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#3564 セルツェ(心)ー遥かなるエトロフを抱いてー July 2, 2017 [21. 北方領土]

更新情報
 7月4日夜 <余談-4>追記
 7月5日朝 <余談-5>追記

  7月2日13時から道立北方四島交流センターで標記講演会が行われた。これは北方領土遺産発掘・継承事業講演会として行われたものである。「語り部」は択捉島蘂取(しべとろ)村出身の山本昭平氏(89歳)。
  同名のノンフィクション(昭平さんの家に寄宿した軍医との心の交流が描かれた)小説が北海道新聞夕刊に連載中で、最新の6月30日が67回目、7月で連載が終了するという。ビザなし交流で同じ船に同乗したロシア語通訳の不破理恵さんが昭平さんの話を聞いて資料として残すべきだと思ったのが、この連載小説のきっかけである。最初の内は小説になるとは思わなかったそうだ。十年をかけて不破さんは埼玉県に住む昭平さんを訪ねて取材した。不破さんの話ではあの小説は昭平さんが話したままをテープ起こしを中心にして書き上げたという。本は不破さんの自費出版。
 昭平さんは記憶の良い人のようだがなにぶん古い昔のことなので、記憶の糸を手繰るのがたいへんだっただろう。本の出版に関しては次の弊ブログで取り上げた。
*#3500 北方領土の日 Ferb. 7, 2017
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2017-02-07 

  根室空襲前後の話から始まり、ソ連が進駐してきたときの実話、そして1947年7月にトッカリ湾から引揚げ船が出ていくときの状況までが話された。飼い犬が一頭海に飛び込むと、次々に6-7頭があとを追ったという。そのあたりの事情は十数年前にジャパンタイムズが山本昭平さんに取材した記事が載ったので、時事英語授業で使ったので覚えている。叔母に記事をあげたら、翻訳してほしいというのでWORDで作成したから、古いパソコンのどこかにあるだろう。

  講演会が終わった後で、運よく昭平さんがこちらのほうへ歩いて来てわたしの近くにいた人と話し終え、視線が合ったので一歩前へ出て、右手を差し出しながら「サダコの長男です、母に話を聞いていたのでお会いしたかった」と挨拶した。とてもびっくりしていた。そこへ11歳年上の叔母と岩田宏一氏(元花咲小学校長)が来た。叔母が岩田先生に「サダコお姉さんの長男」だと紹介してくれた、56年ぶりにお会いした。昭和20年は昭平さんは17歳、叔母は7歳である。岩田先生は友子叔母と同学年だったはずだから昭平さんと同じくらいだろうか。東京大空襲で大学は授業ができない状況だったので、昭平さんは大学進学をあきらめてエトロフ島へ帰るために根室で船の出港を待っていたのである。

  末っ子の叔母にとっては14歳離れたお姉さんがわたしの母「サダコお姉さん」であるが、岩田先生にとっても昭平さんとっても「お姉さん」のようなもの。
(ここでは血縁関係を正しく表すために「叔母」と書くが、一度も「おばさん」とは呼んだことがない。小学生のころから名前を冠して「○○お姉さん」と呼んでいたから、向こうも「おばさん」の意識は薄いだろう。)

  山本さんは択捉行きの船にお父さんと妹さんと三人で乗船した。制海権を奪われていたので船は夜中に出港するのが常になっていた。ところがその夜は軍の命令で出港を止められ、港を出て弁天島の横で停船していた。そこへ根室空襲が起きた。シュッという音でロケット弾が発射され十畳ほどの2等船室を直撃し、そこにいた十数人で生き残ったのは、昭平さんと妹の徳恵さんの二人だけ。その後バリバリとすごい轟音とともに船は機銃掃射を何度も受けた。周回してきて撃つから、どの方向から狙ってくるのか弾痕の入り口と出口から、方向と角度が計算できたという。機銃弾が防げるはずもないと思うが、畳を持ち上げて弾除けにしたという。助かってから見ると、船はマストを海上に残して沈んでいた。弁天島のすぐ近くだったから、浅かったのだろう。
  根室空襲は港を中心として扇形に焼夷弾を落とし、逃げ道をふさいでから、扇の中に取り残された住民を機銃掃射したり、焼夷弾を落として焼き払った。東京空襲と同じ方式である。日本全国の都市が米軍の空襲に見舞われたが、戦意をくじくために市民を多数殺すことを目的としていた。
  母はハッタリ方面、ホロムシリまで逃げたという。働いているところの息子の手を引いて「扇の外」へ逃げたのはなんの偶然だったのだろう。内側に逃げた人たちのほとんどが焼き殺された。母は何も持ち出せなかったそうだ。空襲の翌日に戻ってくるとけが人や黒焦げの死体だらけ。けが人を病院に運んだり、処理しきれないので弥生町の海岸までリヤカーに死体を積んで海に流すのを手伝ったという。出稼ぎの人たちも多かったので、死者数は判然としない。一説には五百人ともいう。小学生のころ弥生町の浜で遊ぶと小石や砂に交じって手の甲のような白い細い骨があった。大人になって母親から根室空襲の話を聞いてなるほどと思った。
 昭平さんと妹の徳恵さんは沈没する船からばらばらに脱出したが、船が弁天島のすぐ沖に停泊していたので助かったという。昭平さんは足を撃ち抜かれていることに、停泊していた別の船へ泳ぎ着くまでわからなかったという。大混乱の中では自分の足の大けがにすら気が付かない、戦争の現実だ。

  昭平さんの妹の徳恵さんが「さだちゃんがわたしの名前を呼ぶ声を聞いた」という。空襲の後の混乱の中でどこかですれ違ったようだ。

  軍医が蘂取村に着くと、寝泊りするところがないので、広い山本家へ寄宿の申し入れがあった。お父さんを空襲で亡くした昭平さんは17歳で家の主となっており、母親と弟と2人の姉妹だから軍医を迎え入れたほうが安全だと判断して受け入れたのだという。
  山本家というのは択捉島蘂取村の裕福な商家だった。季節ごとに東京三越や高島屋のカタログが来て、洋服などほしいものがあればそれで注文すると船便で品物が届く、戦争が始まってしばらくは砂糖にも不足したことがなかったという。択捉島は根室の三倍の漁があり、漁業権をもった漁師たちが裕福だったから、物の買い方も豪勢だった。
  昭平さんのお父さんは根室商業卒業ということを今回知った。昭平さんのおじいさんの長兄である山本忠令氏は黒田清隆の副官である。当時の村長や町長人事は北海道開拓庁で任命していた。昭平さんのおじいさんが根室町長に交渉事があって面会に出向いたときの面白い話があるが一度書いた。町長にけんもほろろに扱われたおじいさんはカンカンに怒りそのまま札幌まで汽車でいった。戻ってきたときには町長へ開拓庁から電報が届いており、助役など町役場の幹部が駅の改札口に並んで出迎えたという。お袋が昭平さんのおじいさんから直接聞いた話だ。あの時代は町長は公選ではないから北海道開拓庁の意向次第で首が飛ぶ。

  山本家には蓄音機があったしラジオもあった。お父さんの勝四郎さんは写真が好きで、蛇腹の旧式のカメラで撮った写真が残されている。ピントも現像もしっかりしている、腕はプロ。写真には「k.Yamamoto」と刻印してあるので、誰が撮影したかわかる珍しいもの。わたしも高校時代、現像道具一式を持っていたのでモノクロ写真の引き伸ばし経験があるが、昭平さんのお父さんの残した写真はプロの技術だということがよくわかる。道具一式をもって現像液や定着液や印画紙を手に入れて写真を残しているころからも、文化的な水準の高さと裕福さがわかる。エトロフ島に不時着したリンドバーグ夫妻の写真や報知新聞が講演した太平洋横断飛行機(1931年)の写真もあった。エンジンの不調で紗那に降りたのでその時に撮った写真だ。そういうわけで山本家は択捉島蘂取村でも特別の存在だったようだ。
 (トッカリ湾から船に乗った後、樺太へ送られて、そこでしばらく足止めを食らう。そこでずいぶん悲惨な話がある。昭平さんの弟や引揚げ者数名の方がビデオで述べている。千島歯舞居住者連盟のホームページを検索すれば何人もの人の証言を聞くことができる。)

  択捉は根室の三倍の漁があったので、出稼ぎ漁師の間では「宝島」と形容されていた。戦前のエトロフ漁業はとっても豊かだったのである。
  ソ連進駐後の生活はソ連軍のドクターが居候していた山本家と他の蘂取村民とは生活実感にだいぶ隔たりがあるようだ。昭平さんは、根室商業ではなくて、大学進学のために旭川の旧制中学へ進学していた。現在の旭川東高校である。

  お袋から何度も話を聞いていたので、昭平さんには一度会いたいと思っていたが、今回それがかなってうれしい。叔母が昭平さんを入れて四人で写真を撮ろうというので撮ってもらった。叔母は新聞社の人に撮影をお願いした。北方領土返還運動関係で知っている人なのだろう。
 叔母はこの数年ロシア語の勉強に余念がない。近々また国後島と択捉島に行きロシア語で交流するという。アニメになった「ジョバンニの島」の得能さんや軍医との心の交流があった昭平さん、こういう話がいまの日本の北方領土政策にとって都合がいいのだろう。
  実際の当時の住民感情の代表例とは言えないかもしれない。連盟ホームページにある引揚げ者の証言ビデオを見たらもっともっと厳しい現実のあったことがわかる。

 長谷川根室市長が経済交流・調査を目的とした渡航リストから外されて島へ行けなかったと、最近テレビや新聞報道がなされた。根室市議会は抗議の声明を公表している。
  ロシアはもう領土返還の話などする気はないからだろう。領土問題は棚上げして、国後島や択捉島、そして東シベリアの経済開発に協力するという合意が、日本政府とロシア政府の間にできているような気がする。外務省は長谷川市長の渡航拒否の理由を明らかにしていない。明らかにしたら不都合な真実が明るみに出るからだろう。二島返還だと騒いでいた安倍首相と外務省、あれは何だったのか。
  不都合な真実には口をつぐむ政府と外務省、そして簡単にだまされ続ける北方領土関係団体、人が好過ぎはしませんか?


< 余談 >
 お袋の兄は満州で国境警備の任に当たっていたが、ソ連軍が侵攻してきたときに戦って戦死している。満州の荒野に一本だけある木の根方に埋められている。初夫というが、その人にわたしが似ているそうで、初夫さんを知っている何人かの人によく言われた。六尺(180cm)近い身長で運動能力の高い人だったそうだ。母は漁師の長女である。権利は叔父貴が引き継いで記録があるようだ。戦争がなければ、蘂取村で家業を引き継いで漁師をしていたことだろう。秋になると川にはシャケがいっぱいで、竹竿が立つほどだという。
  お袋がオヤジと結婚を決めたのは、落下傘部隊だったオヤジが降下訓練で右腕複雑骨折をして戦後しばらくの間は右腕を挙げることができなくて、食事をするときには口を腕のほうにもっていって食べていたからだと聞いた。兄が戦死しているので、戦争でケガをした兵隊さんの役に立ちたいと思ったという。兄の初夫が満州で戦死しなければオヤジとの結婚はなかっただろうし、わたしも生まれていない。
  運命の糸は複雑だ、戦争は何もかも変えてしまう。

< 余談-2 >
  母は霊感の強い人だった。知人が亡くなるとすぐにわかる人だった。亡くなると会いに来るのである。映像としてはっきりと見える場合と気配がする場合と2種類に分かれる。そんなときはそっとお酒を窓際に置いたりする。そういう母親を知るわたしは、根室空襲の際に唯一の脱出口だったハッタリ方面へ避難したのは単なる偶然とは思えない。
  寅年生まれの叔母トクさんが姉妹の中で一番霊感が強かった。父親が亡くなる1か月前から泣いているのである。病気の父親だけでなく、元気だった母さんもすぐに死ぬと一月前から泣いているような子供だった。実際に父親が亡くなって1週間後に母親が死んだ。都合の悪いことに、よいことも悪いことも自分の意思とは関係なく、ときどき未来が見えてしまう。自分のことだけでなく他人様のことも見えてしまう。

  高校生の時に同級生の柔道部員のN西君が腎臓病で亡くなった。同じ部活で仲が好かった。釧路の病院で治療を受けていて7月に戻ってきていて鳴海公園近くの道路ですれ違い「おー、治ったのか?」と聞いたら笑ってうなずいたので「よかったな」と声をかけた、それから数日後に亡くなった。人工透析のない時代だったから治療法がなく手の施しようもなく戻ってきていたのである。二階が住まいになっていたので、夕方6時近くにゴーという音がして敷布のような白いものが窓のすぐ近くを飛んでいくのが見えたので、窓を開けて見たが何もない。窓は縦に曲面が走っているガラスだった。近くに座っていたトク叔母に「みた?」と訊ねたら、「見た」と言った。叔母は気味悪がられるので見えたことを言わないようにしていた。わたしに関わりのある誰かが亡くなったことを見抜いていたのだろうが、トク叔母は「見た」としか言わなかった。ちょうどその時間にN西君が亡くなってた。そのことを知ったのは翌々日に入った死亡通知の折り込み広告を見たときである。わたしのアンテナは鈍感なようで、それ以来一度もそうした経験がない。自分の未来ももちろん見えないことはじつにありがたい。
  霊感が強すぎることはその人の人生に暗い影を投げることになる場合がある。未来が見えないからこそ希望をもって生きることができるとわたしには思える。母の母、わたしのおばあさんが霊感の強い人で、若いころにお坊さんから成田山新勝寺での修行を勧められたという。女系に霊感の強い者が出る事実から、どうやら「霊感遺伝子」は女系で伝わっているようだ。姉にはたまにはっきり映像として見えてしまうことがある。アンテナの感度が標準よりも高いのだろう。面白いこともあるが、そうではないこともあるから、本人にとっては迷惑な話だ。


<余談-3 :昭平さんとわたしの母親サダコ>
  わたしの母親が餌取不蘂取村の漁師の娘であることはすでに書いた。父親は青森の腕のよいヤンシュウ(出稼ぎ漁師)だった。漁場の権利を持っていたばあさん(もちろん当時は若かった)と一緒になって一男一女が生まれるが、青森の両親の具合が悪くなり、農業の手伝いが必要で1年ほど戻っていた。その間に、ばあさんは再婚させられたのである。蘂取村の漁業のボスはKさんというアイヌ人だった。よそ者に資源が漁業権がわたるのを嫌い、籍を入れることができなかった。そして爺さんが青森に戻っていた間に再婚させられたという。エトロフの前浜の漁業権は大きな財産だった。その後に女の子が4人、男が一人生まれた。サダコとは異父姉妹弟である。長男と長女は新しく来た父親とはそりが合わなかった。まだ幼かった長男の初夫が新しい父親によく殴られていたそうだ。そういう光景を目にしているからサダコの心が新しい父親になじむはずがない。そういう事情を斟酌して、ばあさんはサダコを商家の山本家に行儀見習いに出した。そうしてサダコは山本家で東京標準語と行儀作法を身に着けた。同じ家で暮らしたから、山本家の子どもたちは弟や妹のようなものだった。
 40歳のころに(ebisuの)オヤジが大腸癌になり2度目の手術の後根室へ帰郷した折に、お袋が市役所に用事があって電話するのをそばで耳にしたことがあった。実に見事な電話で、全国コンクールでも優勝を争えるくらいの水準であることにその時気が付いた。SRL八王子ラボに勤務していた時に、取引先のオリンパス宇津木台研究所を見学したくて職権を利用して電話で依頼したことがあった。そのとき電話に出た女性社員の応対が見事だった。オリンパス宇津木台研究所は電話応対のNTT全国コンクールでそのころ優勝したことがある会社だった。それと比べてお袋の電話の掛け方が遜色なかったのである。オフイッシャルな場ではスイッチを切り替えたように、お作法通り上品にふるまえる人だった。それは山本家にいた数年間のお陰だろう。母親の一生の財産となっていたと思える。暇な折には山本家にある本を読ませてもらい、介護が必要になったおじいさんの世話をしたという。母はよく本を読む人だった。黒田清隆の副官だった山本忠令の弟だったお爺さんには可愛がられたようで、村長を決めるときの話などお爺さんを通して当時の村内の事情をよく知っていた。
  母はオヤジと結婚してから中学生の従弟を数年間引き取ったことがある。親戚のおばさんが再婚してその従弟は新しい父親になじめなかった。そして蘂取村で自分の兄にあったのと似たようなことが起きていた。見ていられなかったのだろう。姉も妹も一時期一緒に暮らしたその人を「お兄さん」のように思っている。体の弱かったトク叔母は仕事を変わる都度数か月間根室に滞在した。トモ叔母も1か月ほど滞在することが何度かあった。釧路のばあさん(オヤジの母親)を1年間ほど引き取っていたことがある。根室高校野球部キャプテンで総番長であった5歳上の親戚も、事情があって高校卒業後1年間ほど一緒に暮らした。総番長に代々伝わる「仁義の口上」をやって見せてくれた。根室高校生がヤクザともめ事があったら、総番長が出て行って話をつけないといけない、そのときに必要だというのである。口上を間違えたらその場で殺されても文句は言えない。小さく折りたたんだ口上書を手渡されたが残っていない。腰をかがめて右手を前に出し、左手を後ろに回して「お控えなすって、さっそくお控えなさって下さってありがとうさんにござんす。手前生国発しますところ…」というあれである。総番長には責任が伴っていた。お祭りのときには目つきが鋭くてトッポイ高校生が5-6人一歩後ろをついて歩いていた。そのころは気の優しい彼が総番長だとは知らなかった。あとで確認したが、わたしの前の代にもわたしの友人の総番長にも仁義の口上は伝わっていなかった。総番長にはすでに肩書に伴う責任がなくなっていた。そこが総番制度を終わらせるわたしの動機だったかもしれない。2年生になった時にクラス替えになり総番長のヒロシと同じクラスになった。妙に馬が合った。あいつは野球部だった。総番制度の廃止は共産党のA野とヒロシと三人で決めた、まったく面白い組み合わせだった。ヒロシには苦労を掛けた。もちろん内部でもめたはずである。とばっちりはあったが、あいつは一人で背負った、いい男だ。人望がなければ総番長はつとまらぬ。大学進学は3年の12月に決めたが、ずっと店(ビリヤード店)の手伝いをしていたし、大学進学のつもりがなかったので受験勉強していなかった。受験は失敗した。そんなときにヒロシが3月に来て「ebisu、代ゼミに一緒にいくべ」と誘ってくれたのである。これも不思議な話だ。1年前に担任の富岡先生に金融機関に就職希望を伝えると、釧路の日銀を受けろ、学校推薦するからと言われた。都市銀行ならどこでもOKだが、ebisuが受験すれば一人いけなくなる同級生がでると言われて、銀行への就職を見送ってしまった。
  総番長のヒロシがいなければ、わたしは根室で店番をしながら、公認会計士受験をしていただろう。独力で勉強して合格するくらいの学力とガッツはあった。高校2年生の時から公認会計士二次試験参考書を使って独力で勉強していた。試験科目の中では原価計算と経済学が特に面白かった。ヒロシはわたしの運命を変えた友人である。大学へ進学してから経済学への興味がさらにわたしの人生を変えることになる。

  幼少期にオヤジもお袋も家庭的な苦労が大きかったから、人の苦労がわかる人だった。昭和の30年代は日本中が貧しい時代だったが、食べ物に困ることはなかったから、いつまでいてもOKだった。そういうわけで親戚の出入りの多い家だったと言える。あんなことは苦労の少ないわたしにはできない。
  オヤジも母も苦労人である、若い時の苦労は人を磨く。

< 余談-4:蘂取の言葉 > 7月4日追記
  蘂取には営林署関係者(公務員)やお寺さんなど言葉のきれいな人が少なくなかったようだ。一般に道内の漁師町は言葉が荒い。函館や根室を基準に考えてもらえばわかる。たとえば、根室っ子には北海道訛りがあるが、本人たちは自分の訛りに気がつかない。蘂取には訛りのない、つまり、きれいな東京標準語でしゃべる人が少なからずいたようだ。山本家だけが特別だと思っていたが、そうではないようだ。
  わたしのいう東京標準語は威勢のよい江戸っ子言葉とは違う、下町ではなく山の手で話されていた言葉をイメージしている。
  根室高校を卒業してからわたしは35年間東京で暮らした。根室に戻って友人たちを会うと根室の語彙やアクセントで話している。東京へ戻ると東京弁でしゃべる。意識しているのではなく、無意識に語彙やアクセントが切り替わるのである。「場」に応じて自動的に切り替わるもののようだ。他の人でも同じだろう。不思議だ。

< 余談-5: 戦前の根室町と蘂取村の繁栄 > 7月5日朝追記
  昭和41年だったと思うが、高校生のわたしはひょんな縁から根室のある呉服屋の棚卸の手伝いをしたことがある。正確に言うと「手伝いの手伝い」である、断れない事情があった。帳簿に仕入原価と売値が記載してあった、それを集計する。着物は仕入原価の2倍、小物類は3-4倍の売価設定になっていた。当時の根室の呉服屋ではこういう価格設定が当たり前だったのだろうと思う。
  根室は漁師町だから、商慣習のベースは大きな得意先である漁師がつくった。ツケ買いをして、漁があった時にまとめて支払う。だからその分根室の商人は資金負担が大きいというデメリットと利幅が大きいというメリットがあった。呉服も雑貨も食料品も同じ。
  昭和30年代後半には「やすやす屋」という安売り販売のお店が緑町にあった。根室商人としては異色だった。2階建てで天井近くまで商品を積み上げて安売りをした。ずいぶん繁盛したお店だが、経営者は仕入に大きな努力を払ったと思う。規模を大きくして潰れてしまった。そうしてみると、中標津町のサウスヒルズの経営者は仕入に並々ならぬ努力を払った経営者であることがわかる。そういう商人が根室という町からは出なかった。昭和40年代まで努力する必要がなかったからだ。
  雑貨類は道内仕入が当たり前で、それをベースにして売値を決めていたから、根室の商品は釧路に比べても高かった。だが、それでも売れたのである。利益率を維持するために地元業者間の「団結」が強くなった。それは反面、他の地域の業者の参入を排除するという排他性にもつながったのではないか。わたしは「オール根室」にそういう影を見る。

  昭和50年代に入り、普通の家庭でも車をもてるように経済社会が変化した。「高度経済成長」「所得倍増」「生産性アップによる急激な製造原価の低下と売値の変化」「幹線道路の整備の進行」、こうした変化に根室の商人は対応できなかった。それまでイージーな仕入と価格設定に慣れすぎたためである。西浜ショッピングセンター、マルシェ、イオン、札幌コープの4店舗あるが、地元資本は一つもない。
  イージーな仕入が習慣となり何十年も続くと、遺伝子として後継者に受け継がれてしまう。それが根室資本の経営改革を阻み、今日の衰退を招いたとわたしは分析している。だから、ふるさと納税の悪影響を心配する。三十数億円のふるさと納税への返礼品に地元産品が使われているが、地元業者は一定量の売り上げが確保できる。それが地元資本の経営改革を阻むことにならなければよいのだが、わたしの目にはふるさと納税はアヘンのようなものに映っている。

  さて、戦前のエトロフ島蘂取村も商売のやり方や商慣習に関しては根室と似たようなものだったと想像する。客の大半は漁師であり、それも根室の3倍の漁がある漁業関係者である。根室よりもさらに仕入に努力する必要はなかっただろう。仕入コスト低下ではなく品ぞろえが大事だった。エトロフ島は漁業資源が根室とは比較にならぬほど豊かだったから、根室の3倍の漁は3倍の収入を保障したということ。蘂取村の大店だった山本家の繁栄を支えたのは蘂取村の漁師の経済的繁栄であることは想像がつく。
  蘂取村の漁業者の側から見たら、ソ連軍進駐による政治支配や生活がどのようなものであったのか、聞いてみたい気がする。叔父貴が引揚げ者であることを数日前まで知らなかった。ソ連の支配下で漁をした経験があるようだが、聴く機会があるだろうか。




*#3475 ロシアに対抗して根室にダミーのミサイルを設置しよう Dec. 5, 2016
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2016-12-04-1

 #3304 補助金もらって寝て待つ2島返還論:楽するとろくなことがない  May 28, 2016
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2016-05-28



*#195「少し過激な北方領土返還論」MIRV(多核弾道ミサイル)開発・組み立て・解体ショー
ロシアをぎゃふんといわせ北方領土を返還させるための具体論
 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2008-06-07

 #465「"Japan sent uranium to U.S. in secret"は北方領土返還運動の好機か?」
 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2008-12-30

  #1401「ロシアがフランスから新型軍艦を購入し北方領土へ配備、対抗措置はあるか」
 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2011-03-1

 #1892 映画「マーガレット・サッチャー」と北方領土 Apr. 6, 2012 
 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2012-04-06

 
#1965 ビザなし交流=通過型観光旅行? June 8, 2012 
 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2012-06-08

 #1969 北方領土問題コメント(欄)対話(1): ビザなし交流の虚実  June 11, 2012 
 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2012-06-11

 #1973 ビザなし交流in択捉島 住民交流会:もちつもたれつ  June 14, 2012 
 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2012-06-14

 #2050 竹島と北方領土 :韓国大統領の竹島上陸にどう対抗する?  Aug. 10, 2012 
 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2012-08-10-2

 #2053 マーガレット・サッチャーと領土問題(2) : 北方領土・竹島・尖閣列島 Aug. 14, 2012
 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2012-08-14



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