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#2987 お世話になった方の奥様の訃報 Mar. 1, 2015 [A8. つれづれなるままに…]

 昨日(2/28)、昔オヤジとお袋が商売をしていた梅ヶ枝町三丁目のすぐ近くの会社の会長さんの奥さんが(大正10年生まれ、享年95歳)亡くなってそのご葬儀に行ってきた。2年ほど前から体調が悪いと聞いていた、品のよい言葉を話す穏やかな奥様だった。根室に戻ってきてから何度かお宅へお邪魔した。

 わたしが高校1年生のころだったと思うが、大正5年生まれのK先生(わたしは戻ってきてから「K先生」とお呼びしている、根室で唯一の文学博士だから)は一度だけ根室市長選挙に立候補したことがあった。オヤジもお袋も豪放磊落なK先生のファンだった。残念ながら、インテリを嫌う根室の風土と人は先生を受け入れることができなかった。大きな声で、遠慮のない意見をはっきり言う人である。

 奥様は根室に昔あった造り酒屋「色媛(いろひめ)」の娘さんだった。当時の根室の町には上水道がなく、各家庭は井戸水を使っていた。
 現在の星野ホールの向かいに、カネマンが設置した水道の蛇口があって、近所の人たちはそれぞれ鍵をもっており、その水をお茶やご飯に使っていた。カネマンの水を使うとご飯の味もお茶の味もはっきり違った。現在の成央小学校の辺りは当時は原野で、そこから湧き水を「色媛」のカネマンが引いたもので、それを近所に開放していたのである。カネマンのあった場所は現在のヒシサンホーマ。引いてきた湧き水を受ける2m四方もありそうな大きな木枠があった。近くの花屋さんも大地みらい向かいにあったお菓子屋さんもその水を使っていた。天秤棒の両端にバケツを二つぶら下げて角の水道から運んでくる。小学生のころだから、水をいっぱい入れると揺れてずいぶんこぼれてしまった。すぐになれるものだ。
 そういういい水を飲み水に使っていたから、小学校2か3年生のころだったと思うが、花咲小学校に水道が引かれたときは、カルキくさくてとても飲みにくかったのを覚えている。すぐに各家庭ににも水道が引かれたが、水汲みがいらず便利ではあったが、まずかった。カルキを抜くために水道をいったん水瓶に受けためていた。その大きな水瓶はまだ家にある。当時はカルキを抜くために水瓶をおいていた家庭が多かった。

 市長選挙のあとは根室の政治・教育改革をあきらめて、仕事と考古学研究に没頭され、先生は65歳ころに、母校へ博士論文を提出して学位を授与された。
 根室に戻ってきて、ご挨拶に行ったときに、市長選挙に立候補した当時のことを話されて、「根室を変えよう思っても、変わらないよ」と大きな声で話してくれた。
 そういう事情もあるので、わたしは小さな私塾をやり意地になってブログを書いているのかもしれない。K先生は「(何をやったって)根室は変わらないよ」という声の裏には、教育を価値の低いものとみてきたふるさとが変わってほしいという願いがあると感じるからだ。
 (K先生に倣ったわけではないが、わたしも最近経済学の論文『資本論と経済学』を原稿用紙300枚ほど書いて、弊ブログにアップした。同じ名前のカテゴリーに保存してある。学問が何であるか、生徒たちに背中で教えることも必要だろう。)

 23歳のときにK先生ご夫妻に仲人をお願いして、快くお引き受けいただき、根室で結婚式を挙げさせてもらった。
 お世話になりました。
 ご長命だった奥様のご冥福をお祈りします。


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