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#3023 西浜ショッピングセンターで買い物&道知事選挙結果  Apr. 12, 2015 [A9. ゆらゆらゆ~らり]

 一人で買い物に出かけた。ホクレンショップの出口のところで、1歳半くらいの子どもの手を引いた若いお母さんが微笑みながら、「こんにちは○○先生」と声を掛けてくれた。丸顔のめんこい女性だった。さて、もう子どものいる元塾生がいたかなと名前を頭の中でサーチして、あ、と気がついた、連れていたのはお姉さんの子どもだ、キョウ子だった。物覚え、顔覚えが悪いebisuは、外で挨拶されると、しばらく間があってからでないと、名前が思い出せないことがある。
 ホーマックで顔見知りの先生夫妻ともであった、「やあ、こんにちわ」と挨拶。ビールを買い忘れてもう一度ホクレンショップへ戻ったら、今度は6年前に高校を卒業した生徒のお母さんとでくわした。キョウ子の1年後輩だ。問わず語りにお母さんがその後の消息を手短に語り始めた。

 うれしいではないか、専門学校を出てから根室に戻ってきてずっと同じ会社で働いているんだそうだ。
 中学三年生の最後のテストで初めて数学がクラス1番だった生徒である。本人は当然うれしかっただろうが、わたしもとってもうれしかった。おとなしい生徒がたんたんと努力した結果が最後の最後で報われたからだ。ああ、神様がいるんだなと思った。
 恥ずかしいが間抜けな話を書く。かれは英語が嫌いだったので、中学校の先生の薦めるままに根室西高校へ願書を出していたことに塾長のわたしは気がついていなかった。入試直前に受験番号を確認したら、番号がおかしいので「何だこの番号は?違っていないか?」と訊いてから西高校の受験番号だわかった、青天の霹靂だった、出願変更の時期を過ぎていたからすでに後の祭り。
 進路の最終確認をしなかったわたしのミスだった。英語が嫌いだっただけで、彼よりも五科目合計点数の低い生徒が何人か根室高校へ進学した。西高校の数学ではレベルが低すぎてこの生徒はつまらない思いをするだろうから、高校3年間来てもらって数学をみた、思うところがあり1年半ほどかけて簿記3級も教えた。2度目だったか3度目だったか、めげそうになりながらも商工会議所簿記検定3級に合格した。過去問にたっぷり時間をかけた分だけ内容の理解は深くなっただろう。将来独立できる職種の専門学校進学を決めていたから、自分で申告できるように、簿記を教えたのである。個人事業の採算管理には簿記知識は不可欠であるし、数学が得意だから理数系科目の簿記も好きになれるだろうと思ってのこと、30歳になってから独立して事業を始めてドンブリ勘定でひっくり返らないようにワクチンのつもりでもあった。一石三鳥。
 自分で帳簿をつけて所得税の申告書を書けたら、業績の管理やお金の管理も自分でできるし、どれくらいの価格で仕事を受注したら、原材料費や手間賃がでるのかおおよその見当もつけられる。税金を支払う原資をどれくらいためておけばいいかも理解できる。
 勤務年数が四年目にはいったそうだが、何度かやめたいと言い、その都度、勤務している会社の社長に諭されて辛抱が続いているとお母さん。三年たったからもう大丈夫だろう。
 おとなしい生徒だった、言われたらへこたれそうになりながらも努力のできる生徒だった。気の弱いところがあるが、性格はまじめで口数がすくない。こうした若い者をじっと見守り仕事を教えてくれる経営者が根室にいる。職種を言うとだ誰かわかってしまうから書かないが、社長さんありがとう、これからもよろしくたのむよ。10年同じ仕事を続けたら生来のまじめさがあるから一人前の技術者になれるだろう。

 丸顔のメンコイ元塾生の笑顔も見たし、地元に戻ってきて働いている生徒の消息も聞くことができてうれしいので、歯舞産のウニを一折日本酒を飲みながらゆっくりいただいた。根室の食材はすばらしい、プチ贅沢に浸っている。
 ある人に誘われてカンツォーネ歌手の講演会に入っていたことがある。あるとき横浜の魚屋さんの経営する居酒屋で、その歌手と後援会仲間数人で飲んだことがあった。副会長の浦野さんと仕事を一緒にしたことがあったのでわたしを後援会のメンバーに加えてくれた。当時(1999年)の後援会長は全国組織「連合」元会長だった○○さん、人物の大きな話のわかる人だった。そのあと浦野さんが後援会長に就任した。後援会メンバーだったので連合元会長さんとも何度か直接話をする機会があった。わたしは右も左もユダヤ教もキリスト教もイスラム教も関係なし、人物本位でお付き合いすることにしている。病院の建て替えをお願いした新日鉄の建設部門の東大卒の営業部長も茅ヶ崎在住の後援会のメンバーの一人だった。市立根室病院との違いは免震仕様だけ、同じRC造である。医療法人のオーナー理事長から依頼されて常務理事として建て替えを担当したが、2000年に坪単価65万円、追加予算ナシで仕事は終わった。市立根室病院の建築坪単価は約130万円。
 小野玲子さんつながりで、バンドネオン奏者の桑山哲也の公演も何度か聞いたし、話もした。桑山君のつながりで鈴木重子さんの歌も聴いた。舞台に出てきたときに不思議なオーラが彼女を包む。声を張り上げない歌い方が心地よかった。東大で司法試験受験に失敗したから、あのすばらしい歌手が生まれた。絶対音感をもっているといろんな音が音階に分解されて聞こえてしまうのだそうだ。レストランで知らず知らずに水の入ったコップを叩いてその音色に浸って、気がついたときには周りから変な目で見られていたりする。雨だれの音も音符になって聞こえてしまうのだそうだ、なんともやっかいなことだ。こうしてみるとここでも人の進路は神様が決めているようにみえる。
 人生で何か大きな障害にぶつかったときには、そのまま受け止めて努力の方向を変えろという神様からのサインだと前向きに受け止めたらいい。どんなに困難な局面の出くわしても、人を恨むようなことも、失敗を他人のせいにしなくてもすむ。すべては天のご配慮なのだから、ありがたく拝受しよう。道は自然に開けてしまう
 横浜の魚店経営の居酒屋(1階が魚屋で2階が居酒屋)に話を戻すと、根室産のウニがメニューにあったので、注文した。予想通り鮮度のよいウニが出てきた。歌手の小野玲子さんは福井県出身、ウニが大好きで根室産のものは特別おいしいと食べてくれた。そのあと中山駅前(横浜線)のスナックで、わたしの好きなシャンソン「ろくでなし」を歌ってくれた。きっと根室産ウニの「功徳」です。プロはプライベートで飲んでも歌わないが、この日は特別だった。

 ずいぶん話が飛ぶが、もう少しだから我慢して読んでもらいたい。
 女房殿は東京で1歳3ヶ月になった孫と戯れている。先週から「こっち、こっち」と指差して言えるようになった。わけのわからぬことを叫びながら電話の向こうでよく笑いよくはしゃぐ。女房殿はもうすぐ帰ってくる。孫の笑顔はジジとババを虜(とりこ)にする。
 3月下旬に東京へ行ったときには、じっとこちらの顔を覗き込んで、くるりと後ろを向いてひざの中にすとんとお尻を落としてきた。振り向いて目を見てニッと微笑む。


<余談:北海道知事選の顛末>
 道知事選挙の結果が開票と同時に出た、現職の高橋はるみさんの勝ち(1,404,558票)である。
 佐藤のりゆき氏(1,094,599票)の選挙公約の第一番目は「「道内総生産50兆円」(11年度で18兆2630億円)を目指す」というものだった。あれはまずかった、わたしの頭に浮かんだのは民主党の政権奪取時の選挙公約、できもしないことが並んだあの悪夢のマニフェストである。
 佐藤のりゆき氏はなにをあせってあんな荒唐無稽な公約を第一番目にもってきたのか、選挙戦略の大きなミスだ。よほどセンスの悪い選挙参謀がついていたのだろう。ニュースキャスター出身だから、政策センスがないのは仕方がない、それを補完するのが選挙参謀の役割だが、参謀の仕事をこなせる人材が周辺にいなかったということか。
 あんなものを出すくらいなら、北海道は食料自給率200%、それを生み出す大自然を守るために脱原発一本のほうが争点がはっきりしてよかった。原発事故で放射能汚染されたら、北海道ブランドは地に落ちる。農業も漁業も大変な被害を受けるし、放射能による遺伝子の障害が世代を超えて何を引き起こすかわからない。荒唐無稽な北海道総生産50兆円の公約で勝負がついてしまった、負けるべくして負けた選挙だ。
 でもそれでよかった、優秀な選挙参謀がついて勝っていたら政権を奪取したあとの民主党のようなことになっていただろう。選挙マニフェストが絵に描いた餅であることがばれて、失意の中で道知事の座から転がり落ちる。

 四選にうんざりしていたから、佐藤のりゆき氏の選挙公約を見たときは「のりゆきお前もか」と失意が隠せなかった。選挙公報に載った公約を見て、知事の器でないことに気がついたのである。ニュースキャスターとしては親しみのわくいい人物だった。
 わたしにとっては選択肢のない知事選挙戦の結果が出ただけ。投票はしたけれど、投票所にいくのが嫌で行かなかったり、行っても白票を投じた選挙民の気持ちがよくわかる。

 知事四選なんて、ダダの惰性、やってほしくなくても、対立候補があのていたらくでは困る。地元に仕事のできる候補者がいない、根室だけでない、北海道レベルでも、人材不足が起きている。根室っ子も、道産子もこんなに劣化しちゃって、いったいどうなっているのというのが、35年間住み慣れた東京を棄ててふるさと根室に戻ってきて13年目の感慨、期待は慨嘆に変わりつつある。
 しかし、芽は育ち始めている。地元に戻ってきた若者数名、親の後をついで双沖で昆布漁師になってがんばっている者2名、今春から働く者、それぞれ20年後30年後の根室をしっかり支えてくれそうな若者たちが根室で育っている。看護師になって戻ってきた生徒もいる。

 40~70歳の大人たちはどうしちゃったの?
 北海道にはすばらしい自然と共に、少しずつ人材をダメにしていく負のエネルギーでもあるのだろうかと心配になる。
 本から学ばない、過去からも学ばない、躾けの軽視、教育の軽視。自然の恵みが豊か過ぎて、仕事から学ぶことや自らの学識や人間性を磨くことがすこし脇にほうっておかれているように感じる。大人がもっとしっかりしなけりゃいけないよ。


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yasu

興味深く読ましていただきました。
私は昔N高を卒業して本州で働き、高齢の親の面倒を見るという理屈をつけて、地元に戻ってきた団塊世代の者です。
残念ながら、私は根室市内の中卒ではないので高校の3年間は若干の疎外感を感じながら過ごしました(笑)
で、それは別にして、今回コメントしたかったことは

日曜日、図書館で週刊誌を見ました。
先週の週刊朝日は確か東大合格者の出身高校一覧が記載されており、今週号は更に各高校の大学別入学者数を特集してました。ということで、我卒業高はどんな按配かと見ますれば見開きの左ページ(ここに北大を先頭に道内の大学が載っている)は真っ白、右ページの隅のほうに辛うじて私立大入学者が載ってました。
それじゃ、
同じNでもN標津はどうかと見ればそれほど良くはないが、ページが真っ白という事はなく(北大も1人いたはず)頑張ってるなという印象を持ちました。

どうもよくわからないのですがこの格差時代といわれる世の中で、N高の生徒さんも親も学校も危機感薄すぎじゃないですか。「学歴だけが人生を決定付けるわけではないですが学力は絶対必要ですよ。」
ということを書きたかったのです。失礼しました。
by yasu (2015-04-13 19:11) 

ebisu

yasuさん

投稿どうもあり月ございます。
「N高」の卒業生で団塊世代ですか。わたしも団塊世代真っ只中の1967年3月の卒業生ですから、yasuさんは知っている方かもしれませんね。

状況が似ていますね。親父が平成5年に亡くなって、それからお袋が(3年前に亡くなりました)一人暮らし。年に一度様子を見に来ると、東京へ帰る時に気丈なお袋が涙ぐむんです。弱くなったなと実感しました。声を出さずに零れ落ちる涙に参りました。もともと50歳になったらふるさとへ戻るつもりだったので、帰郷を決意して、それ以来小さな私塾を開いています。都会との学力格差の大きさは埋めようもありませんが、意欲のある少数の若者を育てることはできます。
残念ながら、根室高校の進学実績はこれからさらにがくんと落ちます。昨年春の卒業生から、学力が急激に下がっており、そのあとさらにもう一段低下してしまっていますから、もう確定したのも同じです。こうこうが統合されたら、もうお話になりません。学力格差が大きすぎて、同じ教科書を使うのが無理です。学力の低いほうに授業レベルあわせがなされるでしょう。この3年間で、数学の授業レベルがずいぶん下がりました。8年前には1月20日ころから、1年生は数Ⅱをやっていましたが、現在は年度いっぱい掛かっています。
なお、根室高校の過去3年間の進学実績は、根室高校のホームページで確認できます。一般入試では偏差値45以上の大学になかなか合格できない、推薦が多いのげ現状です。

>「学歴だけが人生を決定付けるわけではないですが学力は絶対必要ですよ。」
>ということを書きたかったのです。

その通りだと思います。根室の外に出たら、ゼロから戦いを始めなければなりません。学力がなければ、それなりの人生、そしてそれは大変厳しい。都会へ行くほど競争が激しいですから。
大半の根室人が、根室に優良な就職先が少ないために、都会や全国各地へ散っていきます。学力を軽視してはいけない。それは子どもたちを戦場へ丸腰で出すようなものです。

市長も根室市議たちも、根室の外で働いたことがほとんどないから、教育問題に関心が薄くなっています。高校を卒業して根室を出て行く大半の若者たちのことをもっと考えてやるべきです。それはひいては根室のためでもあります。学力の高い若者を地元に残すことができれば、町の衰退はとめられます。
by ebisu (2015-04-13 23:50) 

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