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#3147 読み・書き・そろばん(計算) Sep. 30, 2015 [47. 語彙力と「読み・書き・そろばん」]

 いま、「釧路の教育を考える会」の中でネット上で数人で議論していることを、ブログ「情熱空間」管理人のZAPPERさんが統一的な視点からまとめてくれました。
(ネット上での特定の掲示板あるいはMLを利用した議論は便利がいい、釧路と根室の距離がなくなります。)

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2015年09月30日

学力向上のキモ(途中式と作文と)

途中式を書かせない。
作文を書かせない。


現在、議論を進めているところですが、なぜこの地の子ども達の学力が上がってこないのか、その核心部分と考えられるもの。結局、この二点に集約されるものではないだろうと考えるに至りました。

中学数学。学習指導をしていて痛感するのは、本当に本当にそれはもう驚くほどに途中式を書かないというものです。こうした感じですね。単なる計算問題。ただ黙って問題を見つめたままの生徒。「何しているの?」と問うと、「考えているの…」との返事が。またはこう。途中式を書くのではなく、与式の上か下に(途中計算の)メモを書いて、書くべき途中式は完全に端折っては答えだけを書こうとする。

ですから、多くの場合、まずは途中式をきちんと書くことの指導からになります。しかし、これが実に厄介なんですね。もはや根競べでしょうか、どれだけ言っても書かない。書くように指導をするも、頑なに書こうとしない。しまいにゃむくれる(苦笑)。ええ、なかなか壮絶ですよ。意地でも書こうとしません(笑)から。途中式を書かない。だから間違う。途中式を書かない。だから見直しができない。まさに悪循環。

で、いよいよとなれば「強権発動」です。多くの問題を解かせる。でもしかし案の定、途中式を書かない。結果、当然ながら間違いのオンパレード。目の前ですぐに丸付け。×のラッシュ!解きなおしを命じる。それを繰り返す。そうしてやっと気づくんですね。途中式を書かない。だから間違える。書いたならば間違いはグンと減る。そのことをやっと理解して、書こうとする。文章にすると簡単そうに聞こえますが、これ、敵(笑)は本当に強いですよ。手強いったらありゃしない。

お次は国語です。文章表現が稚拙。それ以前、年齢なりの語彙力が足りていないんです。文章を書かせたなら、まずまともに書けない。文書を読み、その論旨をまとめよといった問題。無理ですね、まずできない。しかし「話し言葉」はそこそこしっかりしているんです。ところが「書き言葉」になった途端、フリーズ。思考停止状態に陥ってしまいます。そうした子、でも設問なりの文章を声に出して読んであげたなら、それでもそこそこは正解できるんですね。つまりこういうことです。「話し言葉」と「書き言葉」がリンクしていない。「話し言葉」ならば理解できる。しかし「書き言葉」だと途端に理解できなくなるということです。ええ、「話し言葉」と「書き言葉」の橋渡しに大きな問題があるということです。

ここは当然ながら「読むこと」と密接な関係にあるわけですが、いかんせん「書くこと」の練習がまるで足りていないわけです。事実、朝読書がこれほどまでに普及していながら、ペーパーテストの得点はまるで上がってこない。ええ、「書くこと」のトレーニングがまるでなされていないわけだから、年齢なりの「文章を読む力」に劣ってしまうということになるんです。アウトプットが非常に手薄。だからインプットを奨励するも効果が出ない。見方を変えたならばそう言えるでしょう。

さて、それらが融合されるとどうなるか。例えば算数・数学の文章題。手も足も出ません。そもそも設問を読めない(正しく読み取れない)ので次の手が打てません。仮に読み取れたとしても、立式にまで至りません。なぜなら、与えられた条件を書き出してみるということをしないわけだから。それはまた、無回答率が跳ね上がることが証明している部分でもあります。

というわけで、小学校に目を向けてみると…。言っちゃ悪いですが、案の定ですね。途中式を書かせていない。そりゃ見直しすらしなくなるでしょう。(事実、検算すらまともにできない子があまりにも多い)具体的には3年生・4年生ですよ。分数の足し算引き算、それに四則計算、括弧を含む計算。そこで途中式を書く指導を徹底し損ねたなら、高い確率で書かない子が誕生してしまうことになります。そして5年生・6年生で軌道修正ができなかったならば、極めて高い確率で前述のような子に仕上がってしまうことになります。

作文指導はなし。あってもおまけ程度。「読む」と「書く」は車の両輪でしょう。読ませて書かせる。だから読む力と書く力の双方が少しずつ養われていく。でも書かせない。書かせないから、目的意識をもって文章を読むことをしなくなる。結果、悲しいかな、そのように調教されてしまっている。ここでしょう、ここ。いや、ここですよここ、問題の核心部分は。

試験問題を解くにあたって、前提となるのは、自らの「解答が確からしい」という実感・確信のはずです。なぜその解答に至ったかという思考。順を追って作業をし、順を追って考えて、そうして解答を導いた。だから「解答が確からしい」という自信を持つに至るものが、その思考のツール自体(途中式を書くこと。文章を書くこと。書く前提で読むこと)が不確かであるならば、そりゃ学力なんて伸びやしないというものでしょう。

読み・書き・計算とはよく言ったものです。いつもebisuさんがご指摘なさっていますが、まさしく重要な順に並んでいます。そしてこのことは沈着冷静にお考えいただきたいですが、「書き」と「計算」が驚くほど疎かになってしまっています。ええ、作文指導と計算過程を書くことが。というわけで結論です。途中式は必ず書かせるよう指導を徹底する。作文指導を強化する。それこそが《キモ》であるということです。

そうしたならば、こうした若者もまた雇用の現場から減ることになるでしょう。文章を書かせるも、まるで要領を得ない。何度言ってもメモをとろうとしない。ええ、実はそこへと直結しているわけですから。書く。書いて思考を可視化する。そのトレーニングが実に手薄だということです。

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コメント 6

tsuguo-kodera

 論旨、賛同です。
 しかし、私は今でも国語も作文も苦手です。むしろ苦手な作文も上達したいと思ったのは回り道だったかもしれません。作文と小論は全く違います。小論と提案書は似ています。小論と報告書も、論文も似ているように思えます。
 大学や会社で必要になるのは提案書や報告書です。ぜひ小論と報告書の書き方を指導してあげて欲しいのです。大学のAO入試で必要になり、会社の試験で必要です。
 そして大学で研究予算を獲得し、良い成果を出すためにもです。日本が遅れたように思えるのは作文の重視のように私には思えて仕方がないのです。
 もう私はすぐに南無阿弥陀仏です。ぜひ皆さんの中に賛同者が現れることを祈念しています。
by tsuguo-kodera (2015-09-30 16:41) 

ZAPPER

児童生徒の作文は、はっきり言ってたしなみ程度でよろしくてそれ以上を求めるべきではないと私も思います。(もし人並はずれた才能があったなら、やがて勝手に開花するはずですし)koderaさんがご指摘のように、小論・提案書・報告書を書けることこそが重要、いや、それこそが目標だと考えております。
まずは、あらすじを要約することから。次いで感想文。主張の根拠を明らかにするように導き、その後に小論文へ。そうして段階を踏ませることだろうと思います。ここもまた守破離でしょうか。
by ZAPPER (2015-09-30 22:06) 

後志のおじさん

「作文」という語の理解にズレがあるように感じましたので一言koderaさんに、

日本の人は、作文指導というと、訴えかけるものが多い上手な文章を原稿用紙数枚にわたって書かせる指導と思います。私自身首都圏低学力の埼玉県育ちですから、首都圏の常識で北海道を見ています。

zapper さんのいう「作文」は、文字どおり「文を作る」の意味で、上手い下手以前に、日本語として成立する文を書くことを言っているのです。

北海道の基礎学力レベルは、日本の人が想像できる範囲を超えているのです。

by 後志のおじさん (2015-09-30 22:30) 

ebisu

お二人の意見を伺って、なるほどと思うところあり。

小中学生のころを思い出すと、ebisuは作文の練習なんてしたことがなかった。書かされたことはあったが、自らトレーニングと呼べるようなことはしたことがなかった。

高校生になって、日商簿記一級の受験で、会計学と原価計算で論述式の問題が出題されるので、必要に迫られて答案書きのトレーニングを始めた。同時に公認会計士二次試験講座参考書で勉強をはじめたので、こちらも答案を書くトレーニングをした。最初は丸暗記で十題二十題と広げていった。次第に、キーワードを並べただけで書けるようになった。大学入学前はここまでである。
小4から北海道新聞「卓上四季」や社説を読みなれていたので、それが役に立ったように感じた。自分の主張を客観的な根拠で裏付ける構成に自然になれていたのである。

修士論文を書いてから長い論文が苦にならなくなった。そういう意味では、修士論文を書くことは意味があった。
会社勤めをしてからは、提案書、稟議書、報告書など数千枚書いた(8cmのファイルで10本ほど)ので、すっかりそういう文体に慣れてしまった。専門的なことでもわかりやすく書かないと稟議書は理解してもらえないし、ゴーサインがでない。権限のある取締役は、業務ごとに分かれているから、こちらの業務の専門的な内容を理解できない取締役が必ず混ざっている。だから部外者でも理解できるような稟議書が必要になる。必要は発明の母である。繰り返しているうちに慣れてくるのだ。だからたくさん仕事したほうがいい。やればやるほど書くスキルは上がるもの。
国語の先生にはなかなか書けないし、指導もできない種類の文だろう。

一般的な作文はとくに主張があり、それに客観的な根拠をつける必要がない。日本的情緒が流れていて、リズムがあって美しく書けていればいい。そういうことが、小中学生の時期にできる人は、文学者か小説書きになれるだろう。

さて、学校教育、なかでも小中学校では、作文あるいは論文書きのトレーニングができるのだろうか?
読んでいる本のあらすじになる部分に青線が引けて、200~400字の小論が書ければ十分ではないだろうか。

上場企業だって、人並み以上の説得力のある提案書や簡潔な報告書を書けるのは部長職以上だろう。
万人がちゃんとした文章を書けるようになるとは思わないし、2割の人間がきちんとした文章を書くことができればどんな会社も世の中も回るものだろう。

学校教育が目標とすべき「書くスキル」はもっともっと低いレベルでいい。
たとえば、いまここに書いた「目標」という漢字を使って、短文章を3つ作成せよ、というようなものでよい。「目」もしくは「標」と言う字を使って、熟語をそれぞれ4個ずつ書け、そういう語彙力トレーニングで十分だ。
個数を減らせば難易度が小さくなるし、増やせば難易度が上がる。
by ebisu (2015-09-30 22:51) 

tsuguo-kodera

 コメント者のことばにあるように守破離です。だからバドでもできるのです。国語の時間で教科書で、論説や書き順ではできません。
 徹底的にまず守。それしか人には教えられないのです。後は自習です。本でも良いのでしょう。算数問題でも良いのです。息子のように。
 私の手法は箇条書きを4項目以下、1行12文字以下の少ない字数で自己主張させるのです。守破離ができます。話し言葉でも同じです。打ちながらだから発する言葉は1文字か2文字です。
 先生は簡単な言葉の種が大事。これはどんな大先生が反論してくれても変わりません。南無阿弥陀仏だけが望みだからです。
by tsuguo-kodera (2015-10-01 04:40) 

ebisu

koderaさん、おはようございます。

デジタル大辞泉より
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しゅ‐は‐り【守破離】
剣道や茶道などで、修業における段階を示したもの。「守」は、師や流派の教え、型、技を忠実に守り、確実に身につける段階。「破」は、他の師や流派の教えについても考え、良いものを取り入れ、心技を発展させる段階。「離」は、一つの流派から離れ、独自の新しいものを生み出し確立させる段階。
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日本の伝統文化の修業は、技術の伝承という点で実に合理的な教育システムである。
職人の育成、徒弟制度にも同じ考えが流れている。
日本の教育の基本、人の育成方法は千年の試練に耐えて、磨かれたもの。

守破離

by ebisu (2015-10-01 07:45) 

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