を運転して中標津へ戻る、いとこの葬儀に来たとレポーターに応えた。

 16日からの72時間だから、日付から考えて岩田宏一さんの葬儀に参列されたのだろう。いとこだからお顔が似ていらっしゃった。
 2日前の14日の午前中に電話してから岩田さんのお宅を訪問し、お線香をあげてきた。四七日(よなぬか:亡くなって28日目)のお経をあげにお坊さんが来て、帰ったところだった。

 7月2日にニホロで北方領土関係の後援会があり、択捉島蘂取村出身の講師の山本昭平さんと、岩田宏一先生と、叔母とわたしの4人で会場で写真を撮った。昭平さんのことは母から何度も聞いていたので、一度お会いして話がしたかった、念願がかなったのである。叔母の車で送ってもらったのだが、岩田先生が車から降りたときに、「退屈してるから話しにおいで」と誘われた、お元気だったからそのうちに伺おうと思っていた。わたしを含めて、周りのだれもがこんなに早く逝ってしまわれるとは思わなかっただろう。
 スキルス胃癌と巨大胃癌の併発で、手遅れだったわたしが死なずに術後11年が過ぎた。初診の内視鏡検査で癌の診断をつけてくれた岡田医院は岩田先生のお宅から1分の距離。お父さん先生に大腸癌でオヤジがお世話になり、若先生にわたしが胃癌でお世話になった、いやいまもお世話になり続けている。 (現在は音更町で開業され、「東木野クリニック」の院長の)後藤幹弘先生が釧路医師会病院の勤務医で執刀担当医だった。FBでアップされている写真を見ても今でも十分若いのだが、あのころは35歳くらいのピッカピカの若き外科医。進行性の癌でしかも併発、「わたし失敗しませんから」とは言わなかった。それどころか「開いてみないとわからないので、状態によっては、胃と胆嚢だけでなく膵臓をそして脾臓も…」「肝臓も怪しいのでCTではどっちとも判別できないので開いたときに手で触って感触で確認します」と微に入り細にわたる具体的な説明をしながら、同意書に判を押すように促された、初夏の正午の木陰の芝生の上でくつろいでいるような雰囲気で聞いていたのを覚えている。入院して3週間、自覚症状から診て必ずスキルスがあるはずだからと訴えたので、消化器内科医の副院長富田先生が丁寧に様々な検査を繰り返してくれた。そういう過程があり、巨大胃癌とスキルスの併発という内科的診断が確定した。助からない際まで来てしまっているというのに、ああ、手術してもらえるんだとなんだか妙に明るい気分だった。膵臓は胃の裏側だから、横の裏側に近い部分にスキルスが粘膜の中を走っていたから、膵臓にすでに浸潤している可能性があった。案の定、開いたら手遅れ状態で、後藤先生の手が一瞬止まり、あきらめて縫合しようとした、その一瞬の隙をベテラン外科医のA院長が「ざっくり取ったらいい」と促してくれて、手術は続行することになった。若い外科医はたくさん切らなきゃ腕をあげることができない。ダメでもともと、切ってよいのである。覚悟はしていた。この若い外科医なら腕を上げるためにわたしの体を使ってくれていい、そう思えたのだ。だから、不安はなかった、ただありがたくて手術室へ運ばれたときに涙がこぼれた。うれしかったのだ、術場の看護師さんは涙の意味を理解してくれただろう。偶然とはあるもので、術後1年くらいしたときに検査で釧路医師会病院へ行ったときに、外来カウンターにいた。名前と顔を確認して、「ebisuさんの手術を担当した看護師です」と名乗ってくれた。「会って、直接お礼が言いたかった、ずっとそう思っていました、あの時はありがとうございます、おかげさまで生きています。ほかのお二人にもよろしくお伝えください」、そういうことができた。思いがかなった瞬間だった。30歳前後の美人な看護師さんだった。
 癌は進行していたので、リンパ節に転移し、大腸へも浸潤していたから、横行結腸も10㎝ほど切除した。予定の倍の6時間の手術だった。出血量は700cc、輸血なし。技術の進歩はすばらしい。
 助かるはずのないebisuが助かり、末期じゃなかった岩田先生がお亡くなりになる、なんだか申し訳ない思いもした。いろいろな人たちがその仕事を通じて私を助けてくれた。そういう命を世のため古里のため、人のためにすこしでも使えたらうれしい。

 光陽堂で写真をプリントして持参した。祭壇に遺影が飾られていたのでお線香をあげて、「(伺うのが)遅くなりました、ご存命のうちにゆっくりお話ししたかった、逝くのが早すぎます」と話しかけた。
 7月20日に市立病院へ入院したのだそうだ。その後手術をされたが、予後が悪くてお亡くなりになった。人間の死はいつ訪れるかわからないものだ。
 わたしは岩田先生には一度も習ったことはないが、独身時代に裏庭に面した隣の家に下宿していたことがあったので、知っていた。ご結婚をされてからも、梅ヶ枝町3丁目にあった家から岩田先生が住んでいる家が見えた、100mほの距離だった。星野薬局(現ホシノホール)の向かい側、木村生花店の斜め向かい花咲街道沿いの四つ角のところにお住まいだった。
 ebisuの自宅(兼店舗)は梅ヶ枝町三丁目にあった。根室で一番最初に信号のついた交差点から紹介すると、幼稚園に行く前から仲よく遊んだやっこちゃんの「緑菓子店」、お菓子の問屋の「第一商事」、そして根室で一番の老舗時計店であった「奥田時計店」、そしてebisuの家のビリヤード店と根室初の居酒屋「酒悦」(のちに焼き肉店)があった。その隣には明光商事、広小路の道路を隔てて緑町三丁目の根室印刷という配置である。花屋さんのケイコちゃん家は根室印刷の隣だった。魚屋「魚茂」の女将さんになっているマーちゃんも道路の向かい側に住んでいて一緒によく遊んだ、おとなしい子だった。洋服店のおてんば娘ユッコも遊び仲間。NTTのところが空き地になっていて、5~10人くらいでよく遊んだ。缶蹴り、ケンパ、ドッジボール、小学生のうちは男女の体力差が小さいから、一緒に遊べたのである。よく遊んでよく動いた。お店を開ける前に早めの夕食をすませると、そのあとはビリヤード店で新聞を読み、お客さんの相手をしていた。様々な職業の大人が入れ代わり立ち代わりゲームに興じる。ゲームは人の本性をあらわにするから、人間を見る目が自然に養われた。ゲームのやり方を見れば、仕事の程度が想像がつくようになった。

 北海道銀行のところが半分くらい空き地になっていて、そこが子どもたちの格好の遊び場だった。平屋のNTTの建物があり、女性の電話交換手が並んで座って仕事していた。昔はハンドルをぐるぐる回して交換手を呼び出し、番号を告げて電話をつないでもらった。家に電話がついたのは小学生の終わりごろのこと。冷凍冷蔵庫も小学5年生のころに初めて購入した。まだ製氷所から氷を買って木製の冷蔵庫にいれて保冷剤として使っているというのが主流だった時代のこと、昭和30年代の中頃の話だ。お店で使っていたから冷凍冷蔵庫があったが、当時は一般家庭で冷凍冷蔵庫のあるうちはほとんどなかった。テレビがついたのは小学6年生のころ。電波状況が悪くて画像は大きな雪が降っているように見づらかったが、食い入るように見た。当時、「チロリン村とクルミの木」という人気番組があった、並みをちゃぷちゃぷかき分けて♪ ひょうたん島はどこへいく♪、あの「ひょっこりひょうたん島」はそのあとの人形劇の人気番組である。レスリングも全盛時代で力道山が活躍していた。

 物心ついたころからのご近所さんの幼馴染だから、それぞれの家には勝手に出入りしていた。親たちがそういうことを認めていた。人のお家にお邪魔するときは、脱いだ靴をそろえて上がり、ちゃんと正座してから両手をついて、「こんにちは」と挨拶するのが決まりだった。帰る時もちゃんと挨拶する。幼馴染だから、ちゃん付けして名前で呼び合った。わたしも名前にちゃんを付けて呼ばれていた。なぜかユッコだけがちゃんなしだったのは、おてんばだったからかな。
 ヤッコちゃんはもう10年ほども前に乳癌で亡くなった。一度ゆっくり昔が話したかった。中学生になってからは一度も話したことがなかったのである。ヤッコちゃんのお父さんはビリヤード店の常連で、わたしとよくゲームして遊んでくれた。男の子がいなかったからだろう。歯医者の田塚先生もよく遊んでくれた。同級生のケイコちゃんより一つ上の美人のお姉さんがいた。田塚先生もやはり男の子がいなかったからかまってくれたのだろう。長身の紳士だった。歯医者の福井先生は3代のお付き合いである。先代は時代小説も現代小説も書ける文人だった。根室新聞に連載していた。
 いろいろ書いたが、ebisuと同じ歳ごろの子供は近所に女の子しかいなかったのである。緑菓子店の向かいは根室信金本店だから、根室にお住いのみなさんはどこにだれが住んでいたか、容易に想像できるに違いない。

 閑話休題、姉とワイフが花咲小学校で岩田先生が担任だった。だから先生はebisuの姉、ついでワイフと連続して担任を受けもたれたわけだ。
 ebisuの母親が択捉島蘂取村の出身で、岩田宏一さんとは同郷、小さな村だから、ebisuの母親が近所のお姉さん、お転婆な千歳の叔母とは同級生、楽しい話をたくさん知っている。千歳の叔母は話し上手でとっても面白おかしく話してくれた。笑い転げて茶の間のガラス戸にお尻をぶつけて割ったことがあった。癌で亡くなってからもう10年くらいにもなる。択捉島へは一度も行けなかった。一人娘のいとこが遺灰を一つまみ身に着けて、択捉島の見える海か、島へ上陸してそっと撒いてきたいと言っている。60年近く前に、根室に来た時に、本町の石の突堤の近辺で、海に入り、ここにもあ、またここにもウニがいると足で探りながら夢中で獲って、石でたたいて割って塩水でさっと洗い、シュルっと食べて歓声を上げていたのを思い出した。蘂取の海岸でもあんな風にしていたのだろうか?大きな声で全身で喜びを表すな陽気な叔母だった。

 お線香をあげた後で、奥さんと話した。択捉島の蘂取村の関係だから、いきなり「てっちゃんと同級生」だと聞いてびっくり。苗字を言わなくてわかると思ったのか、話の勢いで名前が出たのかわからない、てっちゃんとは13歳離れているが、まだオムツが取れないころから数年間一緒に暮らしていた時期があるので、気分的に兄弟のような気持ちがある。急に岩田先生の奥さんが身近に思えて話し込んだ。「語り部おばさん」をしている叔母は、血縁上は叔母なのだが、歳が10歳しか離れていないので、お姉さんだ。姉と妹はいまでも彼女の名前にお姉ちゃんをつけて呼ぶ、旦那さんのほうも「〇〇お兄ちゃん」と呼んでいる。
 幼いころからの名前の呼び方には、その音の響きの中に懐かしい思い出がふんわりと浮かび上がって、包んでくれるような心地がする。80歳になった「てっちゃん」も、78歳の「サキコお姉ちゃん」も「タカオおにいちゃん」も心の琴線に触れる懐かしい響きがある。

 岩田先生の奥様は中学時代の副担任の半田(旧姓大岩)トモコ先生もご存じだった、親同士が同じお米屋さんでお店は150mくらいしか離れていなかった。田舎は人間のつながりが密だ。だから、ものが言えなくなるのかもしれない。正論を主張すれば、親戚知人のだれかを批判するか、周りの人が迷惑することになる。
 ものはついでだから、お米の配給制度について若い人たちは経験がないだろうから言及しておこう。戦後二十年以上の間、お米は配給制で「米穀通帳」という配給手帳がないと買えなかったから、お米屋さんは軒数が多かった。ebisuは根室高校を卒業して東京へ移り住んだ時に米穀通帳がなくてお米を売ってもらえず、慌てて根室から取り寄せたことがあった。信金と花咲街道を隔てた向かい側にあったお米屋さんの娘だった半田トモコ先生は数年前に癌で亡くなった。半田トモコ先生も近所のお姉さんだったのである。中3の時に新卒で赴任してきたから、8歳上だろう。お昼少し前にヤママンへパンを買いに行くとよくお会いした。「ebisu君とは癌仲間だね、わたしは薬をやめて自然食療法に切り替えた、ebisu君も頑張って」と何度も励まされたが、昨年だったか、先に逝ってしまわれた。薬をやめたのは抗癌剤の副作用がきつかったのだろうか。担任だった「肝っ玉おっかさん」の山本幸子先生はさらに数年前に亡くなった。根室へ戻ってきて挨拶に行ったときはずいぶん喜んでくれた。いくつになっても恩師はありがたいもの。小学校で5・6年の担任だった鶴木先生は今年お亡くなりになった。高校の担任の冨岡良夫先生は昨年東京のご自宅で亡くなった。根室へ帰ってきてから15年目だが、その間に知っている先生たちが相次いでお亡くなりになった。
 奥様からは「ときどき遊びにおいで、奥さんも一緒に」と優しい言葉をかけていただいた。ワイフの担任だったことを岩田先生は奥様に話していたのだろうと、そのときに感じた。
 一人、また一人、さみしい気はするが、向こうへ行ったときには大勢でお迎えしてくれるだろうから、よしとしよう。
 でも、まだお迎えはいらないから、みなさんよろしくそちらでにぎやかにやっていてほしい。
 摩訶般若波羅蜜多心経 観自在菩薩行深般若波羅蜜多事 … 諳(そら)んじていたお経も書けなくなった。
 やるべきことがすんだら、じたばたせずにそちらへ逝きます。恩師の皆様、いつかまたお目にかかりますので、その時はよろしくお仲間に加えてください。

 合掌  m(_ _)m



*#3475 ロシアに対抗して根室にダミーのミサイルを設置しよう Dec. 5, 2016
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 #3304 補助金もらって寝て待つ2島返還論:楽するとろくなことがない  May 28, 2016
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*#195「少し過激な北方領土返還論」MIRV(多核弾道ミサイル)開発・組み立て・解体ショー
ロシアをぎゃふんといわせ北方領土を返還させるための具体論
 
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 #465「"Japan sent uranium to U.S. in secret"は北方領土返還運動の好機か?」
 
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  #1401「ロシアがフランスから新型軍艦を購入し北方領土へ配備、対抗措置はあるか」
 
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 #1892 映画「マーガレット・サッチャー」と北方領土 Apr. 6, 2012 
 
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 #2053 マーガレット・サッチャーと領土問題(2) : 北方領土・竹島・尖閣列島 Aug. 14, 2012
 
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