So-net無料ブログ作成

#3097-3 資本論と21世紀の経済学(改訂第2版)-3  Aug. 2, 2015 [資本論と21世紀の経済学(2版)]

#3097 資本論と21世紀の経済学(改訂第2版)<目次>  Aug. 2, 2015 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-08-15


==============================

 Ⅱ.第1の公理をめぐって:マルクスの労働観と日本人の仕事観

 労働価値説は工場労働者や奴隷労働をその淵源にもつ概念で、労働は本来楽しくないものというのが西欧経済学の共通了解事項となっている。経済学者には肉体労働の経験のある者がいなくても、企業でサラリーマンとして働いたことぐらいはある者が少なくないはず。適度な肉体労働が人間の健康にとっても不可欠なものであることに案外気づいていない。気づいていたのは過剰富裕化論の提唱者である馬場宏治先生だけのようだ。マルクスはギリシア古代都市国家にはじまる西欧の伝統的な労働間を背景にして、「労働は苦役である」という前提で資本論を書いている。その根拠を労働者が生産手段から疎外されているということに求めており、労働がきついということではない。生産手段が共有されれば労働は苦役でなくなる、それがマルクスの理想の社会、共産主義社会である。人間社会を維持するためには誰かが労働しなければならないことは自明であるから、共産主義は人間を労働そのものからの解放するのではない。それにしても、生産手段が共有されたら労働が苦役でなくなるとは、マルクスはどういう感覚の持ち主だったのだろう。自分で「労働」をした経験のない経済学者はこういう大きな間違いを簡単に犯すものだとしたら、それはマルクス一人に限らない問題を孕んでいる。世の中の経済学者に共通する問題ということができるだろう。
 人類が労働から解放されるのは、人間がやっている仕事すべてを人工知能搭載人型ロボットが代替するときである。それは生産過程から人間が放逐されるときであり、人類滅亡のときに他ならない。性能が悪く、旧型である人間は物質の生産に不要の存在となる。不要な存在を、利便性を追求する合理的なシステムのアドミニストレータたる人工知能が許容するはずもない。

 18世紀、原始蓄積過程の英国の労働の現実は実際には過酷なものだった。幼児労働が現在のインドで問題になっているが、当時の英国の現実でもあった。
 古代都市国家アテネやスパルタの時代を経てローマ帝国の時代から労働は奴隷や農奴がするものという考えが根底にある。
 
それゆえ、苦役である労働からの解放を願うのは自然なことに思える。共産主義社会になったとたんに、労働は苦役ではなくなるという牧歌的な空想的共産主義としか言いようのないものが、マルクスとエンゲルス共著の『共産党宣言』だった。
 『空想から科学への社会主義の発展』でサン=シモン、フーリエ、オウエンらを空想的社会主義と批判しながら、肝心の労働概念については、ギリシア古代都市国家以来の奴隷労働をその経済学研究の根幹に据えていたのである。マルクスもまた、共産主義という幻想を見ていたに過ぎない。
 マルクスが言うように、共産主義社会になったら労働は苦役ではなくなったのだろうか、現実はそうではなかった。親切にも旧ソ連や中国が壮大な社会実験をやって見事に証明してくれている。生産手段の共有によって疎外された労働が消滅し、労働者がハッピーになるなんてことは現実にはなかったのである。
 
労働者はできるだけサボタージュしようとする。マルクスの理屈では、労働強度を低下させることが、労働者が得をする唯一の手段であるからだ。一生懸命にやるのはばかばかしいという考えが共産主義や社会主義を標榜する国に蔓延したのは、そもそもマルクスの『資本論』にその原因がある。 

 
わたしはマルクスの労働観に違和感があって、東京で企業規模と業種を変えて転職を繰り返した。
*-2【日本の工場部門と事務部門における「改善」と生産性向上】)

 紳士服の製造卸業、軍事用・産業用エレクトロニクスの輸入専門商社、国内最大手の臨床検査会社、療養型病床の病院経営および建て替え、外食産業店頭公開、その都度業種を変えて転職してみた。ヴィジョンをもって仕事していたから、生産手段をもたずとも仕事が苦役だなんて思ったことも感じたこともない。マルクスは実際に働いたことがないからわからなかったのだろう。
 日本標準臨床病理検査項目コードの制定やMoM値(出生前診断検査)に関する産学協同など、いくつか時代の先端で仕事もできたし、その都度充足感を味わった。もちろん夢破れて失望感を味わったこともある。仕事はドキドキハラハラするものであり、自己実現や自己表現の手段であった。ただ夢中になってやっているだけ、縄文人が縄文土器を製作しているときの心の状態と変わらない。夢中になってやり、業種を変え部署を変えて働いたことで、経営分析スキル、長期経営計画・予算編成・予算管理技術、システム開発技術、経営スキルなどが、こなした仕事の数だけ磨かれていった。
20歳代や30歳代で仕事を任されて実務経験をした者としない者では、実務能力に大きな差がつくのは当然のことだろう。民主党がだめだったのは松下政経塾で30歳代を過ごし、責任ある立場で仕事をする機会をもてなかった者たちが幹部に多かったからではないのか。)
  (教育労働者を含む)「労働者(?)」の皆さんが、基本的に仕事が楽しくない、そして仕事がきつくなることを嫌がるのは西欧流の労働観にこころが汚染されているからで、北教組の先生たちが少人数学級や労働強度の際限のない緩和を主張することにも「労働(=苦役)観」という本源的な理由がちゃんとある、しかし、ご本人たちは自覚していない。
 
労働が苦役であるという彼らの労働観が働く意欲を蝕んでいる。教師は工場労働者に非ず、インテリである。わたしは「教育の職人」と呼びたい。
(江戸後期には私塾が3万もあったそうで、教育の職人がたくさんいた。だが、松下村塾の吉田松陰や緒方洪庵の適塾塾頭であった福沢諭吉は教育の職人を呼ぶだけではかなりはみ出す部分がある、別格扱いでいいだろう。こんな人物を教師のスタンダードにされたら、比較されるほうはたまったものではない。) 

 
日本には日本人の伝統的な考え方に基づく経済学がありうる。目の前の現実を見れば日本人ならだれにでもわかることが学者にはさっぱりわからない。日本人にとって仕事は誇りであり楽しいものであり、人生の不可欠な重要部分をなしている
 かように欧米の「労働観」と日本人の「仕事観」はまったく異なっている、異なっているどころか対極にあるというのがわたしの経済学の基本的なスタンス。
  


10. <対極にあるもの:ヨーロッパ労働観⇔と日本の仕事観>

 ヨーロッパ諸国民が共有する労働観「労働=苦役」に対して、日本人の「仕事観」は刀鍛冶に代表される。
 神への捧げものをつくるという仕事観
(第23章「村落共同体と税:自由民と農奴について」参照)が根底にあるから、「仕事する」ことや「働く」ことは神聖な行為でごまかしのないものである。もてる技倆の最善をつくしてものをつくる。仕事をする姿を神がご覧になっているという感覚もある。「誰も見ていなくてもきちんと仕事しなさい」という言葉には「神様(八百万の神々)がちゃんと見ていますよ、だからごまかしや手抜きは行けません」ということ。だから日本人はいい仕事をするために日々自分の仕事の技倆を磨き続ける。仕事は全人的な行為であるというのが日本人の仕事観であり、技倆を極めることは職人の人生の目標ですらある。(そういう職人の魂、生き方を描いた小説がいくつかある。たとえば、山本周五郎『日本婦道記』、幸田露伴の『五重塔』など)
 
こうした仕事に対する基本的な考え方が、日本ではさまざまな分野の職人たちを通じて千年以上も受け継がれている。大阪天王寺にある金剛組は寺社建築に強みをもち、西暦578年創業の日本最古の会社である、もちろん同時に世界最古の会社。他にも西暦705年創業の老舗温泉旅館「西山温泉慶雲閣」がある。日本には創業200年を超える会社が3146社ある浮利を追わず、高い商道徳を保ってきた日本企業は、世界中のほかの国々と比べて圧倒的に長生き企業が多い。商道徳が低くなるほど長生きできないものらしい。創業200年を超える企業数は、ドイツ837社、オランダ222社、フランス196社、中国5社だから、創業200年を超える企業の67割が日本企業ということになる。
信用を第一に心がけ、浮利を決して追わない、職人の価値観がベースになった経営スタイルが理想で、その理想の経営スタイルを日本の企業経営者たちが連綿と受け継いで来た。かいつまんで言うと、仕事でごまかしをしない、利益をむさぼらないということ。小欲知足や仕事の技倆を日々磨き続けることがどれほどすばらしい価値であるかがわかる
 神への捧げものを作るというのは縄文時代からのことだろう。働くこと、仕事することは日本人には神聖なことなのだ。だから日本人は仕事の手抜きやごまかしを嫌う。仕事の技倆を上げ続けること、技術を日々磨き続けることは職人の歓び。
 わたしは業種や規模がそれぞれ異なる会社へ4回転職して、その都度仕事の喜びを経験してきた。何かに打ち込み腕を挙げ続けることは日本人には歓びなのである。書道、茶道、珠算、柔道、剣道、空手、囲碁、将棋それぞれに級や段位があり、上達が実感できるようになっている。どんな仕事でも、一人前の職人となるにはおおよそ十年の就業期間を要する。万日(=30年)の稽古で名人の域に達したら立派なものだ。

 ①(伝統芸能はさまざまな職人集団によって支えられている。たとえば、文楽や能。宗教建築や生活用具も伝統を維持しているものがある。宮大工、江戸指物師、陶芸等々。大工ひとつとっても宮大工、船大工、一般住宅の大工などの別がある。一般住宅だってその建設には、大工、左官、建具職人、壁紙職人、屋根職人、水道、電気配線などさまざまな職種の職人がかかわる。)
②(日本にはレベルの高い伝統工芸もある。柴田玉樹(女性)は400年間続く博多曲げ物師の18代目である。江戸指物師。陶芸は数知れず。生活用具として大切に使う庶民がいてこそ作り続けられる。
③(南画(墨絵)家のイラン・ヤニツキーさんは、「」日本の職人はレベルが世界一高い)と断言する。雅号は名前を漢字にした「伊嵐」、師匠は南画の大家山田耕雨。)*「墨絵はスーパーモダンアート、書き直しのできない“一期一会”」http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20081118/113327/?rt=nocnt  


11.  <日本人の仕事観:仕事は楽しい!>
  日教組がお題目のように唱えている「30人学級がいい!」、「仕事量が多すぎる!」は本当のところと悪しき労働観の問題に分けることができそうだ。前者は事実だろうか、民間企業の仕事量や業務改善を引き合いに出して、仕事観の問題を論じてみたい。  

【民間企業の仕事量】
 民間企業の実例を挙げてみたい。 わたしは1979年、20歳代の終わりから30歳代半ばまで軍事用・産業用エレクトロニクス製品の輸入商社で働いていた。中途入社すると社長はすぐに全取締役が参加する財務委員会を立ち上げ、その下にそれぞれ目的を異にする6つの委員会ぶら下げた。その結果、実働部隊はわたしだけというプロジェクトを5つ(長期経営計画委員会、資金投資計画委員会、収益見通し分析委員会、電算化推進委員会、為替対策委員会)抱えることになったから、仕事の終わるのは週に34日はほぼ終電(0時過ぎ)間際、仕事は終わっていないのだが、そこでやめないと終電車に乗れない、土日のいずれかは自宅書斎で10時間余専門書を読みふける、そういう楽しい状態が5年間続いた。

[輸入商社の仕事 1979-83]
 新聞で見つけた2社に応募書類を送って、某有名ファッション企業のペーパー試験の後、社長面接をして入社が決まっていた。国内の子会社の経営管理を担当するか、NY支点勤務かどちらかに決めたいので、少し時間が欲しいと言われた。それでもう一つの会社の採用担当役員へ応募辞退を電話で告げたら、とにかく来て社長に会っていけというので、会社を訪れた。案内されて社内を歩いてみたらマイクロ波計測器やや制御用コンピュータがごろごろしていた。社長室で30分ほど話したら、社長は慶応大大学院経済学研究科で経済史を専攻したという、わたしのいた東経大大学院の入試難易度は当時慶応大学大学院経済学研究科とほぼ同じだった。話しているうちになんとなく気があってしまった。結局、産業用エレクトロニクス製品の輸入商社の方へ就職することになり、先に決まっていた会社へは、手紙を書いて辞退した。そういう事情があったからなのか、仕事の任せ方が半端でなかった。役員主体のプロジェクト6つの内、5つを中途入社したばかりのわたしに任せたのである。1979年、飛躍のチャンスをもらった、あの五年間がなければその後のわたしはなかった、二代目社長の関周氏に感謝している。18歳くらい年上だった。初代はスタンフォード大学で、ヒューレットやパッカードと一緒に学んだ。あのHP社の創業者である。わたしが入社したときには、初代はとっくになくなっており、2代目ががんばっていた。YHPへの資本参加を断念し、移籍希望の社員を新会社に移籍させ、残った社員で軍事用・産業用エレクトロニクス関係の欧米50社の輸入総代理店として事業を続けていた。その後為替が変動相場制に移行し、業績が嵐の中の船のようにアップダウンを繰り返していた。環境の激変に対応できる人材を求めていたのである。大きな仕事を任せてもらえる絶妙のタイミングで応募したことになる。運命とは不思議だ、必要なときに必要な場所に運んでくれる。ただそこで一心不乱にしごとをするだけでいい。

 HP67HP97を駆使した経営分析に基づく経営改善] 
 1979年11月ころ、仕事を効率的にやるために経営分析で必要な統計量計算アルゴリズムを科学技術計算用のプログラマブル・キャリュキュレータHP67HP97を使ってプログラミング、P/LとB/Sそして人員データを入力してチェック、25項目の経営分析指標の計算値をプリントアウト、そして25項目のレーダチャートを手描きしていた。経営分析モデル用基準ゲージを造るために、データの線形回帰分析を繰り返した。
 9月に入社早々、すぐに自社の5年間の財務データや人員データをベースに電卓をたたいて経営分析をしていたら、社長の関さんが米国出張のお土産に当時11万円もするHP67をお土産に買ってきてくれた。その2ヶ月後に社長が米国出張から戻ると、朝机の上にプリンタのついた卓上型のHP97があった。社長秘書のH金さんに訊いたら、社長がHP67のキーが小さいので、ブラインドタッチで叩けるHP97を買ってくれたとわかった、うれしかった。当時、22万円もする製品だった。HP97はプリンタがついているだけでどちらも性能は一緒、長さ8cm1cmの磁気カードにプログラムもデータも保存できる。線形回帰分析も曲線回帰分析も自在にできるすぐれもの。理系の大学院でもなかなか買ってもらえない高性能の科学技術用プログラマブル計算機だった。
https://www.google.co.jp/images?q=HP97&rls=com.microsoft:ja:IE-SearchBox&oe=UTF-8&rlz=1I7SUNA_jaJP310&gws_rd=ssl&hl=ja&sa=X&oi=image_result_group&ei=ZiDOVIPsO4qM8QW9yYLQCg&ved=0CBQQsAQ
** HP67&HP97(Wikipedia)
http://en.wikipedia.org/wiki/HP-67/-97
                       
 この2台のヒューレットパッカード社の計算機に採用されていたプログラミング言語は逆ポーランド記法の科学技術計算専用のプログラミング言語だった。1週間でそれぞれ400ページある英文の操作マニュアルとプログラミングマニュアルを読み切り、使った。英文がやさしくマニュアルの出来がよかったので読み切れたのだろう。使ってみてその威力の大きさに驚いた。1日かかっていた計算が30分で終わるのである、それだけではない、入力データだけチェックすれば、あとはプログラムがやるからチェックが不要、なんと便利だろう、そう実感した。
 自社の経営管理用に、過去5年の線形回帰データを元にして、アレンジを加え、5ディメンション(収益性×6、成長性×6、財務安定性×6、活動性×3、生産性×6)、27項目の経営分析モデル*(注-3)を作った。27項目の各ゲージを線形回帰分析データやそれが使えない場合は、理想型を想定してゲージを作成した。円定価システムや納期管理システム、外貨決済管理システムと連動してその経営分析システムは自社の財務安定性と収益性改善に絶大な威力を発揮した。

 1979年に開発したそのモデルは、1992年に臨床検査会社で子会社8社の業績評価に利用した。このモデルはMSDI(経営管理用標準偏差指数)を計算して、会社の業績を総合偏差値で評価できる優れもので、開発した1979年当時では日本では最先端のシステムだった。臨床検査会社へ転職してから、EXCELに載せ替えてやった仕事の文書、『平成4年度グループ会社業績報告書』(平成5323日付け)が残っている。会社の買収や取引先臨床検査会社の経営分析にも利用した。


[三つのプログラミング言語の習得]

 1年後には経理業務と給与システムが載っているオフコンのプログラミングをマスターして必要なデータを取り出し編集してプリントアウトするプログラムを作った。新しい技術を覚えてそれをすぐに使えるというのは楽しいものだ。個人で2千万円のオフコンや数千万円の汎用小型機を購入してプログラミングすることなどできるわけがないのだが、それが「会社という共同体」では可能になる。
 二番目に習得した言語はCOOLというダイレクトアドレッシングのオフコン用の面白い言語、12桁の数字を演算子と3個のオペランドに機能を分割した面白い言語だった。納期管理と外貨決済管理用のシステム開発をしてもう一台コンピュータを導入したので、三番目にはコンパイラ系言語Progress-Ⅱもマスターした。
 プログラム言語は一つ覚えると、表記の仕方が違うだけで、アルゴリズムは一緒だから次々にマスターできる、文系でも物怖じせずにアタックすればいいのだ。プログラム言語それぞれに特徴があって比較ができて面白い。わたしの本来のスキルは経理にあるのだが、ついにこの会社では資金計画を担当させてもらっただけで、経理のルーチン業務を担当することがなかった。予算編成統括業務と予算管理や経営分析、経営管理業務は異動してもずっと担当することになった。社員数が160人程度の会社では属人的な業務がどうしてもできてしまう。
 1979年当時は、経理がわかって経営管理ができて、為替管理の仕組みの考案やそれにマッチした輸入実務フロー・デザインとコンピュータシステム開発とシステム管理のできる人材が必要だった。経営改善というのはそういう専門領域がいくつもぶつかり合ったところで生じ、複数の専門知識と技術があって初めて解決可能になる。
 このころはコンピュータやシステム開発関係の専門書を数十冊読み漁った。自分の仕事の省力化を推し進めると余剰時間が生まれるから、それを利用して他の専門領域の本を読み仕事の幅を広げた。
 会社のさまざまな仕組みを変え、新たに実務デザインしなおしてシステム化し、省力化と仕事の精度の飛躍的な向上を同時に実現した。売上高経常利益率が10%に高め、利益を5倍にして財務安定性を強固なものにするために必要な経営改革だった。4年ほどで目標を超える成果が上がった。「必要は発明の母である」、忙しくない者は永遠に仕事の改善をしない、忙しい者ほど仕事の改善をすることになる、ハードルが高いほうが仕事のしがいがある。仕事は魂をこめて、渾身の力で、とことん、徹底してやるから楽しくなる
 

[強力なパートナーの存在]

 利益重点営業委員会は会社のナンバーワン営業の(一つ年上の)E藤課長が実務をやっており、円定価システムというシステムがらみの案件だったので、実務デザインをしてシステム仕様書を書いてあげた。
 3ヶ月移動平均為替レートを使って為替変動を反映すると同時に、受注残ファイルの納期情報から決済月を自動計算して為替予約を行い、受注時のレートと仕入レートと決済レートを連動させて為替リスクを回避する仕組みを作った。
 3ヶ月ごとに円定価表を改訂し自動出力した。それまでは営業マンがそれぞれ電卓を叩いて見積もり表を作っていたから、営業所で見積書作成作業に3分の1ほどの時間がとられていた。同じ電気メーカの横浜工場と府中工場に出す見積もり金額が違うので、しばしばクレームになっていた。理系大卒の営業マンを見積書作成業務から解放し、本来の営業活動に注力させて、一人当たり売上を2倍にしようというのである。円定価表と連動させて為替予約をすることで、為替変動リスクを回避するシステムもつくった。それ以来、円安で業績が悪化することがなくなった。目論見どおり、売上総利益率が10ポイント上がり、高収益会社へ変わった。
 50億円の受注を2年かけて狙って獲得したナンバーワン営業のE藤課長とは馬があった。わたしが出遭った中では最高の営業マンであった。かれが社内の主だった営業マンを次々にわたしの紹介してくれた。朝まで一緒に酒をなんども呑んだ。済ました顔で仕事を始めても、酒臭さはどうしようもないし、気持ちも悪いから、2度ほどトイレに行って吐いてくると楽になる。昼が来たら、日本橋芳町の高次を入ったお店、「よし梅」だたかな、そこのおかゆ定食がありがたい。それを食べたら元気回復、5時を過ぎることには仕事仲間とまた飲みたくなる。能力の高い他部門の役員そして管理職や社員とのコミュニケーションは、相手の業務を理解することからはじまる。酒だけ飲んでいてもコミュニケーションとはならない。文系だからマイクロは計測器や質量分析器や液体シンチレーションカウンタのことはわからないなどといっていたら、理系の営業職や技術部の人たちとのコミュニケーションはできない。計測器はディテクターと制御およびデータ処理部とインターフェイス部から成り立っているので、プログラミング言語を3言語マスターしたことで制御系やデータ処理部の機能はよく理解できた。
 

[社内のすべての部門へチャンネルをもつべし]

 まだパソコンがおもちゃで、仕事で使えるのはオフコンや汎用小型機の時代の話である。1980年に導入したA4版の書類がCRT(このころはカラーでもなく液晶でもない、まだグリーンディスプレイの時代)三菱製のワープロが200万円もした。業界初のA4の書類をフルに表示できるというのがその商品の売りのポイントだった。
 月に一度は東北大の助教授による、マイクロ波やミリ波の導波管や計測器についての仕組みに関する勉強会があった。マイクロ計測の原理をきちんと学べば、ミリ波も光も、ディテクター部の周波数域の違いだけで同じに見えてくる。勉強会の対象は営業マン(理系大卒あるいは国立高専卒)と技術部員であるが、そこに経理部員(そのあと経営管理部が新設されそちらに、そしてその後「電算室」が新設され、統合システム開発を任された)が割り込んだのである。営業マンも技術部員も歓迎してくれた。月に2度ほど輸入元のメーカが新製品の説明にエンジニアを送ってくるから、英語で新製品説明会が開かれる、技術部と営業部が対象である。そのどちらにも5年間全部出席した。講習会が終わると、彼らとお決まりのノミュニケーションである。週に1度は会社のさまざまな部門の人たちと酒を飲むことにしていた、酒の席でないと出ない話しがあるし、異なるセクションの人と話をして相手の業務を具体的に知ることはプロジェクトを円滑に進めるためにも効果が大きい。大きな視野で物事を判断するためには、社内のすべてのセクションの人々と普段からコミュニケーションすべきだし、社内で行われる業務ごとの講習会や勉強会にも積極的に参加したほうが、仕事の幅が広がって面白くなる。


[仕事の幅を広げる:専門領域の拡大]
 具体例を一つ挙げてみたい。経理部門(中途入社の最初の配属部門、経理担当取締役の直属スタッフ、1年後に管理部へ異動し3年半後に統合システム開発を担当)で長期計画、予算編成および予算管理、経営分析業務を担当していると、メインバンクの営業担当者と話をする機会がある。会社がどういう分野に注力して、今後3年間でどれくらいの売り上げ増が見込め、利益にどれぐらい影響がでるのか数字を挙げて説明し、翌年その通りの実績がでると、会社の信用が上がる。利益がきちんとコントロールできていれば無担保でも事業に必要な資金を貸し付けてくれるように変わる。だから、経理部門や経営企画・管理部門だからといって、会社の製品開発動向やそれによって年間の利益額にどれくらいの影響があるのかを推計もできないようではお話にならない。
 土日はどちらか1日は仕事に関係のある専門書かあるいは興味のある分野の専門書と812時間ほど「格闘」、1日は家族サービスに充てていた。
 20歳代や30歳代にインプットをおこたってはならない。民間企業では仕事のできる者に他の者にはできない難易度の高い仕事が集まってくる、複数の専門分野に関わる仕事をやり遂げるのは楽しいもの、チャレンジしているという実感がある。

[みんなが幸せになる]
 その結果、会社の利益は増えるし、社員のボーナスも安定して増えるからみんな生き生き働くようになる。そして社員持株会の株も毎年評価額が上がり、老後の足しになるから女房も喜ぶ。社員とその家族が幸せになれるのだから、給料がそこそこでも仕事のしがいは大いにある。その給料も実績を挙げ続ければいずれ上がってくるのが、民間企業のよいところだ。

[言われてやるのではなく、自分で課題を見つけてチャレンジすれば、仕事は楽しい]
 課題を自ら設定し、その課題解決に必要な技能を身につけるために、必要な専門書をかたっぱしから読み漁り、必要な機器を買ってもらって渾身の力で仕事をしていたから、産業用エレクトロニクス輸入商社の5年間は仕事することが苦役だと感じたことがなかった。
 マイクロ波やミリ波計測器の社内勉強会に毎月出席し、次第に商品知識も確かなものになっていった。ディテクター、データ処理用のコントローラ(制御用科学技術計算専用パソコン)、GPIB(双方向インターフェイスバス、General Purpose Interface Bus)というのが1980年代はじめのころの計測器の標準的な構成だった。周波数の種類ごとにディテクターがある。
 欧米50社の取引先から新製品がでると、市場の大きい日本にはエンジニアが製品説明に入れ替わり立ち代り毎月のように来て、理系大卒の営業マン対象に新製品説明会を開いていたが、これも5年間一つももらさず出席した。「門前の小僧習わぬ経を読む」を信じて勉強させてもらった。
 マイクロ波計測器、制御用コンピュータ、マルチコントローラー、時間周波数標準機(ルビジウム、水素メーザ)、質量分析器、液体シンチレーションカウンター、ウォータゲート事件で使われたレシーバ、電子戦シミュレータ、戦闘機のアンテナなどなど、世界最先端の機器に関する知識を吸収していくのも楽しかった。20代の終わりから30代は爽快に飛ばして仕事していた。
このときに習得した理化学分析機器や測定原理に関する知識が国内最大手の臨床検査会社に転職してから物を言うことになる。日本最大の特殊検査ラボの機器担当をひょんな事情から2年間担当することになるのだから、天の運命のいたずらは楽しい。検査に使われている分析機器はデータ処理部とインターフェイスバスがマイクロは計測器に比べると著しく遅れていた。双方向ではなかったのである。
 本社で予算の統括と統合システム開発をしていた人間がラボの機器購買担当になったわけだから、検査機器については知識がないのが当然だが、そうではなかった、「門前の小僧」は東北大学助教授を招いて毎月開かれていたマイクロ波計測やミリ波計測の勉強会と海外メーカの新製品説明会に毎回出席することで、いつのまにか専門家に育っていたのである。だから、2年間の間に製薬メーカとの間でいくつか共同開発や開発段階の機器の最終インスタレーションもやった。ひとつは半年独占使用を条件にしたから、大型開発品で市場シェアをがっちり握ることができた。そのひとつは
1988年頃、栄研化学のLX3000という酵素系大型自動分析機である。ファルマシアJKBにはいくつかSRL仕様で製品を造ってもらった。申し入れると、カタログを作成して商品ラインに加え、日本市場で販売していた。向こうにとっても、SRL仕様で製品をつくることが日本市場を攻略する手段になったのである。なぜこんなにファルマシアが協力的だったかというと、アレルゲン検査項目でモノがいいから試薬を値引きしないと強行に突っぱねられたことがあり、そのときに日本市場でのシェアの高め方を教えたからだ。日本支社長は業績を著しく上げたので昇格した。そういう経緯があって、体外の無理は聞いてくれた。デザイン性にも優れた真っ白いガンマカウンタはSRL仕様の特注品だと値段が高くなる、だから製品ラインに加えたのだが、大型検査ラボはSRL仕様だから、スムーズに導入が進んだ。たくさん売れたのである。商売は自分だけ儲けてはいけない、取引相手にも儲けさせる。いい製品が普及すれば世の中のためにもなる。仕事の姿勢は「売り手よし、買い手よし、世間よしの三方よし」を貫いた。

[業務の棚卸しと優先順位づけによる3割カット]
 臨床検査会社で学術開発本部スタッフとして仕事していたときに業務カット・プロジェクトで経験したことにも触れておきたい。学術開発本部には開発部、学術情報部、精度保証部の三つの部が属していたが、全員の仕事を日次・週次・月次・四半期・半期・年次業務にわけて棚卸しをして、優先順位をつけていき、優先順位の低いものから3割カットした。その結果人員が3割浮いた。こうすると人員を増やさずに、新規の仕事に人員3割を割くことができる。要はやり方だろう。

[働くことは楽しい]
 
働くは「傍(はた)を楽(らく)にすること」だという語呂合わせで説明されることがある。「売り手よし、買い手よし、世間よしの三方よし」ということも数百年間広く流布している商道徳である。自分だけがよいのではなく、関係する周りの皆さんが幸せになるということが、日本人の暗黙の行動規範として受け継がれてきたように思う。仕事に関する自分の技術を磨いて、渾身の力で仕事をすれば、仕事は確かに歓びと変わり楽しいものになるもの。わたしは規模と業種の異なる4つの会社と1つの医療法人(常務理事)での26年間のサラリーマンや役員生活を通して仕事が歓びであることを繰り返し体験した。
 細かく言うと、それら5つの企業のほかに、2回役員として関係会社と合弁会社への出向も経験している。すべて同じスタンスで仕事をしてきた。だから、仕事をする自分の基本的スタンスや考え方(仕事観)、そして自分の心のあり方が、仕事の印象を異なるものにするのだと思う。

[仕事量が多くても工夫次第で劇的に減らせる
 仕事が苦役であると感じる人は、自分の心や労働観(仕事観)を今一度見直してみたらいいのではないだろうか。そんなに過酷な「労働」をしていますか?
 学校の先生たちは、業務の見直しや業務改善をどの程度やっているのだろう、業務を固定して考え過ぎてはいるということはないだろうか。

 
データを挙げて議論すべき】
 
団塊世代のわたしが通った花咲小学校は1クラス60人で1学年6クラスあった。5年生から担任だったT木先生は算数の授業で少数の乗除算や分数の加減乗除算をやったときには「わからない人は残れ!」って、放課後補習を頻繁に繰り返してくれた。北海道教育大釧路分校を卒業したばかりの若い先生でしたが実に生き生き仕事をしていらっしゃった。学校の校庭でスケート、裏山(丘、現在は住宅地になっている、埋め立てられてしまった海岸線ばかりでなくここでも子供たちの遊び場がなくなっている)でスキーとそり滑り、正月には百人一首といま思い出しても生徒と一緒によく遊んでくれた。昔は相対評価、成績つけるのなんて今に比べたらいい加減でもよかった。確かに絶対評価になって評価項目が細分化されて面倒になっているのは事実だ。しかし、長期的に取り組むなら変えられないものなどない。関係者の理解と納得がいく具体案を作り、組織を挙げて世の中と文科省を説得すればいい。
 中学校は1クラス55人で1学年10クラス、高校は1クラス50人で1学年7クラス350人だった。いまでは高校は50年前に比べて1クラス8割で40人規模だが、小学校は半分以下の規模になっている。花咲小学校の昨年の入学児童数は39人、今年は32人でどちらも2クラスだから、1クラス当たりの人数は58年前の60人と比べて三分の一以下、北海道の他の地域も似たり寄ったりではないのか。
 こんなに1クラス当たりの児童数・生徒数が減少したのに、2014年全国学力テストの都道府県別科目別正答率標準偏差データを使って計算すると北海道の小学校の偏差値は37しかないから、こんなに生徒たちの学力が低いのに仕事がきついというなら仕事の優先順位とやり方が間違っている。何がきついのか、仕事の種類とそれに費やされている時間データをあげて先生たち自身が保護者たちに具体的に説明し、関係者の理解と納得のもとに改善を図る必要がある。まだ1クラス当たりの人数が多すぎると一部の人たちが主張しているが、低学力の原因は一クラス当たりの人数が多いからという主張はデータの根拠がみつからないだろう。労働時間が少なければ少ないほどいい、労働強度は小さければ小さいほどいいというだけなら、それは得手勝手な主張であると言われてもしかたがない。現に学校の先生たちの週平均授業時間数は17.7時間だから、一日3.5時間しかない、あとは空いているのである。
 病院へ行くといろいろ検査をするが、医療現場ではどの医者もデータに基づく診療をしている、それが当たり前のことだからだ。検査データを示されて、身体のどこに異常があるのか説明してもらうと、自分の病状がよくわかるし、どうすればいいのかも説明してもらうと納得がいく。
 教育現場ではどうしてデータに基づく議論をしないのか外部から見ると不思議だ。都道府県別偏差値で北海道の小学校は37、偏差値が正しくないというなら、統計学的に妥当性のある代案を出せばいいだけだが、そういう反論は聞いたことがない。
 偏差値373年で50にもっていくには、今年何をすべきか、そして年度末にはそれを具体的な数値で確認できるように実務を組み立てる。結果を評価して次年度の数値計画を立てて、実績データでチェックする。要するにPDCAを繰り返す。
 PDCAPlan Do Check Act 


 12. 民間企業では仕事の要領の悪い者ほど「忙しい」とぼやく>
  ほんとうに仕事がそんなにきついだろうか?団塊世代のわたしの小学校の担任T木先生はしょっちゅう放課後補習してくれた、「わからないもの残れ!」って。いまは小学校の先生たちはそういうことをしないようだ。時代が違う?検討してみよう。

 事実もしくはデータを並べてみる。授業時間は前章で挙げたが平均週17.7時間である。一日3.5時間だから多くない。空いている時間を使って報告書や市教委のアンケートに答える時間は十分にある。もっとも、民間会社にだって、簡単な報告書を書くのに半日かかる者もいるし、一事間で軽く書き上げてしまうものもいる。仕事の要領のよい者は仕事の要領が悪い者に比べて時間をたくさんもっていることになる。
 1クラスの小学生の学力は58年前の半分以下になったが、2014年度全国学力テストの成績は全国最低レベル、都道府県データを基にした偏差値で37
(全国の小学校が百校あると假定すると北海道は90番目ということ)47都道府県で競争したらほとんどゲレッパ(ビリ)。全国学力テストの学校別・科目別正答率と全国平均値との差は、先生たちの普段の仕事への客観的数値による勤務評定でもある。
 
仕事の成果がまるで出ていないのに仕事がきついと感じ、自分の仕事のやり方に問題があると考えないのは、神経麻痺か不感症。仕事のやり方や指導の仕方に問題があるとは考えず、何かよくないことがあればそれは自分ではなく、自分の外側に原因があると考える、これでは自己改革のチャンスを失う。仕事の成果が出せないのに、生徒のいない夏休みや冬休みに登校して判だけ押して帰ってくるなんてことは民間企業のサラリーマンにはありえない。自分の生徒たちの平均点が全国平均値を下回っているのは、民間企業にたとえると仕事の成果があがっていない、すなわち赤字だということ。夏休みや冬休みの長期休暇をとっている場合ではないというのが民間企業の感覚。
 
会社が赤字なのに社員がいっせいに長期休暇をとっているようなもの、民間企業なら客はやる気のなさにあきれてその企業の製品を買わなくなる。
 
一斉長期休暇が年に2回あって、それでも仕事がきついと感じるのは、マルクスの労働観でこころが汚れてしまって、本来歓びであるはずのものが苦役に変わってしまっていることに気がついていないからではないのか。よく観察したら原因の大半は働いている自分のこころ(労働観)にある
 新卒でも3年やれば、授業のやりかたにも慣れてしまうし、必要な補助教材も一通り蓄積ができてしまう。4年目からはずっと仕事量が減るのが道理だ。本当にきついのは最初の一年だけ、それでも仕事がきつければどの仕事がきついのか、やっている仕事のリストを作成して優先順位の低い順に2割カットしたらいい。残った業務のうち、量の多いものからやり方をかえるべきだ。時間を食っているのが、授業時間数なのか、授業の準備時間なのか、部活指導なのか学校行事なのか、それとも報告資料作りなのか、生徒の評価資料作りなのか、それ以外の事務仕事なのか、日・週・月・季節・学期に分けて業務のたな卸しをして具体的に業務時間量を記入して眺めたらいい。やる必要のない業務が2割はある。
 
民間企業は業務の棚卸しをして、重要度の低い順に3割カットする。残りの業務を分析して実務デザインを変えてしまう、仕事にかかる時間は必要なスキルがあれば驚くほど短縮可能だ。*-4「民間企業の生産性向上の実例」
 
1年まわしたら、作成した実務フローチャートを後任に渡して、別の仕事にチャレンジする。前任者から引き継いだルーチンは一日2時間もあれば十分なように仕事のやり方を変えてしまえば時間の余裕がたっぷりできる。余裕ができて仕事時間にチョムスキーの構造言語学に関する著作を読んでいることもあった。会社の図書室にある数十種類の海外の科学・医療分野の専門雑誌に目を通す暇だってあった。要するに仕事のやり方しだいなのである。プロジェクトにお呼びがかかっても、もちろんルーチンワークには支障がまったくでない。
 
仕事のできる者は「忙しい」とは決して言わない、前任者の3倍量の仕事をしても次々に業務改善をすれば仕事はちっとも忙しくない。

  13.  <労働者ではなく「教育の職人」としての誇り>

 学校の先生は「教育労働者」ではなく、プロの仕事人である。プロの技を磨いて、真摯に仕事をする、普段は60%で十分だが、必要な局面では渾身の力で仕事する。自分が受け持っているかわいい生徒たちの学力を上げて生徒が自信を取り戻した表情を見た人は自分がしている仕事を「苦役」だとは思わない。
 
どの職業も、人様のお役に立って喜ばれてこそなんぼのもの。「先生、独りで文章題解けるようになった」と笑顔の生徒をみるのはうれしいもので、この職業ならではの歓びがある。仕事を通じて歓びがあれば職業に対する誇りも生まれる。学校の先生は日々学び、教育技術を磨き、生徒と共にある教育の職人であれ!

 教師の仕事は「工場労働」ではない。マルクスが『資本論』で想定したのは工場労働者の労働、しかし教師はインテリ。皮肉なことに『資本論』を書いたマルクスも、ロシア革命を成し遂げたレーニンも、労働者ではなく大学に職を求めて得られなかったインテリだった。共産主義や社会主義という言葉は、体制からスピンアウトしてしまったインテリの方便。実態は労働者階級の革命という看板を掲げて扇動し、インテリがちゃっかり権力を奪取した。
レーニンが這い上がるには「革命」を起こして政治指導層に君臨するしかなかった。労働者はインテリたちが指す将棋の駒に過ぎない。
(マルクスは悲運だった。ドイツで何度か大学に職を求めたがかなわない、そして英国に亡命せざるをえなくなる。マルクスはロンドンに亡命してから、工場経営や株で稼ぐエンゲルスの扶助を受けて大英図書館で経済学の研究に打ち込み、貧困の中に64歳で死去。) 

[根室の市街化地域の3中学校の状況]
 
根室の中学校の先生たちはこういうヨーロッパの「労働観(労働は苦役である)」の呪縛から自らを解き放ち始めているように見える。生徒の学力を上げようと、底辺の学力の生徒たちに放課後補習をするようになってきた。以前から市街化地域の3中学校では8年前にも数人いた、しかし数人だったし、学校として校長がバックアップしたものでもなかった。それがいまでは集団の動きになっている、学校としての取組に変りつつあるのは喜ばしい。
 
一部では小中学校の先生たちの定期的なミーティングも始まっている。中学校の先生の立場から、小学校の授業に注文をつける必要がある。4年生程度の漢字の書けない中1の生徒や、分数や少数の加減乗除算混合算のできない中1の生徒が34割いる現状は、小学校の授業のやり方から見直さないといけない問題をはらんでいる。小中の垣根や学校教育と教育問題に関心のある地域住民との垣根を越えた議論が必要である。 

[プロフェッショナル]
 
こういう名前のNHKの番組がある、この番組は長寿番組で、すでに254回放送されたから、この番組の本数をみても日本にはたくさんの種類の一流の職人がいて、社会を支えていることがわかる。
 
23日放送は「羽田空港日本一の清掃員」だった。ビル清掃の達人の新津さんが取材されていた。中国瀋陽生まれの新津さんは中国では日本人と言われて差別を受け、日本へ来てから今度は「中国人」と言われて差別を受けたという。ビル清掃の職に就くが、清掃が最下層の職であることを知る。だが、自分にはそれしかないと思いきめ、それならこの道を究めてみようと考えを変える。何度訊いても、どうやっても指導員の鈴木さんはほめてくれない、「もっとこころをこめなさい」というだけ。清掃技能選手権に出場するも優勝できない。さらに努力を続けて、優勝する。指導員の鈴木さんに報告すると、「優勝するのはわかっていたよ」との返事。日本一になることを確信していたのだという。
 
80種類の洗剤を使い分けて徹底的に汚れを落とす。お客さんの気持ちになって何が必要かを考えて行動する。トイレの手の乾燥機の排水溝に雑菌が繁殖すると異臭の原因になる。新津さんはそれを清掃する細長いブラシをメーカと共同開発した。プロの仕事は目に見えないところも手を抜かない。
 
部下の作業員から、トイレの黒ずんだ汚れの相談があった。「どうしても汚れが落ちません」と報告を受けると、現場に出向いて観察、滑り止めの表面のでこぼこ処理が邪魔をして低い部分の汚れが落ちないことに気づき、ウォッシャーに取り付ける素材を替えて試してみると、みごとに汚れが落ちた。そのあとの実に晴れ晴れした顔がよかった。
 
「日々努力し、こころを込めて…」それがプロフェッショナル、清掃の職人だと、新津さん。「自分の家だと思って仕事する」「空港がきれいですね、それで十分、誰がやったかはどうでもいい」、すごい人だ。羽田空港は2年連続で「世界一清潔な空港」に選ばれた。 
 その新津さんが尊敬するのが高層ビルの窓拭き30年の羽生田信之さんだ。その技も取材されていた。汚れを落とした後、水切りをするが、水きり道具を左右上下に手首を返しながら3回動かすだけで完璧に一つの窓の水切りを完了する、そして余分な水が下に落ちないように丁寧にふき取る。プロの技は無駄がなく完璧だ。プロフェッショナルとはと問われて、「いつまでもときめきを忘れない、永遠の初心者」と応えた羽生田さん。初心者はのろくてもけっして事故を起こさない、高層ビルの窓拭きは高所作業なので危険が伴うから慣れが一番恐ろしい、こころはいつまでも「初心者」であり続ける。
 日本には渾身の力で仕事をする、レベルの高い一流の職人がさまざまな職業分野で活躍している。日本は世界にまれにみる職人経済社会・職人文化の国なのである。

 *NHK番組「プロフェッショナル」「清掃のプロ」スペシャル (第254201522日放送)http://www.nhk.or.jp/professional/2015/0202/index.html 

==============================

*#3097-0 資本論と21世紀の経済学(改訂第2版)-0  Aug. 2, 2015 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-08-02


 <8/2 ポイント配分割合変更>
      100%       0%       0%
 日本経済 人気ブログランキング IN順 - 経済ブログ村教育ブログランキング - 教育ブログ村根室情報 - 地域生活(街) 北海道ブログ村
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0