SSブログ

#3269 江戸屋猫八さん進行胃癌で死去 Apr. 13, 2016 [38. cancer]

<更新情報>
4月13日 10時30分 「余談」追記他

4/14 朝9時半 ステージ3Bについての解説と「おひつ」の話を追記


 3月末に四代目江戸屋猫八さんが進行胃癌で21日に亡くなっていたとの報道がなされた。

*「江戸家猫八さん死去 動物鳴きまね芸人」朝日デジタルニュース
http://www.asahi.com/articles/ASJ3051MQJ30UCLV00J.html

 団塊世代のわたしは、三代目の方がなじみがある。四代目も3代目同様に動物の鳴きまねが上手で、とくに指笛を使った鶯は親子で名人芸だった。
 四代目が「鶯の練習をたくさんしたので指にたこができちゃった」と三代目に言うと、きれいな指の三代目が「まだまだだ、俺はたこがなくなるくらい練習した、見てみろこの指」と言ったそうである。

 1月に癌だとわかって3月だからあっという間だ。ネットで調べみたら、スキルスとは異なる「進行胃癌」という分類があるようだ。
 癌とは無縁でいたいというのがみんなの願いだが、不幸にして癌を患う人は少なくない。癌になったときのために、ステージを例示しよう。

 ⅠA期⇒ⅠB期⇒Ⅱ期⇒ⅢA期⇒ⅢB期⇒Ⅳ期

*「癌辞典」より
http://www.kaiteki-bb.com/box/cancer/stomach.html

 猫八さんはまことにお気の毒だった。手遅れだったのだろう。癌と診断されてからわずか2ヶ月で亡くなった。

<義父とオヤジとわたしの癌3症例>
 2006年6月にわたしは、巨大胃癌とスキルス胃癌を併発した。毎年恒例の根室高校芭蕉同窓会(1月)のときにお酒が進まず、胃が少しおかしいという自覚症状があった。6月になって、膨満感がひどくなり、食べたものが胃に滞留して、逆流性胃炎の状態になった。食べ物が通らない。女房殿に叱られた。癌だと自覚していたからなおさら行きたくなかった。でも、食べられなくなったので、検査して入院するしかないと覚悟を決めた。
 消火器内科の専門医である岡田医院の若先生に「胃癌だと思うので内視鏡で診てほしい」と診察をお願いした。上に示したURLに、胃のイラストが載っているのでごらん戴きたい。巨大胃癌は幽門部近くにあって、排出口をふさいでいた。診察前日のお昼に食べたうどんが腸へ移動せず胃に滞留していた。内視鏡検査のときに胃の中に食べ物が残っていたら見づらいだろうと考えて、空にするために前日午後から絶食していたのだが無駄だった。うどんの海の中へもぐった内視鏡がドンドン深く沈んで行った。「あっ!」とドクターが小さくつぶやき、「・・・鉗子(かんし)ください」と看護師さんへ指示を出した。内視鏡に鉗子を通して病理検査用組織標本を採るのだなと察しがついた。癌だと思うから診てくださいと初対面の患者が言い、内視鏡を入れてみたら、ほんとうに癌が見つかったなんて事例は滅多にないのだろう。

 これが若先生との初対面だった。ビリヤードのほかに焼き肉店をやっていたオヤジから、中学生のころの若先生の話をよく聞いていたので知っていた。「食べっぷりのよい子どもだ」とそういっていた。お父さん先生がよく連れてきたのだそうだ。中学時代に1年間で20cmも身長が伸びたことがあったという。わたしは1年間で12cmが最高だった、1年間で20cmというのは聞いたことがない。
 オヤジはいい仕入れルートをもっていた。根室で同じ品質の肉を仕入れることはできない。仕入れルートは昔の個人的な関係でつながっていたものだから、その人がなくなってルートが失われてから、いくつか試したが、それまでのような肉を仕入れることができず、焼き肉店「酒悦」を閉めた。納得できるものが提供できないなら、商売をやめる豪胆さをもっていた。二束のわらじだったからこそ可能だった。ビリヤード店のほうに専念すればよかったのである。
 当時の根室のお客さんたちは東京銀座の焼き肉店で提供される肉よりも品質のよいものを食べていたのである。わたしは親父が店を占めてから、三鷹や池袋や銀座の焼肉専門店で味を思い出しながら食べ比べてみたが、親父が手切りした肉以上のものにに出遭うことができなかった。

 そのときに採取された病理標本は北大に送られた、もちろん病理診断でも癌だった。
 内視鏡検査では腫れ上がって幽門部手前で胃の出口をふさいでいる癌組織の写真も撮って、診察後に見せてくれた。若先生うつむき加減で「癌です」と教えてくれた。「やはりな」、そう思っただけでとくに感慨はなかった、事実を事実として受け止めただけ、ただ、女房にどう伝えたらよいものかそれだけだった。女房のお父さんが「人間ドック」検査で大腸癌が見つかり、その3ヵ月後の平成2年に8月に亡くなっていたし、わたしの父は岡田医院のお父さん先生の診察を受け、大腸癌の疑いありということで釧路私立病院に平成3年の3月に入院して大腸癌で手術を受け、それが再発して平成5年の4月に再手術、全身転移で「開け閉じ」、9月に亡くなっていた。親子2代で岡田医院のお世話になった。

 義父は晩飯は酒を飲みながら魚を2品食べていた、ご飯はあまり食べない。オヤジは毎日ビール大瓶6本か日本酒を1升呑んでいた。肉が好きで、肉が酒の肴にあれば、それだけで充分だった。やはりご飯をあまり食べない。食生活の偏りが、共通していたが、それが癌に関係があるかないかはわからない。遺伝的な素因や発癌誘引物質(イニシエータ)の影響もあるからだ。

 オヤジの兄弟たちも全員癌で亡くなっている。原発の器官はオジキたちやオヤジは肝臓・肺・大腸とみな異なっていたが、ようするに「癌=死」の家系なのである。術後2年生きたオヤジが最高記録で、オジキたちは「入院=死」だった。老化に伴いいずれかの癌抑制遺伝子が傷害されるタイプなのかもしれない。そういう背景があるので、これは伝えるのが難しいと思ったが、淡々と事実を告げた。

 癌と診断される1ヶ月前の連休に釧路へ行って、丘の上に立つ白い建物がホテルかと思ったら、遠くがよく見える女房殿が「病院だよ」という、「入院するならああいう眺めがよくてきれいな病院がいいな」とつぶやいたのを覚えている。一月半後の6月23日にそこへ入院することになった、生まれてから初めての入院である。あの病院へ入院することを天がわたしの口を通して教えてくれたと勝手に解釈している。

 わたしは趣味でヨーガや座禅、呼吸のコントロールなどを十代の頃からやっていたので、自分の身体の声を少しだけだが聴くことができる。冷たくて重いものが胃の辺りで広がりつつあるのがよく感じられたので、「スキルスもあると思うのでそちらの検査もしてもらいたい」と内視鏡の診察後に若先生に申し出た。胃の粘膜細胞を採取して検査するので、消火器外科のある病院でなければ検査ができないと説明してくれて、若先生は釧路市立病院と釧路医師会病院のどちらでも紹介できるので、すぐに入院検査すべきだと言われた。6月6日のことである。何かを食べても腫瘍が邪魔をして胃から腸へ通過できない。期末テストが23日からだったから塾の授業を休むわけには行かなかった。ほとんどヨーグルトだけ2週間しのいだ、なせばなるものだ。入院は23日に調整していただいた。田宮二郎主演のテレビドラマ『白い巨塔』(1978-79年)で主人公の財前五郎教授がスキルス胃癌で死ぬのを見ていたから、スキルスが悪性の進行癌でほとんど助からないことはよく承知していた。生徒たちには「お腹にオデキができた、恥ずかしいから手術するので、1ヶ月間休みます。期末テストの結果はメールすること」、そう言っておいた。オデキと聞いて何人かの生徒が笑ってくれた、それがうれしかった。癌手術での入院、しかも末期だから事実を生徒たちに告げたら、テスト前2週間の大事な時期にこころが揺れる。オデキの切除だとほんとうに信じて笑って「先生行っておいで、1ヶ月勉強してまってるよ」と言ってくれた、ありがたかった。メンコイ生徒たちにどれほど助けられたかわからない。

 釧路医師会病院へ入院して検査して、内科の副院長が丁寧な検査を繰り返してくれて、巨大胃癌とスキルス胃癌の診断がつき、手術のために消火器内科病棟から消火器外科病棟へ移された。
 わたしの場合は3ヶ月前から自覚症状はあった。でも、微弱な自覚症状ではなかなか病院へ行く気がしないものである。胃薬だって必要だとは思わなかったのだから・・・

 胃の全摘手術をすることになった。開けたらすでにリンパ節へ転移、大腸へも浸潤していたからステージⅢBであった。「癌辞典」のステージⅢBの解説は次のようになっている。

「胃の筋層を超えて漿膜まで達しており、第2群リンパ節に転移が認められる状態。または、癌は胃の漿膜を超えて多臓器に浸潤していて胃に接したリンパ節への転移も認められる状態。」

  手術前に担当外科医の後藤先生から、「幽門部をふさぐ大きな悪性腫瘍と胃体部を下から上に走るスキルスがあるから、裏側の膵臓や脾臓への浸潤が考えられるので、そうなっている場合は膵臓や脾臓の摘出をする可能性があることに同意してもらわなければならない」と説明があった。そんなにとったら手術が成功しても命は1年あるかなと考えながらそんなことを訊いても人のよさげな若い外科医は答えるのが辛いだろうと質問はしなかった。同意書に判を押さないと手術はしないルールだから、この儀式は「参加者」の一人として滞りなく済ませた。わたしは、若い外科医が気に入っていた、腕を上げそうなオーラがみえたからだろう。
 (毎日仕事をして腕を磨く職人は職種に関わりなくすばらしい。小学生低学年のころ根室に一軒だけあった鳴海公園近く(青柳薬局の隣)の桶屋さんの仕事を飽きもせずに何時間も仕事場の窓越しに眺めていた。職人さんってすごいな、木を特殊な鉋で削り、竹や銅製のタガをはめて、洗濯桶や風呂桶、ご飯を入れる「おひつ」を造る、木を張り合わせているだけなのに水が漏らない。小学生のころは家のお風呂は木桶で石炭をくべて沸かした。井戸水を汲むのと風呂を沸かすのは長男のわたしの仕事だった。面白いので焚きつけ割りを空手でやっていた。木桶の「おひつ」に炊き立てのご飯を移すととってもおいしい。移すときに湯気が適度に飛んで、蓋を閉めるとうまみ成分はおひつの中を循環する。うっすら漂う木の香りも味をよくする。いまの子どもたちは「おひつ」に移したご飯の味を知らない、「おひつ」を見たことすらないだろう。写真が載っているので、知らない人はご覧ください。
*おひつ http://matome.naver.jp/odai/2137308026547402101

 実際に手術が始まると、外科医の後藤先生(現・木野東クリニック院長(音更町))は手遅れだと判断して「あけとじ」しようと考えたそうだが、そばにいたベテラン外科医の院長が「ざっくりとったらいい」と示唆、それで手術は続行となった。
 わたしは幸運だった、若い外科医だからこそベテラン外科医の院長は手術続行を指示した、50前後のドクターが担当医なら、院長は口を出さなかっただろう、そして担当外科医はやるだけ無駄だと合理的に判断した。「アケトジ」のほうが体力も温存できるので余命を延ばせる。若い外科医もベテラン外科医と同じ結論を下し、手術を中止しようとしたのである。
 若い外科医はたくさんの症例をこなさなければ腕が上がらない。そういう眼で見たら、わたしの症例は外科医としての腕試しにはおあつらえ向きの症例だった。院長の判断は正しかった。この患者は手術をしてもしなくて命の残りは少ない、だったら腕を上げるよい機会である。わたしの方も、スキルスだから助からない確率が高い、このドクターが腕を上げてくれたら、その後に何人もの患者を救ってくれる、それでいいと思っていた。

 摘出した胃やリンパ節、一部切除した大腸等の検体は古巣のSRL八王子ラボ病理検査部へ送られた。病理検査の外注先がSRLだったのである。病理検査室のN取課長とは仲がよかったので、仕事で用事がある都度、病理検査室に出入りしていた。ブロック分けも、ミクロトームでの薄切作業も病理検査室で何度も見ていた。報告書には「巨大胃癌とスキルス胃癌」と書かれていた。N取課長はわたしが術後数ヶ月で死んだと思っているだろう、彼ももう定年になったはず。俺は生きてるぞ!
 抗癌剤のTS-1は副作用がきつくて辛かった。体力を根こそぎもっていかれるからとっても疲れる。手術するにはもう手遅れで放射線治療を続けていたK藤が、見舞いに行くと1時間おきに「15分寝てくるから帰らないでくれ」と言ったときの体力が実感できた。抗癌剤はとにかく疲れる、体力をごっそりもっていかれる感覚があった。
 白血球数が基準値の半分以下となり、一時期は抗癌剤の量を減らしてもらった。O先生は再発リスクが高いので心配な顔をされた。量を減らしても白血球数はなかなか上がらずに無菌室へ逆隔離寸前の状態が半年ほど続いた。塾生たちに教えることで元気をもらっていたのだろう、何とか乗り切った。仕事がなかったら滅入って生きる気力を失っただろう。日本人は生きてある限りは仕事がしたい。

<SRL同期入社の友人K藤のケース>
 1991年9月にオヤジが大腸癌の再発で亡くなり、四十九日の日にSRLで上場準備要員として同期入社したK藤が癌で亡くなった。葬儀にはいけなかったので、四十九日の法要が終わってから、線香をあげに行った。
 あいつは会社を辞めて健康事業関係のコンサルタントビジネスを立ち上げた。独立して3年目、順調に業績を伸ばしていた。経営コンサルタントの800万の仕事を取引先から依頼されたと相談があった。わたしはそちらの仕事の専門家でもあったので、相談に乗り、一緒に取引先へ行って仕事を手伝ってあげた。その後、そういう仕事が何件か持ち込まれた。土日なら手伝うことは可能なので、SRLの人事部へK藤の会社の役員(非常勤)へ就任し、土日ならOKかとお伺いを立てたら、「ノー」の返事。会社を辞めて副社長として手伝ってほしいと誘われたが、会社買収の面白い仕事を2件担当していたので断った。もう一度今度は事業を丸ごと引き継いで社長でやってほしいと請われたが、K藤にそういうことではない、これは君の事業でわたしがやりたいと思っている事業ではない、わたしは業界ナンバーワンのSRLでやるべき仕事がまだあるから断ったのだと説明して納得してもらった。あいつはすぐに4人の社員へ事業を有償で分割譲渡した、素早かった。
 慰労をかねて4月初旬に新宿で会って酒を飲んだときにちょっと風邪気味だと言った。
 3月にオヤジが2度目の手術をして「あけとじ」のすぐ後の四月に会ったので気になり、5月に電話したら、なんだか調子がおかしそう、軽い咳を電話の向こうでしていた。「微熱が続いているなんてことはないか?」と問うと、「ある」との返事。いやーな予感がした、「癌かもしれない、大きな病院で検査してもらえ、おまえの年齢では進行が早いから助からないかもしれない、そのときは入院せずに自宅で通院治療しろ」と薦めた。どうしてこういうことがわかってしまうのだろう?
 胸部に癌ができていて、末期で手遅れだった、あいつはわたしの薦めどおりに自宅で療養して通院治療を開始した。放射線治療が始まると暑中見舞いの葉書が来た。「余命あと3ヶ月」と書かれていた。福島県郡山市の臨床検査会社への資本出資交渉を担当して、その後その会社の社長に請われて役員出向したが、三度横浜のK藤を見舞う機会があった。すっかり毛がなくなった頭には夏だというのに毛糸の帽子が載っていた。冷房が効いているから頭が寒いのだそうだ。1時間も昔話をすると疲れて「15分寝てくるから、帰らないでくれ」といった。将棋を指したいというので三度だけ指した。あいつは本格的に将棋を始めてから半年くらいでアマチュア4段のN川に三度に一度勝てるようにあんったら、N川はK藤と指さなくなった。1番指しては、もう一度やりたいから15分寝てくると繰り返すから夜になって奥さんが帰ってくるまでいた。横浜済生会病院で、末期癌患者の通院治療は初めてのケースだったようだ。あいつは医者を説得した。朝、奥さんへ「もうだめだ、病院へ連れて行ってもらいたい」と告げ、入院して翌日亡くなった。苦しむ必要はないから、最後はモルヒネを使ってもらえと言ってあったが、それもその通りにしたと奥さんから聞いた。奥さんは東大理Ⅲの才女で、有名海外メーカの化粧品事業の開発部長をしていた。数学が好きなわたしに、奥さんのお薦めの数学問題集を2冊戴いたことがあった。書き込みはなかったから新たに購入してプレゼントしてくれたのだろう。

 K藤の場合も、わかったときには癌は末期で手遅れだった。

<軽い自覚症状だからわからない>
 初期に癌が見つけられた人は運がよい、微弱な自覚症状だから、自覚症状があってもわからないのである。だから、わかったときには末期癌のことが多いのだろう。
 癌になったときに、死ぬべきときが来たら死ぬだけのことと思った。
 入院してから検査に3週間ばかりかかっている間も「冷たく重い」幹事を伴いスキルス胃癌は広がっていったので、手術時間は大幅に延長、予定時間の2倍の6時間かかった。手術で身体が冷えて、集中治療室に移されたときには低体温症で、身体が海老のように跳ねた。見ていた女房殿がその様子を見てもうだめだとおもって、集中治療室から出て行った。意識がないのだが、上から海老のように跳ねる自分の身体を見ていた。「危ないな、身体はあんなに跳ねているのにちっとも苦しくない、このまま死ぬのもいいかもな、死ってこういうものなのか」、そんな風に観察していた。看護婦さんの誰かが「電気毛布もってきて」と叫んだ。何人かで身体を押さえつけている、抑えていないとベッドから転がり落ちてしまう。身体が温まりはじめたら意識が身体に戻った。「ああ、温かいこれで助かる」、そう感じた。そしてその通りになった。
 
<余談:>
 スキルス胃癌とわかっても、こころが動揺を見せなかったのは、生き方にあったのではないかと思われるので、説明しておきたい。
 わたしはいつのころからか人生を三つの季節に分けて考えていました。勉学に没頭する季節と仕事に没頭する季節、そして世のため人のために何かをする季節の三つです。ふるさとに戻って最後の季節を過ごしたいと願っていました。人生を三つの季節に分けていたのは、インド哲学の影響が多少はあったのかもしれません。
 小さな私塾を開いたのは18歳まで育ててもらったふるさとに恩返しをしたいからでした。世のため人のための仕事をふるさとでしたかったのです。
 事業拡張の意図はまったくなく人は雇わず自分だけで教えられる範囲に限定して13年間仕事してきました。
 世のため人のためということから、志を同じくする釧路の三木さん(社会保険労務士、明光義塾愛国教室、現釧路西ロータリークラブ会長)に誘われて「釧路の教育を考える会」の創設メンバーになって釧路と根室管内の教育改革を志す皆さんともお仲間になれた。釧路市議会でそぎを組織して教育改革の旗を振り続けた月田釧路市議会議長は同じ大学・学部・学科の後輩であると2回目の飲み会でわかってお互いにびっくり何てこともありました。
 北海道教育文化研究所の立ち上げにもお誘いいただき、ボランティアの輪が広がっています。

 「一時猶予」していただいた命の灯を利用させてもらい、昨年1月にライフワークである「資本論と21世紀の経済学」に手をつけました。今年と来年を使って第3版が書けたらいいなと思っています。四百字詰め原稿用紙で600-800枚くらいになる予定です。すでに600枚以上書いてアップしています。経済学を公理公準に遡り、西欧で生まれた経済学に根本的な欠陥が公理にあることを解説しています。西欧の「労働観」を日本的仕事観に入れ替えると、まったく別の経済学が可能であることを示しました。頭の固い経済学者たちには30年間は理解されないかもしれません。でもいつかはわかります。経済学部で学ぶ学生たちに読んでもらいたい。ガロア群論を理解できなかったフランスの数学者たちのようなものです。ガロアが何を成し遂げたのか理解するのに、200年もかかっています。30年くらいどうってことはありません。

 半年間中止していた、koderaさんご依頼の、世のため人のための仕事第4弾の進路をふさいでいた障害物を3日に釧路で仲間と飲んだときに、アイデアをいただいたので、再開します。やればかならず高齢化社会が進行する日本のみなさんのお役に立てます。

 もうひとつ、30年前の8月にSRLで「臨床診断支援システム」事業を提案して、創業社長に200億円の投資を認めてもらい、NTTと何度か打ち合わせをした結果、コンピュータの性能と通信速度が要求仕様を満たすのは30年ほど後になるだろうとの結論がでたので、事業家案は中止した案件を復活させる仕事が見えてきました。これが最後の仕事になるでしょう。めどがついて、アップしたら、天がわたしの命を召し上げるでしょう。楽しみです。

 臨床診断支援システムは全国の大学病院と専門病院をネットワークにつなぎ、臨床診断アルゴリズムを持続的に更新していくものです。このシステムを成立させるには臨床検査項目コードの標準化が必要条件であったので、それだけは病理学会の櫻林郁之助教授と臨床検査大手六社の産学協同プロジェクトを立ち上げて、数年間検討作業を続け、日本標準となってもう20年近くも全国の病院で使われています。
 市立根室病院も、根室のO医院も、お世話になった消火器外科医の先生の音更町の東木野クリニックも、コンピュータの内部の臨床検査項目コードは病理学会の臨床検査項目コードで動いています。
 この臨床診断支援システムが完成すれば、CAE(Computer Aided Education)機能を使って分野によっては専門医の育成が数分の一の期間でできるようになります。診断精度は飛躍的に上がります。総合診断機能をサポートできるAIすら可能です。
 30年前の提案書を弊ブログでそのままアップします。チャートが何枚かありますが、それは箇条書きするしかありません。
 そして、30年経った現在のコンピュータの性能と通信速度を前提に、書き直しを試みてみたいと思っています。いくつかいまになって視界に入っている大きな問題もありますから、後に続く人たちのために言及して整理しておきたい。ブログにアップすれば、志を引継ぎ、だれかがやってくれることを信じます。
 天はこれらの仕事をする猶予をわたしに与えてくれてました。ありがとう、感謝です。


記事:#2635 蟹江敬三さん胃癌で死去:ステージ3、病診連携が奇跡を起こすこ..


      70%       20%      
 日本経済 人気ブログランキング IN順 - 経済ブログ村教育ブログランキング - 教育ブログ村


nice!(0)  コメント(3)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 3

tsuguo-kodera

 聞いていた話だと思うのですが、改めて全部まとめて読むと本当のドキュメンタリー物語のように読めました。人ごとですからね、申し訳ありません。
 やはり管理人さんは仏様か閻魔様にもう少し娑婆で世の子供たちを救えと返されたのでしょう。死神かも、また落語の死神を思い出してしまいました。
 そう言えば死神の落語も昔は怖かった。今は怖いエンディングではなくなりました。詰まらない話です。
 このブログの方がなんぼ面白いか。やはり芥川か漱石並の才能があるのです。磨けば光ったのでしょう。
 ついでながら鴎外は医者の才能も文才も二人に比べたら今一つでは。心が違うように思えます。陽明学的ではないと言うこと。何故か教育界で評価が高いのか不思議です。試験もよく出ます。
by tsuguo-kodera (2016-04-13 04:35) 

tsuguo-kodera

 江戸屋猫八に関する記事、もう私もボケたのですぐに名前を思い出せませんでしたが、Wikiで猫八を見て記憶がつながってきました。
 猫八と言えば、お笑い三人組でしょう。人気があったが彼らの芸よりその師匠の芸の方が子供心に面白かったのです。だからお笑い三人組など笑い飛ばして見ていませんでした。
 蛇足ですが、この記事の人ではありません。そこまで私もボケてはいません。
 まず物まねと言えば猫八の師匠、木下華声でしょう。三段跳びで劣化したように私には思えていました。猫八親子も寄席に出て来たら見ずに買える芸人でした。でも、色物はまだましでした。子猫です。
 酷いのは主役だったはずの小金馬、師匠の金馬の真似をしたのかだみ声で面白くない話ばかり。えーできます物は酢のもののようなもの、だけで親の金馬なら客は大笑いでした。小金馬では苦笑だけ。子供でも分かるのがですよ。それが金馬とはお釈迦様でも、です。
 廣本か鈴本の演芸場だった方定かではありませんが、上の席の右端の安い席に座るのが私は好きでした。面白くなければ帰るのに便利だったから。実は、テレビ放送があっても映らない席だから。デートなどで行って、友達に見つかったら大変だから。
 もう一人、一龍斎貞鳳は講談師なのに、講釈は下手なのに政治家になり、偉そうなことをテレビでも話していたように思えます。何が面白い話なのか分からないのに、NHKと政権党との癒着で主役級をはって横滑り。今の政治家の流れを創った人のはず。
 講談は講談社の名前に残っただけです。平家物語のような戦の話は何度もきいたはずですが高段者の名前も良く覚えていません。日本の芸がどんどん滅んで行くのでしょう。この番組が変な日本の始まりだったのでは。
 小唄端唄都都逸講談浪曲、色気もなくなり、節操もなくなり、仁義もなく、忠犬八公も全部すたれたのでしょう。この国はダメですね。南無八幡大菩薩。
by tsuguo-kodera (2016-04-13 06:45) 

ebisu

kodetaさん、こんにちは

わたしの駄文をほめられると穴に入りたい気持ちになります。日本語語彙が貧弱なこと、冗長であることはわかりやすいビジネス文書を長い間書いた副作用でしょう。

若い皆さんには、中高生の時代に日本文学をたくさん消化しておくことを、薦めたい。

ところで鴎外はkoderaさんには肌が合わないのでしょう。漱石『坊ちゃん』が大好きな人は、鴎外はつまらないと感じる人が多いのではないでしょうか。心のありようが正反対です。
鴎外は実生活に毒っ気がありすぎで、それが彼の作品にも及んでいるようにみえます。登場人物の心のありようが違うのでしょう。

お笑い三人組はわたしはよく見ました。「金ちゃん、八ちゃん」、白黒テレビの頃です。なるほど、あのころから古典芸能の質が下り坂を転げ落ちるように落ちましたね。
ひたすら芸を磨いた昔の落語家や講談師とは違って、テレビに出ると全国津々浦々に名前が売れて、収入も大きくなります。芸を磨く時間が少なくなり、質が落ちていく。お金に負けたのです。「武士は喰わねど高楊枝」の精神、金銭に執着するのを卑しいことと考えた文化がすっかりなくなりました。

昔の落語家は、相当名前が売れても長屋暮らしで庶民とそれほど変わらない生活をしていました。だから、庶民の心がわかった、それが笑いや芸の質を支えた。

落語家は一生芸を磨き落語家でよい、講談師も一生芸を磨き講談師のままでよい、そういう覚悟をもって芸を磨く芸人が稀になりました。
日本の伝統文化の形は残っていますが、心は受け継がれなかったようです。わたしたちはそういう文化継承の断絶期を見てきました。一世代後の人たちはそういう変化すら感じられなくなるのでしょう。
眼に見える形だけでなく、眼に見えない文化や伝統をどうやって次の世代に伝えたらいいのか。

東京に住んでいて子どもや学生時代に寄席にいって聞けたのは幸せでしたね。わたしは小学生のころ、ゲルマニウムラジオのイヤホンで落語や講談を聞くのが好きでした。話には日本的情緒、時代が違ってもかわらぬ庶民の生活と情感が採り上げられていました。

たしかに、日本はたいへん経済的に豊かにはなりましたが、失ったものの大きさを考えると時代の進化のしかたがこのままでよいことなのか、考える必要があります
あくなき欲望の行き着く果てが、人工知能が支配し人類が絶滅するような未来であってはならないと思います。
by ebisu (2016-04-13 12:13) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0