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#3097-6 資本論と21世紀の経済学(改訂第2版)-6  Aug. 4, 2015  [99. 資本論と21世紀の経済学(2版)]

#3097 資本論と21世紀の経済学(改訂第2版)<目次>  Aug. 2, 2015 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-08-15


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 20. <相対的貧困率上昇と金融資産1億円超の富裕層増大>

 
 11章<学としての『資本論』体系解説>において、演繹的体系の代表例として経済学と数学を「学の体系という点から」並べて論じてみた。数学は公理・公準や定義が大事である、もちろん経済学もその点では同じである。ものごとを学問的に扱うときには、その定義をしっかり決めなければならない。決めたら決めたでそれにぴったりのデータを探さなくてはならない、そこにも困難が待ち受けているのである。具体的な事例で説明したほうがわかりやすいだろうから、経済記事に出てくる用語を三つとりあげて、定義とデータをセットで論じてみたい。

 【相対的貧困率】
 相対的貧困率とは国民の所得格差を表す指標で、全国民の年収の中央値の半分に満たない国民の割合を指す。預貯金や不動産の所有は考慮していない。
 2009年のOECD調査では16.0%で、イスラエル(20.9%)、トルコ(19.3%)、チリ(18.5%)についで4番目に高い。この年は米国の調査がなされていない、2010年の調査では17.3%だから、日本は先進国では3番目
(1.イスラエル、2.米国、3.日本)に貧困率の高い国ということになる。だんだん、米国社会に近づいてきている。お隣の韓国は所得格差の大きな国だが、その韓国ですら15.3%である。
 2007年度の調査では、2006年度の等価可処分所得が127万円未満となっている。

【子供の貧困率】
 子供の貧困率というのがあるが、考え方は相対的貧困率と同じである。20147月の厚労省発表データでは16.3%6人に一人の割合)と過去最悪を記録した。所得格差や貧困問題は子供たちに及んで、一日一回しか食事が摂れない、慢性的な低栄養状態、栄養失調など深刻な問題を起こし始めている。

【金融資産1億円超の富裕層増大と経済格差拡大】
 次にとりあげるのは金融資産1億円超の富裕層である。預貯金や株そして投資信託の純保有額(負債と相殺後)が1億円を超える層をいう。
 2013年度は初めて100万世帯を超え、100.7万世帯となった。全世帯数に対する割合は2%で、国民の50人に1人は金融資産1億円超の富裕層である。2011年比で28.1%増加している。

 その一方で、資産ゼロ世帯が一昨年から30%を超えている。2012年には26%弱だったから、アベノミクスで金融資産1億円超の富裕層が増えると同時に、資産ゼロ層が5ポイント跳ね上がった。アベノミクスの負の側面である。
 

【用語の定義とそれに見合うデータの収集】
 話を戻そう、専門用語の定義の問題だった。定義は細かいところになるとなかなか専門的で小難しいもので、相対的貧困率は「全国民の年収の中央値の半分に満たない国民の割合を指す」と定義されているのだが、実際の計算法は世帯ごとに年収を合算し、それを人数の平方根で割った値を高い順に並べ、中央値を引っ張り出して、その半分以下の世帯が相対的貧困世帯とされる。「年収」は税金や社会保険料を差し引いた手取り収入(可処分所得)で計算される。
 
なぜ、世帯人数の平方根で割るのかを考えてみてほしい、このようにデータをグリグリいじくることはいろいろ考えないといけないから楽しいのである、トマ・ピケティもきっとそういう種族なのだろう。答えは厚労省作成の「国民生活基礎調査(貧困率)よくあるご質問*」に載っている。*http://www.mhlw.go.jp/toukei/list/dl/20-21a-01.pdf**「貧困統計ホームページ」…計算式参照 :http://www.hinkonstat.net/ 簡単な假説例をつくってみたらすぐに了解できるだろう。年収1000万円の5人家族と年収600万円の3人家族がいるとしよう。普通の感覚では1000万円の所得のある家庭のほうが立地に感じるが、家族の人数で割ればどちらの世帯も平均所得は200万円となりイーブンだが、人数の平方根で割ると、447万円と346万円となり、はっきり差が出る。現実的な感覚に近いデータが得られる。

 子供の貧困率については、「考え方は相対的貧困率と同じである」と書いたが、ちっとも簡単ではないし、「金融資産1億円超の富裕層」も金融資産にどこまで含めるかということが厳密に定義されていなければならない。金融資産は1億円ないが、広大な広さの土地を首都圏に持っている場合もある。そういう人は「金融資産1億円超の富裕層」には入らないから、「真の富裕層」を想定した場合にはどこまで勘定に入れて定義したらいいのか、これはこれで定義も、それの即したデータを集めるのもなかなか困難である。だから、適当なところで定義をして、データを集めるしかない。
 
次の章で、トマ・ピケティ『21世紀の資本』をとりあげるが、データを定義して、長期のスパンでそれに見合う先進6カ国のデータを集めることは至難の業である。ピケティはずいぶん妥協していることが明らかになるだろう。図表がふんだんに使われていて精密に見えても、集められたデータは比較性を欠くから、周辺データから攻めることでずいぶんとラフな議論にならざるを得ない。データの扱いはなかなかむずかしいのである。ピケティはデータの扱いにおいて、「豪腕」の持ち主なのである。


  21. <『21世紀の資本』トマ・ピケティの空想的所得再分配論> 
  ピケティは欧米各国のデータを調べて、資本収益率rと成長率gの二つを比べ、[ r > g ]という不等式を導き出す。資本収益率が成長率(賃金上昇率)を上回ることで、資本主義では経済格差が拡大することを一般的な法則と主張しているのだが、日本の現実はどうだろう?
 過去40年のスパンで見たときにどうかという問題と、経済格差が急拡大した最近15年間ほどのデータではどうかという問題がある。  「時事ドットコム」の勤労者の平均所得推移データをみると、1997年の446万円をピークに下がり続けており、2013年のそれは413万円で、1989年当時と同水準にある。最近20年間は勤労者の平均給与は下がり続けた。
*図解平均給与の推移:http://www.jiji.com/jc/graphics?p=ve_eco_company-heikinkyuyo 

 
資本収益率とは自己資本税引き後当期純利益率のことだろうが、統計資料をググってみたがヒットしない、自己資本経常利益率はみつかった。過去10年間では上場企業の自己資本経常利益率はおおむね10%前後あるから、税引き後の当期純利益を半額としても、株主資本税引き後当期純利益率(ROE)は5%前後あるようだ。ピケティの不等式[ r > g ]は最近20年間の日本でも成立していることは疑いがない。しかし、それを直接証明するデータは提示されていない。後で論じるが、そもそもそのようなデータは存在していない。
 
だが、ピケティの不等式よりも、小泉政権(20014月~20069月)以前からはじまった労働規制解除のほうが所得格差拡大に影響が大きいのではないだろうか。非正規雇用割合が約40%に上昇したことで、サラリーマンの平均所得が減少し続けている。非正規雇用割合は上昇を続けており、サラリーマンの平均所得は1997年をピークに下がり続けている。所得格差拡大は労働規制解除による非正規雇用割合の増大によってもたらされたとも言いうるのである。
 
労働規制解除は米国からの要求に応じてなされた、グローバリズムの弊害である。各国はそれぞれの国の事情に応じた、雇用慣行があっていい、一律に米国と同じにする必要はないのである。グローバリズムを受け入れることで、先進国中で一番経済格差が小さかった日本が壊れつつある。米国の次の要求はTPPであるが、受け入れてはいけない。 

 
話をピケティに戻そう。かれの不等式は最近20年間の日本の経済格差拡大の半分も説明できない。日本の経済格差は労働規制解除が次々となされていくことで急拡大したと考えられる。
 ピケティの論の面白いところは、この不等式で表された「一般法則」の向こう側にある。かれは経済格差を縮小するために、累進課税を強化すべきだと主張する。さらにもっと進んで、資産課税を主張している。たとえば、1億円超の資産を保有するものには年に1%の税金を課すというものだ。テレビ出演して応えていたのを見たが、10億円なら2%という風に、保有資産額の大きさに応じて税率をアップするというもので、きわめて大胆で具体的な所得再分配提案である。ほとんど革命ともいえるような資産課税の実現性の問題はさておいて、これならサラリーマンの平均所得以下の層は所得税を課税しないですむ。
 ピケティの論の背後には、経済格差拡大は社会的不正義であるという観念があるのではないだろうか。所得分配機能を強化することは社会的正義の実現であるという思想と信念に基づいているようにわたしの耳には聞こえた。しかし、資本主義社会で資産課税をすれば、経済と政治の実権を握っている富裕層と真正面からぶつかることになる。政権与党や官僚が革命に等しい資産課税に踏み切る余地はほとんどゼロに等しいように思える。エスタブリッシュメントが自分たちの利権を自ら手放すわけがないから、ピケティは「空想的格差解消論」を提唱している。
 ピケティの論は所得再分配機能を強めることで国民の経済格差を縮小しようとするものである、理屈としてはわかるが、それは革命に等しい内容を含んでおり、実現性がほとんどない。
 
わたしの職人中心経済社会論は、マルクス『資本論』の第一公理を「労働は苦役」から「仕事は歓び」に替えること、すなわち仕事観の転換により、生産のあり方や企業のあり方、そして経済社会のあり方を根底から変えてしまうものである。このように書いてしまうと、わたしの論もなにやら言葉遊びのようにも聞こえるだろうから、具体例を一つ挙げてみたい。 

[チーズ職人たちが協同で地域ブランドを創設しようとしている]
 十勝でいま面白い試みがなされている。チーズの地域ブランド、「ラクロス」を確立しようというものだ。複数のチーズ工房で造られたチーズの品質が一定でないと消費者の信頼は得られない。20252月に行われた試食会では、まだそれぞれのチーズ工房で造られたチーズの味に個性が強すぎるという評価だった。製造に関するさまざまな工夫をお互いにある程度公開して、品質の高いところにあわせる努力をしないと、売れる商品ブランドの確立はできない。チーズ造りに携わる職人たちの技と使う原料の品質が揃わないと信頼性が高く売れる商品の地域ブランドは確立できない。小さな工房が集まって原料や技に関するノウハウを出し合って物を協同して生産・販売していく、あたらしい時代の芽が道東でも生まれつつある。

 [図表と資本収益率について]
 ピケティの図表の中に、日本の資本収益率が載っている表はない。論より証拠、スライドに収載されている図表名をリストアップするのでご覧いただきたい。

1.1. 米国での所得格差、 1920-2010
1.2. ヨーロッパでの資本/所得比率、1870-2010(独・仏・英)
5.3. 金持ち国の民間資本1970-2010(米・独・英・加・・仏・伊・豪)
5.5 金持ち国の民間資本と公的資本 1970-2010(米・独・英・加・・仏・伊・豪)
3.2. フランスの資本、 1700-2010
2.5 世界の資本分配、1870-2010(アジア・アフリカ・アメリカ大陸・ヨーロッパ)
6.5 金持ち国の資本シェア1975-2010(米・独・英・加・・仏・伊・豪)
10.1. フランスの富の不平等 1810-2010
10.2 パリとフランスの富と不平等の比較10.3 イギリスの富の不平等 1810-2010
10.4. スウェーデンにおける富の格差 1810-2010
10.9. 世界的な資本収益率と経済成長率の比較 古代から2100
10.10. 世界的な税引き後資本収益率と経済成長率 古代から2100
2.2. 世界人口増加率 古代から2100
2.4. 太古から2100年までの世界一人当たりGDP増加率
12.1 『フォーブス』による世界の億万長者、1987-2013
12.2 世界人口と世界総資産に占める億万長者たちの比率、1987-2013
12.3 世界の富のトップ区分の資産シェア、1987-2013
12.1世界のトップ資産成長率
12.2米国大学の資本基金収益率
3.2 フランスの資本、1700-2010
4.6 米国の資本、1770-2010
5.2 ヨーロッパと米湖訓国民資本、1870-2010
4.10 米国の資本と奴隷制 1770-2010
4.11 1770-1810年頃の資本:旧世界と新世界(英・仏・米(南部))
10.6. ヨーロッパと米国における富の格差の比較 1810-2010
8.5. 米国の所得格差、1870-2010
9.8. ヨーロッパとアメリカにおける所得格差 1910-2010
14.1 最高所得税率1900-2013(米・英・独・仏)
14.2 最高相続税率1900-2013(米・英・独・仏) 

 スライドに収載されているのは28図と2表。ナンバーから推して本のほうにはこれの数倍の図表が載っているようだ。主として米・独・英・仏の4カ国のデータが主軸であり、世界第3位、独・仏を合わせた経済規模である日本*は刺身のツマ程度の扱いになっている。それにしても、ピケティ氏はデータ蒐集が大好きなようだ。
*総理府統計局「世界の国内総生産」http://www.stat.go.jp/data/sekai/zuhyou/03.xls#'3-1'!A1 

 
「図5-3 金持ちの国の民間資本1970-2010」には米国・米・英・加・日・仏・伊・豪の6カ国、資本収益率をダイレクトに計算あるいは比較できないので、関連指標群を取り上げることで代替しようというわけか?
 日本については3つの図で扱われただけであり、資本収益率は提示されていない。そもそも資本収益率という概念はあいまい、分母は2種類、総資本収益率と自己資本収益率がありうるが、分子も経常利益とするか、税引き前利益とするか、税引き後利益とするかで3種類考えられる。假に分子は税引き後利益、分母は自己資本としよう、次に問題になるのは会計基準である。各国で会計基準が違っているだけではない、日本だけをとってみても、会計基準は2000年の「会計ビックバン」を境に大きく変更されているので、それ以前と以後ではそもそも税引き後利益の比較ができない。二つ問題がある。法人税率の違いや健康保険の会社負担分の違いが税引き後利益に影響してくるから、各国のデータを比較できない。まだ他にも撹乱要因がある、それは繰延税金資産勘定である。この勘定の新設によって、総資本も自己資本も水増しされている。大銀行にどうしてこんなに優遇措置を講ずる必要があるのだろう。リーマンショックで15兆円の穴を開けた銀行は、損失処理をしたが、その損失を7年間繰り延べできるように会計基準が変更されていた。当初は5年だった繰延期間は2年延長された。弊ブログ「ニムオロ塾」#2727で昨年6月にとりあげているので、抜粋する
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2014-07-06-1

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…リーマンショックが2008年だった、その際に日本の金融機関がどれほどの損失を出したかご存知だろうか、おそらく記憶にないだろう。なんと1490億ドルである、現在のレート102/$で換算すると15兆円もの損失を出した。
 
大きな仕掛けがあった。巨額損失15兆円は「繰延税金資産」という勘定科目で処理され、その後5年間に渡り利益と相殺され続けた。繰延税金資産の有効期間は5年間だから、2008年度決算で生じた損失15兆円の繰り延べは2013年度(20143月期)までであったが、2012年に法律を改正して繰り延べ期間を2年間延長し7年と改めた。至れり尽くせりとはこういうことをいうのだろう。
 実効税率(法人税+法人住民税等)を36%と假定すると、5.4兆円の免税となっている
 
政府は消費税の3%値上げによる平成26年度増収分を546億円と答弁しているから、繰延税金資産で圧縮した5.4兆円の大きさがわかるだろう。
*http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/b186101.htm

 法人税の実効税率は利益の約36%であるが、経済界は法人税本体の税率30%を20%に減額要望している、安倍政権はこれに応えて法案を提出するつもりのようだが、繰延税金資産勘定を利用することで金融機関は7年間で約5.4兆円の減税措置を受けた。この制度はずっと有効だから、二度目のリーマンショックが起きても大手都市銀行は安泰である。また税金の減免で自己資本の増強を図ればいい。
 こういうこと
は金融機関の経営にモラルハザードを招く。ハイリスクの金融派生商品に手を出しても、万が一の大損失には税金の減免がまっている。

 法人税収はリーマンショック後6兆円に減少したが、通常は年額8兆円から10兆円である。法人税率を20%に下げることでさらなる減税をするのだ。消費税は4月に5%から8%に引き上げられ、来年10月には10%へ再引き上げされる。大震災の復興税はすでに免除されている。

 金融機関に限らず、法人は「繰延税金資産勘定」を利用することで、法人税の大幅減税がすでになされているのである。そのうえ30%の法人税を20%にまで下げようというのだから、その強欲さには空いた口がふざがらぬ。金融機関に限らず企業経営者たちはモラルハザードを起こしている。強欲な企業経営者たちを、会計基準を変更してさらに強欲に駆り立てている。
 政府財政は1000兆円を超える国債残高を抱えて青息吐息なのだから、法人も応分の負担をして財政健全化に貢献するというのが日本の企業のとるべき道だ
 
財界人の中から国の行く末を憂い、財政健全化のために法人税率を40%に上げようという意見が出てくることを期待したい。経営者は強欲な人間ばかりではない、まともな人も少なくないだろう。いるならぜひ声を上げてもらいたい
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 繰延税金資産については、企業会計と税務会計(所得申告)の調整に関する事項なので、あとで簡単な仮設例を挙げて[-6 繰延税金資産について:三菱UFJ銀行の例]で解説する。

 会計ビッグバンのもう一つの問題は、株式の時価評価である。それまでは株式は低価法で決算書に載っていた。取得原価か時価のいずれか低いほうで貸借対照表上に記載すればよかった。30年前に一株100円で百万株、1億円で取得した株が10000/株になっていても帳簿上は1億円だった。実際には100億円だから、業績が悪くなったら保有株を切り売りすることで損失補填ができたのである。それが時価評価になって、売却しなくても評価益を計上し、課税がなされる。上場企業株をたくさんもっていたら、株価の乱高下で利益計画に重大な変動が出るようになった。それで、企業間で持ち合っている株を市場でいっせいに売り始めた。現在、外国人投資家あるいは投資機関の国内企業上場株のシェアーは30%を超えてしまった。株式の評価基準が変わっただけで、企業間で持ち合いされていた株が一斉に売りに出たのである。
 7/30の日経新聞電子版では、三菱UFJ銀行が持ち合い株の20%を売却する方針だという。

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三菱UFJ、持ち合い株削減へ基準 2割が「収益性」満たさず>

 
三菱UFJフィナンシャル・グループは持ち合い株の削減に向け、保有株式から得るべき収益率を示す新基準を公表する。3月末時点で保有する3.8兆円(簿価1.9兆円)のうち約2割が基準を下回り、一定期間内に改善しない場合は売却を検討する。持ち合い解消を促す政府の企業統治(コーポレートガバナンス)改革を踏まえ、残高の削減方針を明示する。http://www.nikkei.com/article/DGXLASGC29H1X_Z20C15A7EE8000/ 
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(株式持ち合い解消は銀行員にとっては深刻な痛手となる。持合を解消してしまえば、銀行から融資先企業への「天下り」もできなくなる。年収1300万円の課長クラスが50歳を過ぎてから肩たたきされて、年収500万円以下の企業へ再就職するようなことになる。当然肩書きも外れる。1980年代は課長クラスでも上場寸前の優良企業へ役員や部長で出向できた。部長で出向しても数年で転籍して役員が約束されているから安楽な生活が保障されたものだ。) 

 
ビックバン以前は保有株式の評価額が取得原価だから、自己資本額は過小に評価されていたことになる。会計基準の変更によって分母の自己資本の比較ができないのである。 したがって、ピケティの論を直接証明する「資本収益率」に関する信頼するに足る統計データはない。でも、周辺のデータからおおむね妥当とは言えるだろう。それよりも1990年代後半からはじまった、労働規制解除のほうがはるかに経済格差拡大を推し進めたと言えるだろう。  ピケティの本は分厚い学術書で高価(5940円)なので、概要を知りたい人は、翻訳者がこの本に載っている表をネット上にアップしてくれているので、こちらをご覧いただきたい。チャートが面白いと思った人は、分厚い本を注文したらいい。(根室でオリジナル(英語版)を読みたい人がいたら、5月以降なら土曜日に時間をとって付き合ってあげられる。)
 *2014-10-09 ピケティ『21世紀の資本』スライドhttp://d.hatena.ne.jp/wlj-Friday/20141009/1412861233http://cruel.org/books/capital21c/Piketty2014Capital21cJapanese.pdf  



2. <浜矩子 2015年度政府予算案と公共性について> 

 
 NHKラジオ番組「ビジネス展望」(朝643分から10分ほどの番組、29日放送)で、同志社大大学院の浜矩子教授が、平成27年度政府予算案を俎板に載せ、次のように論評した。
□ 予算最大規模
□ 歳出規模が過去最大
□ 国防費増額
□ 生活保護費は支給基準の見直しがなされて減額
□ 法人税減税の一方で、赤字企業への課税強化
□ 沖縄への振興策は減額

 これらを総称して「メリハリつきすぎ予算」、「依怙贔屓が見えすぎちゃう」とのたまう。とどめは「公共財の私物化と言うべきものではないか」。
 浜氏は公共財とは「幅広く人々に便益が及ぶもの、そのために公共部門が責任をもってサービスを提供する」と定義する。「そういうことをやるのが政府の仕事であって自分のやりたいことをやるのは公共サービスではない、安倍政権においてはその辺のところが非常に混同されている」と鋭い指摘。
 私物化の具体例を次々に挙げた。
□ 政治家が軍備を強化したいと思うから国防予算を膨らませる
□ 気に食わない相手に対しては支援の規模を削り込んでしまう⇒沖縄
□ 人気を取りたいから、新幹線網を整備する
□ 大企業を自分が優遇したいから法人税を減税

  ようするに、自分たちがやりたいことをやるという姿勢がはっきり見える、こういうのは政策意図とは言わない。自分がやりたいことをやるのは、公共部門が政策に携わるときの発想ではない。
 聞き手が次のように問いただした。
       公共事業は景気の下支えに必要
       国防予算増額は周囲の安全保障環境の変化に対応するもの
       法人税減税は国際競争力を強化するためのもの
 浜氏の答えは次のように原理原則に還るものだった。

 公共性とか公益性とはどういうことをさすのか?政府の役割はどういうものか?
①放置しておくと誰もやらないことをやる、
②ほうっておくと消えてしまうサービスを提供する、
③誰も見向きもしない弱者を助ける。
 政府や国家は国民のためにサービスを提供する事業者であり、そういうこと(①、②、③)を前提にわれわれは税金を払って政府や国家を養っている。安倍政権の平成27年度予算案はその辺に対する認識が希薄である。
 浜氏はジョン・メナード・ケインズの言を挙げた。政府にとって重要なのは、個々人がすでにやっていることを少し上手にやるあるいは少し下手にやることではなく、他の誰もがやらないことをやるのが政府の仕事である」、ケインズは財政政策にとって重要なポイントをしっかり指摘している。

  安倍政権の平成27年度予算案が民意の結果ではないかとの質問に対しては、次のようにばっさり切り捨てた。
「傲岸不遜、選挙で勝てば何をしてもいいのか?自分たちのやっていることはすべて公共性があるのか?そんなことはない、(自民党や公明党に)投票しなかった人もいるし、それに今回の選挙では自民党は議席を減らしている。国民すべてのために公共性、公益性を考えなければならない。(安倍政権は)民主主義のプロセスをわかっていない。」

  過去最大規模の予算についてはどのように思うか問われて、数字を挙げて警鐘を鳴らした。「公的部門の借金残高がGDP233.8%、破綻しつつあるギリシアですら179.9%、こんな状態にあるのに、一方でやりたいことをやるために歳出規模を最大にするというのは公共性や公益性がない。借金を返すために借金をしていく一方で、派手な事業を積み上げていく。これはやはり公共性を意識していない政策姿勢。」  新規国債は減る計画だがという問いには次のように答えた。「円安、株高、そういう状態を政府が作り出したパフォーマンスの成果、だから何をやってもよいということではない。」自作自演の円安と株高で一時的に税収が増えただけ、後にはたいへんなツケが回ってくるということだろう。 

 公共性を前面に押し出しての浜氏の論の展開はなかなか迫力があった。わたしは11節<学としての『資本論』体系解説>で、資本論の公理・公準とは異なる13の公理・公準を挙げて、新しい経済学の枠組みを示した。

 
1.仕事は神聖なものであり、歓びである ⇒第1の公理
 
2.商品には価値がある、価値のないものは商品ではない ⇒第2の公理
 3.商品には使用価値がある、使用価値のないものは商品ではない ⇒第3の公理
 4.価値には普遍性がある ⇒第4の公理
 
5.一人前の職人の仕事は職種を超えて同一であるものとする ⇒第一の公準
 
6.商品の価値量はそれに含まれている一人前の職人の仕事量で決まるものとする ⇒第2の公準
 7.名人の仕事の質は無限大であるとする ⇒第3の公準
 8.名人の仕事の質は一人前の職人の仕事の質と比較できない ⇒第5の公理
 
9.資本の運動は利潤を生み、生産性増大は利潤を増大させる ⇒第6の公理
10.小欲知足:欲望の抑制 ⇒第4の公準
11.生産力と環境との調和 ⇒第5の公準
12.売り手よし、買い手よし、世間よしの三法よし ⇒第6の公準
13.浮利を追わぬ ⇒第7の公準
 
 
No.1013は倫理基準でもある。第4の公準~第7の公準は、欲望のままに動いていい、自分さえよければいい、環境がどうなってもいい、取引相手に損をさせても世間に迷惑をかけてもいい、いまさえよければいい、そういう考えをいましめたものだ。政策決定権限のある者がこれらの倫理基準を無視して動いたら、長続きはしないし、大多数の者の幸福にはつながらぬ。
 
世界中の創業二百年を超える企業の7割ほどが日本にあるのは、「自分だけ儲けりゃ好い」とか「だまされるほうが悪い」という弱肉強食の価値観ではなく、毎日仕事の技術を磨き、誰が見ていなくても仕事の手を抜かず、「売り手よし、買い手よし、世間よしの三方よし」を旨として、浮利を追わないという、日本的倫理基準をベースに日本企業を運営してきたからである
 
財政政策に関する公共性や公益性は、個々人の勝手気ままな欲望の拡大再生産を抑え、意見を異にする者たちのことも考慮に入れて政策決定をすることで担保される。自分たちのやりたいことだけをやるというのでは、その政策には公共性や公益性が微塵も感じられない。
 
国の財政は公共財であるから、その歳出を恣意的に加減した平成27年度予算案は「公共財の私物化」と言われてもしかたのないものになっている。
 
具体例として沖縄の件とTPPでの全国農協中央会つぶしを挙げるだけでいいだろう。沖縄県知事が当選後の陳情に東京へ来たが、菅官房長官にも防衛大臣にも門前払いを食らって沖縄へ戻った、振興予算も削られた、ひどい仕打ちに見える。TPPに抵抗する農協の力を削ぐために、監査権限をとりあげる。これも露骨な嫌がらせで、自分たちがやりたいこと(TPP)をやるためには何でもやるという典型的な姿勢であり、公共性や公益性をかなぐり捨てた蛮行である。
 日本経済の規模はGDPでみると世界の8.3%を占めており、ドイツとフランスを合わせた規模をもつ。その破綻は世界経済にとっても甚大な影響を及ぼさずにはいない。日本の経済規模は世界第3位、その政府が財政破綻したときの影響は全世界を駆け巡る。国内だけではない、世界に対しても責任ある行動をしなければならない。
 縄文時代に始まる日本列島の1万2千年の歴史のなかで、
日本は初めて長期にわたる人口減少時代に突入してしまったから、経済規模の縮小は避けられない。規模縮小を先読みしてそれにふさわしい経済政策を立案すべきであるのに、ありもしない「経済成長」の旗を降ろそうとしない。考え方の基本がしっかりしていない経済政策は危うい。安倍政権は公共財である政府財政をどのような経済学の公理・公準(=経済哲学および倫理基準)に基づいて立案・実行しようとしているのか? 


 23. <村落共同体と税:自由民と農奴について> 

  歴史学者の網野善彦氏の『列島の歴史を語る』(ちくま文庫、20144月刊)と著名な作家である司馬遼太郎氏の『この国の形(一)』(文芸春秋社、1990年刊)から、日本人の仕事観に関わりのある村落共同体「惣」に関する話題を拾ってみたい。司馬氏は「惣」について、それとセットで存在していた「若衆宿」『若衆制』をからめて論じている、網野氏の説と比べてみたい。日本の農山漁村の共同体の歴史は縄文期までさかのぼり、その習俗が明治期までは連綿と受け継がれてきた。1960年代後半の学生運動に、惣における若衆とオトナの緊張と依存関係をみてとることもできるだろう。
 
村落共同体(惣)は自治組織であり、そこを支配する領主が定まっても、問題の多くを自分たちで決定し処理できた。四季の移り変わりの美しさが日本人の情緒を育み、豊かな文学を育てたように、村落共同体に受け継がれてきた自治の歴史的伝統が日本人の仕事観や商道徳をはぐくんだとは言えないだろうか?村落共同体の原初的形態を確認し、それと仕事に対する考え方の接点を探索するのが、この章の目的である。
  論点はいくつかあるが、大きく括ると、日本にはヨーロッパのような農奴が存在したか否かという問題、村落共同体と税金の関係、そして村落共同体と仕事観の関係である。

[隷属民はいたが農奴はいない]
 
網野氏は、第一の論点について、農奴は存在しないが隷属民は存在していたと説明している。借財の未済による共同体構成員としての資格剥奪=誰かの隷属民への転落というのは中世の文献で確認できると書いてある。年貢を未進したことで債務奴隷になった記録が中世には残っている。網野氏は奴隷というより隷属民の語のほうが事実に即しているという。記録には残っていないが、『古事記』以前からあったという含みをもたせているが、文字記録として残るものとしては中世までしかさかのぼれない。
(高橋勝彦の小説『風の陣』は天平21年(749年)の春から書き始めているが、このなかに政治的に失脚した一族の末裔が行政の手続きミスから隷属民になる話が出てくる。隷属民はこの時代からいたのだろう。小説の中だから、論拠にはならないが、時代状況の理解には役立つ。)
 共同体の構成員には果たすべき義務があり、それを果たせなければ共同体の構成員たる資格を失うことは古くからのしきたりだったようだ。縄文時代も列島に住む人々は集落を作り集団生活をしていたことは、三内丸山遺跡など全国各地の遺跡から確認できる。三内丸山遺跡は縄文中期後半の最盛期には500人規模の大集落であったという推定もある。三内丸山遺跡の推定年代は紀元前37002000年頃、おおよそ1700年間続いたことになる。

  網野氏の解説によれば、日本の伝統的な文化や村落共同体の原型ができたのは室町時代で、そこから明治時代まで基本的には同じだという。村落共同体という言葉は村を含んでいるが、律令制が敷かれてから、正式な行政区分(国衙領:荘・郷・保・名)外のものを「村」と呼んだ。

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「それから「村」ですが、「荘」にせよ、「郷」にせよ、「名」にせよ、国家によって行政単位になっていますが、行政単位化されていない部分を「村」といいます。いまの村とは大分意味が違います。古代でもそうなんで、東北地方が律令国家の支配下に入り、一応国と郡ができますと、「村」ではなくなるわけです。行政単位に入らない部分が「村」で…」『列島の歴史を語る』192
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 「村」は律令制が敷かれる前からあった呼び名ということか。唐を真似て律令制度を導入したので、正式な行政区分に組み入れられて律令制度上の名前が冠せられたように読めるから、村の存在は古墳時代よりももっとさかのぼり、はるか縄文時代の集落から村の基本構造や基本システムが存在・受け継がれてきたと仮定したい。その基本システムのルールが、村落共同体の成員としての義務である。それを果たせない者は村落共同体の成員から外され、従属的な地位に転落する。そういう暗黙のルールがあり、それに基づいて村の維持が世代をついで数千年間なされてきたのではないだろうか。
 奴隷も農奴もいなかったが、村落共同体の成員たる義務を果たしえず自由民から転落した隷属民はあったことから、村落共同体の成員は誰にも従属していないという意味で自由民であるというのが、一つ目の論点の結論である。
 

[贄(にえ)が税(調)の起源]
 二つ目の論点は税をめぐる支配者と村落共同体の関係であり、そこに自発性を認めるのが網野説のユニークなところである。網野氏は庸と調の負担に関して、自発性がなければ奈良や京都まで全国の産物を生産者自身が運んだ理由を説明しえないと書いている。
網野氏は言及していないが、わたしは次のように考えた。縄文時代から八百万の神々へ感謝の心をささげるために、共同体の成員が獲った一番よい魚、米、塩などを捧げる習慣があった。大和朝廷ができてからは、天孫降臨神話を語ることで、天皇は神々の直系子孫だから八百万の神々への捧げものがすんなりと天皇への捧げものにとって代わった。
 
租庸調のうち、調は地方の特産物であり、それはもともと神への捧げ物であったから、租税(租庸調)負担は村落共同体の成員の当然の義務として捉えられた。神々への捧げ物(=贄)が「調」となり、その「調」を媒介にして租税負担(租庸調)は日本人にとって神への捧げものという感覚が伴う。 

[贄と仕事観]
 
三つ目の論点は、「贄」が神への捧げ物であることから、「贄」に関する仕事が神聖視されたことにある。農産物や水産物、そして手で作るものの中で一番よいものを神への贄(にえ)とした。その贄の習慣が「調」の始原である。贄は律令制度導入以前から習慣としてあるから、各地方の特産物で一番よいものを天照大神の末裔である天皇に献上するというのはよくわかる。
 
贄や調は神々への感謝とつながっているから、農耕や漁獲で獲れたものなら最良のものを献上し、人が作ったものならやはり最良のものを捧げるのである。だから、仕事にごまかしがあってはならないという意識が働き、日本人の仕事観が育まれ、受け継がれてきた。

 [共同体成員の義務を果たす限り、成員としての自由が保障された]
網野氏のいう自由民とは共同体の成員だという点にあった。共同体の成員である限りは誰かの従属民ではないから、村落共同体内で成員がもつ自由がある。
 
税である租庸調は村落共同体と行政との接点で出てくるが、それは納める側の自発性を前提にしないと遠くから命がけで運んでくる理由が見つからないという。食糧ばかりではない旅の費用はすべて自弁である。帰りの食料がなくて餓死する者も少なくない。そこまでしてなぜ調をはるか遠方から都まで輸送するのかという疑問に対する答えは、自発性以外には見つからないというのが網野氏の結論である。
 
村落共同体はもともと共同体の成員が獲った・栽培した・作った最善の品を神へ捧げていた。それが大和朝廷の成立とともに神の直系子孫である天皇への捧げものに代わっただけのことで、村落共同体の成員にとって税(調)は自発的に納めるべきもの(神への捧げもの)と考えていたのだろう 。

[農民ではなく「百姓」]
 
四つ目の論点は、村落共同体の主体が農民であったというのは間違いで、さまざまな職業の者たちがいたということ。海岸の近くなら半農半漁が主体だっただろうし、漁業に専念する村落もあっただろう。縄文時代から各地の集落の間でさかんに物々交換がなされていた。だから、網野氏は村落共同体を農民の村と考えるのは実態にそぐわないと書いている。農山漁村の混合型が殆どと考えたほうが事実に近いから、さまざまな職業を意味する「百姓」という用語が正しいと指摘している。ついでにいうと、「農村」ではなく、「農村・山村・漁村」が混在していたわけで、「農山漁村」というのが正しいのだろう。

 [村の自発性と支配者との緊張関係]
 
五つ目の論点は、支配者と村落共同体の間に、税負担を挟んで支配者側に緊張が生じていたということ。中世では公的負担のことを「公平(くひょう)」とか「限りある公平」と呼んでいた。
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「公平」とは年貢のことです。「公平」にはそういう意味がある。「限りあるもの」以上を取り立てた場合、百姓は反撃すると見て取ることができます。負担がある限度を超えたときは、支配者の側が反撃を受けるのは、百姓の負担が自発的であるがために支配者を縛っているのではないか。だから、古代の支配者もそれなりに悩まざるをえないという状況になる。183ページ
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 本来、自発性に基づく神への捧げ物という性格をもつ税負担を過酷に取り立てると百姓は武器をもって反抗しかねないし、それは理のあることでもあった。大国主命と天照の国譲り神話や聖徳太子の17か条の憲法にあるように、話し合うことや理を尊んできた国柄である。無理な主張は支配者といえども通せないのが大和の国。
 律令制度が敷かれても、村落共同体と国家の間には「暗黙の約束事=公平な課税」があったと網野氏は言いたいのである。ヨーロッパや中国の領主が農奴に対するのとは、その辺りが決定的に異なっている。 

[惣と若衆制]…司馬遼太郎の意見
 「惣」について司馬遼太郎が『この国の形 (一) 』文芸春秋社 1990年刊15 若衆と械闘」「23 若衆制」で触れている。若衆制については「呼ばひ」についての記述が『古事記』には「用婆比」、万葉集にも「夜延(よばひ)」とあることから、惣と共に大和の国の成立以前から農山漁村の習俗としてあったようだ。この「惣」が公の意識の原型ではないか。
 

 
 若衆たちはムラの祭礼を執行する一方、自分の集落(ムラ)の娘たちについては自分たちで支配しているとおもっていた。一種の神聖意識というべき感覚で、他村の若衆がムラに忍んでくるのをゆるさなかった。
 かれらは、夜中、気に入ったムラの娘の家の雨戸をあけ、ひそかに通じる。ひとりの娘に複数の若衆が通ってくる場合がしばしばあったが、もし彼女が妊娠した場合、娘の側に、父親は誰だと指名する権利があった。
 娘に名ざされれば、たとえ出来心ではあっても若衆は決して逃げることをせず、これと結婚した。生まれた子がときに他の若衆の顔に似ていることもあったが、問題が起こることはなかった。 その集落でうまれた子は共同体の子だという気分があって、そういう気分も、たぶんに血縁集団である集落結束の要素になっていたようである。
 この制は明治後大いにすたれた。明治国家は若衆制を鄙族野蛮の習俗と見、明治38年(1905年)文部省・内務省が主導して、“青年団”として仕立てかえはじめ、大正14年(1925年)におよんで大日本青年団が発足して、この習俗をほろぼしてしまった。
 大日本青年団に、一つの功がある。かれらが否定したはずのこの古俗について『若者制度の研究』(昭和11年刊)という質の高い研究所を刊行したことである。(この本は古い図書館なら所蔵しているはずである)。同書195

 
 
ついでに書くと、司馬は「農奴」という語をこの本の中で何度か使っている。
 「農奴」は「18 豊臣期の一情景」で、場所は近江の長浜、上坂(こうざか)郷の地侍の話のところで出てくる。

「地侍は、地面に這う虫だった。そのくせ守護が陣触れするときは在郷の将校として出てゆく。自分の農奴のうちの気の聞いた者数人にハラマキを着せ、なぎなたなどを持たせ、代え馬の一頭曳いて容疑をととのえるのである。ただし御家人階級からみれば、単に百姓でしかない。」(同書157頁)「さて、室町・戦国期における近江の上坂郷の地侍上坂氏のことである。地侍の基盤は、隷属する農民にある。かれらが旦那(地侍)の田畑をつくっている。旦那にもいろいろあって、派手なのは室町将軍に献金し、“百姓”の分際ながら官職をもらったりするのである。負担は農奴にかぶさる。」(同書159頁) 

 司馬氏は地侍に隷属している農民を「農奴」と書いている。司馬氏が書いているのは、網野氏のいう、共同体の構成員の資格を失った「隷属民」ではない。惣という共同体の構成員であり、百姓である。

 [まとめ]
 結論:村落共同体は縄文時代から戸単位の集落として継続して存在しており、律令制度が整えられるにしたがって国衙領に組み入れられていった。それは名称変更しただけで、もともとのシステムが維持されたのである。村落共同体の成員は自分の義務を果たす限りにおいて、成員としての自由を獲得するというものである。
 
若衆制が『古事記』以前から存在しているから、それとセットで農山漁村共同体の原型である「惣」もあったのだろう。神への捧げ物をつくるのは共同体の成員の義務の一つであった。村落共同体は国の制度に組み込まれていき、神への捧げ物が天孫降臨神話を受け容れることで税負担に代わったと考えたい。だから納税には自発的な義務という感覚が中世には残っていたし、この国の国民であれば、憲法に三大義務として納税の義務が定められてなくても、納税は当然の義務であるという意識がいまでもあるのではないか。
 
日本人にとって仕事が神聖なものであり歓びであるというのは、最良の作物・漁獲物・手で作ったものを贄として神に捧げる習俗にその淵源がある。八百万の神々への捧げものが、天孫降臨神話を媒介にして、天皇への捧げものとなった。「租庸調」の「調」はそういう習俗にぴったりの制度だったのである。 

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