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#3486 あれから十年:巨大胃癌とスキルス胃癌の併発を超えて Dec. 21, 2016 [38. cancer]

<更新情報>
12/21 午前0時35分 
12/21  午前8時50分 <余談:臨死体験>追記


< 10年前のこと >
 診察券の発行日付を見ると2006年6月7日になっている。胃癌だと思うので内視鏡検査をしてほしいと、消化器内科専門医の岡田医院で受診した日である。
 前日午後から食事が摂れず、ベッドの横になると午前中に食べたウドンが逆流していた。食べられたことから胃の上部は通過できていた、だから下部が詰まって胃から腸へ送り込めないのだろう、症状から考えて腫瘍があって胃から腸への通路のどこかがふさがっていることは明らかだった。半年ほど前から、自覚症状はあった。1月恒例の芭蕉同窓会のときに気がついた。食べる量や飲む量が減っていた、飲んだり食べたりするとすぐに膨満感があったので、いままでとはどこか違和感があった。年齢による変化もあるので見分けがつかないのである。それが、6月になって急に通らなくなり、ようやく胃癌に気がついた。(苦笑)
 はっきりした胃癌症状だったので、なおさら病院へは行きたくなかった。「昨日から食事も摂れないのに、どうして病院へ行かないの!」と女房殿に叱られた。行ったら、すぐに入院、そして死亡退院だろう、家系的(男系遺伝子)にそう思わざるをえない事情があった。
 不思議なことはあるもので、5月の連休に釧路へ行ったときに、幣前橋を走っていたときに丘の上にある白い建物が見えて、「ホテルかな?」と呟(つぶや)いたら、「病院よ」と眼のよい女房殿の返事、「そうか綺麗そうだね、入院するなら眺めのよいあの病院がいいな」と思わず呟いたら、1ヵ月後に入院、まるで予言。
 オヤジとオヤジの兄弟3人は、みな癌で亡くなっていた。原発部位がそれぞれ違っていた。だから、わたしはだれも罹っていない胃癌だろうと40代半ばから漠然と考えていた。これもその通りになったのであるが、時期が早すぎた。だれも五十代で癌になっていない。癌の診断が下りてから2年生きたのはオヤジだけ、そのオヤジも2年で再発し、2度目の手術は全身転移、「アケトジ」で4ヶ月後に亡くなった。オヤジの兄弟たちはみな癌で入院したまま亡くなっていた。
 食べたものが胃を通過できないだけではなかった、やっかいなことにスキルスだという直感と微細な自覚症状があった。
 胃の出口をふさぐほど大きな腫瘍が見つかっても、粘膜を走るスキルスがあると思うので胃粘膜を採って病理検査を追加してもらいたいと、内視鏡での癌診断画像を見ながら若先生にお願いした。外科的処置のできる設備のある病院でなければ粘膜採取ができないと説明があった。緊急性があったので、同じ出身大学の先輩が副院長をしている釧路医師会病院ならすぐに入院調整可能だと連絡を摂ってくれた、ありがたかった。釧路市立病院は1ヶ月待ちだった。市立根室には消化器外科医はいなかった。6/7は期末テストの2週間前だったので、入院は試験の始まる日、23日でお願いした。食事も摂れないのに無理だとドクター、しかし、どうしても試験の前日まで授業をしてから入院したかった。これから期末試験までが最後の授業になるかもしれないので心残りをしたくなかった。わがままな患者でした。
  生徒たちには、「お腹にオデキができたので、釧路の病院に入院して取って来るから、1ヶ月お休みします」と告げた。「先生、お腹にオデキできたの、ウッソー」と大笑いだった。爆笑に送られて釧路医師会病院へ入院した。幸せだった。その中の一人は今春に根室に戻って来て幼稚園の先生をしている。来春には二人が看護師さんになって、病気と戦う患者の皆さんを助ける。

 入院して検査を続行した。3週間かかって内科的検査でスキルスが見つかった。どういう自覚症状があったのか、これから胃癌になるかもしれない人のために書いておく。
 冷たい異物がじわじわ広がっていくのが感じられたのである。冷たくて重い気味の悪い感触で、エイリアンが胃の辺りで成長しているような構図を考えてもらいたい、微細な信号だった、呼吸法の鍛錬やヨーガの独習で身体の声を聞くことに慣れていたから感じたのだろう。
 担当外科医の後藤幹裕先生は30歳前後だった。術前にいろいろ説明があったが、広がっていれば膵臓も脾臓も摘出するかもしれないと告げた。承諾書に判を押さなければ手術はしてもらえないので、すぐに判を押した。手術の数日前に股関節の動脈穿刺の必要があり、看護師さんがやるのかと思ったら後藤先生が来た。動脈穿刺は医師の業務なのだそうだ。「いきます」というや、まっすぐに針を突き立てて、ブスリと一発、迷いがなかった。「人の動脈だと思って、思いっきりいきましたね」と笑って言うと、「動脈穿刺は簡単なんです、外科医には(動脈が)見えてますから、それに太い、外しっこないんです」、にっこり笑って応えた。おおらかないい笑顔だった。あの笑顔でやられた。

 7/20、手術当日、開腹して臓器を診たがすでに手遅れで、後藤先生が手術をあきらめ「アケトジ」しようとしたら、ベテラン外科医の院長が、続行を命じた、「ざっくり全部とればいい」、もう手遅れだから助からない、若い外科医はたくさん切らなければ腕が上がらない、練習が必要だった。それでいいと思っていた。助からなくても、この先生の腕を上げるのに役に立つならそれでいい、そう思っていた。わたしの命を救ってくれた外科医の後藤先生は、その後首都圏で数年、内視鏡操作のトレーニングを積んで、音更町で「木野東クリニック」を開院している。帯広の市街地から橋を渡ってすぐ右手側にある。ふるさとに戻って医療に携わる医師が増えてくれるのはありがたい。

 山崎豊子の書いた『白い巨塔』という小説がある。田宮二郎が主人公の癌専門医の財前五郎を演じ、1966年に映画化された。その後1978年にフジテレビで連続ドラマで放映された。その主人公の財前がスキルス胃癌で亡くなるのである。スキルスは進行性癌の代名詞のようなものだった。
 入院して3週間点滴と栄養液だけですごした。毎日ストレッチをして、数学の問題集を1冊半解いた。診療記録を小さいノートにつけて淡々とした毎日だった。
 入院中にこころが波立ったことが一度ある。中学時代からの友人が心配して手術直前に釧路の病院まで見舞いに来てくれた、長い付き合いだがこれがYと話をする最後かもしれないとふと思ったら万感胸に迫るものがあった。Yは「人っ子のいいやつ」なのだ。

 6時間の手術で巨大胃癌とスキルス胃癌を胃袋ごと取り除いた。大腸への浸潤もあったし、リンパ節への転移もあった。どちらも部分切除した。炎症を起こす恐れがあるというので胆嚢も除去した。あれだけの手術で、出血はたった700cc、30歳前後の担当外科医は若いが腕がよかった。手術は7月20日、術後2週間で退院した。摘出した胃とリンパ節と大腸はわたしが仕事をしていたSRL八王子ラボへ送られた。検査報告書には「巨大胃癌とスキルスの併発」となっていた。分厚い眼鏡をかけた病理検査課のN取課長はわたしだと気がついたかもしれない。
 2006年8月10日、金刀比羅神社のお祭りを見物した。
 抗癌剤治療は副作用が強くてきつかった。主治医と相談して何度か再発覚悟で薬の量を減らした。

< 最近数ヶ月間のこと >
 話はいまに戻る。数ヶ月前から倦怠感が強く、食事をした後、午前中は床暖房のあるリビングで寝ていることが多くなった。寝ていると気持ちがよい。オヤジが家を新築するときにオンドルをつけるつもりだった。満州にいたことは知っているが朝鮮にもいたのかもしれない。結局セントラルヒーティングで床暖房にした。大腸癌の手術をした後に、身体が冷えるのかリビングで毛布をかけて横になっていることが多かった。親子で似たようなことをしているのである。25年の時の隔たりがあるだけ。
 倦怠感が強いことから身体に異常を感じながら、昼に食事をしてからまた1時間半ほど寝て、それから食事をして授業をしていた。
 ベッドに横になると、感度が鋭敏になるのか呼吸が苦しいのが感じられる。呼吸をしているのだが、酸素が体内に吸収できない感覚がする。年に1・2度東京へいくが、住まいが丘の上にあるので、散歩で下ると帰りは上りだ、そのときに呼吸が幾分苦しいことがある。「行きはよいよい帰りはつらい♪」というやつだ。呼吸の変化に合わせてゆっくり歩くか、坂の途中で数分休めばいいだけだから、それほど不自由はない。20代後半から呼吸法のトレーニングやヨーガの瞑想をしていてよかった、役に立った。

 一月半ほどヨーグルトを自製して食べはじめた。別海牛乳を電子レンジで45度くらいに暖めて、小どんぶりに入れ、森永ビヒダスヨーグルトを大匙3杯加える。下にお皿を敷いてタオルで包んで保温し、床暖房の余熱で5時間放置すれば新鮮なヨーグルトのできあがりだ。できたてのヨーグルトは乳酸菌の生命力が強い気がする。
 毎日500gほど食べていたら、中性脂肪が109から200にアップした。基準値をオーバーしたがまあいいだろう。体重が1kgほど増えたので身体がらくだ。乳脂肪分の摂取量を計算してみよう。

 500g×3.8%×30日=570g/月

 1ヶ月に570gのバターを食べた計算になるから、中性脂肪があがるわけだ。HDLとLDLには変化がない。ドクターからは、フェリチン定量が9.1に落ちたと告げられたが、気にしてなかった。
 12月7日に3ヶ月に一度の定期血液検査をした。その後で結果報告書のコピーをいただいた。
 美人の看護師さんにフェジン(鉄剤)とビタミンB12を静注してもらいながら話をしていたら、「(定期検査の)間に来れば注射できるようにしておきますから」、そういう主治医からの伝言をいただいた。
 おや、そんな必要がどうしてあるのかなと考えたら、「フェリチン定量」が下がったと言われたことを思い出した。フェリチンはたんぱく質でその内部に鉄を貯蔵できる。つまり体内の貯蔵鉄が減ったのである。鉄は血清中の鉄と体内の貯蔵鉄の2種類があり、血清鉄が不足すると、体内貯蔵鉄を血清に放出するようにできている。ヘモグロビンは血清鉄から鉄分を補給している。血中の鉄が一定に保たれなければ、貧血を起こすから、貯蔵鉄が血中に放出される。
 貯蔵鉄が涸渇すれば、血清鉄が減少しても、補うものがなくなる。血液中の鉄が不足すれば、酸素の運搬能が落ちる。貧血で倒れるか意識障害がでるだろう。メカニズムを考えるとなんだか危なさそう、あまりいい状態ではなさそうだ。3ヶ月に2度、フェジンとビタミン12を静注して、補うべきなのだろう。

 プルーン味の5mgの鉄剤を毎日1錠飲んでいるが、別のグミの鉄剤を1錠追加して3ヶ月ほど様子を見ようと思う。
 鉄剤を増やしてもフェリチンはたんぱく質だから、鉄剤にフェリチンを増やす効果はないが、フェリチンに蓄える鉄の量は増やせるだろう。鉄剤は貯蔵鉄と血清鉄を増やして、体内貯蔵鉄の減少を緩和することができる。貯蔵鉄が増えればいいのだが、そう簡単ではなさそうだ。これから数ヶ月、身体を使って実験してみることになる。結果はブログへアップするので、必要な人は利用して体調管理をしたらいい。

 胃癌で全摘手術をした人は、血中の鉄を減らさないように日常生活と食事に気を配らなければならない。血清鉄が不足すれば、フェリチンに貯蔵されている鉄が放出されて減る。体内鉄はいつか涸渇するのだが、それを先へと延ばせる。
 手術前に65-130だった血圧は50-90になった。10年間ずっと変化なし。看護師さんが測り間違えたかと、再測定することがある。首をかしげて測りなおそうとするタイミングを見計らって、「低いんでしょ、間違いでありません」というようにしている。

 最近半年の血液検査フェリチン定量の推移を書いておく。胃癌で全摘した人はいずれこういう時期が来ることを承知しておいたらよい。油断してはならない。
       フェリチン定量    鉄
 6/9 ⇒ 13.8ng/mL   114μg/dL
 9/13⇒ 13.1ng/mL    88μg/dl
 12/7⇒  9.1ng/mL   109μg/dL
 3月 ⇒  ?ng/mL

 鉄(Fe)は基準値が60-210だから、異常なしだ。血球数と血色素も基準値内に収まっている。
 アウトなのはフェリチン定量だ。フェリチン定量の基準値は21~282ng/mLであるから、基準値下限の半分以下。ネットで検索したら測定限界は4.9ng/mLである。それ以下を検出しても臨床的な意味はないのだろう。
 フェリチン定量が基準値半分以下でも、血清鉄が基準値に治まっているから、鉄欠乏性貧血ではないのだろう。6ng/mLにまで下がれば、日常生活に支障が出るのだろうか。身体が発する声に耳を傾けながらしばらく様子見だ。どういう変化が現れるかは個人差もあるのでわからない。

 うっすらとした自覚症状としては記憶の糸を手繰るのが面倒になることがでてきている。年齢のせいなのか鉄欠乏のせいなのか、初めての経験なのでよくわからないというのが率直なところ。
 身体が慣れてしまうのか、ベッドで寝るとき以外は呼吸が苦しいという自覚はない。寝るときに少し気になる程度だ。たしかに、自覚の回数は増えた。
 死ぬのは怖くありませんが、鉄欠乏で脳がダメージを受けて生きているのは嫌ですね。本音を言えば、食事を摂らずに緩慢な死が迎えられたら本望です。でもまだ当分死にません。(笑)

 身体を動かすと気持ちがよいので、ベッドでストレッチ5~10分ほどしてから起きている。ゆったりした呼吸で、身体を伸ばしてあげる、あちこちの関節をゆっくりまわしてみる。実に気持ちがいいのです。生きててよかったと感謝しながら、息を吐ききり、吸い込みます。
 毎日、1.4kgの素振り用木刀を3回ほどに分けて100回ほど振っています。四股踏みも数回に分けて50回ほどやっています。回数は決めていません、結果としてそれくらいの回数になっているだけ。その日に身体が気持ちいい範囲でやります。散歩は面倒なので滅多にしません。

 胃の全摘手術を受けた人の参考になれば幸いです。

*木野東クリニック
https://www.kinohigashi-clinic.com/
https://www.kinohigashi-clinic.com/guide/


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< 余談-1:臨死体験 >
 手術は予定の3時間を越えて6時間かかった。開けてみたら、癌がずいぶん進行していたからだ。術式が複雑になった。食道と胃の全摘、胆嚢切除、リンパ節切除、大腸一部切除。患者は薄い手術着1枚、手術室の室温は低めに保たれているから、低体温症になった。手術が終わるときに、翌朝まで目覚めないように麻酔が追加された。
 集中治療室へ運び込まれて少したってから、身体は体温を回復するために震え始めた。その辺りからはっきり憶えている。眼下に自分が横たわっており、身体が蝦のようにはねていた。身体の震えというよりも激しい痙攣が起きていてとまらない。身体の中にいる自分が「危ないな」そう感じていた。もう一人の自分が上から眺めており、「助からないかもしれないな、手術直後で縫い合わせたばかりなのによく内臓が飛び出さないものだ」、痛みは伝わってこない。
 看護婦さんの一人が叫んだ「身体押さえて!」、そのままではベッドから落ちてしまう。数人の看護婦さんが身体を押さえてくれた。そうした経過を身体の中にいる自分と上から見下ろしている、ふたつの自分が同時に存在して、体験しているのである。「電気毛布もってきて!」と誰かが叫んだ。少したつと身体が温かくなった。痙攣が治まり、ああ、これで助かったと思った。その瞬間に上から見下ろしていた自分が身体の中に戻った。瞑想しているときに、意識が身体から離れることがあった、あれは怖かった(戻れないのではないかという怖れが急に沸き起こり、すぐに中断した)。
 あのときに、身体の中の自分も、上から観察していた自分もちっとも痛くなかったし、怖くなかった。ああ、死ってこういうもの、安らぎなんだ、そういう実感があった。それ以来死ぬということに恐怖感がなくなった。死をそのまま受け入れたらいいだけ。
 助けていただいたみなさま、主治医のO先生、外科医の後藤先生、術場の看護師さん、術前と術後に看護してくれた数人の看護師さん、スキルスの内科診断をつけるために親身な検査を繰り返してくれた副院長のT田先生、手術の続行を指示してくれたA川院長、同じ病室で術後のことをいろいろ教えてくれた入院患者の先輩たち、実地研修で数日担当してくれた看護学校の生徒さん、普段お世話になっている岡田医院の看護師さんたち、・・・、数え上げたらずいぶんたくさんの人たちのお陰で命がある。
 だから、すこしは皆さんのお役に立つことをしてから、お迎えを待ちたいと思う。病気によって私心がいくぶんか薄くなった、この点だけは病気のメリットだった。神様はちゃんと埋め合わせしてくれている。
 

< 余談-2 >
 今日、岩波書店から復刻された斉藤秀三郎の『熟語本位英和辞典』を1冊買いました。美しい和語の訳文が載っています。
 学生時代は岩波書店の分厚い英和中辞典をかばんに入れて、時事英語の講義を聞きました。東京の自宅の書棚に載っています。岩波書店の英和辞典はこれで2冊目、最初のものを購入してから48年の歳月が流れました。
 学ぶことは相変わらず楽しい。(笑)
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*#2129 胃癌切除 6年後の鉄欠乏性貧血症状:鉄剤服用開始 Nov. 15, 2012 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2012-11-14-1


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コメント 2

tsuguo-kodera

 涙が出てくる記事でした。
お大事に。

追記
とろろ昆布、ヒジキ、酢昆布が良いのかも。
鮭の皮と頭も。
私は毎日欠かさず、何れかは、1か月食べ食べ続けました。
お蔭で体力気力とも50代に迫れそうです。
ありがとうございます。
by tsuguo-kodera (2016-12-21 04:30) 

ebisu

koderaさん

ありがとうございます。余計な心配をかけました。体力はありませんが日常生活に大きな支障はありません。(笑)
これ以上減ったら危ないというだけのことです。

鮭の皮と頭はどちらも苦手です。
無理して1ヶ月食べ続けたら、ストレスで胃潰瘍を起こしそうです。

人の身体というのはさまざまなことを自動調節してくれています。そのひとつである胃がなくなると、食事は一日に6-7回に分けて食べればいい。食べるときに百回かめばいい。工夫しろと八百万の神様のどなたかがおっしゃっているようです。

鉄(フェリチン)はよくモニターして主治医の診察回数を増やせばいいだけ。適切な治療をしてくださいます。
生徒たちに元気をもらいながら、人生という小路(こみち)を歩けるところまでゆっくり歩きます。

在庫が払底したそうで、おめでとうございます。
数人のお仲間とともに増版のチャンスですね、小寺さんもどうぞご自愛ください。
極東の空の下より諸事うまくいくことを祈っております。
by ebisu (2016-12-21 09:58) 

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