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#3406 経済学対話:西田幾多郎・ヘーゲル・マルクス・・・ Sep. 6, 2016 [98-1 第3版への助走]

 #3405は「原典のススメ:愛と寛容性概念の混同」というタイトルでしたが、話の行きがかり上、西田幾多郎の「純粋経験」概念に触れました。そこへハンドルネーム、後志のおじさんから投稿をいただき、ヘーゲル哲学とマルクス経済学へ話が伸びていきました。話題は『資本論』の公理の書き換えによる21世紀の経済学の創造へと及びます。それは日本の伝統的な職人仕事観に支えられた経済社会を実現し、グローバリズムの息の根を止めるものです

 後志のおじさんは早稲田の政経学部の出身で、学生時代はよく勉強した人のようです。経済学部でヘーゲル『精神現象学』に目を通す学生なんてほとんど想像できません。そればかりではなく、ドイツ語に堪能で、いまでも毎日音読トレーニングを怠らない英語の達人でもあります。

 若い人たちに、後志のおじさんの鋭い議論とebisuの息の合った経済学対話を楽しんでもらいたくて、投稿欄から本欄へアップします。
 大学生になったら自分の専門分野に関係のあるものは広く深く、しっかり勉強してください。あなたたちの一生の(知的)財産になります。

#3405投稿欄から転載 
(「純粋経験」概念については、#3405に抜粋引用しておいたのでそちらを参照してください)
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(1)siribesi

純粋経験という概念はいいですね。

私が、英語の受験神話(あるいは、学校英語神話)を嫌い、その神話を作る半端者がそれに輪をかけて嫌いなのは、やはりペーパーバックを中学生の時に背伸びして読んだ体験からでしょうか。

小学校低学年向けの内容のムーミンとかシャーロックホームズとか、お年玉で買ってきて辞書を引き引き読んだ。英語の教師に不明な点を聞きに行っても逃げられた。辞書を隅々まで読むと、「自分の疑問に対するヒントがあった。」私の「仮説と検証」プロセスの始まりでしたね。以来、「先生」やら、「参考書」やらの「権威」を「神話」にはしない。妥当性を検証する癖がつきました。

英語参考書の世界では、イトウカズオとかエガワタイイチロウとか、オオニシなんとかさんとかいろいろ神格化されている方がおいでですがなんだかねえ。

皆さん、御自分の論に酔ってこだわって、精緻さを求めるあまり論に歪みが生じていましたね。(イトウカズオは立ち読み。エガワタイイチロウは図書館。オオニシなんとかさんは買ったけど捨てた。)私レベルのものでも、反例を挙げるのは簡単です。でも自分で論を組み立てられるとは思っていないから四の五の言わないだけ。

ebisu さんには申し訳ないですが私には、マルクスの労働価値説は絶体に「愛する」ことのできない概念です。存在するという事実は認めていますが。

中学生の頃に持った疑問
①じゃあなんで店によって同じ物の値段が違うんだよ!と
②旨い蕎麦という不味い蕎麦が同じ値段なのか!
でした。

マルクスに対する私の原初的疑問は、自称マルクス主義の方からは未だもって回答が得られておりません。

ebisu さんの「職人」ベースの価値論、「精緻に走らぬよう」(笑)、完成させてください。

by 後志のおじさん (2016-09-02 23:26)
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(2)ebisu

中学生のときにペーパーバックを読むというのはひとつの「純粋経験」でしょう。
英語の力がどうこうという思慮分別なしに手に余るものに挑むのですから。
思慮分別のある人は決してやらない。(笑)

それでペーパーバックにこだわるんですね。それが英語の「原体験」だから。

江川泰一郎も大西泰斗も一定の制限の中で説明しているだけという事情は当然です。それで全部が説明できるわけはない。チョムスキーの変形生成文法だって、適用範囲を広げていけば反例はいくらでもでてきますし、そういう議論もずいぶんなされました。彼自身も自分の理論をなんども修正しています。修正しては破綻を繰り返すだけ。でも、そういう過程には意味があります。

アインシュタインだって同じこと、相対性原理ですべてが説明できるわけではなく、彼自身が統一場の理論を構築しようとして失敗しています。

でも、チョムスキーもアインシュタインも一定の制限の中では有効です。限界を知って使うのが利口ではないか、そんな気がします。
ニュートン力学だって、高校物理でいまだに教えています。(笑)

限界を感じないのがお釈迦様の言説、初期仏教経典群です。
広大無辺そのもの。世の中のすべてを説くと言って、余すところなくさまざまな比喩を使って説き切ります。

ところで、マルクスの労働価値説もA.スミスの労働価値説もわたしは否定しました。マルクスまでの西欧の経済学は根っこが同じなのです。

>①じゃあなんで店によって同じ物の値段が違うんだよ!と
>②旨い蕎麦という不味い蕎麦が同じ値段なのか!

労働ではなく、職人仕事という概念をわたしは経済学の公理系にもち込みました。
半端職人、一人前の職人、名人、それぞれ仕事の質が違います。だから、同じ一日を要してもできあがったものの値打ちが違います。

マルクスの労働価値説は、労働を均一な質である抽象的人間労働に換算するのですが、いわば平均値のようなもの。質のばらつきに彼は言及しません。工場労働の根源にある奴隷労働がイメージにあったのでしょう。奴隷労働だって仕事の質には違いがあります。ギリシアでは医者も奴隷だった。腕の違いは当然ある。パンを焼く奴隷も肉を加工する奴隷ににも仕事の質の違いはあった。
平均労働を想定して、偏差を捨象したのがマルクス。
ドイツにはマイスター制度がありながら、彼の経済学にはマイスターが現れてきません。彼の想定する工場労働は単純労働ですから質の差がないのです。頭の中だけに存在します。

日本の経済社会の現場で実際に何度か業種を替えて働いてきて、『資本論』の世界とはまったく違う現実があることを経験を通じて確認しました。何かが違うが、何が違うのかが大学にいて研究を続けてもわからなかった。

マルクス経済学の公理には、苦役である奴隷労働に淵源をもつ工場労働があります。
簡単な話だったのです。わたしはその工場労働公理を捨てて、職人仕事に入れ替えると、別な経済学が出来上がることを示しました。

日本独自の経済学でありながら、普遍性をもつ経済学が構築可能で、それこそがグローバリズムを打ち破る鍵です。
平面幾何学に対する球面幾何学を提唱しているようなものです。
ニュートン力学からアインシュタインへといってもいいでしょう。

経済学は職人仕事を公理に据えて、次のステージへ進化すべきです。
こんなことが可能なのは、世界中を見渡してもマイスター制度のあるドイツと日本しかありません。イタリーにもたぶんあるのでしょう。
文化や伝統や価値観の相違する世界が並立していることが大事です。
Aを押し広げれば環境面でも生産でも流通でも限界が来る、そしてBが台頭する。そのBもいつの日か限界を迎え、Cが台頭し始める、そしてDが・・・・という具合に生態系同様に世界が多様であることが限界を超える鍵。
見果てぬ夢を見ています。

経済学に関するわたしの「純粋経験」は高校2年のときに図書室で『資本論』を100ページほど読んだことです。どういう体系なのかまったく理解できませんでした。それまで100ページ読んでまったく理解できない本にはお目にかかったことがありませんでした。『資本論』に比べると、公認会計士二次試験講座の近代経済学は高校生でも理解できるほどやさしかった。

マルクスの経済学体系がどのようなものであるのか理解するところは大学と大学院で済ませました。
次に目標となったのは、わたしが知っている現実とはことなる世界を記述した『資本論』はどうやったら超えられるのかということ。
それを確認するためには、業種を替えて仕事をしてみるしかありませんでした。
ずいぶん時間がかかりましたが、見つけました。わたしは結局のところ、マルクスを乗り越えたくて別の公理系を探していたのです。

自称「マルクス主義」の学者は、後志のおじさんの「原初的疑問」には応えられません。公理にかかわることですから、彼らの経済学体系が崩れます。
「マルクス主義」というのは世界第2番目に信者数の多い宗教なのでしょう。

>皆さん、御自分の論に酔ってこだわって、精緻さを求めるあまり論に歪みが生じていましたね

これ、至言です。その点では江川泰一郎も大西泰斗もチョムスキーも同列です、違いはチョムスキーは自覚があり、自説の破壊と再生を繰り返しています。

マルクスはエンゲルスと「共産党宣言」で理念を書いただけ。新しい経済社会について、体系構築なんてしていません。インテリのレーニンが「共産党宣言」と利用して、労働者階級を煽って政治権力の頂点に昇っただけのこと。

経済学の体系なんて必要ないのではないかという気がしています。公理系を提示するだけで充分、あとはそれに沿って創る人が現れたらいい。
新たな公理系を提示することと、理念を提示するだけがわたしの仕事です。

困った指摘に、なんだか言い訳を綴っているみたいですね。(笑)
by ebisu (2016-09-03 10:38)

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(3)siribesi

せっかくだから、ついでに楽しんでしまおうかと思います。お付きあいください。

マルクスの失敗は、ヘーゲルの手法を用いてしまったから、と考えています。

ヘーゲルは、19世紀前半の躍動する欧州をみて、「仮想のSein 」を作り出し、「弁証法」という観念論を創出した。

Sein が仮想である(あるいは、精々欧州に限定されるであろう)根拠は、彼の言葉「アジアは永遠の繰返しの中にある。」です。実際に存在する現実、事実を探求したのかどうかは知りませんが、思考の外に置くという姿勢が鮮明に現れています。何故なら、

彼のいう「アンチテーゼ」とは、内在する矛盾が主体に意識される、ことをいうのであり、内在していない倫理や価値基準が現れることをいうのではないからです。(ここを知らずに、アンチテーゼだの、アウフヘーベンだのを口走る輩が、1970年代はたくさんいましたね。)

ヘーゲルは、「輝ける欧州」を見て、欧州人受けする思考の方法論を提示した、くらいのものですが、マルクスは、その受け具合をみて安直にのってしまったのではないかと。

だから、「実在」する、マイスターや、百姓(私のような)やら、ドイツ文化には欠かせないForesterやらを全て思考の圏外に置いて、経済理論を構築しているのだ、と思っています。

マルクスも「人」ですから、功名心やら金が欲しいやら♀を抱きたいやらいろんな欲求があったろうと思うのですが、私は、マルクスには強い欲求があり、その実現のために受けそうなヘーゲルを使ったのではないかと思っています。

(ついでですが、私は、エンゲルスとマルクスの関係を、zapper さんと「なんとか先生」の関係くらいにみております。笑!)

by 後志のおじさん (2016-09-03 22:39) 
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(4)ebisu

ははは、すごいことになってきましたね。

>せっかくだから、ついでに楽しんでしまおうかと思います。お付きあいください。

後志のおじさんのご要望ですから、喜んでお付き合いさせていただきます。
それにしても、政経学部でヘーゲル読んでいた人なんてほとんどいないでしょうね。あきれています。(笑)

>マルクスの失敗は、ヘーゲルの手法を用いてしまったから、と考えています。

これ、その通りだと思いますよ、でもわたしの理解は資本論の体系構成に関してのことですから、後志のおじさんとは論点に違いがあります。

当時の状況ではヘーゲルが流行ですから、皆さんこぞってそこへ目が行きます。プルードンだってそうでした。「系列の弁証法」というのがあります。
ヘーゲルだけでなくプルードンの「系列の弁証法」もマルクスはいただいちゃってます。アダムスミスもそうですが、たくさんいただいた先駆者の業績に関しては言及を避けるというのがこの時代の「お作法」のように見えます。

マルクスは数学が得意ではありませんでしたから、デカルトやユークリッドは読んだかもしれませんが、そこからなにも意味を汲み取れなかったのでしょうね。

ヘーゲル弁証法は2項対立図式でできています。
抽象的人間労働と具体的有用労働が経済学の最も根本的な概念の最初の2項対立です。要素としては「商品」のみ。
次の価値形態論は価値表現の関係を図式的に展開したものですが、これも2項対立図式です。それが「交換関係」という場の拡張によって、貨幣が生まれます。
貨幣は資本へ転化しますが、この「転化」に関しては二項対立図式がありませんが、「内在論理」での展開とは言いうるのでしょう。わたしは「人間の欲望」という要素を入れないと、貨幣は資本へは転化しないと思っています。

次いで資本の生産過程が記述されます。ここでは資本は生産手段と労働力商品に転化します。資本の生産過程でも2項図式が見えますが、剰余価値の生産という要素が入り込みますから、要素としては3要素、2項対立ではありません。
剰余価値をカットすることはできませんから、この辺りでもう行き詰り始めたのでしょう。
資本の蓄積過程までがマルクスが書いた部分です。あとはエンゲルスがマルクスの遺稿を整理・編集したものです。
方法論に行き詰ったマルクスは晩年十数年間沈黙しています。打開の方法が見つからなかった。破綻したんです。ヘーゲル弁証法が役に立たないものだとは言えなかった。唯物史観も根底から崩れることになります。『資本論』がヘーゲル弁証法の有効性への反証になってしまったのです。

「生産関係」での価値の定義は資本や生産手段や労働力商品、剰余価値などです。
もう2項対立図式ではありません。演繹体系構成は後ろに方に行くにしたがって、現実性や具体性を獲得し、関係も複雑にならざるを得ません。

マルクスの方法に従えば、「国内市場関係」で競争という要素を追加して、個別資本の競争を扱う予定だったのでしょう。遺稿や『経済学批判要綱』がそれを示しています。マルクスはヘーゲル弁証法の通用しないゾーンへ入ってしまったことに気がついたはずですが、いまさらそんなことは告白できない。国際共産主義運動に提唱者自身が冷水を浴びせることになります。

「国内市場関係」はさらに、二国間の貿易から考察を始めて、多国間での国際競争場裡(=「国際市場関係」)での経済学諸概念の定義と考察がなされます。この辺りの先駆者はリカードです。最終的には「世界市場」です。この段階で資本は国境を越えます。個人の仕事でできる領域ではありません。経済学者が共同研究するしかないでしょうね。
どうやっても、「資本の生産過程」から後ろの部分はヘーゲル弁証法ではやれなかったのです。

関係概念の拡張によって、経済学の基本概念を定義しなおす、そして次第に現実性と具体性を帯びたものに成長させていくと言うのがマルクスのやり方です。ここにもヘーゲル哲学の影響は見て取れるのでしょう。似たようなことはデカルトも『方法序説』で「科学の4つの規則」に書いています。

>だから、「実在」する、マイスターや、百姓(私のような)やら、ドイツ文化には欠かせないForesterやらを全て思考の圏外に置いて、経済理論を構築しているのだ、と思っています。

マルクスは経済学の基本概念から、概念構築物として体系を記述するので、「資本の生産過程」の「第1章商品」では個別的、具体的なものはすべて捨象されます。
経済学的概念を扱っているのです。
演繹的体系ですから、公理系から、さまざまな定理を導出する数学のやり方に似ています。
工場労働(その淵源は奴隷労働)を公理に措定してしまえば、マルクスがやろうがスミスがやろうが、マイスターは視野に入らないのです。
これがわたしの結論です。

マルクスとエンゲルスの関係については、お互いの才能を認めて分担を上手にしています。欠点を言えば、エンゲルスはマルクスの意図をまるで理解できなかったということ。
もっとも、意図をちゃんと理解できていても、いまさら後には引けなかったというのも事実です。
マルクスもただの人間ですから、お手伝いさんに子どもを生ませているということはあります。「人間マルクス」なんて本があったかな?米国の大統領で奴隷に子どもを生ませた人がいるようですが、そういうことはどこにでもある下世話な話です。それによって経済学上の彼の業績がいささかも影響を受けるものではないでしょう。わたしにはマルクスを神格化する必要はありません。
「マルクス教の信者」の皆さんは、そういう事実を否定したい人が多いかもしれません。
方法に破綻して苦しんだマルクスの姿が見えるようです、経済学の巨人も晩年は苦しかったでしょうね。
by ebisu (2016-09-04 10:23) 

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(5)ebisu

大事な論点を追記しておきます。
21世紀の経済社会はそれ以前とはまったく違う様相を帯びています。それはデジタル商品の出現と増加です。

生産過程では生産手段と原材料は必要ですが、デジタル商品は生産に労働力を必要としません。

わたしは1880年代後半にセイコー社の腕時計組み立てラインを見学したことがあります。セイコーで開発したアーム型ロボット15台ほどとパーツフィーダーで組み立てラインが構成されていました。いま人工知能の性能が指数関数的にアップしていますから、生産過程での労働力は業種によっては必要がなくなります。人工知能と機械の性能アップによって、労働力が必要がなくなる業種がどんどんその範囲を広げていくと思われます。

デジタル商品は開発してしまえば、生産には原材料と生産手段があれば、無限に生産できます。デジタルコピーは何億枚やろうとも品質が落ちません。
流通もインターネットを通じて配布すればいいだけですから、情報の移動があるだけで物の移動を伴いません。

経済学が根本的に変わらなければならないのでしょう。
経済学は経験科学ですから、現実がこれだけ変わりつつあるのですから、それに応じて経済学もいずれ変化します。
生産過程で労働力が要らなくなれば、人間が必要なのは開発分野だけですが、人工知能の性能が人間の脳を超えたときには製品開発過程にすら人間が必要なくなります。

失業による人口縮小、人口の縮小再生産が経済要因によって促進される未来がきて、人類絶滅の可能性が現実性に転化しそうです。

「生産手段、原材料、労働力、剰余価値」という図式自体がすでに古いものとなっています。グローバリズムの未来では人類の必要がなくなります。

だから、職人仕事に公理系を替える必要があります。神々ですら仕事をしている社会です。生ある限り仕事をして充実した生活を送るというのが、日本人の暮らしの理想ではないでしょうか。仕事の必要がなくなった状態を幸せだとは、日本人なら思わないでしょう。職人仕事をベースにした経済社会を築くことができれば、人類は環境や生態系と調和して生活できます。

by ebisu (2016-09-04 15:27) 

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(6)siribesi

お休みのところ、詳しい説明有り難うごさいます。

ヘーゲルには、法の哲学(自然法と国家学)がありますので、政治哲学をかじると避けて通れない。ただ、学部学生で現象学を読んでいる奴は少なかったです。

ご説明いただいた中に、疑問点があるのですが、こちらの都合ばかりで申し訳ないですが、明日は朝が早いので、後日posting させてください。その際には、また宜しくお願いします。

by 後志のおじさん (2016-09-04 19:30)

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(7)ebisu

本棚を探して見ましたが『法哲学』はありませんでした。政治学への興味がなかったからでしょう。
19世紀は political economy でしたね。

「精神現象学」は哲学科の学生しか読まないものと思っていましたが、早稲田の政経には昔はそういう学生が少数でもいたのですか。
部外者(哲学科以外の学生)があれを独力で読んで、ある程度理解できるとしたら、切れ者ですね。
後志のおじさんはそういう学生の中の一人だったのですか。
面白いことになりそうです。

(昨夜は高校卒業後50年目の同期会がありました。5時から10時半まで会場で旧友たちと話し、2次会へ行って、戻ってきたのが0時半でした。明日から高校生が前期期末テストなので、3時間ほど授業をしました。今日は早く寝ます。)

by ebisu (2016-09-04 23:50)

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(8)ebisu

おはようございます。
話の要点はおそらくここにあるのでしょう。
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彼のいう「アンチテーゼ」とは、内在する矛盾が主体に意識される、ことをいうのであり、内在していない倫理や価値基準が現れることをいうのではないからです。(ここを知らずに、アンチテーゼだの、アウフヘーベンだのを口走る輩が、1970年代はたくさんいましたね。)
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ここがまずかったのです。マルクスはヘーゲル弁証法で始めてしまった。でも、気がついてしまったんです。

①商品の分析(価値と使用価値)⇒②価値表現の関係(価値形態)⇒③交換関係⇒④生産関係(資本の生産過程)⇒⑤市場関係一般(国内市場)⇒⑥国際市場関係⇒⑦世界市場関係

これをヘーゲル弁証法ではやれないことに気がついたのです。だから⑤以降の研究を公表できなくなった。

方法論としては、これは「単純なものからより複雑なものへ(上向法)」です。「内在する矛盾」は要らないのです。
ゼノンやヘラクレイトスやプラトンの弁証法、そしてそれらを統合したヘーゲル弁証法は経済学体系の叙述には不適、有害無益でした。

上述の「関係概念」の展開順序は単に「単純なものからより複雑なものへ」です。
これは、ユークリッドの『原論』の構成そのものであり、デカルトが『方法序説』の中で、「科学の四つの規則」の「第三」で述べていることです。(残念ながら、わたしの発明ではありません)

「第三は、わたしの思考を順序に従って導くこと。そこでは、もっとも単純でもっとも認識しやすいものから始めて、少しずつ、階段を昇るようにして、最も複雑なものの認識まで昇っていき、自然のままでは互いに前後の順序がつかないものの間にさえも順序を想定して進むこと。」
     デカルト『方法序説』ワイド版岩波文庫29ページ

デカルト(1596-1650)はヘーゲル(1770-1831)よりも前時代の人です。マルクスはこれら二人の方法論を比べてみればよかったのです。
当時のインテリの間で大流行していたヘーゲルの影響を受けたのは当然だった、マルクスはヘーゲル弁証法という蜘蛛の巣に絡めとられた蝶のようです。もがいた末に、蜘蛛に殺されました。

『資本論』を書く前に、共産党宣言を出してヘーゲル歴史哲学を援用して階級史観を公表しているので、退くに退けない。マルクスは方法論ではルビコン川を渡ってしまっていたのです。
ショックだったでしょうね、わたしにはマルクスの絶望がよくわかります。それまでやってきた方法的な破綻が明白だった。
『資本論』を書き進めれば、共産党宣言が誤りだったことを認めざるを得ません。
エンゲルスはどうしてそんなことがわからなかったのでしょう。わたしには信じられません。なぜなら、資本論第3巻以降を遺稿をまとめて編集して公表したエンゲルスにもヘーゲル弁証法が破綻していることは容易にわかったはずだからです。

ヘーゲルの専門家が『資本論』を素直に読めば、ヘーゲル弁証法ではじめてはいるが、すぐにそうではなくなっていることに気がつくはず。
ギリシアで言えば、ゼノンやヘラクレイトスやプラトンではなくて、方法論に関してはユークリッド『原論』に学べばよかったのです。弁証法に目を奪われたので、ユークリッドには関心が行かなかった。数学が好きだったら、あるいは『原論』に目を通すぐらいのことはあったはず。

仕事が一段落してからゆっくりとご投稿ください、お待ちしています。
by ebisu (2016-09-05 08:33)

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(9)siribesi

ご賢察のとうりです。(笑)

やはり、予想通りebisu さんが論を進めて下さいました。(大笑)

ヘーゲルの弁証法は、あくまで内在するものが「対象化」されるのですから、


(末節の疑問)だから、ヘーゲル流にこだわると、マルクスの「商品」でさえ?がつきます
具体的人間労働が産み出した商品が、アンチテーゼであり、抽象的人間労働はズィンテーゼではないだろうかと。二等辺三角形の底角と頂角が入れ換わったみたいな感じがします。

(大筋の疑問)ヘーゲルの弁証法では、歴史の流れは「自己完結」するものと私は感じています。内在するものがアウフヘーベンを繰り返すことで、「必然的な」経路を辿る。直線的な歴史観念です。「共産党宣言」はそれで済んだのでしょうね。しかし、「経済活動」という、「かくも少なき論に、かくも多くの要素を」押し込めるのは無理がくるのではないかと思っていました。


現象学は難しかった。(何言ってんの?こいつと思いながら読みました。)感じたことがふたつありまして、ひとつは、随所にギリシャ、ローマに始まるヨーロッパ史のincident やanecdote がちりばめられていること。その知識が理解の支えでしたね。いろいろと役には立ちそうもない本を読んでおいてよかった!と思いました。ふたつは、19世紀初の欧州人の思考の根幹の一端に触れたかな?でした。

by 後志のおじさん (2016-09-05 23:03)

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(10)ebisu

当たりでしたか、まぐれですね。

ところで『資本論』にそくしていうと、抽象的人間労働の対象化したものが価値、具体的有用労働の対象化したものが使用価値ですから、商品を二つの対立物の統合として把握したのでしょう。
価値と使用価値は商品に内在的なものです、それが外化するのが価値表現の関係(価値形態)ですから、面白い構成です。

やはり学生のときに『精神現象学』を読んだのですか、すごいですね。あんなに難解な哲学書を哲学科以外の学生が読むなんてことはほとんどありません。個々の章を読んでいっても、すんなり構図が頭に浮ぶなんてことはありませんから、物にしようと思うと、1年間は時間を棒に振らなければなりません、incident やanecdote を楽しむだけで充分でしょう。(笑)
そういう読み方をするとあの本はとっても楽しいものに変わります。

ヘーゲルについては根室高校図書室に岩波文庫の『小論理学』上下2冊があったので、それを読みました。高校生が自力で読める程度は高が知れているので、ほとんど眺めただけかもしれません。それでも『資本論』に比べれば多少はわかった気になれました。他の人はどういう風に読むのだろうと、卒業した年に許萬元の『ヘーゲルにおける現実性と概念的把握の論理』という題名の解説書を読みました。これでだいぶ見通しがよくなった気がしました。
学部のゼミの市倉宏祐教授はヘーゲル哲学の専門家でもあり、当時イポリットの『ヘーゲル精神現象学の生成と構造』の翻訳をされていました。哲学科のゼミのほうではサルトルの『弁証法的理性批判』をテクストに採り上げていました。
わたしは商学部会計学科の学生でしたが、欲張って、両方のゼミに出席すべきでした。市倉先生からヘーゲルについてお聞きしたのは、ある日の午後のゼミのときに、眠そうな顔をしていらっしゃったので尋ねたところ、「朝までイポリットのヘーゲル研究書の翻訳をしていて寝てないんです」と応えられた時、一度だけ。
わたしは『精神現象学』は読んでいないのです。本棚に上巻だけがあります。買ったときに、ぱらぱらと目を通したのみ。

一ツ橋大学学長だった増田四郎先生に院生3名で特別講義をお願いして、1年間リストの『経済学の国民的体系』を読み、すっかりその学風に魅せられました。実証研究の積み重ねで物を言うので、唯物史観ではとてもこの巨人とは対話できないと感じました。蒙を拓いてもらった気がします。

歴史には必然的なものも多いですが、まったく偶然的なものもそれと同じくらいにありますから、どちらで説明しても事象の半面しか語りつくせないのでしょう。

人工知能の性能が指数関数的に改善されたとしても、経済学の公理を何におくかで、未来はまったく違ったものになるでしょう。
刹那刹那の個々人の選択の積み重ねで未来が決まるのであって、未来に関しては必然的なものなどないような気がするというのがわたしの意見です。

なかなか貴重な投稿、そして楽しい議論に感謝申し上げます

好奇心の強い学生諸君のために、この議論を本欄にアップしたいと思います、よろしくご了承ください。
by ebisu (2016-09-06 01:09)

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*#3405 原典のススメ:愛と寛容性概念の混同(中2学力テストから) Sep. 2, 2016 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2016-09-01

 #1454 異質な経済学の展望 :パラダイムシフト Mar. 31, 2011 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2011-03-31


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