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#3458 取著(しゅちゃく)  Nov. 17, 2016 [5. こころの洗濯]

 南伝の仏教経典は漢訳の経典とは異なりわかりやすい。パーリー語で書かれた経典群は漢訳よりも古く、サンスクリット語訳よりも古い。お釈迦様が衆生にわかりやすい言葉で説かれたことがよく伝わってきます。
 増谷文雄訳『阿含経典第1巻』(筑摩書房1979年刊)から「33 取著」を引用します。
 わたしにとって仏教は信仰の対象ではなくて哲学です。南伝の経典群のどこを見ても、信じろとか信仰せよという言葉がありません。
 もやもやしてわからなかったことがわかるようになり、こころがすっきりします。この経典群を読むたびに、時間と場所を超越してお釈迦様にお会いして説教を聴いている気分になります。聴いた後は心の洗濯をしたようなこころもちです。(笑)

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33 取著

 かようにわたしは聞いた。
 ある時、世尊はサーヴァッティーのジェータ林なるアナータピンディカの園にましました。
 その時、世尊は、比丘(びく=僧侶)たちに説いて、かように仰せられた。
「比丘たちよ、取著するものを味わいながら観ていると、その人には愛着の念がいやましてくる。愛によって取がある、取によって有がある、有によって生がある、生によって老死・愁・悲・苦・憂・悩が生ずる。かくのごときが、このすべての苦の集積の生ずる所以である。
 比丘たちよ、それは、たとえば、ここに大きな焚き火があって、そこで十把の薪、あるいは二十把の薪、あるいは三十把の薪、あるいは四十把の薪を燃やしておるとする。しかるに、その時、人があって、時を見はからって、その焚き火に、また乾いた草を投じたとする。あるいは乾いた牛糞を投じたとする、あるいは乾いた薪束を投じたとするならば、どうであろうか。比丘たちよ、そうすれば、その大きな焚き火は、そのために、いよいよ久しく燃えつづけるであろう。
 比丘たちよ、、それと同じで、取著するところのものを味わいながら観ていると、その人には、愛着の念がいやましてくる。愛によって取がある、取によって有がある、有によって生がある、生によって老死・愁・悲・苦・憂・悩が生ずる。かくのごときが、このすべての苦の集積の生ずる所以である。
 しかるに、比丘たちよ、取著するところのものを、これはいけないぞと観ていると、その人には愛着の念が滅する、愛が滅すると取が滅する、取が滅すると有が滅する、有が滅すると生が滅する、生が滅すると老死・・愁・悲・苦・憂・悩が滅する。かくのごときが、このすべての苦の集積の滅する所以である。
 比丘たちよ、それは、たとえば、ここに大きな焚き火があって、そこで十把の薪、あるいは二十把の薪、あるいは三十把の薪、あるいは四十把の薪を燃やしておるとする。しかるに、その時、人があって、時を見はからって、その焚き火に、また乾いた草を投じたとする。あるいは乾いた牛糞を投じたとする、あるいは乾いた薪束を投入することをしなかったとするならば、どうであろうか。比丘たちよ、そうすれば、その大きな焚き火も、やがて、さきの薪は燃え尽き、新しい燃料は加えられないということで、消えてしまうであろう。
比丘たちよ、それと同じく、取著するところのものを、これはいけないぞと観ていると、その人には、いつか愛着の念が滅する。愛が滅すると取が滅する、取が滅すると有が滅する、有が滅すると生が滅する、生が滅すると老死・・愁・悲・苦・憂・悩が滅する。かくのごときが、このすべての苦の集積の滅する所以である。」

* この経題の「取」 Upadana=grasping とは所対の境に取著することをいうことばであって、十二支縁起の第八支をなす。いま釈尊は、それを中心として、比丘たちのために法を説いているのであるが、それについて釈尊の説かれた卑近の譬喩(ひゆ)が印象的である。 
* 愛 tanha もと喉の渇きをいうことば。それによって激しい愛着の念をゆびさすのである。

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 「有」には欲界(欲望の世界)、色界(物質の世界)、無色界(抽象の世界)の三つがある。
 「取」には見に対する取著、戒に対する取著、欲に対する取著、我に対する取著の四つがある。
 「渇愛 tanha」には物に対する渇愛、声に対する渇愛、香りに対する渇愛、味に対する渇愛、感触に対する渇愛、法に対する渇愛の六つがある。

 「所対」は能対の対義語と思われる。「能(よ)く対す」に対して、「対せられる所」。能動的に対して受動的という意味。こちら側の意思にかかわりなく訪れるものへの取に言及している。仏教辞典には記載のない用語のようだ。
 「八正道(はっしょうどう、巴: ariya-aṭṭhaṅgika-magga, 梵: ārya-aṣṭāṅgika-mārga)は、仏教において涅槃に至るための8つの実践徳目である正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定のこと 。
 「十二因縁の支分は、無明、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死の12個であり(支分の詳細は十二の支分の節を参照)、この12個の支分において、無明によって行が生じるという関係性を観察し、行から次第して生や老死という苦が成立すると知ることを順観という 。また、無明が消滅すれば行も消滅するという観察を逆観という 。


 こころに取著が生じたら、これは取著だとありのままに観ればいいのです。ありのままに観ていれば、取著は自然に消えていきます。
 南伝の経典群を読むと、言葉を通して限りなく透明な知性を感じます。


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コメント 2

とんとろ

心の洗濯の記事ありがとうございます。北方領土の事で緊張感あったので、ほっとしました。グットタイミングでした…
by とんとろ (2016-11-17 21:13) 

ebisu

とんとろさん

コメントありがとうございます。
わたしも二読、三読してこころの曇りをお掃除します。
by ebisu (2016-11-17 22:41) 

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