SSブログ

#3450 ニムオロ塾 授業日数の短縮:来年4月から Nov. 6, 2016 [55. さまざまな視点から教育を考える]

<更新情報>
 11/6 夜7時半 <余談-3:学問と仕事>追記
 11/7 朝11:20 余談-3 へ追記
 11/8 朝10時 余談ー3へ追記 50億円の債務超過の病院

ー余談タイトルー
<余談-1:部活と家庭学習習慣の躾(しつけ)>
<余談-2:米国の所得格差の現状と未来>
<余談-3:学問と仕事>


 ニムオロ塾は(月、木)、(火、金)、(水、土)の3つに分けて授業をしてきましたが、来年4月から土日を休日にすることに決めました。したがって、週当たりの授業日数は2/3に縮小します。土曜日も天気がよければ趣味のサイクリングができますから、気が向いたら四股を踏む、1.4kgの素振り用木刀を振る、気分がよければ散歩、そして週に一度くらいの頻度でサイクリング、体力は十分維持できます。
 好きなタイミングで適度な運動をして、気力と体力を充実させ、勉強したい、成績を上げたいという生徒だけを対象にじっくり個別指導します。
 当然のことですが、受け入れ人数には制限が生じます。12~18人までの間で調整するつもりです一度に教えるのは最大7人まで。手間のかかる生徒もいますから、生徒に応じて、人数調整します。
 ようやく理想とする塾の形に手が届きそうです、自分が中高生なら来て勉強したいと思う塾が目標でした。

 3ヶ月間様子を見て、授業中に私語が多い生徒や指導に従って家庭学習をしない生徒は、効果がないのでお断りすることがある旨昨年から入塾時に申し渡しています。3ヶ月間は試用期間というわけです。静かな環境の中で、じっくり勉強したい生徒だけ来て下さい。方針を転換したわけではないのですが、この1年間を掛けて自然に切り替わってしまいました。学力不振の生徒から学年トップまでじつに学力差の大きい生徒たちが同じ時間に学んでいますが、個別指導だから可能です。
 授業中に頻繁に注意するのはひどく疲れます。10年前にスキルス胃癌で胃の全摘、大腸の一部切除、胆嚢切除手術をしているので、健常人に比べると体力が半分くらいかな、体力が落ちれば気力も萎えます。ようするに体力に合わせて縮小して少数の生徒たちにじっくり教えたいのです。考えようによっては、ずいぶんと贅沢な塾になります。(笑)
 赤塚不二夫風にいうと、なってしまうのだからそれでいいのだ。
  学習意欲の無い子どもにお金を掛けて塾へ通わせても無駄、学習意欲がわいてから塾へ通わせましょう、それからでいいのです。
 にぎやかで楽しい授業の塾もあってよいのですが、ニムオロ塾はそうではないというだけ。根室にタイプの異なる塾が5つくらいあれば、生徒たちの選択肢が広がっていい。塾の運営方針や先生との相性の問題があります。

 高校生を教えている塾は根室にはすでに二つしかありません。この12年間で中高生が6割弱に減少したことと、それに輪を掛けて学力上位層が激減したので、大学進学用の塾は1学年10名以下のニーズしかありません。
 中学校の学力テストで五科目合計点が400点を越える生徒が根室市内に1学年10人前後になっています。少ない学年は6人くらいかもしれません。半数は塾に通わずとも自力で勉強できます。10年前は400点超の生徒が各学校に1学年十数人いましたから、根室市内では40人を越えていたはずです。学力上位層が1/4以下に激減しました。
 中学校の学力テストで400点は進研ゼミ主催の全国模試では偏差値48くらいですから、真ん中以上の大学へ合格できる生徒がそれくらいということです。

 生徒の絶対数の激減と学力低下があるので、他の地域から根室へ進出してくる学習塾がありません。たんに需給のバランスの関係で、採算が合わないからです。大学進学のための学習塾のニーズが小さく(1/5くらいに)なったといえるのでしょう。

 根室の生徒たちは遠くない未来に、そうですね、10年から15年の間に、インターネット塾で勉強することになるのでしょうね。競争で品質が改善され、単価も安くなっているので、心配要りません。
 生身の先生が教える塾が根室からも、他の小都市からも消えていきます。採算度外視でもやっていける小さな塾が生き残ります。オーソドックスな教育、あるいはとってもユニークな教育をして欲しいと思います。
 ニムオロ塾は縮小しながらebisuの体力の許す限りしばらく続けます、そのために14年前に35年ぶりにふるさとに戻ってきたのですから。

 そういうわけで、昨年、日専連ビルから自宅へ教室を移して、さらに縮小です。どなたにもご迷惑はかからないと思います。(笑)


<余談-1:部活と家庭学習習慣の躾(しつけ)>
 文武両道とは言いますが、部活と勉強を両立できている生徒は10人中2人くらいなものです。部活が6時半まであると、「今日は疲れたから塾へ行かなくていい?」と子どもが親に問うと、「いいよ」と許可する親が多い。明日試合があって朝6時出発だと親も「明日早いから今日は塾行かなくていいよ」と許可します。子どもも保護者も甘いのです。小中学生は勉強が優先です。
 そういうことが何度もあると、授業料が無駄になります。2/3ほどしか授業に来ていないのに授業料をいただくのは気分がよくありません。業を煮やして「しばらくは部活に専念していい、ちゃんと塾に通う気持ちになったら受け入れるので当分休塾してはどうですか?」と本人と保護者に相談したケースが昨年は数例ありました。
 小学校では少年団活動、中学校では部活に熱心な生徒の多くが、家庭学習習慣を持っていないのは、ほとんど毎日、それも6時半頃までやっているからで、普通の体力の子どもは疲れてしまって、ご飯を食べてお風呂に入ったらもう勉強する気力など残っていないのです。スマホをいじったりゲームをして一日が終わりとなります。そういう生活を数年続けたらどういうことになるか、大半の生徒がご想像の通りになります。わがまま、我慢ができない、やりたいことはやるが必要でもやりたくないことはやらない、あるいはできない性格になってしまいます。
 そういう生徒は部活で疲れていて集中力が無いから、塾に来ても授業中の私語が多くなります。誰かが私語するとすぐに反応し、それが連鎖します。注意しても3分もたないのです、すぐに元の木阿弥ですから、だんだん注意する声を大きくしなければならないので、エネルギーの大半を授業内容ではなくて制御に使い果たすことになります。まるで小学生低学年に教えているような状態になります。学校の授業もそうなっています。3年生で学力テスト総合ABCで130点(300点満点)以下の学校は多かれ少なかれそういうクラスが存在しています。最近では五科目平均点が100点台の学校が現れるようになりました。数年のうちに100点を切る学校がでます。
 セルフコントロールができないのですから、ほとんど学習障害といってよいでしょう。そういう生徒が3人いたら学級崩壊状態になります。授業中に一人が私語すると連鎖反応が起きます。学校では授業中に立ち歩く生徒も出現しています。小学校低学年の生徒のように幼児化していますから、先生の制止が利かないのです。そういう学年は五科目平均点が30点満点で30点ほど落ちてしまいます。110点前後だったら2つのクラスのうちひとつは学級崩壊状態を呈しています。
 精神的な成長がストップして幼児化したままの生徒の存在は低学力化に強力に作用していますが、市教委はふだんの学力テストデータを見ていないので知らないのです。弊ブログでは何度もデータを挙げて説明しています。背伸びした大人の本を読むことで精神的な成長を遂げる者が多いのですが、過度な部活ゲーム、スマホ相乗効果読書習慣のない生徒が増えました
 そういう生徒たちは部活をしている限り、生活時間が変わらないので、家庭学習習慣を躾けることも精神的な成長を促すようなレベルの高い読書週間を育むこともほとんどできません。家庭学習習慣を躾けるためには生活習慣を全体をデザインし直して変えなければいけないのです
 全国学力テストのときのアンケート調査分析資料中に生活時間を記入する帯グラフがあります。あれに、一週間の実際の記録を記入してみたらいい。道教委のサイトにも載っていたし、ブログ「情熱空間」が帯状のチャートをアップしていたことがあります。あれを記入すれば、部活やスマホやゲームがどれほど勉強時間を奪い、読書時間を奪っているか誰にでもわかります。幅3cmで長さ24cmの長方形を作り、「1cm=1時間」でやったことを記入すればいいだけです。ぜひ試して生活時間のチェックを一度してみてください。そしてどのように改善したらよいのか、同じ部活をしているママ友が集まって相談してください。
 本を読む習慣が無いので、語彙が少なくて、文章題の文意が読み取れない生徒が増えていますが、語彙力が貧弱だと全教科の成績に影響します。語彙力は学力に著しい影響があります。先生が授業で使う語彙がわからなくて、授業内容が理解できない生徒が増えています。
 啓雲中学校の社会科のN先生は、授業で語彙解説をしています。熟語を漢字一字ずつの意味にさかのぼって教えています。授業参観したときに「温暖湿潤」の語彙説明をしたのが印象に残っています。何度か見ましたが、毎回語彙解説を丁寧にしていました。高校の授業ではそんなことはしてくれません。中学校の先生の語彙解説に頼りきっていたら、高校でアウトになること必定です。国語辞典や漢和辞典を引いて自分で調べましょう。
 高校の教科書は中学校に比べてどの教科も分厚くなっています。それだけではありません、使用語彙数が比較にならないほど増えます。読書週間のない生徒は国語教科書「精選現代文B」(大修館書店、391ページ)の収載小説や評論を読むのに困難を感じるでしょう。中学校とは比較にならないほど文章も語彙レベルも上がっておりボリウムも増えています。
 過度な部活をして、文武両道を貫けなければ塾通いは無駄になります。もう一度書きますが、部活と勉強の両立ができる生徒2割程度です、3割という例はほとんどないでしょう。部活のやり方が釧路や根室は異常なんです。そのことを生徒自身も保護者も先生たちも自覚していません。
 2~3年ほど前からだったかな、啓雲中学校の校長先生が学校通信で文武両道と繰り返し取り上げました。部活の先生たちも協力して文武両道を口にするようになり、だいぶ変わってきたように感じています。道教委は大谷翔平をを起用して「文武両道」のポスターを制作し2年前に全道の中学校に配布しました。各学校には廊下にそのポスターが貼られているはずです、見てください。
 このように文武両道を無視した過度な部活の現状は変えようと思えば変えられるのです。オバマ米国大統領の"Yes, we can change"です。

 毎日繰り返すことは習慣となり、習慣は数年継続することで性格の一部分を形作ります。根室の親たちはじつに家庭学習習慣の躾が下手です。
 たかが小学校や中学校で地区大会に勝つために異常な情熱を燃やし、長時間の練習をさせて、家庭学習習慣を育てることをないがしろにしています
 成長期に特定の関節や腱、筋肉を酷使するとスポーツ障害が出やすいのですが、生徒にも親にも先生にもそういうことへの配慮がありません。過度なトレーニングを奨励してしまっています。野球やバドミントン、サッカーはスポーツ障害を起こしやすいので気をつけましょう。14年間で、優秀な選手が何人もスポーツ障害を起こした例を見ています。
 先生たちだって大半はそんなに長時間部活指導なんてしたくないのです。でも指導技術が無いから、地区大会に勝つには長時間のトレーニングを課すしか方法が無いのです。保護者がブレーキを掛けないととまらないのです。部活は一週間に3~4回まで、最大6時までと根室のルールを決めたらいい。保護者がPTAで決められないなら、市議会で部活指導についての市条例を作ればいい。このままでは、低学力化の負のスパイラルから抜け出せません。

  長時間トレーニングを強いると子どもたちは手抜きを覚えます、そして毎日繰り返すことでそれが習慣になり、性格になります社会人になったときに副作用が出ます。手抜きがすっかり習慣になり性格になっていますから、長時間仕事しないと一人前分をこなせないのです。短時間で効果の上げられるトレーニングメニューを工夫してこなかったから、効率的に仕事をすることができません仕事の工夫、効率を上げる工夫のできない人間にすっかりなってしまいます。非正規雇用低賃金で働くしかなくなるんです。どういうことになるか、次の余談-2に米国の例を書きます。


<余談-2:米国の所得格差の現状と未来>
 11月6日のNHKスペシャル「揺らぐアメリカどこへどうなる?大統領選挙」という番組がありました。所得格差が拡大して、米国には1%の富裕層と99%の低所得層(年収345万円以下)になってしまいました。白人中産階級が下層階級に転落してしまったのです。こんなナレーションが流れました。
 no education
  no Job
  no future
  満足な教育も受けていないし、仕事も無いから、未来に希望が無い、行き着くところは・・・社会の最底辺への転落しかない。
 グローバリズムで生産拠点が海外へ流出し、製造業の職が1/10になってしまったのだそうです。鉄鋼業に従事していた白人男性(50歳くらい)が涙を流しながら職がなくなったことを話していました。次のような内容だったと思います。
仕事は家族を養うものだった、それだけではない、困った友人を助けるためにも仕事は必要なんだ。仕事は誇りだった、生きがいでもあった。この仕事(鉄鋼業)をずっと続けてきたがいまはもうない。」

 生産拠点が海外へ流出して、製造業の職がなくなってしまったのです。だから白人中産階級は下層階級へ転落してしまいました。こうしてこの20年間で所得格差が劇的に拡大したのです。
 次の25年間では、人工知能の性能が指数関数的に向上してホワイトカラーの職を1/10に減らしてしまうでしょう

 米国はどこへ行くなんて暢気なことを言っていられません、日本もそうなります。製造業が海外へ流出しているのは日本も同じですから、製造業の職が急激に減少しています。いまやサービス産業のほうが従事している人数がずっと多いのです。

 製造業の職がなくなるという状況から脱出するには新しい経済学に基づいた経済社会を創りだすしか方法がありません。弊ブログのカテゴリー「資本論と21世紀の経済学」にその答えがあります。マルクスの資本論や西欧経済学とは異なる公理で経済学を組み立てることができます。それはグローバリズムへのアンチテーゼとなっています。日本的価値観、仕事観に基づく新しい経済学の生誕です。


<余談-3:学問と仕事>
 根室高校卒業まで根室で育ちました。高卒で公認会計士になるつもりで、高校2年生の夏から中央経済社の公認会計士2次試験講座を使って勉強し始めましたが、ひょんなことから3年生の12月に進学することになりました。そういう行きがかりから公認会計士で一番合格者を出していた中央大商学部会計学科に入りたかったのですが、大学受験勉強の仕方がわかりません、結局不合格でした。第二志望の専修大学商学部会計学科で学んだ後、3年間働いてから東京経済大学大学院経済学研究科で経済学的諸概念の構成に関する研究をしました、理論経済学です。専修大学商学部会計学科4年の10月に大学院の学内入試がありましたが、合格者なし。経済学研究科を受験して会計学科のわたしがトップでした30名ほどの教授陣を前にして口頭試問がありましたが、その場で一悶着ありました。答案の内容で指導教授になるNo.2の教授と論争になったのです。「君は経済学を知らんね」と高飛車に言うので、「答案を見ておっしゃっているのでしょうか田、どうぞ具体的におっしゃってください」、そのあとが大恥でした。会計学科の学生だから、理論経済学の専門知識が薄いと勝手に思い込んでいたのでしょう。100%の勝ちでした、会計学科の一学生に貨幣論でコテンパにやっつけられたのですから、顔を真っ赤にしていました。大学院長の内田義彦先生からゼミの指導教授の市倉宏祐先生(哲学)にその晩電話がありました。3月の入試にもう一度トライしろということでした。3月に受けましたがまた合格者なしです。専修大学大学院経済学研究科では合格者なしというのは異例のことです。東経大大学院を受験したときにも母校も受験していましたが、やはり合格者なしでした。よほど嫌われたのでしょうね。
 ところで、当時の東経大大学院は、開設してから10年間合格者なしで、文部省からお叱りを受けていました。10年も院生がいないなら必要ないから設置許可を取り消すとほのめかされたようでした。それで前年に初めて4名の合格者を出しました。大学としては不本意だったのでしょう。私の年は50名ほど受験して合格は2名です。院生をなるべくとりたくなかったのでしょう、当時の難易度は慶応大学大学院経済学研究科と同程度でした。
 院生が少ないのでいいこともありました。図書館の書庫の中に出入りができて、その中にボックス型の机がおいてありそこで勉強できるというような特別待遇がありました。授業はどれも2-6人でした。
 1978-83年までは、産業用エレクトロニクス輸入商社で統合システム開発と経営改革をやり(利益構造と財務体質を強化したこの会社は、その後店頭公開しています。私が中途入社したときにはスタンフォード大学出の創業者の名前を関して関商事、英語名は Seki & Co でした。店頭公開後の社名をセキテクノトロンと変更しました。ヒューレットやパッカードと同級生だった縁で、発足当初はHP社の日本総代理店だったのです。その後、YHPができて、合弁会社に社員の半数ほどを移し、HP社とは縁が切れています。十分計算してYHP社に人を移して人件費を減らし難局を切り抜けたのだろうと思います。わたしが入社したときには創業者はすでに亡くなっており2代目の関周さんが40代半ばで社長でした。慶応大学大学院経済学研究科で経済史を学んだ方でした。中途入社の私を、役員中心の7つの委員会を立ち上げ、5つの委員会で存分に使ってくれました。企業経営のノウハウや、システム開発技術やさまざまな経営改善スキルはこの会社で働いた5年間に得たものが大きかった、感謝しています。
 入社してすぐに立ち上げてくれた委員会の名前を挙げておきます。社長が委員長である財務委員会の下に6つの委員会を設置しました。為替対策委員会、利益重点営業委員会、収益見通し分析委員会、長期経営計画委員会、電算化推進委員会、資金投資計画委員会。このうち利益重点営業委員会だけはメンバーではありませんでした、仕事は回ってきました。ほかの6委員会はすべて入社したばかりのわたしが実務をやることになったのです。中途採用した入社したての30歳前の社員にこんなに重要な仕事のほとんどを任せるのは無茶ですが、経営状況は切羽詰っていました。
 輸入商社であるために、利幅が薄く、為替変動の影響を受けて業績が極端に上下するので、為替変動の影響を回避する手段を見つけ、同時に10%以上利幅を上げる方法を考案して、自己資本比率を充実させるというのが目標でした。社長をそれを「利益構造を変え、財務体質を強化する」という短い言葉で示したのです。指示を具体的なレベルにブレイクダウンして、目標を設定しました。
 粗利益率は5年間で15%ほど上げることができましたし、1年半後には納期の異なる受注実績と予測データから外貨決済額を月別に計算して、それにあわせて為替予約をすることで、つねに2%ほどの為替差益が出せるような仕組みを受注残・納期管理コンピュータシステムを開発することで実現しました。利益重点営業委員会だけはメンバーではなかったのですが、優秀な営業課長のE藤さんがいて、円定価システムを考え、わたしに相談してきたので一緒にやりました。気が合うので、たまに二人で朝まで飲み歩きました。それまで営業マンの仕事の半分以上が為替がどう変化するかを織り込んで見積書を作成することだったのですが、このシステム導入以後は営業マンが見積書を作成するのに値引率を営業補助の女子社員に指示するだけでよくなりました。使用する受注レートはある計算式でそれまでの実績為替レートの移動平均値を使っていました。受注レートと仕入れレート、決済レートをリンクさせて為替予約をしたのです。これでNEC府中工場(東京営業所担当)と横浜工場(横浜営業所担当)で見積もり金額に違いが起きるというクレームがなくなりました、各営業所長にとっては頭の痛い問題でした。円定価システムは四半期ごとに更新しました。このシステムで粗利益率を10%アップしました。28%が38%になったのですから、毎年大きな黒字がでました。業績のアップダウンがなくなり、ボーナスが安定してたくさん出るので、社員は住宅ローンが組めると歓んでいました。粗利益率を上げることができたのは、取扱商品が欧米50社でそれぞれ世界市場でユニークな製品を開発・販売していたので、競合が少なかったからです。営業マンを見積書作成業務から解放することで、一人当たりの売上が3割ほと伸びました。同じ社員数で売上高が3割アップして粗利益率が10%アップしたら、粗利益の額は1.7倍になりますから、社員へのボーナス支払いを増やしても、内部留保が十分にできます。予算編成と予算管理もわたしがやっていたので、財務委員会で社長に利益は社員へ1/3、財務体質強化のために内部留保に1/3、配当へ1/3でどうですかと具体的なシミュレーションデータで示したら、「それで行こう」とOKしてくれました。いい人なんです。
 ところが、統合コンピュータシステム開発に関して関社長とある件で意見が合わないことがわかり、電算処理推進委員会のほうから社内に開発を任せてくれるように申し入れ、トラブルは一度目は解消しました。
  輸入商社の統合システムは、経理システム、給与支払い計算システム、受注残および納期管理システム、外貨決済管理システム、円定価システムから構成されていました。実務設計と外部設計がわたしの役目で、NEC情報システムから事務系のシステムではナンバーワンのSEであるT島さんが担当でした。これは関社長の申し入れによるものでした。三菱のオフコン3台からNECの汎用小型機2台導入へ切り替える条件でした。三菱のオフコンを使っていたときにはオービックのS沢SEが担当でした。この人もスキルが高かった。一緒に仕事したので、彼からスキルを学べました。13年前にオービックのホームページを見たら、開発担当取締役になっていました。

 社長の慶応大学時代の同級生であるMさんがユニバックだったかな、50歳くらいでリストラで失業してやむなく独立していましたから、やさしい社長はおそらく仕事をあげたかったのです。ところが、この人は輸入商社の業務にも経営にも理解力がからっきしありませんでした。1ヶ月かけて各部門の管理者からヒアリングしてレポートが出たのですが、電算処理委員会のメンバー全員が読んで、仕事の能力に失望しました。足手まといになるのでコンサル必要なしとの全員一致の結論だったのです。SE経験も無い人に当時最先端である統合システムのコンサルタント業務なんてできっこありません。そういうことを見事に証明するレポートでした。社長のお友達だということは社内に知れ渡っていましたので、課長数名から、ebisuさんとMさんといったいどちらが統合システム開発を担うのですかという声が出始め、やりにくかったのです。電算処理推進委員会の総意を社長に伝えて手を引いてもらいました。委員長のK藤早苗常務がポルトガルで会議中に脳出血を起こし療養中の出来事でした。リハビリを兼ねて会社に毎日数時間来ていました。通勤電車の混雑は無理でしたので1時間ほどずらして出勤していました。早稲田の理工学部出の温厚な人でした。わたしをかわいがってくれました。辞めるときに「ebisu君、申し訳ない、体がこうでは何にもできない、すまない」、リハビリ中のK藤さんが仰ったんです。申し訳ない気持ちで一杯でした。K藤さんはついに業務を担当できるようにはなりませんでした。申し訳なかっです。もう一人防衛庁から来ていたF田特定営業担当取締役もずいぶん面倒見のよい人だったのですが、辞職する2年前に50歳代で亡くなりました。工業英語に堪能な方で、日本語にしにくい available の訳し方はこの人が教えてくれました。茅ヶ崎の方のお住まいで、帰りの電車ではワンカップ大関を二つ飲みながら電車を楽しむほどお酒好きな人でした。営業系の二人の取締役がわたしの能力を買ってくれていました。83年に、社長の関さんはトイレットペーパーで有名なスコッティ社から大学同期の友人を引き取り、取締役管理部長に据えました。それまでわたしの上司であった取締役管理部長は営業担当取締役に変わりました。当時わたしは管理部と新設された電算室の兼務でしたが、この人を好きになれませんでした。でも仕事は別です。なんとなく古くからいる役員と社長とその友人の役員という対立軸ができていたようです。
 1983年の12月のことでした、業務課長のYさんから、「ebisuさんまたMさんが社長室に来ていたよ」というので、建物が別だったので社長に社内電話で「Mさんが昨日来ていたのですね」と尋ねたら、「・・・」、言葉が出てきません、困った感じが伝わってきました。建物が別だったのでわからないと思っていたのでしょう。業務課長がわたしに知らせるとは思わなかった。「任せてもらえるなら統合システム開発は責任を持ってやりますが、Mさんとでは仕事を教えながらやらなければならないので短期間の開発は無理です、統合システムはまったく新しい技術で、SE経験もなくコンピュータメーカの営業をやっていたくらいの知識では無理です、どうしますかMさんに任せるならわたしは手を引きます」、終始無言でした。「お返事がないということは、お友達を大事にしたいということのようですね、わかりました、辞表は上司に出しておきます」、それで終わりでした。
 ちゃんと引き継いだつもりでしたが、システム専門知識がまったく無い業務課の社員でしたから、その後統合システム開発は失敗に終わります。私が作った二つのシステムと経理のパッケージシステムがそのまま使われていたようです。
 この事件の前にもう実はひとつ信頼関係を傷つける伏線があったのです。わたしより半年ぐらい後で中途入社した2歳年上の総務課長が関わっていました。よく飲みに行って仲良く仕事していましたが、曲者でした。気分の悪い件が二つ続いたので、天意を感じたのです。ここを離れろと天が兆候をみせてくれたような気がしました。だから迷いがありませんでした。年の暮れの12月初旬に辞表をだしたはいいですが、次の宛てはまったくありません、年が明けてから考えよう、いまは引継ぎに専念しようという気持ちでした。
 引継ぎに1月末までかかりました。送別会は東京営業所の女子社員と一緒でしたから、大阪営業所からも来てくれました。社長だけが来なくて、他の役員や部長職は皆さん来てくれました。懸案だった利益構造も財務安定性も5年間でがっちり確保したので、心置きなく飛び立つことができました
 2月に営業部長のSさんから、帝人エレクトロニクスに友人がいるから、課長で転職しないかと声がかかりましたが、そのときにはもうSRLで働いていましたのでその旨伝えました。「そうだろうな」と一言、ありがたかった。帝人エレクトロニクスはシステム部門を別会社にしてできたようですが、消滅しています。どこかと合弁会社形態をとって経営がうまくいかず、帝人側で引き取って処理したと、帝人本社の常務取締役I川さんから聞いたような気がします。後で私が帝人と臨床治験の合弁会社の経営を任されるとは夢にも思いませんでした。なぜ帝人の合弁会社の経営がうまくいかないのかも、合弁会社をやってみて気が付くところがありました。帝人の本社エリートは東大と一ツ橋大の出身者がほとんどです。だから、東大や一ツ橋の部長職に子会社や合弁会社の経営を任せてしまうのです。おおむね頭が固くて学力が低く、腹の据わっていないことが共通しています、上を見て仕事しているのです。企業経営では常に足元を見ている必要があります、能力が普通では上を見ていたら足元が見えません、失敗するのはあたりまえです。
 日商岩井から来ていた総務部長からも連絡があり、紹介したい会社があるのでどうかとお誘いを受けましたが、これも「ありがとうございます、仕事するところが見つかりました、もう働いています」と伝えました。
 セキテクノトロンは私が辞めた年に1浪して東大に入学した三代目がその後経営を引き継いだようですが、2008年に業績悪化で上場廃止・吸収合併されています。磐石な経営基盤を造りましたが、25年しかもたなかった、その間にいろいろ準備することはできたはず、経営者の責任は重い。社員持株会で株を持っていた社員がかわいそうです。東大入学程度の学力では企業経営はとても難しいのです。もっともっと高いレベルを要求します

 引継ぎ中の1月にリクルートのSPIテストと面接を受けて、偏差値72で7段階の最高ランクに位置づけられ、優良企業10社ほどからきている求人ファイルがオープンになりました。34歳でした。
(「SPI試験は頭の柔軟性を見ているものだから、実務を十年間やっていたら、偏差値は下がります、5年たったら転職希望が無くてももう一度来てください、興味があります」、そのときに経歴書を見ながら面接を担当した人に言われました。)
 その中から業種が違って面白そうな会社を選びました。過去五年間の損益計算書と貸借対照表も資料の中にありました。専門家ですから、ざっと見ただけで要点がチェックできます。SRLは売上高経常利益率が5年間連続して12%を超えていました。売上高成長率が毎年20-30%もありました。典型的な成長企業でした。本社は都庁が移転してくる前の新宿西口、NSビル22階と23階でした。まだ東京に超高層ビルが少なかった時代です。超高層ビルで働くのも悪くないな、そう思いました。じつは、このファイルの中にフェアチャイルド・セミコンダクター・ジャパン(半導体製造会社)がありました。世界的な財閥フェアチャイルドの子会社でした。管理職で年俸850万円(1984年大卒の初任給は135,800円でした)で、一番給料が高かったのです。業種がまったく異なる臨床検査業のほうに興味がわきました。五年分の損益計算書と貸借対照表をみたからでしょう。FCSJ社のほうを選んでいたら、まったく違った人生だったのでしょう。人生はいつもどこかで分岐していきます。

 仕事がしたかったので、3日程度の気分転換休みを経て、2月の第1週目からSRLへ出社しました。このような経緯を経て東証Ⅱ部上場準備中の国内最大手の臨床検査会社へ上場準備要員の最後の一人として転職しました。当時西新宿のビルの中では一番家賃の高いビルでした。窓の下には新宿西口公園が見えます、快適この上なしです。その後SRLは東証Ⅱ部、ついで東証Ⅰ部上場を果します。
 この会社では入社して2ヵ月後に上場準備のための統合システム開発と半年後に予算編成統括担当となって財務部門で2年9ヶ月仕事をしました。
 輸入商社の統合システムを途中で放棄せざるを得なかったので、フラストレーションがたまっていました。それを吐き出すように仕事をしました。当時富士通製の一番大きなメインフレームを必要とした統合システムでした。関商事の汎用小型機2台のシステムとは規模も投資額も比較になりません。ソフト開発費用だけで7億円くらいかかったはずです。結果から見ると、輸入商社を辞職しなければこの開発にタッチできませんでした。やはり、天の意思が働いたのです。面白いことに、このシステムを一緒に開発したNCD社のM山さんもその後取締役になっています。わたしと仕事したSEは皆さん優秀なんです。(笑) そんなSEでもお手上げのことが一度だけありました。支払い管理システムの残高以降ができないと本稼動後の半期決算で問題が生じたのです。3名のSEがお手上げというので、話を具体的に聞きたいのでどこがダメなのか明日ファイル・フロー図をもってきてくださいとお願いしました。翌日、1m四方くらいもあるチャートに百数十個のファイルが流れ図として描かれてありました。それを広げて処理を追いかけながら説明を聴きました。聴き終わったところで、あるファイルを指差し、このファイルを使って、こういう処理をしてくださいと伝えました。「どうですか?まだ不可能ですか?」、「え、・・・できます」、それからは扱いがガラッと変わりました。ようやくスキルをお分かりいただいたんです。実務設計図や外部設計だけ見たって技術レベルがわかりそうなものですが、ユーザー部門でSEと匹敵するほどのスキルを持った顧客がいなかったのでしょう。「面白そうだから、わたしが内部設計やプログラミングもしましょうか?」、そう申し入れると、「仕様書だけにしてください、あとはわたしたちがやります」とあせっていました。ジョークだったのですが、マジにとられました。コンピュータシステム設計で一番難しいのは実務設計なんです。いままでにない実務を具体的に想定しながら、破綻をきたさないようにデザインするのです。しかも、システム化以前よりも精度は10倍以上、人は1/10以下か、ゼロにしてしまうのですから、ここがコンピュータシステム設計の要なんです。システム化を上手にやると、生産性が数倍になりますから人件費が大きく浮きます、そして精度が比較にならぬほど上がってしまいます。そういう現実を見て仕事をしてきました。
 市立根室病院は電子カルテの実務設計をせずに建物の建築仕様を決めてしまいましたが、あれは大失敗なのです。電子カルテの実務設計をすれば建築仕様が大幅に変わるんです。外来診療レイアウトがまるで変わってきます。たぶん今頃やっているのでしょう。建物レイアウトはもう変えられません。わたしのところに相談に来たらよかったのに、ふるさとですからボランティア、タダです。根室の町のエスタブリッシュメントは根室の外に出たことが無い人が多くて視野が狭く排他的で偏屈です、人材がいても使い方を知らない。これでは世の中にあまたいる優秀な人材から見放されます。類は友を呼ぶっていうのはほんとうのようです、オール根室のメンバーをみたらよろしい

 閑話休題、統合システム(販売会計(請求)システム、購買在庫管理システム、原価計算システム、財務・支払い管理システム、投資および固定資産管理システム)の核である財務・支払い管理システムと各システムとのインターフェイスを8ヶ月で終わってノートラブルで本稼動してから、投資および固定資産管理システムのデザインと開発を半年掛けてやりとげ、退屈になったので、86年8月に「臨床診断支援システム共同開発計画」案を作成して、創業社長の承認をもらっています。総事業費200億円でした。NTTデータ通信事業本部と事業化案の検討をしましたが、当時のコンピュータの性能と通信速度が要求仕様を満たしていませでした。20年後でも無理だという判断になり、中止しました。しかし、その中に含まれていた10個ほどのプロジェクトのうち、臨床検査項目コードの標準化は、臨床病理学会の臨床検査項目コード検討委員会の櫻林郁之介委員長と業界大手6社の項目コード共同研究会をつないで、数年をかけて日本標準臨床検査項目コードが決まりました。いま全国の病院のシステムがその標準コードで動いています。もちろん市立根室病院もその臨床検査項目コードで動いています。保険点数の改定や新規項目ができるたびにメンテナンスされて、インターネットで配信されて全国の病院が利用できるようになっています。病院のパッケージシステムが、このコードを前提にできています。保険点数の改定データの配信事務局はたぶんいまでもSRLでしょう。企画案の1/10だけは実際の役に立ったのです。保険点数が変更になっても、臨床検査項目については全国の各病院でコードと保険点数の入力作業が要らなくなりました。本当は臨床検査項目コードの世界標準を作る企画でした。システム部門と学術情報部門が協力して日本標準コードを作る体制を社内に構築したので、途中でわたしは手を引きました。櫻林先生、世界標準まで持っていけませんでしたね、ターゲットについて櫻林先生に話しはしてあったので日本初の世界標準コードをつくるチャンスでした。櫻林先生は河合先生(臨床病理学会の国際学会長)の一番弟子自治医大の助教授でしたが、産学協同による日本標準コードは大きな業績ですから、この仕事で教授になったのでしょう。名前は郁乃介と刀を差して歩いているようなイメージですが、ebisuよりも2歳ぐらい年上ですから、お元気だったらまだ現役かもしれません。楽しい仕事でした、快く協力してくれた櫻林先生と臨床検査業界大手六社の学術部門とシステム部門の関係者の皆さんにありがとうと言いたい。SRLのシステム開発部課長だった栗原さんと立ち上げ当初は臨床化学部長でその後学術情報部長になって一貫してSRL側でこの仕事を支えてくれた川尻さんにも感謝です。SRL社内にこの二人がいなければ実現できなかったでしょう。とくに栗原さんはシステム開発部長の大反対を押し切って、「馬鹿いってんじゃないよ、ebisuさん俺やるよ」と勇ましかったな。臨床診断支援システム開発とその共同事業化構想では栗原さんがNTTデータ通信事業本部に仲介してくれました。

 上場準備要員として中途入社し、財務部で予算の統括管理と統合システム開発をしていましたが、統合システム開発は8ヶ月で完了、上場用件クリアのために減価償却費の予定計算精度を上げなければならず、固定資産台帳システムを「投資および固定資産管理システムへ改良」しました。個別の投資案件を入力できるようにして投資計画と既存の固定資産の両方のデータから減価償却予定学を計算できるように作り直したんです。予算管理もしていたので、一番大きなターゲットである検査試薬のコスト削減(目標値10億円)を提言したら、本社の方から八王子ラボ購買課へ出向してお前が担当しろということで購買部門へ2ヶ月の社内出向、それが満了になると成果を評価されて購買課へ異動、システムと検査機器担当を3年間やりました。
 仕事中にチョムスキーの "Knowledge of Language" を読んでいたら、そこへ学術・開発・精度管理部門の担当役員のI神さんが通りかかって、「何を読んでいるんだ」と問われて本をチェックされました。後で呼び出しがあり、「俺のところへ来い、学術開発本部スタッフとして、開発部と学術情報部と精度保証部の仕事をしてもらいたい」と誘われて異動、学術開発本部スタッフとなり、製薬メーカと検査試薬の開発部業務や出生前診断検査システムの開発を担当し、慶応大学病院産婦人科教室と国内MoM値共同研究を担当。学術情報部の仕事ではラボ見学希望者の案内(学術情報部に専属の3人)のうち海外製薬メーカ分を担当、3000項目の臨床検査があるので、ラボは検査部門が9部門あり、案内と解説は専門知識が必要でした。検査機器に関しては基本構成はどれも同じだったから、説明だけなら簡単で楽しかった。普通は1-2年間ほどトレーニングが必要です。私は一度、学術情報部のラボ見担当スタッフ三人についてやり方を一度見せてもらっただけですが、その翌日には大学病院のドクターを案内していました。検査機器についてはSRL社内では一番詳しかった。
 精度保証部の仕事はCAPライセンスの準備のお手伝い。3000項目の標準作業手順書を日本語と英語の二通りの電子ファイル化作業が進行中でした。CAPライセンスは世界一厳しい米国の品質管理基準ですから、米国から査察に来ます。資料は全部英文で用意する必要がありました。2年に一度やってました。

 購買課で3年間の機器担当したいたときにラボ内の検査機械は全部見ました。理化学機器のデパートでしたよ。原子吸光光度計、日立の血液自動分析器、染色体画像解析装置、電子顕微鏡、カールツァイス蛍光顕微鏡、赤外分光光度計へかける前の結石前処理ロボット、HP社のガスマス、液クロ、遺伝子増幅器、ガンマカウンタ、LX3000、2次元電気泳動装置、マイナス150度の冷凍庫、メトラー社製電子天秤(ラボ内の電子天秤はメトラーに統一)、PⅢ仕様のエイズ検査室・・・。
 共同開発もいくつかやりました。偶然がいくつも重なって栄研化学のLX3000という酵素標識の大型自動分析器が開発中であることがわかりました。契約書を作成したいと担当営業から相談があったので、契約書を整備するのは東証Ⅱ部上場要件ですから、ピンときました。「上場準備中だろう」というと顔色を変えて「どうして知っているんですか、外部に漏らしてはいけないって難く口止めされているんです」とあせっていました。上場準備のある件で困っていたので営業マンを通じて相談に載ってあげました、その見返りに開発中の酵素系の大型自動分析器の話が舞い込んだのです。市販する前にSRLで最終インスタレーションテストをやってあげるよ、そうすれば問題は全部つぶせる、完璧な製品として売り出せるだろう。その代わりに、1年間の独占使用契約を結びました。酵素標識の検査はRI標識に比べて3桁、1000倍も測定精度が上がるのです。この大型自動分析器にはずいぶんたくさんの項目が載りました。設置してすぐに午前中の2時間ぐらいデータの再現性が悪いことがわかり、現場とメーカでもめていましたので、間に入って調整をしています。2時間前からプレヒートで切るように細工をして凌いでもらいました。原因はじっくり見つけたらいいと伝えて、問題は解消です。なぜ文系の私のそういうメカの調整ができるのか不思議でしょう?産業用エレクトロニクスの輸入専門商社に5年間いたので、毎月東北大の助教授が来てマイクロ波計測器についての勉強会がありました。営業は全員理系大卒ですから営業マンと技術部門の人間が参加していました。その勉強会に管理部門から参加したのです。コンピュータ・プログラミングは3言語できたし、コンピュータの内部動作についても専門書で勉強していたので、マイクロ波計測器は理解できたのです。ディテクターとデータ処理部とインターフェイスの3つに分かれるので、測定原理はどんな計測器でも同じなんです。ディテクターの周波数やチャンネルがひとつかマルチであるかの違いがあるだけで、データ処理部はコンピュータですから、講習に出ていても理解できるのです。営業マンからも技術部の人間からもとっても信頼されました。欧米の50社と総代理店契約をやっていましたが、オシロクォーツ社の周波数標準機(時間計測)が取り扱い品目にありました。営業マンの話だと、設置してから火を入れて(電気を入れることを「火を入れる」と彼らは言います)、一ヶ月しないと規定の精度が出ないのです。水晶、ルビジウム、水素メーザなどの種類がありました。そういう知識があったので、トラブルの原因もその対処法も見当がつきました。
 欧州の製薬メーカであるファルマシア社と試薬の価格交渉時に値引きを要求したら、頑として応じる姿勢が無いのです。試薬の日本国内の販売戦略を変えたら、3倍くらいは売れるよと説得して、値引きをしてもらいました。製品が良いのだから、定価販売しかしないという方針だったのです。日本では定価販売を通すとストレスがかかります。仕入れ担当者が関西人なら値引き交渉は挨拶のようなものです。郷に入りては郷に従え、見事に図に当たりました。日本支社長ご栄転でした。だから、たいがいのことは協力してくれました。液体シンチレーションカウンターはバイアル(ガラスのビン)に検体が入ってベルトコンベアで次々に流れてガチャガチャ音を立てながら測定するのですが、検査需要が膨らんで検査室は天井までバイアルが並んで危険な状態でした。ファルマシアLKBが96穴の紙フィルター方式のマルチチャンネルの液体シンチレーションカウンターをSRL用に開発してくれたんです。分注はSRL側で自動化したので一気に96検体の検査ができます。一台でそれまでの液体シンチレーションカウンター96台分ですが、実際には測定時間が延びたので10倍程度検査効率が上がりました。バイアル96個分がたった一枚の紙フィルターですから保管場所はがらがらになりました。スカスカになった検査室で検査担当者が「これで地震が来ても安全だ」と歓んでいました。2台で間に合うようになりました。LKBは相談を持ちかけたら、ガンマカウンターもSRL仕様で製品開発をしてくれたんです。カタログにSRL仕様とうたえば日本国内の大学病院の検査室や大手臨床検査センター6社にが一気に買い換えるだろうとススメました。SRL仕様が日本では標準ですから、カタログに載せれば全国で販売できます。ウィン・ウィンでした。真っ白で生活観あふれるすっきりしたデザインの製品でした。デザイナーが製品開発に関わっているようです。テストで1台入れてラボを離れましたが、数年後に見たら、全部ファルマシアLKB製に変わっていました。

 学術開発本部へ異動してから、各自ばらばらにやっていた製薬メーカの検査試薬開発業務の標準化をPERT chartを利用してやり遂げ、進捗具合が見えるようにしました。学術営業部門で暗礁に乗り上げていた沖縄米軍の以来の出生前診断と慶応大学産婦人科教室との出生前診断共同研究などを次々に問題解決して軌道に乗せたので、頼りにされていました。
 あるとき、子会社管理部門が新設されるので社内公募があり応募したのですが、副社長の谷口さんがラボにわざわざ来て、異動の件は上司の担当役員に話すなと口止めされてしまったのです。話したら今回の異動はつぶれるというのです。I神取締役が承知するわけが無いというのです。決まって事例が出るまで黙っていろと言われて、あの時は困りました。I神さんから叱られましたよ。本部のマネジメント業務で頼りにされていましたから。青山学院で有機化学を教えていた方で、住友金属の検査子会社のラボ所長をしていましたが、見切りをつけてSRLに転職した人でした。住金の検査子会社もその後買収しています。
 異動して数ヶ月たったころ、上司のI神さんは、「数年したら、ebisuに使われているかもしれないな」、そう言いました。開発部にも学術情報部にも精度保証部にもわたしのようなマルチで仕事を担当して同時にマネジメントのできる人材がいなかったのです。

 子会社管理部門に異動して、25項目のレーダチャートと線型分析を利用して総合偏差値による子会社経営分析ツールを開発しました。これも産業用エレクトロニクス輸入商社でHP-96を使って独自開発したシステムをEXCELに載せただけですから、数日で完成。
 三井物産から買い取った千葉の臨床検査子会社の検査および業務系システム開発を親会社の方から参加して担当しました。システム稼動後の損益のシミュレーション資料も稟議書に添付しました。半分くらい進んでいたので途中からタッチしましたが、稟議資料の大半はわたしが作成。同じ人数で4倍量の業務量がターゲットでしたが、予定通りに稼動し、4月以降の健診受託が数倍に跳ね上がり、一気に黒字転換しました。これで、一般臨床検査会社を黒字にするノウハウが得られました。ラボシステムの作り方しだいで生産性が4倍に跳ね上がるのですから、臨床検査会社の経営改善は簡単でした。
 そうした知識と経験をベースに営業から持ち込まれた二つの臨床検査会社の経営分析と経営改善提案を担当して、北陸の臨床検査会社1社の買収と福島県郡山市の臨床検査会社への資本提携交渉を担当、両方の交渉が終わったところで、どちらか選べといわれて福島県の臨床検査会社を選び取締役経営管理担当役員として出向。1年間で染色体検査に関わる具体的な目標値をもった経営改善案を作成し、実行しようとしたところで、出向解除、本社に呼び戻されてしまいました。15ヶ月の出向でした。SRL本体の2倍の経常利益率が実現できる劇的な経営改善案だったために親会社創業社長のF田さんからストップがかかってしまいました。そんなによくなったら、本社役員として郡山の会社の社長を迎えなければならなくなります、そして業績はグループ企業ナンバーワンになりますから発言権も強いものになってしまいます、それが嫌だったのでしょう。赤字企業に1億円出資して、行き詰ったら役員を全員追い出して子会社化するつもりだったのです。わたしは、F田社長から郡山の赤字の会社に出向して3年で経営改善しろと言われてましたから、ラボを現地調査して、素直に経営改善案をつくったのです。読みが浅かったのかもしれません。創業社長はわたしが出向しても3年間で行き詰ると読んでいたのでしょう、わたしは余計なことをしたわけです。 
 その後本社に戻り異例の3部門(社長室、管理会計課、購買部)の兼務、つまらないので、問題山積みの一番古い一般臨床検査子会社SRL東京ラボへ出向、親会社を含めてグループ全体のラボ配置を変える構想で動いていました。具体案を固めてから親会社へ相談するつもりでした。150メートルの平面ラインのラボをつくる構想をまとめて、子会社社長のM輪さんを説得したところで、本社社長から帝人との合弁事業である治験検査会社の立ち上げが暗礁に乗り上げたので何とかしろとの指示があり、呼び戻されてしまいました。東京ラボのM輪社長から話があると社長室に呼ばれたら、下を向いてしばらく間がありました。雰囲気が普通ではなかったので、「どうしたんですか」と訊くと、帝人との合弁会社の立ち上げが暗礁に乗り上げているので、ebisuを担当させると親会社社長のK藤さんからの直接の指示だから、もうどうにもできないというのです。
 合弁会社立ち上げのプロジェクトは半年ほど前からスタートしていました。11月頃だったか、新聞発表した1月スタートの予定が間に合わないというのです。期日までに合弁会社を立ち上げられるのは社内ではebisuさんしかいないと主張したのでそういうことになってしまったのです。プロジェクトメンバーの半数は帝人の臨床検査子会社の社員でした、調整と決定に忙しい目に遭いました。
 プロジェクトの最初の打ち合わせに本社へ着いてエレベータを降りたところで外出しようとしていた社長のK藤さんに偶然遭って、立ち話、やれるかと問うので、経営の全権をわたしに任せてくれるならKさんが期待している仕事は期限内に全部クリアしますと返答したら、目標三つと期限の提示がありました。目標であった三項目は①臨床治験検査受託事業の黒字化、②帝人の持ち株の引き取りによる合弁解消、③帝人の臨床検査子会社の買収、これらを3年間でやってもらいたいということでした。合弁企業をスタートさせる前から、業績改善と合弁解消を考えていました。臨床治験検査受託事業はどちらの企業でも赤字の部門でした。2年9ヶ月で三つとも仕事をやり終え、1999年に9月末で退職。そのままいれば本社役員のポストぐらいはありました。でももうあとは簡単でどきどきしなくなっていました。臨床検査に関しては経常利益率20%くらいはやり方しだいで可能です。わたしがK藤社長の下で参謀として采配を振るえたとしても、利益の額が2倍に増えるだけです。
 帝人から出向していた社長のHさんは、まったく縁のない臨床検査子会社経営を任されてうまくいかず精神的におかしくなっていました。臨床検査子会社の方の大阪営業所があるときHさんに呼び出されました。大声で怒鳴り散らしていたのを他の社員が聞いています。翌日自殺しました。このときに計画を早くしないとまた何か起きかねない、と判断したのです。
 一ツ橋大学出身のHさんは臨床治験の合弁会社の社長も兼務していました。その子会社で赤字部門だった臨床治験検査受託事業を、これからどういう風に事業展開するのかHさんの説明では合点がいかなかった帝人の専務と常務が「Hに訊いてもわからん、どうなっているのかebisuさん一度来て説明して欲しい」と帝人本社に呼び出されました。常務と専務の前で緊張してHさんしどろもどろでした。震えていました。データ管理業務でパッケージシステムを作ってそちらの売上を事業全体の半分程度に増やして、赤字経営から黒字経営に改革するという案でした。「ああ、そういうことか、わかった、その案を承認するからその通りにやってください」と本社役員お二人のお墨付きをいただきました。
 準備に1年かかり、スタートするとデータ管理事業の売上が急拡大、それと一緒に臨床治験検査も受託できるので相乗効果が働きました。3年目に黒字の計画でした。
 精神的におかしくなったHさんを飛ばして、帝人本社のI常務と、株の引き取りや臨床検査子会社の買収交渉を始めました。合弁会社・社長のHさんは抜きでの交渉でした。帝人はあっさり認めてくれました。こう言ったんです、「合弁会社はいつも赤字でどうしようもなくなり、帝人側で引き取って処理してました、こんなケースは初めてです」そう言って35年やっていた臨床検査子会社もSRLへ売却を了承してくれました。I常務は「新社長はebisuさんやってください、社長だったHは帝人本社に引き取ってそれなりに処遇したいので認めてください」と言いました。ニッコリ笑って了承しましたが、これを機会にSRLを辞めようかと考えていました。

 仕事が暇になると、ナンバーツーの会社を買収する具体案も練っていました。公正取引委員会がノーというでしょうから、叩き潰す案になってしまいます。ナンバーツー企業が他の臨床検査会社の草刈場になるだけのことですから、路頭に迷う社員がかわいそうです。ナンバースリーの三菱BCLをナンバーワンにする戦略もシミュレーションしていました。頭の中でおおよそのところができてしまえば、あとは現実に移すだけで、そう困難はありません。段取りするとことが面白いのです。具体案があれば、仕事のできる人ならなんとかやれます。

 かねてから話が持ち込まれていた、郡山の臨床検査会社の社長のT橋さんの仲介で、2000年に首都圏で300ベッド弱の病院で常務理事として病棟建て替えをやりました。
 なぜ、転職したかを書いておきます。郡山の臨床検査会社へ役員出向した平成5年にオヤジが亡くなりました。郡山の会社は地域の臨床検査会社と合併を繰り返して大きくなりました。その中の一人の息子さんが事故で亡くなりました。ちょうど葬儀が重なってしまったのです。社長のTさん、東京から栃木県まで遺体を運ぶ段取りをして、そちらの葬儀には出席せずに、根室まで夫婦できてくれたんです。あの覚悟に惚れました。いつか無理難題を聞いてやろうとそのときに思いました。一度はSRLのF社長と無茶な交渉を頼まれました。もちろんやってあげましたが、いろいろ経緯があり15ヶ月で出向解除になりました。SRLを辞めて郡山の会社に転職することを恐れたのでしょう。千葉ラボのシステム開発で同じ人数で業務量を4倍にする方法を知っていましたから、正攻法でも赤字会社を黒字にすることは簡単だったのです。染色体検査とシステム開発による黒字化という二段構えでした。SRLで仕事をしている方が大きな仕事ができるので、SRL創業社長のF田さんの帰還命令に従いました。
 T社長は90年代はじめころに首都圏のある病院が負債50億円で倒産した件で、理事長を救ったことがありました。ヤクザが絡んで理事長は命まで狙われるようになったのです。新宿のヤクザの事務所で話をつけたそうです。警察に空手を教えていたこともある人ですから、勇ましいのです。大型病院を買収して経営に乗り出したのですが、医者ですからマネジメントができないのであっというまに50億円の負債を抱えて倒産しました。小規模病院である市立根室病院を考えても、3年間の累積赤字が50億円ですから、400ベッドクラスの大病院ではあっというまに債務超過額が膨らみ倒産します。結局、理事長のお父さんが一部上場企業のオーナでしたから、その持ち株を全部処分してケリをつけました。だから、兄弟姉妹の仲が決定的に悪くなりました。その後、特例許可老人病院を経営していました。建物が古いので建て替えの必要があったのですが、病院スタッフでは県との交渉がたいへんですし、建て替えのゼネコンとの交渉も無理でした。郡山の社長が相談を受けていたのです。
 相談を受けて何度か会いました。建て替えするだけでなく、療養型病床の病院を核にして、老健施設やグループホーム、訪問介護事業などを展開してシームレスなケアをできるビジネスモデルを展開するつもりでした。一つ作れば金太郎飴方式で30個くらいは全国展開できます。事業規模は1000億円以上に拡大できそうでした。熨斗をつけて100億円くらいは兄弟姉妹にわけてやればいいのです。
 これは目論見が失敗しました。職員がなついてしまって、理事長が不安になったのです。病院を自分のものにするつもりなんてこれっぽちも無かったのですがね。それどころが、十倍にも百倍にもしてあげるつもりでした。
 無欲は時に疑心暗鬼を呼びます。理事長の運転で1200万円のベンツの助手席に乗っている時の事でした、「ebisuさんこの車あげる」っていうんです。まだ購入して1年ほどでした。「常務理事として給料いただいているのでそれで十分ですからいりません」と断りました。それから一月ほどすると、「病院近くに6000万円で中古の建売住宅の売り物が出たので、それを買ってあげる」というのです。「十分報酬はいただいてますから」とそれも断りました。そうしたら、こう言いました。「常務の職に就きたいと思う人が多いけど、ebisuさんはあまりそういうことを思わない人のようだね」と。あげるという物をもらわないと疑心暗鬼になる人がいるということを初めて知りました。理事長の個人的事情は仲介者からある程度聞いてはいたのですが、わたしは配慮に欠けていました。無邪気に仕事をちゃんとすればよいだけと思っていたのです。個人的な関係のほうが大事でした。
 建て替えはあるゼネコンと話が進んでいましたが、当初計画の10億円が仕様変更で15億円まで膨らみ、おまけにキャッシュバックの話まで出ていたので、常務理事に就任するなり最初の仕事はそこと手を切ることでした。知っている職員がいましたから、労務問題で何かあったら補助金を返済しなければならないような事態が起きかねません。だから、中止の必要がありました。曹洞宗の本山である総持寺所有の病院にも手を出そうとしました。一般病院で、職員ともめて裁判係争中でしたのでこれもとめました。横浜の港未来地区に病院を出さないかという「おいしい」話もありました、これは企業舎弟が絡んでいたので、手を引かせました。懲りないのです。
 実務をデザインして、各担当職員に確認し、仕様を取りまとめて知り合いのいる新日鉄のゼネコン部隊と交渉しました。療養型病床の病院ですから、総合病院とはだいぶ違いますが、RC造で11億円で建て替えました。ちゃんと仕事をすると、建築コストはこんなに減らせます。藤原市長へ会談を申し入れたら、担当の二人にあってくださいというので、建築設計書を取り寄せては道庁から出向していた総合政策部長のK山さんと、病院側で担当していたK池さんへ渡しています。2000年で坪単価65万円でした。130万円が道の基準だとそのとき説明がありました、民間ではよほどずさんな仕事をしない限り、130万円なんてかからない、坪単価130万円なら大理石の病院が建ちますと伝えました。結局市立根室病院は建て替えに坪単価130万円かかったようです。
 ベンツと中古住宅を買ってあげるという話を断り、その後ギクシャクしたので、神奈川県や横浜市との建て替え補助金申請書類ができあがり、工事が始まったところで、手を引きました。常務理事を引き受けるときに10年間で1.8億円の報酬契約書を締結していましたが、契約は解除しました。得したと思ったかもしれませんが、理事長は大損したのです。わたしに任せておけば、1000億円規模の事業のオーナーになれました、個人資産も20年ほどでそれくらいにはなったでしょう。社会的にも有意義な事業でした、もったいない。
 そのあとは、就職斡旋会社の紹介で経営企画次長職で、ある外食産業の上場準備のお手伝いを1年間して、ふるさとに戻って小さな塾を開いたといった一風変わった経歴の持ち主です。
 やりたいことをやりたいときにやりたい仕方でやる、それが楽しみです。



      70%       20%      
 日本経済 人気ブログランキング IN順 - 経済ブログ村教育ブログランキング - 教育ブログ村


nice!(1)  コメント(11)  トラックバック(0) 

nice! 1

コメント 11

tsuguo-kodera

 素晴らしいと思いました。細く長く生きることに意味がある。細い程度は人によってそれぞれ。我々の世代は自己満足の範囲でするのが最善でしょう。
 私は鈴木さんの支援は週1日にして、週1でデイサービスに行こうと思って探し始めました。まだ私がサービスを受けるほどボケてはういませんが。
 私のボケは地です。誤字脱字、氏名忘れは私の定番でした。おっちょこちょいの調子ものが私の本性なのです。でも、実は創造性の開発には適した性格だったのです。
 麻雀と将棋と花札なら小学校から時から大学まで、強かった。koderaはひっかけが多い、役満も多い、インチキしているだろうといわれていたのです。もちろん下手の横好きだけ。でもツキを信じて打っていただけです。ツキは信じていたら来るのです。
 やった役満はスウアンコと国士無双と大三元が多かった。国士無双とスウアンコはラス前でテンパって、拝呈で自模ったことがありました。大三元は配牌でイシャテンだったこともありました。三元牌が二つ暗刻。一つはトイツ。
 いつも全く期待していなかったのに逆転のホームランがりました。役満を半チャンで2回上がったこともありました。へぼなのに。強い相手で負けそうなほど、勝ちたい勝負だと、いつも凄い付きがありました。
 そういえば、言ったと思いますが、東大受験で帰ってきて、棚に小銭をほおったらなんと十円玉が立ちました。父の予想問題が当たった以上に、私は奇跡を感じました。私の合格などまぐれだったのです。
 ピンチに私に奇跡的なラッキー事件が起きます。書けないような事件でも、度々です。死んで生まれなかったはずの人間だからか、いつも最後はついていました。
 今回も受験勉強や会社新人教育から足を洗い、老人の介護の支援に飛びこんでみようと思っています。超ラッキーな事件が起きるかもしれないし、ゼロはゼロかもしれないし。何でも良いのです。
 遊びは野球小僧生活が市民バドミントンに生きました。実績なら十分です。今日も開成卒のお医者さんに体育館で診断を受け、MRIの病院を決めて頂きました。彼は自分も半月板損傷で良い先生と懇意になったそうです。
 私はバドはしばらくこのまま続け、麻雀と将棋はデイサービス支援に生かそうと思っています。将棋と麻雀の経験を生かしたいと思い始めたのです。
 私はすべて無料サービスですので始めるのもやめるのも自由。これが無料の最大のメリットです。またいろいろな事件がありそうな予感がしています。予感だけで十分です。だって息がある限り夢を見たいのです。夢の続きを見たいからです。
by tsuguo-kodera (2016-11-06 13:36) 

ebisu

koderaさん

続けることに意味があります。
会社員生活のときは撤退戦を戦ったことはありませんが、根室の中高生の激減(12年前の6割)、と低学力層の肥大化と高学力層の枯渇化が同時に進んでいる中で、来年4月から高校が1校に統廃合されます。
だから塾はほとんど不要なのです。
そういう中で、続けるのは縮小体制をちゃんと整備することです。それと体力維持を同時にやること。
やりたいことを、ケセラセラと楽しみながらやればいいのです。

そうですか、老人介護の支援に飛び込みますか、思いっきりが良いですね。
青春してますね、心が若い!
by ebisu (2016-11-06 14:35) 

tsuguo-kodera

 今朝も再度この記事を読みました。国語の勉強をしなかった私でも凄いことが書いてあると感じました。二度目ですのでさらに深く理解できたのでしょう。校正があったのも一助かも。
 直感で良いと感じたものは本だろうと、公式だろうとモデル論だろうと、実践論だろうと、4回読んでよく考えるのがkodera流なのです。
 まとめたら伊勢先生は凄い、だけ。吹雪でしょうね。お大事に。気を付けて。
by tsuguo-kodera (2016-11-08 07:26) 

ebisu

koderaさん
再度お読みいただきありがとうございます。400字詰め原稿用紙で40枚を超えているでしょうね。

さきほど、首都圏の病院にまつわることを追記しました。理事長は400床クラスの大規模病院の経営に1990年代初め頃に手を出して、50億円の債務超過になり、ヤクザから付けねらわれたことがあります。そのあたりの経緯はプライバシーに関わる部分があったので、書かずにいたのですが、プライバシーに触れずに追記しました。

原稿用紙1000枚くらいのノンフィクションが一本書けるかもしれません。(笑)
by ebisu (2016-11-08 10:30) 

tsuguo-kodera

 そうですか。私も何でも新規事業に手を出す男でした。ネットカフェの1号店が六本木あたりにできたとき、多分、超大手やくざ屋さんの後妻の方を案内し新規事業の相談に乗ったこともありました。
 日本はやくざ屋さんが新しい仕事をする国です。右も左も宗教団体も役人も、お偉いさんが手をつないでやっているから馬鹿は嵌められてしまうのでしょう。
 後に都知事選に立候補したある方はやくざ屋さんから借金し、操り人形でした。あるとき、講演会のビデオ撮影をしてネットに載せる仕事を頼まれたこともありました。
 両方ともに私にはお金も能力も人脈もなく、手助けできないと頭を下げて断りました。世のため人のためと思って支援していたのですが、断ったあとでその人たちの背景を知ったわけです。知らないから付き合って、力がないから断れた、のです。ないない尽くしは良いものです。
 成城の大みそかの事件、覚えていますか。今でも成城署は真面目に捜査しています。被害者と私はかなりダブった経歴も持ち主だったようです。捜査官が事情を聴きにきました。捜査官と仲良くなりました。参考人だったのかも。(笑)
 私は事件現場場に土地勘があり、やくざ屋さんや総会屋さんと付き合いがあったようです。同僚の課長さんの名刺があったようです。私はその課長さんに新規事業の企画で支援していました。私の名前が警察に伝わっていたようです。色々聞かれました。
 オレンジ共済事件でお金を集めた代議士の話を覚えていますか。下手をしたら仕事をさせられていたところだったのです。彼と一緒に臭い飯を食べた人にいろいろ仕事を頼まれていました。力がないから、お料理の相談に乗っただけでした。(笑)
 まだまだいろいろな危ない経験をしました。始めるときは危ない話だと思いもしないで。その結果、人への支援はお金をもらわずにしようと思い始めたのです。
 小学校にバドクラブを作り、勉強とバドが好きになる子を育てたかった。無料で誰かを支援する仕事です。
 5年ほど、ネットでは10年近くいろいろなところに提案してきました。でもやったのは根室の中学と松戸の小学校の予告編、それぞれ一回。
 体調もあり、この計画は開きにして、私は家のクラブで小学生の遊びバドの比率を増やすことにしたのです。ところがメリットがありました。収入は変わらず、支出は減りました。会員の参加数は変わらず、同伴の子供が増えて、シャトルの消費量が減ったのです。子供はただですので使用済みのシャトルで済むからです。
 今日も新しい活動の、麻雀と将棋のデイサービスを調査しました。結構大手の、良さそうな事業所があることが分かりました。ほとんどの会社は伸びていますが、ブラック企業も多いようにネットから感じています。
 ブラックを避けるために来週あたりから現地調査を開始するつもりです。入り口さえ見たら、ブラックかホワイトかはほとんど分かります。
 私は自分で実践するのが好きなのです。理論はどうでもいいのです。すみません。利用者さえ癒されたらです。もちろん危ない人が居たら逃げますが。情けは人のためならず、私がいつかサービスを受けられるはず。(笑)
by tsuguo-kodera (2016-11-08 11:37) 

ebisu

koderaさん

よかったですね、難を避けられて。欲が無いから天が守ってくれているのでしょう。(笑)
欲のある人が引っかかります。

わたしは小学生の頃からビリヤードの店番をしていました。常連客に地元のヤクザの親分がいました。言葉遣いがとっても紳士でした。声を荒げたことは一度もありませんでした。
子分がたまに連絡に来ることがあると、ここは「○○さんの店だから、出入りはならぬ」と言い渡していることがありました。幹部3人だけ、許可していました。一時期(1960年代後半から70年代)は蟹の密猟でずいぶん儲けていました。

わたしはおとなしい方でしたが、その親分がお袋に、「姉さん、トシボウに何かあったら言ってくれ」
そう言っていたとお袋がボケが始まる10年ほど前に教えてくれました。
ちょっとだけやんちゃなところがあると見抜いていたのでしょう。(笑)
地元の青年実業家が取引で引っかかったことがあります。
オヤジが危ないと心配していましたが、それから数ヶ月でアウト。おいしい話を持ちかけ、取引量が急に大きくなるのです。それまでおいしい話ですから義理ができます、断れないように餌をまいておくのです。人間の心理を逆手に取ってじつに巧妙です。断ると本性が出ます。いきなり言葉遣いが変わり、ヤクザに変身します。
素人はビックして、言いなりになって身を滅ぼします。
ビリヤードの店番で学んだお陰で、わたしはその手の人間の判別がつきます。手口も。余計な欲を出して近づかないことです。

一度、ヤクザ屋さんではありませんが、そういう筋と係わり合いのある人と交渉をしたことがあります、もちろん相手は終始丁寧な言葉遣いですが、あるところで急に声を荒げます。
荒げたところで、目を見て微笑んでやりました。予想通りの行動だったからです。それだけで相手に通じました。お仲間ではないのですが、その手の筋に人は勘がよいのです。脅しが通用しない相手であることを納得してもらうだけで十分です。
その方、二度と、そういう態度はしませんでした。

介護はブラック企業が多いことは事実です、欲の深い医者が絡んでいますから。だから、病院を中心にして老健施設や訪問看護、グループホームなどを配置して、シームレスな介護を実現したかった。一部上場して外部の監視の目が入る企業にまでしてしまえば、ブラック企業を排除できます。
いまから誰かがやればいいのです。
by ebisu (2016-11-08 12:34) 

ebisu

横浜港みらい地区に病院を建設する企画には企業舎弟が絡んでいたと書きましたが、「業界最大手」の組織です。いまでもおっかなびっくり書いています。
埋立地であるあそこの開発で、数百億円お金がその団体に流れたでしょう。関係者には「公然の秘密」です。

暴対法の強化でそういう形態をとらないと生き延びることができなくなったのだと思います。
どうやっても、人に欲がある限り、あの「業界」はなくなりません。存在理由があるからです。
by ebisu (2016-11-08 12:45) 

tsuguo-kodera

 横須賀の防衛大学の前の敷地、大邸宅の人ですね。何代か前の親分でしょうが、私と仲の良い先輩の、東大名誉教授の小学校の同級生だったはず。防衛庁が守っているので、安全な住まいだと先輩から聞きました。
 先輩が東大を定年退職し、防衛大学でロボットを教えていた時、二度ほど訪問し、大邸宅も外からは見学しました。彼曰く、同級生だった、元親分はとても親切な人だと言っていました。
 やくざ屋さんは軽んじてはいけません。彼らは舐められたら商売になりません。やたらに脅かしたり、お金も要求しません。臭い飯を食わされたら、商売に差し支えるからです。
 この業界の裏話はいろいろ知りました。パチンコの海のディスプレイを作っていた部門の技師長をしていましたからです。パチンコ業界も私は好きではありません。
 パチンコ台のビジネスなど、儲かってもやりたくなかったです。でも、あの会社を首になった片山某はサムソンが大嫌い。日本の警察ややくざ屋さんの方が好きだったのでしょう。結構良い男でした。でも職務に比べたら無能かも。巷の法則の通りです。
 片山某も高橋某も、かなり身近な人だったので良く知っています。日本の会社は無難な、継続と拡大が好きな男を社長にするのでしょう。私は富士通の新人の時、IBMに勝って社長になるつもりでした。甘ちゃんだったから。
 でも5年で出世より家族を大事にすることにしたのです。何故か分かりますか。子供と、その友人と遊ぶ方が日本の将来に寄与できると思ったからです。馬鹿を相手にしたくなくなったから。
 そのおかげでバドに力を入れて、娘と息子の中学から大学までの仲間やその仲間がたくさん家の会員になってくれました。
 たくさんの会員が結婚し、子供を育てています。すべての子が私の孫より出来が良いのです。本当です。会員の皆さんはとても家のクラブが好きなようです。未来に貢献できたはずです。でも、この国の未来が暗いのが悲しいのです。
 若い時、早々に役人になることや出世を諦めました。大学の教授や医者など、親戚にいたので実態を知っていました。なりたくもありませんでした。
 でも、最近私は出世を諦めたことを後悔しています。大学の医者になればよかったとも思っています。だからこそデイサービスの仕事や子育てバドクラブに力を入れているのです。細やかですが、本質的に同じような領域の仕事だからです。
by tsuguo-kodera (2016-11-08 18:38) 

ebisu

なにかをやりだすと、それに必要なあれをしておけばよかった、これをやっておいたらよかったと思うのでしょう。

あるがままで良いような気がします。いまできる範囲で今日やれることをやって、眠りにつく、わたしはそれで満足です。

koderaさんも楽しそうですね。

孔子様が笑っています。
-------------------
子曰く、
「之を知る者は、之を好む者に如かず。
之を好む者は、之を楽しむ者に如かず」と。

-------------------
オマル・ハイヤーム『ルバイヤート』 No.120より

はなびらに新春の風はたのしく、
草原の花の乙女の顔もたのしく、
過ぎ去ったことを思うのはたのしくない。
過去をすて、今日この日だけすごせ、たのしく
-------------------

by ebisu (2016-11-08 22:18) 

浦和レッズサポーターの学生

私は女性アイドルの衛藤美彩さんの高校時代の「学業と芸能活動」の両立ぷりをコメントで書かせていただきます。

衛藤さんが15歳で芸能界に入り、商業高校時代在学中に下記の資格を取得しています。
・パソコン入力スピード検定1級
・情報処理検定2級
・商業簿記2級  
・工業簿記2級
・プログラミング検定1級
・全商珠算2級
・電卓実務検定2級
・パソコン検定2級

高校卒業後に乃木坂46というアイドルグループに加入して、主力メンバーとして活躍、今年8月に公認会計士の澤昭人先生と共同執筆した簿記の本を出版されてます。 詳細は税理士の方が書かれている下記のURLを御覧ください

http://terada-tax.com/%E4%B9%83%E6%9C%A8%E5%9D%8246/%E3%81%BF%E3%81%95%E5%85%88%E8%BC%A9%E3%81%AE%E7%B0%BF%E8%A8%98%E3%81%AE%E6%9C%AC%E8%B2%B7%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%81%8D%E3%81%9F/

by 浦和レッズサポーターの学生 (2016-11-26 20:22) 

ebisu

浦和レッズサポーターの学生さん

こちらへも投稿ありがとう。

高校時代は芸能活動と学業と両立ですか、それならこれらの検定試験合格立派ですね。芸能活動の隙間に検定試験の受験勉強している姿が目に浮かびます。
稀ですね、こんな人は。

この中で履歴書に書いて目に留まるのはプログラミング1級のみです。あとは「中の上」の成績の生徒であれば合格可能なものです。でもそれぞれ、トレーニングを要します。やりきったということ。

漫画仕立ての簿記の本を書いているのですね、驚きです。商業簿記2級と書いているので、全商簿記2級でしょうが、それでいままで簿記の本を書いた人はいません。出版社が相手にしません。公認会計士の方との共著になっています。芸能人との共著だから出版社が興味を持ったのでしょう。これは企画をした人のセンスがいい。
物怖じしないところがすごい、度胸を買います。
なかなかアイデアがあってチャレンジ精神のある人のようです。

ダメでもともと、若い人たち、思い切って飛ぼう!

by ebisu (2016-11-26 21:54) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0