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#2876 プリント学習の弊害(ブログ「情熱空間」より転載」) Nov. 22, 2014 [63. チャレンジ(教育)]

 ブログ「情熱空間」がプリント学習についてわかりやすい解説をしてくれています。学校も塾もそれぞれに異なる理由があって便利がいいからプリントを多用しています。生徒がもっているプリントファイルは一つが二つ(二教科)になり、だんだん分厚くなります。
 先生は良かれと思ってプリントを一生懸命につくり、生徒へ手渡す。しかし、便利なツールを多用したり何年も使い続けると「副作用」や「後遺症」が出てきます。
 そういうつもりはなくても、小学校から高校卒業までの12年間もプリントを多用する授業を続けられたら、それに慣れ、習慣となり、性格形成にまで毎日毎日少しずつ影響が及ぶ。そうしたシステムが「指示待ち型人材」を量産していることに気がつこう。メカニズムがわかっていたら防ぐ手段も見つかる。メカニズムを「問題発見解決型人材」育成に適するように変えればいいのである。
 小学校の先生たち、中学校の先生たち、高校の先生たち、私塾のプロとそれぞれが部分最適で一生懸命にやった結果が「指示待ち人間」の量産では悲しいではないか。
 広い視野をもとう、いまやっているシステム全体を通り抜けたときに、子どもたちがどのような社会人に育つのか、想像力をもとう。

 ニムオロ塾では開塾以来、どういう社会人を育てるかということを考慮しながらやってきた。点数は上げなきゃならないが、そこで終わりではない。それはたんなる結果に過ぎず、目標は自立して勉強できる人間を育成すること、問題提起・問題解決型人材を小中高を通して育成すること。
 根室で育って高校を卒業してから東京で学び、東京で複数の会社の上場に関与し、企業人として人材観察をし続けた。
 小学校は中学校へ送り出し、中学校は高校へ送り出し、高校は生徒を就職させたり進学させて終わりだと思っている。じつはゴールはそこにはない。生徒たちはその後も社会人として生き続けるから、社会人として強く生きていける人材に鍛え上げるという観点から、小学校の教育も、中学校の教育も、高校の教育も、塾の教育も見直しがなされるべきなのだろう。

 ブログ「情熱空間」の論考をどうぞお読みください。

http://blog.livedoor.jp/jounetsu_kuukan/archives/7649965.html
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2014年11月21日

プリント学習の弊害

私が塾の仕事に携わるようになった頃、かれこれ25年近く前になりますけれど、その頃の学校の授業といえば当然ながら板書主体であって、これまた当然ながら、児童・生徒はノートにそれを書き留めていたものでした。学校の授業の原風景とは、当然ながらそうしたものと思うのですが…。

さて、四半世紀が経過した現在。どうしたことでしょう、学校ではもはや、ノートを用いた授業ではなくプリント学習が主体になってしまっています。ワークシートなどというと聞こえは良いものの、その正体は単なるプリント学習だったりします。この点、理解に苦しむのです。

ちなみに、塾や予備校の場合だと、やはりテキストとプリントが主流になります。理由はただ一つ、効率追求のためです。それ以上でもそれ以下でもありません。元々私は社会科の専任講師などをやってきましたが、学校の授業の半分のコマ数でも確保されているのであれば、塾の授業も板書ベースで行うべきだと思っています。

でも、それは夢のまた夢。現実には学校の授業の5分の1~4分の1程度のコマ数しか与えられていないので、板書ベースでは到底消化できません。だからテキストやプリントベースにならざるを得ない。また、塾や予備校の授業では演習こそが生命線です。なのでやはりテキストやプリントベースになるわけです。

では、なぜプリント授業がいけないのか、その理由です。第一に、「自分でまとめる」という作業ができなくなるからです。ノート作りの重要性は誰しもが言うわけですが、思い切りその足を引っ張っているからです。第二に、「書く作業」をさせない。積極的に書かせないように仕向けてしまっているということです。そして、そこから波及するところの《副作用》《後遺症》たるや、実に甚大なものがあるのです。

プリント学習による《副作用》と《後遺症》。書くスピードがやたらに遅い。書かせると、「疲れた」「手が痛い」などと不機嫌になる。書いて覚えるという作業がまるでできない。ノートにまとめることができない。子ども時代に限らず、その後にも《副作用》と《後遺症》は続くことになります。メモを取らない、取れない。日報や報告書をまともに書けない。結果、指示待ち人間へと直結する。どうでしょうか、思いあたる節はないでしょうか?

自身が塾や予備校に通った経験がある若い教師。教育大学へ通っても、そもそもの授業のやり方など何も教えてもらえないわけだから、彼らにしてみたなら「お手本となる授業」とは過去に自分が受けた授業のことであって、そこに塾や予備校の授業が含まれるわけだから、以上のような《副作用》《後遺症》を何も考えずにプリント学習に走ってしまう。そうした側面は否定できないであろうと感じています。

子どものランドセル・かばんをご覧になって下さい。底に、くしゃくしゃになったプリントが積み重なってはいないでしょうか?部屋に机に、そうしたプリントが散乱してはいないでしょうか?ノートにプリントを貼るように指示され、それを貼ってやたらに分厚く膨れ上がったノートがありはしませんでしょうか?でもそのこと自体、考えてみればおかしいとはお思いにはなりませんでしょうか?

実は、こうしたケースがとても多いことをご存知でしょうか?塾へ通い、念願の高校合格を果たすも、入学していざ勉強を始めようと思うも、何からどう手をつけていいのかがまるで分からない…。それはまさに、学校と塾のコラボによるプリント学習の弊害、《副作用》《後遺症》そのものです。なぜなら、口に虫をくわえて巣に戻ってくるのを待つ、ひな鳥の姿であるわけですから…。

別の見方から、こうしたことも言えるでしょう。手と脳は直結していると言われます。書かせない、書いて練習させる作業を積極的に阻害してしまっている。書いて覚えることが実感として理解できない。その動かさない手が脳に直結しているわけだから、必然的に学力も衰えてしまう。

だからプリント学習はダメなんです。授業はあくまで板書で進めることが基本であって、プリントとはその補完のための材料であるべきなんです。ところがしかし、今では何から何までがプリント学習で、それなのに現場からはそれを疑問視する声すら上がってこない。おかしい、実におかしいと思います。学力が高い地域は、実はノート指導が充実しているものです。ここから先は、その部分の検証も進めていただきたいと思いますね。

《追記》
ebisuさんのこの記事を拝読し、プリント学習の《副作用》と《後遺症》について綴ってみました。

●根室の中学生の学力の現状(6):B中対C中学校1年
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2014-11-20

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<コメント欄からアップ>・・・ZAPPERさんより投稿アリ
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ご紹介ありがとうございます。

なぜ学校の授業なのに、塾や予備校みたいにプリントに頼るのか。そこには《裏の欲求》が存在します。ズバリ、進度を稼げるから!板書で授業を進めたなら、規定の時数で教科書を終えられない。そういうことですね。

例えば社会科の戦後史(歴史)。教科書を用いて板書で正当に授業を行なったなら10コマ弱を食うことになりますが、プリントならば3〜4コマで要点だけに触れて終えられるわけですね。

黒板に書いたなら、そりゃ手も疲れるし、子どもらの書くスピードが遅い(書かせていないから遅いという悪循環)のでなおのこと時間的ロスが生じます。なのでプリントは重宝する。綴らせておいたりノートに貼らせたりすれば、保護者の受けもいい。何といっても「やった」というアリバイ作りになる!

書かせたなら、「手が痛い!」などと不機嫌になってはため息をつく子が多いし、プリントならばそうしたことはない。要点の整理だけに始終すれば、進度は大きく稼げるし、どうせプリントの内容など保護者は誰も見ちゃいない!

そこがホンネでしょう。プリントとは、その教科の本当のプロが作ってこそ、現場での学習指導を隅から隅まで知り尽くした者が作るから、それをピンポイントで用いるから、だから効果があるものです。まことに失礼ながら、こういうことです。

まずは板書オンリーで授業が授業が一人前にできること。それができない素人の作るプリントは意味を成しません。別の表現をすればこうでしょうか?値段をつけて販売できないものを多用している。そんなものを作る暇があったなら、ひたすらに教科書内容の勉強からですよ。

もっと言いましょう。上記に加え、教材をきちんと使用できること。教科書も教材も使い倒すことができること。それができるようになって、そのレベルに至って始めてプリント作りが許されるということでしょう。
by ZAPPER (2014-11-22 21:21) 

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コメント 2

ZAPPER

ご紹介ありがとうございます。

なぜ学校の授業なのに、塾や予備校みたいにプリントに頼るのか。そこには《裏の欲求》が存在します。ズバリ、進度を稼げるから!板書で授業を進めたなら、規定の時数で教科書を終えられない。そういうことですね。

例えば社会科の戦後史(歴史)。教科書を用いて板書で正当に授業を行なったなら10コマ弱を食うことになりますが、プリントならば3〜4コマで要点だけに触れて終えられるわけですね。

黒板に書いたなら、そりゃ手も疲れるし、子どもらの書くスピードが遅い(書かせていないから遅いという悪循環)のでなおのこと時間的ロスが生じます。なのでプリントは重宝する。綴らせておいたりノートに貼らせたりすれば、保護者の受けもいい。何といっても「やった」というアリバイ作りになる!

書かせたなら、「手が痛い!」などと不機嫌になってはため息をつく子が多いし、プリントならばそうしたことはない。要点の整理だけに始終すれば、進度は大きく稼げるし、どうせプリントの内容など保護者は誰も見ちゃいない!

そこがホンネでしょう。プリントとは、その教科の本当のプロが作ってこそ、現場での学習指導を隅から隅まで知り尽くした者が作るから、それをピンポイントで用いるから、だから効果があるものです。まことに失礼ながら、こういうことです。

まずは板書オンリーで授業が授業が一人前にできること。それができない素人の作るプリントは意味を成しません。別の表現をすればこうでしょうか?値段をつけて販売できないものを多用している。そんなものを作る暇があったなら、ひたすらに教科書内容の勉強からですよ。

もっと言いましょう。上記に加え、教材をきちんと使用できること。教科書も教材も使い倒すことができること。それができるようになって、そのレベルに至って始めてプリント作りが許されるということでしょう。
by ZAPPER (2014-11-22 21:21) 

ebisu

ZAPPERさん

投稿ありがとうございます。
解説が具体的なので、本欄へアップ(追記)します。
by ebisu (2014-11-22 22:36) 

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