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#2971 『資本論』と経済学(25):「村落共同体と税:自由民と農奴について」 Feb. 12, 2015  [A1. 資本論と21世紀の経済学(初版)]


23. <村落共同体と税:自由民と農奴について>

 歴史学者の網野善彦氏の『列島の歴史を語る』(ちくま文庫、20144月刊)と著名な作家である司馬遼太郎氏の『この国の形(一)』(文芸春秋社、1990年刊)から、日本人の仕事観に関わりのある村落共同体「惣」に関する話題を拾ってみたい。司馬氏は「惣」について、それとセットで存在していた「若衆宿」「若衆制」をからめて論じている、網野氏の説と比べてみたい。
 
日本の農山漁村の共同体の歴史は縄文期までさかのぼり、その習俗が明治期までは連綿と受け継がれてきた。1960年代後半の学生運動に、惣における若衆とオトナの緊張と依存関係をみてとることもできるだろう。
 
村落共同体(惣)は自治組織であり、そこを支配する領主が定まっても、問題の多くを自分たちで決定し処理できた。四季の移り変わりの美しさが日本人の情緒を育み、豊かな文学を育てたように、村落共同体に受け継がれてきた自治の歴史的伝統は日本人の仕事観や商道徳をはぐくんだとは言えないだろうか?村落共同体の原初的形態を確認し、それと仕事に対する考え方の接点を探索するのが、この節の目的である。
 論点はいくつかあるが、大きく括ると、日本にはヨーロッパのような農奴が存在したか否かという問題、村落共同体と税金の関係、そして村落共同体と仕事観の関係である。 

[隷属民はいたが農奴はいなかった]
網野氏は、第一の論点について、農奴は存在しないが隷属民は存在していたと説明している。借財の未済による共同体構成員としての資格剥奪=誰かの隷属民への転落というのは中世の文献で確認できると書いてある。年貢を未進したことで債務奴隷になった記録が中世には残っている。網野氏は奴隷というより隷属民の語のほうが事実に即しているという。記録には残っていないが、『古事記』以前からあったという含みをもたせている。文字記録として残るものとしては中世までしかさかのぼれない。
(高橋勝彦の小説『風の陣』は天平21年(749年)の春から書き始めているが、このなかに政治的に失脚した一族の末裔が行政の手続きミスから隷属民になる話が出てくる。隷属民はこの時代からいたのだろう。小説の中だから、論拠にはならない)
 共同体の構成員には果たすべき義務があり、それを果たせなければ共同体の構成員たる資格を失うことは古くからのしきたりだったようだ。縄文時代も列島に住む人々は集落を作り集団生活をしていたことは、三内丸山遺跡など全国各地の遺跡から確認できる。三内丸山遺跡は縄文中期後半の最盛期には500人規模の大集落であったという推定もある。三内丸山遺跡の推定年代は紀元前37002000年頃、おおよそ1700年間続いたことになる。
 網野氏の解説によれば、日本の伝統的な文化や村落共同体の原型ができたのは室町時代で、そこから明治時代まで基本的には同じだという。村落共同体という言葉は村を含んでいるが、律令制が敷かれてから、正式な行政区分(国衙領:荘・郷・保・名)外のものを「村」と呼んだ。

 「それから「村」ですが、「荘」にせよ、「郷」にせよ、「名」にせよ、国家によって行政単位になっていますが、行政単位化されていない部分を「村」といいます。いまの村とは大分意味が違います。古代でもそうなんで、東北地方が律令国家の支配下に入り、一応国と郡ができますと、「村」ではなくなるわけです。行政単位に入らない部分が「村」で…」『列島の歴史を語る』192

 
 「村」は律令制が敷かれる前からあった呼び名ということか。唐を真似て律令制度を導入したので、正式な行政区分に組み入れられて律令制度上の名前が冠せられたように読めるから、村の存在は古墳時代よりももっとさかのぼり、はるか縄文時代の集落から村の基本構造や基本システムが存在・受け継がれてきたと仮定したい。その基本システムのルール一つが、村落共同体の成員としての義務である。それを果たせない者は村落共同体の成員から外され、従属的な地位に転落する。そういう暗黙のルールがあり、それに基づいて村の維持が世代をついで数千年間なされてきたのではないだろうか。
 奴隷も農奴もいなかったが、村落共同体の成員たる義務を果たしえず自由民から転落した隷属民はあったことから、村落共同体の成員は誰にも従属していないという意味で自由民であるというのが、一つ目の論点の結論である。

 [贄(にえ)が税(調)の起源]
 二つ目の論点は税をめぐる支配者と村落共同体の関係であり、そこに自発性を認めるのが網野説のユニークなところである。網野氏は庸と調の負担に関して、自発性がなければ奈良や京都まで全国の産物を生産者自身が運んだ理由を説明しえないと書いている。
 
網野氏は言及していないが、わたしは次のように考えた。縄文時代から八百万の神々へ感謝のために、共同体の成員が獲った一番よい魚、米、塩などを捧げる習慣があった。大和朝廷ができてからは、天孫降臨神話を語ることで、天皇は神々の直系子孫だから八百万の神々への捧げものがすんなりと天皇への捧げものにとって代わった。
 
租庸調のうち、調は地方の特産物であり、それはもともと神への捧げ物であったから、租税(租庸調)負担は村落共同体の成員の当然の義務として捉えられた。神々への捧げ物(=贄)が「調」となり、その「調」を媒介にして租税負担(租庸調)は神への捧げものという感覚が伴う。

 [贄と仕事観]
 
三つ目の論点は、「贄」が神への捧げ物であることから、「贄」に関する仕事が神聖視されたことにある。農産物や水産物、そして手で作るものの中で一番よいものを神への贄(にえ)とした。その贄の習慣が「調」の始原である。贄は律令制度導入以前から習慣としてあるから、各地方の特産物で一番よいものを天照大神の末裔である天皇に献上するというのはよくわかる。
 
贄や調は神々への感謝とつながっているから、農耕や漁獲で獲れたものなら最良のものを献上し、人が作ったものならやはり最良のものを捧げるのである。だから、仕事にごまかしがあってはならないという意識が働き、日本人の仕事観が育まれ、受け継がれてきた

 [共同体成員の義務を果たす限り、成員としての自由が保障された]
 
網野氏のいう自由民とは共同体の成員だという点にあった。共同体の成員である限りは誰かの従属民ではないから、村落共同体内で成員がもつ自由がある。
 
税である租庸調は村落共同体と行政との接点で出てくるが、それは納める側の自発性を前提にしないと遠くから命がけで運んでくる理由が見つからないという。食糧ばかりではない旅の費用はすべて自弁である。帰りの食料がなくて餓死する者も少なくない。そこまでしてなぜ調をはるか遠方から都まで輸送するのかという疑問に対する答えは、自発性以外には見つからないというのが網野氏の結論である。
 
村落共同体はもともと共同体の成員が獲った・栽培した・作った最善の品を神へ捧げていた。それが大和朝廷が成立してから、神の直系子孫である天皇への捧げものに代わっただけ、村落共同体の成員は税(調)は自発的に納めるもの(神への捧げもの)と考えていたのだろう。 

[農民ではなく「百姓」]
 
四つ目の論点は、村落共同体の主体が農民であったというのは間違いで、さまざまな職業の者たちがいたということ。海岸の近くなら半農半漁が主体だっただろうし、漁業に専念する村落もあっただろう。縄文時代から各地の集落の間でさかんに物々交換がなされていた。だから、網野氏は村落共同体を農民の村と考えるのは実態にそぐわないと書いている。農山漁村の混合型が殆どと考えたほうが事実に近いから、さまざまな職業を意味する「百姓」という用語が正しいと指摘している。ついでにいうと、「農村」というのも不適切で、「農山漁村」というべきだろう。 

[村の自発性と支配者との緊張関係]
 
五つ目の論点は、支配者と村落共同体の間に、税負担を挟んで支配者側に緊張が生じていたということ。中世では公的負担のことを「公平(くひょう)」とか「限りある公平」呼んでいた。
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「公平」とは年貢のことです。「公平」にはそういう意味がある。「限りあるもの」以上を取り立てた場合、百姓は反撃すると見て取ることができます。負担がある限度を超えたときは、支配者の側が反撃を受けるのは、百姓の負担が自発的であるがために支配者を縛っているのではないか。だから、古代の支配者もそれなりに悩まざるをえないという状況になる。183ページ
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 本来、自発性に基づく神への捧げ物という性格をもつ税負担を過酷に取り立てると百姓は武器をもって反抗しかねないし、それは理のあることでもあった。大国主命と天照の国譲り神話や聖徳太子の17か条の憲法にあるように、話し合うことや理を尊んできた国柄である。無理な主張は支配者といえども通せないのが大和の国。
 律令制度が敷かれても、村落共同体と国家の間には「暗黙の約束事=公平な課税」があったと網野氏は言いたいのである。ヨーロッパや中国の領主が農奴に対するのとは、その辺りが決定的に異なっている。

[惣と若衆制]…司馬遼太郎の意見
 「惣」について司馬遼太郎が『この国の形(一) 』文芸春秋社 1990年刊「15 若衆と械闘」「23 若衆制」で触れている。若衆制については「呼ばひ」についての記述が『古事記』には「用婆比」、万葉集にも「夜延(よばひ)」とあることから、惣と共に大和の国の成立以前から農山漁村の習俗としてあったようだ。この「惣」が公の意識の原型ではないか。


 若衆たちはムラの祭礼を執行する一方、自分の集落(ムラ)の娘たちについては自分たちで支配しているとおもっていた。一種の神聖意識というべき感覚で、他村の若衆がムラに忍んでくるのをゆるさなかった。 かれらは、夜中、気に入ったムラの娘の家の雨戸をあけ、ひそかに通じる。ひとりの娘に複数の若衆が通ってくる場合がしばしばあったが、もし彼女が妊娠した場合、娘の側に、父親は誰だと指名する権利があった。 娘に名ざされれば、たとえ出来心ではあっても若衆は決して逃げることをせず、これと結婚した。生まれた子がときに他の若衆の顔に似ていることもあったが、問題が起こることはなかった。 その集落でうまれた子は共同体の子だという気分があって、そういう気分も、たぶんに血縁集団である集落結束の要素になっていたようである。 この制は明治後大いにすたれた。明治国家は若衆制を鄙族野蛮の習俗と見、明治38年(1905年)文部省・内務省が主導して、“青年団”として仕立てかえはじめ、大正14年(1925年)におよんで大日本青年団が発足して、この習俗をほろぼしてしまった。 大日本青年団に、一つの功がある。かれらが否定したはずのこの古俗について『若者制度の研究』(昭和11年刊)という質の高い研究所を刊行したことである。(この本は古い図書館なら所蔵しているはずである)。同書195 
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  ついでに書くと、司馬は「農奴」という語をこの本の中で何度か使っている。
 「農奴」は「18 豊臣期の一情景」で、場所は近江の長浜で、上坂(こうざか)郷の地侍の話のところで出てくる。

「地侍は、地面に這う虫だった。そのくせ守護が陣触れするときは在郷の将校として出てゆく。自分の農奴のうちの気の聞いた者数人にハラマキを着せ、なぎなたなどを持たせ、代え馬の一頭曳いて容疑をととのえるのである。ただし御家人階級からみれば、単に百姓でしかない。」(同書157頁)
「さて、室町・戦国期における近江の上坂郷の地侍上坂氏のことである。地侍の基盤は、隷属する農民にある。かれらが旦那(地侍)の田畑をつくっている。旦那にもいろいろあって、派手なのは室町将軍に献金し、“百姓”の分際ながら感触をもらったりするのである。負担は農奴にかぶさる。」(同書159頁)

 司馬氏は地侍に隷属している農民を「農奴」と書いている。司馬氏が書いているのは、網野氏のいう、共同体の構成員の資格を失った「隷属民」ではない。惣という共同体の構成員であり、百姓である。

 [まとめ]
 結論:村落共同体は縄文時代から戸単位の集落として継続して存在しており、律令制度が整えられるにしたがって国衙領に組み入れられていった。それは名称変更しただけで、もともとのシステムが維持されたのである。村落共同体の成員は自分の義務を果たす限りにおいて、成員としての自由を獲得するというものである。
 
若衆制が『古事記』以前から存在しているから、それとセットで村落共同体の原型である「惣」もあったのだろう。神への捧げ物をつくるのは共同体の成員の義務の一つであった。村落共同体は国の制度に組み込まれていき、神への捧げ物が天孫降臨神話を受け容れることで税負担に代わった。だから納税には自発的な義務という感覚が中世には残っていたし、この国の国民であれば、憲法に三大義務として納税の義務が定められてなくても、納税は当然の義務であるという意識がいまでもあるのではないか。
 
日本人にとって仕事が神聖なものであり歓びであるというのは、最良の作物・漁獲物・手で作ったものを贄として神に捧げる習俗にその淵源がある。八百万の神々への捧げものが、天孫降臨神話を媒介にして、天皇への捧げものとなった。「租庸調」の「調」はそういう習俗にぴったりの制度だったのである。 

 
*#2935 『資本論』と経済学(1):「目次」 Jan. 25, 2015 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-01-25

 #2948 『資本論』と経済学(12) : 「学としての『資本論』体系解説」 Jan. 29, 2015 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-01-30



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