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#3097-2 資本論と21世紀の経済学(改訂第2版)-2  Aug. 2, 2015 [資本論と21世紀の経済学(2版)]

#3097 資本論と21世紀の経済学(改訂第2版)<目次>  Aug. 2, 2015 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-08-15


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6. <公理系書き換えによる21世紀の経済学の創造>

 ○資本論の公理・公準
 経済学者で『資本論』の公理・公準の抽出を試みた者はこれまで一人もいない。理由は簡単である、ユークリッド『原論』が視野にはいっている経済学者がいなかっただけ、それゆえ、『資本論』の公理・公準はなにかという問題意識が生まれなかったからだ。学問研究には既存の学説にはとらわれない心の透明さが必要なときがある。だから、なにかを研究するときには解説書には一切目をくれずに、オリジナルのものを読むべきだ。解説書はその後にすればいい。
 
マルクス自身はユークリッド『原論』に関心がなかったようなので、彼の著作の中に公理・公準に関する記述は見つからない、しかし、『資本論』から、前提としている公理・公準を析出することはできるから、やってみようと思う。

1.労働は苦役である
2.商品には価値がある、価値のないものは商品ではない 
3.商品には使用価値がある、使用価値のないものは商品ではない
 
4.価値には普遍性がある
5.人間労働の質は均一であり、そして平均的な社会的労働力があるとせよ 
6.商品の価値はそれに含まれている人間労働の時間量で決まる
 
7.資本は価値と共に剰余価値を生産する
 8.際限のない欲望の拡大再生産 
9.資本の自己増殖の都合に合わせて際限のない環境破壊を行う

  マルクスが労働を苦役であるというときは、資本主義的生産過程で労働力商品として買われ、生産手段から疎外されているからである。生産手段から疎外された労働というのは、生産手段の所有者が資本家であり、労働者ではないということ。
  
そういう議論を裏返すと、共産主義社会になり、生産手段が労働者の共有になれば労働は苦役ではなくなるということになる、単純素朴な議論でわかりやすい。
 
こういう議論を推していくと、たとえば大工さんは自前の道具(生産手段)を所有しているから、疎外された労働ではなく、マルクスが理想とする「能力に応じて働き。必要に応じてとる」という状態に近いことになる。
 
マルクスは労働が疎外されている根拠に、資本主義的生産過程にあっては生産手段が資本家のものであり、労働者のものではないことに求め、「労働疎外=苦役」図式でものごとを考えている。これは労働をしたことのない学者の空想の産物であると言わざるをえない。
 
自分のもつ技倆の限りをつくして額に汗して働くことは、案外気分の好いものなのである。マルクスはお金を稼ぐために肉体労働をしたことがないから、人間の心の問題を度外視して、ただ生産手段から疎外されていることをもって、労働疎外と労働=苦役を論じているが本当にそうだろうか?業種と規模の異なる4つの民間会社で仕事をした経験のあるわたしはマルクスに同意できない。肉体労働の経験のないマルクスは労働を古典派経済学の先達たちと同様の経済学的概念でしか捕らえることができず、適度な肉体労働が爽快感や自己実現感を伴い、健康な生活維持に必要なものであるということすら理解できなかった。だから、仕事することを「労働=苦役」と捉えてしまったのだろう。この辺りがマルクスのみならず、西欧経済学に共通する限界なのである。

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用語解説】
公理:①一般に通用する真理・道理 ②真なることを証明する必要がないほど自明の事柄であり、それを出発点として他の命題を証明する基本命題。②’数学の理論体系で定理を証明する前提として仮定するいくつかの事柄 (大辞林より)
公準:①要請に同じ ②[] 一般には、証明されないが、証明の前提として要請される基礎的な命題のこと。ユークリッド幾何学においては、幾何学の作図に関する一群の基本命題を指す。現在では公理と同義であり、両者は区別されない。
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わたしは自明なことを公理と定義し、「~であるとする」を公準と定義して使い分けようと思う。一番大事なのは第一の公理「労働は苦役である」、これがヨーロッパの経済学に共通の労働観である。「ヨーロッパの経済学」と書いたが、もちろん、日本の伝統文化に根ざした経済学を念頭においている。職人中心の経済学の公理公準を参考までに述べておくと、公理系の一部を入れ替えると同時に、四つ追加が必要である。第4の公準~第7の公準の四つは、日本的情緒に基づく倫理基準でもある。

1.仕事は神聖なものであり、歓びである ⇒第1の公理
2.商品には価値がある、価値のないものは商品ではない ⇒第2の公理 
3.商品には使用価値がある、使用価値のないものは商品ではない ⇒第3の公理
 
4.価値には普遍性がある ⇒第4の公理
5.一人前の職人の仕事は職種を超えて同一であるものとする ⇒第一の公準 
6.商品の価値量はそれに含まれている一人前の職人の仕事量で決まるものとする ⇒第2の公準
 
7.名人の仕事の質は無限大であるとする ⇒第3の公準
 
8.名人の仕事の質は一人前の職人の仕事の質と比較できない ⇒第5の公理
9.資本の運動は利潤を生み、生産性増大は利潤を増大させる ⇒第6の公理
10.小欲知足:欲望の抑制 ⇒第4の公準
11.生産力と環境との調和 ⇒第5の公準
12.売り手よし、買い手よし、世間よしの三法よし ⇒第6の公準
13.浮利を追わぬ ⇒第7の公準

  仕事が神聖なものであり、喜びであるというのは日本人が古代から受け継いできた伝統的な考え方である
 公理系を入れ替え四つ付け加えることで別の経済学が誕生する。第1の公理は縄文時代から育んできた日本の伝統文化や天孫降臨神話と密接な関係がある(天孫降臨神話との関係は23章<村落共同体と税:自由民と農奴について>「贄と仕事観」参照)  
 ‘No.78’はピカソの絵や長谷川等伯「松林図屏風」、奇想天外な写実画家「群鶏図」「風神雷神(屏風図)」の伊藤若冲を想像してもらいたい。ピカソや等伯、若冲の絵の価値は彼らがその作品を生み出すに要した仕事時間で計量できないことは太陽が東から昇るのと同じくらい自明である。
 渡部昇一氏は、民族ごとに労働観につて違いがあり、日本独自の労働観に基づく経済学がありうることに言及している。わが意を得たりである。

 #3231 日本人の労働観の特異性と新しい経済学の創造 渡部昇一氏の論 Feb. 7, 2016
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2016-02-06

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 ・・・現代の日本では、労働時間の短縮が叫ばれているが、仕事を嫌悪する気持ちより、仕事を喜ぶ気持ちの方が貴重であるという事実は、いつの時代になっても変わらないことであろう。その意味で、「神様ですら働く」と考える日本人の労働観は、先に述べた自然観や宗教観と並んで、これからの世界にとって重要なメッセージとなると思われるのである
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一人前とは、熟練度の社会的平均値であり、それぞれの職種の職人が一人前になるまでに要する修業期間510年間を想定する。剰余価値生産のところでマルクスは困ったのではないだろうか。資本家的生産関係で、生産物の価値は原材料や生産手段を費消した分と労働力の対象化によって付加された価値と剰余価値に分裂している。それが市場関係では市場価値として止揚される。資本家的生産関係で価値と剰余価値を現在使われている一般的な用語におきなおすと、「生産コスト+利潤=生産価格」であり、生産性増大が生産コストを抑え、市場価格との差が拡大して利潤(相対的剰余価値)を増やす。36年ぶりに資本論を抜き読みしてみたのだが、この辺りはじっくり読み直す必要がありそうだ。
*-1コンピュータとネットワークと機械の新産業革命:ロボット工場はすでに現実】)
(資本論が世に出てから150年が過ぎたが、資本論が前提にしている公理・公準を俎板に載せた議論は初めて。資本主義国では日本が世界で一番マルクス経済学者が多いのだが、その日本ですら、こうした議論や研究がなされなかったことは、日本の学術研究の陥穽を如実に示すものである。専門化・細分化しすぎて、議論が深いところへ届かないばかりでなく、研究の視野が狭い。高校から、文系と理系を分けてしまう教育の弊害でもある。高校と大学に数学の得意な文系の科をつくるべきなのだろう。日本的情緒を育む文学作品に親しみ、なお数学が大好きだというのは人口の1%未満の学力エリートだろう。日本的情緒と高度な抽象数学を理解できる「鬼に金棒」の人材、国家戦略上、そういう人材を意識して育てるべきだ。) 

○資本主義社会の富は巨大な商品集積として現れているから、それを構成する最小のエレメント(要素形態)たる商品をマルクスは体系の端緒に措定した。そしてあらゆる概念的関係を排除したその原初的定義を行う。もっとも単純なものとしての商品の概念規定。

価値と使用価値(価値の二重性)
抽象的人間労働と具体的有用労働(労働の二重性)

 同じ演繹的な体系であるユークリッド『原論』は円を二つ使った正三角形の作図からはじめている。ユークリッドも「単純なものから複雑なものへ」という手順で体系を演繹的に叙述・展開していく。
(三平方の定理は第1巻第47章、中3の学習内容の弧と円周角、円周角と中心角の関係は第3巻第27章) 

○第1章第3節「価値形態」‘A 単純な、あるいは偶然的な価値形態’
 X量の商品Ay量の商品B、あるいはx量の商品Ay量の商品Bに値する。
20メートルのリンネル=1着の上着、すなわち20メートルのリンネルは1着の上着に値する。)ラシャトル版『資本論』18ページ 

A 単純な、あるいは偶然的な価値形態
(a)価値表現の両極、価値の相対的形態と等価形態
(b)相対的価値形態
(c)等価形態とその特色

B 総和の、あるいは発展した価値形態(
a)
発展した相対的価値形態
(b)特殊な等価形態
(c)総和の、あるいは発展した価値形態の不備

C 一般的価値形態
(a)価値形態の性格の変化
(b)相対的価値形態と等価形態の発展関係
(c)一般的価値形態から貨幣形態への移行

D 貨幣形態
● 流通過程での定義
 
使用価値と交換価値⇒交換価値は他の商品から独立して貨幣(金)となる 

● 資本主義的生産過程での定義
 
生産の三要素:生産手段、原材料、労働力
  
労働量=労働強度×時間商品の生産価格
 それぞれに費やされた価値+剰余価値
  価値表現形態を単純なものから複雑なものへ並べてみる。ここで不等号は複雑度の大小関係を表す。
  「単純な、あるいは偶然的な価値形態」<「総和の、あるいは発展した価値形態」<「一般的価値形態」<「貨幣形態」 

 マルクスは交換関係において価値表現形態を単純なものから次第に複雑なものへと展開している。交換関係では貨幣は資本へ展開できない、だから、概念的関係の拡張が行われ生産関係に措定されることで貨幣は資本形態をとることになる

 マルクスが記述した「生産過程」は日本の現実と大きくことなるが、その辺りのことなると日本の経済学者はまるで知識を持ち合わせていない。日本とヨーロッパや米国は事情が違うのである。真実は目の前にある、足元を見よと言いたい。
*-2【日本の工場部門と事務部門における「改善」と生産性向上】) 

  マルクス自身が編集したのはここ(第1部)までである。ここからは論理的な体系構成がどうあるべきか私見を述べたい。
(第2部は1885年にエンゲルスが編集して出版した、第3部は1894年にエンゲルスによって編集・出版された。マルクスは1867年に資本論初版を出版し、1872年に資本論のフランス語版を出して、11年後の188364歳で亡くなった。この年はエンゲルス編集の資本論第3版が出版されている。) 

    
市場関係での定義
    
市場価格 
     国内市場と国際市場での定義
    
国際市場価格⇒比較生産費説の導入 
     世界市場
    
資本や生産拠点が国境を越える。
    グローバリズム
    
コンピュータとインターネットが経済社会のあらゆる分野に入り込んでいく
    
売っても減らない商品の出現CDDVD、ゲームソフト、さまざまな種類の名簿等々、デジタルコピーの時代人類の生存環境を脅かすほどの生産力増大と過剰富裕化現象1920年代の米国に始まると、宇野派の理論経済学者馬場宏治先生が提唱した学説)の出現

 [結論-1
 資本論は演繹的な構成をもっている。概念的関係が演繹的・段階的拡張されるにしたがって、商品は具体的で現実的になる。マルクスは段階的に概念的関係を拡張し、用語をその都度再定義して経済学体系を記述しようとした。 

 
[結論-2:ヘーゲル弁証法の破綻]
 テーゼとアンチテーゼ、そしてそれらを統合するジンテーゼ、対立物の矛盾を論理の展開動力にするのが「ヘーゲル弁証法」だが、上向展開論理にヘーゲル弁証法を持ち込んだことがプルードンとマルクスに共通する間違いだったのではないか。
 
商品に内在する価値と使用価値のうち、価値は価値表現関係や生産関係、そして市場関係でより具体的な内容を獲得していくが、使用価値はそのままである。20エレのリンネルの使用価値はリンネルがもつ使用価値であり、布が縫われてワンピースに変われば使用価値も変わるのではないかといっても、原材料として使われて別の製品(この場合はワンピース)に生まれ変わり別の使用価値をもつことになるだけ。リンネルがもつ原材料としての使用価値は失われワンピースという製品の使用価値に変わるのみ。ところが単純流通では価値は交換価値となり、生産関係では資本家的生産過程で価値と剰余価値を生み出す。市場関係では価値は市場価値(あるいは市場価格)となる。市場関係では競争が導入されるから、個別企業の「生産コスト+剰余価値」と市場価格の乖離という問題が生ずる。ヘーゲル弁証法の「正」=生産価格と「反」市場価格と考えたくなるが、それは同じ「価値」の存在形態であって、価値と使用価値がより具体的な概念的関係で形態転化を遂げての対立ではない。商品の使用価値は使用価値のままである。
 
上向論理の展開動力に対立物の矛盾は必要がないどころか邪魔ものとなっている。正・反・合のヘーゲル弁証法は要らない。ユークリッド『原論』にもそういうものはまったくない。拡張されていく概念的関係は、それ自体を比較検討すれば、容易にその大小関係の判別がつくから、それにしたがって概念的関係の展開系列を決めればよいだけであり、実にシンプルである。
 資本家的生産様式で貨幣は資本となり、交換価値は(生産)価値と剰余価値に劇的な形態転化を遂げるが、対立物であるはずの使用価値は変わらない。生産過程では原材料の使用価値は原材料としての有用性にあるだけ。「なぜだ!」、ヘーゲル弁証法を学んだ者にはそういう疑問が出るのは当然だ。マルクスは上向の展開論理で「弁証法」にこだわったから行き詰ったというのがわたしの結論である。

  
2項対立はシンプルでわかりやすいので広く受け入れらたが、3項やもっと多変数のときには処理できない。世の中のものごとは無限の変数で動いているから、思考実験での二項対立はものごとをシンプルに考える上で有効な方法であるが、おのずと限界がある。マルクスはヘーゲル弁証法の限界を『資本論』を書くことで知ったのだろう。マルクスは『資本論初版』の20年前、1847年にエンゲルスと共著で『共産党宣言』を書いているから、いまさらヘーゲル哲学では経済学が描けないとは言えなかったのだろう。階級闘争史観が誤りであることを自ら認めることになるからだ。
 経済学の体系に則してもう少し具体的に書くと、生産過程を通過すると原材料としての使用価値を持つ毛織物は上着という使用価値に変わる。そして費やされた労働力と生産手段の損耗度合いに応じてそれらが製品の価値となる。だがそれだけでは足りない、資本の運動は生産過程で剰余価値も生み出す。つまり、変数が使用価値、価値、剰余価値の三つになったわけだ。ヘーゲル弁証法は2項対立であるから、3項の処理ができない。ここに来てマルクスは途方にくれただろう。だから第2部を書けなくなったというのがわたしの推論である。そうした問題意識のないエンゲルスが、マルクスの遺稿を整理して、資本論第2部「資本の流通過程」と第3部「資本主義的生産の総過程」をまとめたが、ヘーゲル弁証法の破綻という重要な論点を見逃し、見当違いな整理であったことはいうまでもない。「市場関係⇒簡単な国際市場関係⇒世界市場関係」で締めくくらなければならなかったのである。ところが、世界市場は資本論初版の出た1867年には影も形もない。世界市場の出現は21世紀をまたなければならなかったのである。マルクスは生まれるのが150年早すぎた。


  7. <経済学体系構成原理は四つ>

 
 マルクスの用いた方法は、デカルトの「科学の方法」そのもので、2300年前のユークリッド『原論』とも体系構成の方法論において共通している。マルクスはヘーゲル弁証法を適用して経済学体系の記述を始めたのだが、資本の生産過程のところでその方法論の間違いにようやく気づいたのだろうが、エンゲルスとともに『共産党宣言』を書いてから20年、すでに引き返せないところにいた、苦しかっただろう。
 
わたしたちにとって重要なことは、学の体系構成を検討するに際しては、ヘーゲル弁証法は不要なものだということ。当時のドイツ哲学はヘーゲル哲学全盛期であり、プルードンもマルクスもその影響を強く受けている。経済学へのヘーゲル弁証法の適用が 間違いだとしたら、『資本論初版』の20年も前にエンゲルスと共著で出した『共産党宣言』は根底から崩れることになる。

 体系構成を支える原理は、次のたった四項目にすぎない。 
①下向から上向へ
②抽象から具体へ 
③一般的なものから特殊なものへ、そして個別的なものへ
④一般的なものから具体的なものへ

 四つ挙げたが、全部同じことを言い換えてあるだけ。抽象度を基準にして概念的関係を抽象度降順で不等号を使って整然と並べられることはすでに示した。経済学的諸概念も同じ順に並んでしまうマルクスが使うべきはたったこれだけ。ヘーゲル弁証法という夾雑物が混じっているから取り除けばよい。
 
下向分析と上向がセットになっている点が要点である。セットという点ではデカルトの「科学の方法 四つの規則」と同じである。規則2が下降法、規則3上向法である。

第二は、わたしが検討する難問の一つ一つを、できるだけ多くの、しかも問題をよりよく解くために必要なだけの小部分に分別すること。
第三は、わたしの思考を順序にしたがって導くこと。そこでは、もっとも単純でもっとも認識しやすいものから始めて、少しずつ、階段を昇るようにして、もっとも複雑なものの認識まで昇っていき、自然のままでは互いに前後の順序がつかないものの間にさえも順序を想定しえ進むこと。
 
 価値と使用価値というアンチノミーを媒介にした上向展開論理はプルードンの系列の弁証法そのもの、プルードン『創造』とマルクス『資本論』は体系構成の方法において兄弟であり、ヘーゲル弁証法がその産みの親である。
 
『資本論』からヘーゲル弁証法を取り去れば、下降法と上向法はデカルトと共通している。演繹的な体系構成のお手本は純粋科学である数学、ユークリッド『原論』にあることはすでに論じた

 体系構成の前提条件である公理・公準を入れ替えれば、11節で示したように別の経済学が立ち上がる。労働が苦役ではない、仕事が喜びとなる、日本の伝統的な的価値観をベースにした職人中心の経済社会の展望が開けるのである。



  8. <『資本論』の章別編成>

  マルクスが書き残したのは資本論第1巻第1部のみである。第2部と第3部は膨大な原稿からエンゲルスが編集したものであり、マルクスの手になるものではないから、ここでは資本論第1巻第1部全体を俯瞰しておけば十分である。

1部 資本の生産過程
1篇 商品と貨幣
 第1章              商品
 第2章              交換過程  
 第3章              貨幣または商品流通2編 貨幣の資本への転化

第2篇 貨幣の資本への転化
 第4章             
貨幣の資本への転化  
 第5章              労働過程と価値増殖過程  

3編 絶対的剰余価値の生産
 第6章              不変資本と可変資本 
 
第7章              剰余価値率
 
第8章              労働日
 第9章             
剰余価率と剰余価値量

4編 相対的剰余価値の生産

 第10章          
相対的剰余価値の概念
 
第11章           協業
 
第12章           分業とマニュファクチュア
 
第13章           機械と大工業

第2部            資本の流通過程

第3部            資本主義的生産の総過程

 
わたしの問題関心は、『資本論』という一つの経済学体系がどのような構成をもつのか、そしてマルクスは経済学の体系をどのような道筋で描こうとしたのかにある。展開の系列を簡潔に並べると、それは1巻の編のタイトルを順に並べるということになるであろう。

 商品と貨幣⇒貨幣の資本への転化⇒絶対的剰余価値の生産⇒相対的剰余価値の生産

 つねに前者の展開が後者の展開の前提条件になっている。「商品と貨幣」を描いて、次に商品の発展形態である貨幣が資本へ転化する。資本は絶対的剰余価値を生み出し、次いで、労働日の内の必要労働時間と剰余労働時間の割合を変化させることで相対的剰余価値の生産を論じている。絶対的剰余価値の編では固定されていた必要労働時間と剰余労働時間の割合を可変とするのである。譬えて言うと、いままで一定の濃度の食塩水を論じてきたのを、今度はさまざまな濃度の食塩水があることを論ずるのである。ここでも単純なものから複雑なものへという展開順序が守られる



  9. <マルクス著作の出版年表> 1
843
年『ユダヤ人問題に寄せて』25歳本のタイトルにユダヤ人とあるので、マルクスの出自と生年および没年に触れておく。「父はユダヤ教ラビだった弁護士ハインリヒ・マルクス]。母はオランダ出身のユダヤ教徒ヘンリエッテ(Henriette)(旧姓プレスボルク(Presburg)5]。マルクスは夫妻の第3子(次男)であり・・・」ウィキペディアより 
181855日生まれ、1883314日死亡、64歳)

1844年『経済学・哲学草稿』261
847
年『共産党宣言』29歳(エンゲルスと共著)
1858年『経済学批判要綱』401939年に出版された。日本語版初版は1959
1859年『経済学批判』411863年『剰余価値学説史』45
1867年『資本論初版』(第一部のみ、第二部は1885年にエンゲルスが、第三部は1894年に出版された)49

「この第2部と第3部の草稿についてマルクスは1866年の段階でエンゲルスに宛てて、「でき上がったとはいえ、原稿は、その現在の形では途方もないもので、僕以外のだれにとっても、君にとってさえも出版できるものではない」と手紙に書いたほどであった。1872年『資本論フランス語版』54歳:ラシャトル版ともいう。
 「「まったく別個の科学的価値を持つ」と(マルクスが)自分で称するほどに納得できる版となった「フランス語版」が出版されたのはようやく1872 - 1875であった。」

1873年『資本論第2版』
1883年『資本論第3版』(フリードリッヒ・エンゲルス)

 事細かに編集を指示したフランス語版の出版から死ぬまで11年間あったが、マスクスは資本論第2部の編集に手をつけていない。未整理の膨大な草稿が残されたことから考えると、混乱のまま、人生の終わりを迎えたように思える。経済学者はマルクスのこの沈黙の期間の意味を考えるべきだ。 

[経済学の研究深化と共産主義イデオロギーの破綻]
 
ヘーゲル弁証法では乗り越えられないところに自分が立っていることにマルクスは気がついていたのではないだろうか。いまさらヘーゲル弁証法ではダメだとは言えない、それを言えば階級闘争史観(唯物史観)も破綻してしまうから、共産主義の理論的な支柱が倒壊する、マルクスはだんまりを決め込むしかなかった。晩年のマルクスが10年もの間、著作を公表していない。そうした空白の期間も方法論の破綻という前提で読むと当然のことに思える。私の推測はあくまで論理的なものだが、いくつかの状況証拠がその正しさを裏付けている。
 
『経済学批判要綱』(1858年)段階での流通過程分析を通じて、価値形態研究の深化と併行して商品分析によって経済学諸概念の関連の整理がなされていく。マルクスは経済学の基本概念をいじくり回しているうちにしだいに整理がついて、ごく自然に演繹的な順序で経済学を叙述する方向へと舵を切ってしまったのであるが、そのことが学としての経済学の体系構成に混乱と疑義を抱く素(もと)となってしまった。たとえて言うと、ヘーゲル弁証法という水先案内人がいない海に漕ぎ出してしまったのである。水先案内人もいない、羅針盤すらもたず、未知の海域で漂流していた。打開の方法が見つからず、マルクスは方法論の破綻を墓場までもっていった。晩年に10年間沈黙せざるを得なかったマルクスが哀れでならない。
 1935年にブルバキの名前ではじまった集合論を基礎にした現代数学の総合化の試みですら、その体系的な叙述はいまだに完成していない。マルクスが個人で一つの経済学体系を完結できなかったのは無理もないことに思える。
 
そのうえに世界市場は資本論初版の時点ではいまだ存在していなかったし、世界市場論はそれだけをとっても個人でできる仕事量ではない。実証研究の深化をまたなければ書けない代物なのである。数えてみたら、『ブルバキ 数学原論』は東京図書から翻訳書で36冊出版されている。現代数学は体系化にこれほど膨大な冊数とそれに見合う仕事量を要求している。本格的な世界市場論は一群の若手研究者の台頭を俟たなければならない。
 
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* #1454 異質な経済学の展望 :パラダイムシフト Mar. 31, 2011 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2011-03-31

 #3097-0 資本論と21世紀の経済学(改訂第2版)-0  Aug. 2, 2015 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-08-02

 #3231 日本人の労働観の特異性と新しい経済学の創造 渡部昇一氏の論 Feb. 7, 2016
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2016-02-06


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