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#2815 一日を48時間にする魔法:国語B問題の改善されぬ正答率を考える Sep. 21, 2014 [47. 語彙力と「読み・書き・そろばん」]

 晴天、根室は今日さんま祭り、ロードバイクに乗って本局で封書を出すついでに11時半頃会場へ回ってみた。会場は人でごった返していた。北方領土の署名をやっているところでバイクを置いて、署名をお願いしている女子高生の笑顔がよかったので、早速署名した。
 サンマを焼く煙がたなびいて、会場に設営された舞台がかすんでいる。好例のサンマつかみ取りがたのしそうだ。秋刀魚のたっぷり入った70cm四方くらいの開口部の水槽へ両手を入れてわっとざるを構えているおっさんの方へ放る。上手に入れられない人には追加で10尾ほども入れてあげていた。「遠軽だって!」と氷の量を調整していた。
  サンマを焼く場所はドラム缶を半分に切ったものに炭を入れて三列、長さにして100mほどもあるのではないだろうか、晴天に恵まれた会場はサンマを焼く煙でモウモウ、楽しそうな顔でビールを飲みながらサンマをつついている40前後の大人たち、人間のサンマ風味の燻製が出来上がりそうだ、好天気に恵まれ、みんな笑顔でにぎやか。(笑)
 あとで、携帯でとってきた写真をアップします。

<問題提起>
 さて、本題に移ろう。
 全国学力テストにはA問題とB問題がある。A問題は基本問題で基礎的技能を測定し、B問題は学校で習っていなくても自分の頭で考えることができるかどうかを測定するもの。
 国際的な「学力テスト」にOECDがやっているPISAというテストがある。これは高1が対象だ。
「PISA調査では15歳児を対象に読解力、数学的リテラシー、科学的リテラシーの三分野について、3年ごとに本調査を実施しています」
 PISAでは日本の高1は平均点はそこそこなのだが、考える問題に無回答が多い。
 そうじて日本の生徒たちは自分で課題を見つけ、自分で考えるということが苦手だという傾向があるということになっている。
 OECD諸国では哲学が正規科目として設定されていない日本のような国はあまりないのではないか。哲学は思索そのものであり、中学校でも高校でもそれが教科として存在しないこととの関連を主張する「有識者」がいないのはどういうことだろう。諸学の根源をなす哲学が科目として教えられてなければ、「自分で課題を見つけ、自分の頭で考える」トレーニングが系統だってなされていないことになり、PISAではそれがハンディになっているはずだ。この問題はあとでとりあげる。

 PISAと共通の問題がありそうだが、全国学力テストの結果から悲しい現実が見えてくる。毎年学力テストが行われているが、B問題の点数が上がらぬという現実がそれである。いろいろやっているのだろうが、B問題の正答率が上がらない、むしろ下がっているという事実を見ると努力の方向が見当違いかもしれないという疑問が湧いて当然だろう。

<全国学力テスト問題別正答率データ>
 そこでまずデータをみてもらいたい。今年度の学力テストの数値データ公表は11月頃になるらしいから、昨年H25年度のデータを北海道教育委員会のホームページから引っ張ってEXCELで整理してみた。
H25年*http://www.curricen2.hokkaido-c.ed.jp/houkoku/H251105/26absoukan.pdf
H24年*http://www.curricen.hokkaido-c.ed.jp/dokyoi/houkoku/H241126/17soukan_h2411.pdf


平成25年全国学力テストデータ全道1053校
 秋田県全国全道全道-全国相関係数
小6国語A71.762.760.4-2.30.723
小6国語B59.149.446.4-3.0 
合計130.8112.1106.8-5.3 
      
小6算数A82.877.274.9-8.30.773
小6算数B67.174.954.0-13.6 
合計149.9152.1128.9-21.9 
全道623校
 秋田県全国全道全道-全国相関係数
中3国語A81.976.476.0-0.40.859
中3国語B74.667.466.2-1.2 
合計156.5143.8142.2-1.6 
   
中3数学A68.963.762.3-1.4相関係数
中3数学B47.541.539.1-2.40.914
合計116.4105.2101.4-3.8 



<データからの推論>
 小6と中3の問題ABの相関係数(r)にずいぶん開きがある。小6では国語は0.723、算数が0.773なのに対して、中3では国語0.859、数学0.914と相関がより強い。
 これらのデータから小学生はAの基本問題ができなくてもBの記述式問題や文章題ができる生徒が多少いるが、中3になるとそういう余地がほとんどなくなるという推測が成立つ。大胆に言うと、中学3年生になったら、「読み・書き・そろばん(計算)」の基礎技能に問題のある生徒は国語も数学もB問題に手も足もでなくなるということ。高校生になったら基礎技能に問題のある生徒は90%以上の確率でもう這い上がれないだろうということ。
 データから推測できることは、学力の低い生徒は数学の文章題は問題文すら読まない傾向が大きくなる。読んでもわかりっこないから中3で低学力の生徒にはついにあきらめて問題文すらまったく読まなくなってしまう。この推測は12年間に渡り塾で生徒たちを見てきた観測事実と一致する。

<データに基く推論と観測事実との対比>
 わずか2行の問題文を読むのに1分以上かかり、わずか2行の文なのにその中に読めない単語があったりする。
(「・・・表す」の意味がわからなくて、「先生、ヒョウスってなんですか」と質問したのは中学何年生だったか。「あらわす」って読むんだと伝えたら、「なーんだ」とうれしそうな照れくさそうな顔をしたっけ)
 速度が遅い、そしてつっかえつっかえ読むから、文の前段が後段を読んでいるときには頭の中から消えてしまっている。読み込む速度が遅いとこういうことすら起きてしまう。前段を無視したら、式が立てられるはずがない。
 読み込む速度の大きい生徒は、問題文を一気に頭の中に展開して、図や表をイメージし始める。ところどころメモって確認してすぐに式を導くことができる。慣れてきたら頭の中で立式まで処理できる。

<低学力化メカニズム> 
 ところが問題文を読み込む速度が小さかったり日本語の読解力が貧弱な生徒は、読むところでつかえて、そこから先に進めないから、図や表をイメージするトレーニングを積めない
 こういうメカニズムで数学の文章題(問題B)にも文章読解力の低さが影響していると推測できる。
 数学B問題の正答率は39.1%。恐るべし。文章読解力の差、そして文章を具体的な図や表にイメージ化できる能力、それらの差がB問題に正答率に大きく影響しているとわたしは考えている。

 数学B問題の正答率が低いのは文章読解力(読む速度+文全体の把握)に問題があるとすると、それを改善するためには国語力のアップが数学の学力アップにも効くことがわかる。

 小学校で少年団活動を熱心にやる生徒は勉強そっちのけ、本は読まない、ゲーム三昧の者がかなりの割合でいる。3年間そんな生活を続けたら、それはすっかり生活習慣化してしまい、中学校のブカツでますます「生活習慣病」を助長し、ついには性格にまでなってしまう。その結果、読む速度が極端に遅く、文章の読解力や語彙力が小学4年生以下の中学生ができあがる。こういう生徒はだいたい書くの(アウトプット)も遅い。
 本を読まない生徒たちは文章語の大半が理解できないから、授業で先生が話す日本語語彙がしばしば理解できず、話の文脈が理解できないとか、(仲間同士での会話は成立っても)文章語を織り交ぜた筋道たった話がまったくできない、そうしたことが起きている。
 低学力層に読み書きが極端に遅い生徒がこの7年間ほどで急速に増えており、根室ではいまや中学生の30~40%がそうした生徒だ。この数年間プリントを多用する先生が増えて、黒板を写さなくなっていることも影響しているようだ。プリント主体の授業は生徒から書く機会を奪うので非常にまずいと思う。10年前に比べると読み・書きの極端に遅い生徒が10~25ポイントほども上昇している、"劇的変化"と言ってよい。
 こうした生徒の増加に対応して(先生たちは三年間ぐらいで他の学校に転任するので、10年間継続して同じ学校で生徒の変化を観測している先生がいないので気がついていないようだが)授業レベルや定期テストでの出題レベルが10年単位で見ると低下している。わかりやすい授業がいいものだという固定観念にとらわれると、際限なく授業レベルが下がっていくその結果定期テストの難易度も低下するのである。たしかに授業はわかりやすくなるが、それと同時に低学力化が進行する
 基本問題のトレーニングを徹底し、その上に難易度の高い問題をやることで本物の学力がつくのだから、難易度の高い問題を授業から排除してはいけない。
 市街化地域の3中学校の中には今年から数学の文章題を表を利用して解くことに力を入れ始めたところはある。全ての中学校で距離・時間・速さの問題や食塩・食塩水・濃度の問題も授業でしっかりやってもらいたい。表を上手に使えばこの二つの問題は同型であることが諒解できるから、教えることはそんなに難しくない。片方が理解できればもう一方も理解できる、まったくの同型なのである、要はそこに気がついて教えるか否かだ。
 中学生は高校生になるので、すでに根室高校普通科の定期テストやふだんの授業にまで小中学生の低学力化が影響している。根室高校普通科の定期テストの問題の難易度がはっきり低下し始めている。このままで高校統合がなされたら、統合後の高校の授業のレベル低下は目を覆うことになる。高校生の学力のさらなる低下を防ぐために、中・高の両方に具体的な対策が必要になるだろう。

 いままで述べてきたことをまとめると、次のような低学力化のシェーマがありそうだ。
 わかりやすい授業がいいという固定観念⇒授業レベルの低下⇒テスト難易度の低下⇒生徒の学力低下

 低学力の生徒にわかりやすい授業をするために標準レベルよりも授業やテストの難易度を下げる。たしかに授業はわかりやすくなるがそれはレベルを下げたからで、生徒の学力が向上したからではない。逆に難易度の高い問題を避けることでが学力は確実に低下してしまう。
 これから懸念されるのは直近2年間の道立高校入試問題の難易度が極端に低くなったことが及ぼす影響である。ふだんの学力テスト問題も難易度が低い。北海道の子どもたちは高校へ進学してから進研模試を受けて、全国レベルの試験問題の難易度の高さを知る。1年次の進研模試の平均点は数英がともに30点台が根室高校普通科の現実だ。難易度の高い複合問題が半分出題されるから、ほとんどの生徒はそこが攻略できないことになる。
 中・高でテスト問題と点数の分布や平均点を10年間追ってみたらたしかなデータで低学力化が進行している裏付けがとれるだろう。このシェーマはいまはたんなる假説である、しかし、かなり有力な假説だ。たとえば、根室高校普通科の数学の授業速度が低下すると同時に定期テストの難易度がじわじわ下がり続けている。

 たいへんだろうけれども、過去10年間のデータをもちよって分析し、小中高の先生たちが事実がどうなっているのか確認し、有効な対策になにがあるのか議論すべきだ。根室の市街化地域の3中学校の学力低下という危機意識を共有すべきだ。一番古い小学校と一番新しい中学校のように、小中では具体的な連携の動きが出てきている。これに高校が加わればいい。

<クロス集計データから見えてきたこと>
 同時に行われたアンケート調査とのクロス集計結果を見ると、先生たちの授業のやり方、意識のおき方で数学や算数は正答率に目だった差が出るが、国語は授業のやり方による格差は算数・数学に比べて小さい。たとえば、ふだんの授業で「作中人物の心情について説明しているか」というような具体的な質問が並んでいるがしていてもしなくても結果に大きな差がない。
 国語は授業以外にも本を読むことや、日常的な会話のレベルなどにも影響されるので授業による格差が小さいと推測できる。しかし、国語B問題の正解率が上がらない理由に構造的な問題が隠れており、基礎的技能の読みと書きのスピードに問題があるからB問題にチャレンジできないという假説が成立つ
*http://www.nier.go.jp/13chousakekkahoukoku/data/research-report/crosstab_report.pdf

<直線論理のメリットデメリット:日本の国語教育の欠陥>
 わたしは出口汪『日本語トレーニング』6冊を複数の小学生数名に3年間使ったことがある。論理エンジンでもつとに著名な著者の問題集はなかなかよくできており、受験勉強には有効な武器である。
 わたしは3年間このシリーズを使ってみて、いまは使っていない。理由がある。この先生の本に限らないが、解説が一本道なのである。
 論理思考が一本道というのは危険がある。ものごとをとらえるときに視点を変えるとまったく別の解釈の成り立つことがよくある。日本の国語教育にはそれが抜けている。川にたとえると、釧路湿原を流れる川は自然のままなら蛇行しているのが当たり前だ。出口汪の問題集の解説と解答は点と点を結んで定規で直線を引いているような感じがするのである。わたしはたまに別の考え方のあることを生徒に示すことにしている。
 社会科も棄て去られた古い通説が教科書に載っていることがある。鉄砲の伝来もその一例だろう。中国人の倭寇の王直が自分の船にポルトガル人と鉄砲を載せて運んできた。鉄砲の使用法を伝えるためにポルトガル人が必要だったのだろう。下世話な話に噛み砕いて書いてみると、中国貿易商の王さんが船に載せて鉄砲を運んできたのだから、鉄砲の伝来をしたのは中国人の貿易商だったというのが普通の感覚だろう。50年も前に出版された『日本の精神的風土』(飯塚浩二著・岩波新書・1952年刊)にもそうした事実が詳細に書かれてあった。日本通史を書いている『逆説の日本史』の著者も『逆説の日本史9戦国野望論 鉄砲の伝来と倭寇の謎』でその辺りの事情を詳述している。しかし、そうしたことを授業で話す中学社会科の教師はほとんどいない。
 教科書に書いてある通りに教えているようでは、成績上位の生徒は授業が楽しくない。広く流布している通説が間違いであることや、教科書に載っていることのほかにも異説のあることを、根拠(誰が、どの本の何ページでどういうことを書いているのか)を明示してもっと授業で展開していいのではないだろうか?そういう中で、相対的なものの見方や一つの現象に関していくつもの解釈が成り立つことを学び、思考の多様性を獲得できるのではないだろうか?
 どの教科も正解が一つで、単線的な論理が使われているように見えてしかたがない。

 さらに別な例を追加しておきたい。入試問題にまだ存命の作家の作品の一部を抜き出して「著者はどう考えているのか」というような設問がなされる。著者はそういう設問を見て、ぜんぜん違うとテレビで言っているのを何度か見た。
 作品に登場する人物がそれぞれどのように考えているのかという設問もしばしばなされる。ところが国語の先生の解説は一本道で、解答は一つだけ。こんなことを中学校3年間、高校3年間繰り返したら、多様な思考のできない人間が育ってしまうのは当たり前ではないのか?

 視点をずらしてものごとをみるとか、文章を読むというトレーニングは実はたいへん重要なのではないだろうか?自分の頭で考えるということは、他人とは違う視点で、自分独自の視点でものごとを見るということでもある。「読み」には大勢の人で共通部分もあるがそうでない部分もある、そうした多様性を意識した読みのトレーニングをふだんの国語の授業でやるべきではないのか?

 国語問題の出題者の意図は案外単純で、視点を固定して特定の見方を正解とするのが普通だ。正解が二つとか三つあるような出題はしない。二つも三つもある場合は、意図せずそうなってしまっただけのことで、例外だろう。
 出口汪氏のつくられた問題集のようなすぐれたものを利用してトレーニングすれば、学力テストの点数や受験勉強でいい成績を獲ることはできるだろう。しかし、自分で課題を見つけ出し、自分の頭で考えるような人間はこのようなトレーニングでは遂に育たないのではないだろうか?

<日本の国語教育の欠陥の具体例:個人的な経験から>
 わたしは高校1年生のときに現代国語が大嫌いだった。定年3年前の老先生の感性で滔々と解説されてもまったく共感できなかった。作家が若いときに書いたものを定年間近の国語教師が自分の感性で解説し、老先生の意見をそのまま答案に書かないと正解とならないのだが、解釈問題は自分の考えを答案に書いた。高校一年間は現代国語のみ3が続いた。反抗的だと勘違いしたのかも知れぬ、自分の気持ちに素直だっただけなのだが、老先生の印象をたいそう悪くしたようだ。ばつをつけられることは百も承知で、ペナルティは覚悟の上で自分の感じたことを書き続けた。可愛げがない生徒で腹立たしかったに違いない。2年次にクラス替えで放り出されたが、受け入れてくれた新しい担任が「何をしたんだ、ほんとうはお前は元のクラスだったんだが・・・」と笑いながら話してくれた。それぞれ得意とするジャンルは違うが、元のクラスから「規格外」で放り出された異質なタイプの生徒が何人かいた面白いクラスだった。不思議なことにまとまりはよかった、好きなことを遠慮なく言い合う活発なクラスだった。だから放り出してくれた国語の老先生に感謝している。きっと相性が悪かっただけ、一人ぐらいそういう先生のいた方が成長の糧にはなる。正面からぶつかることでお互いを理解できるものだ。
 先生たちの名誉のために書いておくが、学識のしっかりした先生、教えることに情熱を感じる先生が三人に一人はいた。2年生になってS先生に現代国語の担当が代わって軋轢がなくなった。30代で空手をやっている先生で馬が合った。

<異なる学説を高校生の時代に学ぶことの重要性>
 複数の視点あるいは対立する視点から思索した経験を高校生や大学生のために書いておく。
 高校2年生のときに公認会計士の受験勉強を始めたが、すこし学習が進むと会計学と簿記論の分野で東大の黒澤清先生と一ツ橋の沼田嘉穂先生という学説の対立する学者がいることを知った。両方の先生の本を選んで比較しながら読むようになった。対立する学説を読むことで、簿記論と会計学の全体がよく見えてくる。経済学へ興味が移り、公認会計士受験に興味が急速に失われていったが、大学生になってから沼田先生が企業会計原則批判をまとめて一冊の本を書かれたので夢中で読んだ。
 同時にやったのはこれも公認会計士二次試験科目である経済学だった。ケインズの学説の解説書を読んだあとで、マルクスが気になり、根室高校図書室にあった『資本論』を読んでみた。ケインズの解説書は高校生でも理解できるものだったが、マルクス『資本論』は百ページほど読み終わって、どこか深い森に迷い込んだ気がしたものだ。学説が違うと同じ経済現象の理論化にこれほど大きな隔たりが生じてしまうのだという現実にぶつかったのである。読解力を上げるとか思索を深めるというのは良質のテクスト無しには成し遂げられないだろう。ついでにヘーゲル論理学もハードカバーのものを手にとって眺めた気がする。マルクス『資本論』との関係がさっぱり見えてこなかったことだけはたしかだ。あのときはヘーゲルの著作を読んでもわけがわからなかった。公認会計士2次試験参考書を梃子にして、それを超えて次々と学問への興味が炸裂していった、あの時期はなんだったのだろう、不思議な3年間だった。高校を卒業した翌年に、許萬元著『ヘーゲルにおける現実性と概念的把握の論理』が出たので買って繰り返し読んでみたら、うっすらヘーゲル論理哲学の概要が見えてきたような気がしたが砂漠の蜃気楼のようなものだったかも知れぬ(笑)。『資本論』を読むのにヘーゲル哲学は要らない気がして、ゼミの市倉宏祐先生が訳したイポリットのヘーゲル研究書『ヘーゲル精神現象学の生成と構造』上下2巻が大学4年のときに出版されたのだが、書棚を飾っただけで通して読まなかった。もったいないことをした気がする、しかし、これを精読していたら大学院は迷わず哲学研究科を選んだのだろう。わたしは経済学を選んだ、それでいいのである。
 『資本論』の体系構成の謎を研究するために、比較しながら『経済学批判要綱』(通称グルントリッセ)を読むのに夢中でヘーゲルまで読んでいる暇がなかったのが実情。たいした能力ではなかった、学部の学生のときはあれで精一杯だったのだから。それでも、グルントリッセを読むことで、『資本論』体系が従来の学説とはまったく異なるものであることに確信がもてた。ユークリッド『原論』と同じ演繹的な構成の経済学的諸概念の構造物だったのである。ついに従来の学説が根こそぎひっくり返ってしまった。そして抽象的人間労働を体系の端緒に措定したマルクス経済学の根本的な誤りに気づくのに二十年ほどを要した。職人仕事を経済学体系の端緒に措定すれば21世紀にふさわしい新しい経済学体系が創れるのである。スミス、リカード、マルクスと労働価値説が受け継がれてきたが、それとはまったく異なる経済学がありうる。名人の仕事も半端職人の仕事も同じだというのがマルクスの抽象的人間労働。民間企業で働いたことがなかったから、そんな素朴なことすらわからなかったのかもしれない。頭の中だけで経済学を創ろうとするとこういうことになるのだろう。経済学的な諸概念は現実の事象とぶつけてみたら真贋が容易にわかるものだ。
 従来の学説とは異なる視点で物事を見る、そういうことが学問の進歩のために重要なのだろう。だから、単線的な論理トレーニングに偏った現状の学校教育を変えるべきで、複線的な論理あるいは視点の相違による正解の多様化の世界を拓いて見せるべきなのだ。

<思考過程の対比:直線思考と蛇行思考>
  欧米の論理は企業戦略や国家戦略にその特徴がよく現れている。手順はおおまかに次のようになっている。
 ①戦略目標を設定
 ②戦略検討
 ③最適な戦略選択
 ④戦略のブレイクダウン
 ⑤戦術策定
 ⑥実施
 米国は日本潰しを戦略目標においた。日本が日清戦争に勝利し、ついで世界最大の陸軍国である帝政ロシアに日露戦争で勝利してしまったからである。あろうことか国際連盟で人種平等法案まで提出した。日本をこのままにしておいては白人の世界支配が終わりかねない。米国の支配層は危機感を抱いた、そしてそれにとどまらなかった。危機感の源泉であるアジアで唯一の帝国である日本をつぶすことが国家戦略目標となったのである。日本人を奴隷にしろというような過激な意見まで大真面目に議論されたようだ。当時は白人社会は人種差別が当たり前、そういう雰囲気があったのだろう。
 日本つぶしは米国の単独ではなくいくつかの植民地宗主国が連携してなされた。国のイニシャルと並べてABCD包囲網と呼ばれている。
 ブロック経済で日本を経済封鎖、欧米の植民地から石油が輸入できないようにした。ついで米国に供給を依存していた石油を止められた。石油が入ってこなければ、日本は石油供給基地としてインドネシアを確保せざるを得なくなる、南方進出のために戦端を開かざるを得なくなる。そしてその通りになった。米国は日本海軍が真珠湾を攻めることを知っていて、真珠湾の太平洋艦隊を見殺しにし、「リメンバー、パールハーバー」と国民を煽った、国内宣伝操作の巧い国だ。日本の暗号は全て解読されていた、すべては用意周到に用意されたのである。日本には相手の意図を察知して事前に予防の手を打つということがなかった、欧米の戦略思考に簡単にしてやられたのである。こういう状況はいまも変らない。日本は国家戦略目標に海外に依存しない経済体制を築き上げることをおくべきなのだ。このままでは、似たようなことが形を変えて繰り返されかねない。最悪の事態を予測して、それを防止する手段と手順を考え抜き、着実に実行する、日本人には苦手な思考法である。言霊の国に日本は、悪いことを予測することができない。悪いことを言葉にして考えると、言霊の呪術の力が働いて、その悪い事態が現実に起きてしまうと考えるからだ。だから天皇は日本国と国民の幸せだけを祈っている、未来に悪いことが起きるとはという言葉はけっして口にしない。ありがたいことだ、日本とはそういう国なのである。

 欧米の戦略思考は直線的で強力なのである。しかし、戦略目標を達成したときに予想のできなかった状況が常に生まれる、人間の智慧など所詮は浅智慧で、全部を見通すことなどできはしないのである。ベトナムでもアフガンでもイラクでも似たような状況が生まれている。
 例えば、イラクではフセインを殺すという戦略目標は達成したが、その結果傀儡政権としてできたマリキ政権はスンニ派の軍人たちを追いやった。なんてことはない、スンニ派の軍人たちがシリアの過激派と結びついてシリアとイラクにまたがるISISという国家が誕生しようとしている。米国の意図に反して問題はフセインが統治していたころよりずっと悪化している。米国にとっても欧州にとっても悪夢だろう。問題はキリスト教国とイスラム教国の全面宗教戦争の様相を帯びてきた。
 結果から見ると、欧米流の戦略思考は戦略目標を達成すると同時にコントロール不能なより困難な事態を引き起こし続けたのである。戦略思考は根本的な欠陥を内包しているのではないかと疑わざるを得ない。欧米の戦略思考とは異質な思考法を対置してみるべきだ。

 わたしは、PISAで日本の15歳の高校1年生が「自分で課題を見つけ、考え抜く力が弱い」ことや全国学力テストで国語と算数・数学の応用問題であるB問題が弱いことをこの小論で縷々論じてきた。そして、基礎学力の根幹をなす「読み・書き・そろばん」の徹底トレーニングが学力向上の手段の一つであるらしいことがわかった気がしている。とくに、読む速度、書く速度、そして計算速度の差が学力において予想外の大差を生み出していることも数量的に示しえたのではないだろうか。
 もう一つ本質的な問題があることにも気づいた。思索のトレーニングそのものである哲学という科目がが日本の学校には存在しないことが、「自分で課題を見つけ、自分の頭で考え抜く」トレーニングから生徒たちを遠ざけているのではないかという本質的な問題に漂着したのである。
 この小論を思考の流れという点からみると、正式教科に哲学が必要とか、読み・書き・計算速度の徹底トレーニングをさせようという「目標」を設定して、そこへ誘導をしようとの意図で論を進めてきたわけではないことはおわかりだろう。根釧原野に流れる川のように蛇行しながら、問題の本質にニつ流れから迫りえたとしたら幸いである。

<学校教育へ望むこと>
 いろいろ書いてきて頭に浮かぶことは、学校に正式教科として中学校から哲学を導入してもらいたいということである。国語で扱われているテクストとは別の世界を体験できる。
 哲学は思索そのものだから、ものごとが学説ごとに違って見えるのが当然の世界だ。そういう大きな枠組みを経験すれば、単線的で固定した点と点を結ぶような「論理エンジン」の類は雲散霧消。PISAの成績もぐんと上がるだろう。
 なにより、中高生を固定した視点からの単線論理というひ弱な思考から解き放つことができる。

 中学校と高校の国語の先生たちに哲学書を読んでもらいたい、そうすることで授業内容が変る。文科省がどうあろうと、授業の内容を支えているのは現場の先生たちである。だから、ある範囲では日本の教育は先生たちが変えられる。
 国の教育政策が変り、哲学が正式教科に採用されるなんてことは一朝一夕になしうるものではない。しかし議論ぐらいはあってもよさそうだ。たとえば、いまそうしたくても哲学を教えられる専門教員はほとんどいない。教員の準備から始めなくてはならない、選択科目として導入しながら哲学を教えることのできる教員を増やしていかなければならない、そして必修化にもっていく、ずいぶん迂遠なことになる。50年はかかりそうだ。
 だから、現場の先生の役割=ふだんの授業の質の改善が大事なのである。

<一日を48時間にする魔法:
   ⇒基礎技能の徹底トレーニングがそれを可能にする>
 問題文を読み取る速度が大きく、読み取った情報を頭の中で操作する速度が大きく、書く速度が大きければ、問題を短時間で解ける。基本問題だけでなく難易度の高い問題にチャレンジする時間的な余裕が生まれる。時間は創るものなのだ。
 コンピュータでいうと、情報のスキャン(入力)速度が2倍、CPUの処理速度が2倍、アウトプット速度が2倍のシステムのようなもの。問題の処理が半分の時間でやれる新型コンピュータと旧型が競争したら勝負にならぬ。
 小学校低学年から、「読み・書き・そろばん(計算)」の反復トレーニングを毎日1時間ほど繰り返したら、基礎計算は考えなくても高速でできるようになってしまう。問題を多面的にチェック(つまり並行処理)しながら、計算を高速でできる。量(速度)の大きさは、ある点を越えると質の変化を伴う
 小学校で「読み・書き・そろばん」の反復トレーニングをみっちりやった生徒は、中学校でも高校でも成績が伸び続ける。数学も国語も英語も社会も理科系科目もだ

 高校生を見ていると、小学校や中学校で計算トレーニングが充分でなかった生徒は、問題集についている解答を見ても途中計算が書かれていないからそこが理解できなくて30分経っても1時間経っても解答の導き方が理解できない。基礎トレーニングをしっかり積んだ生徒は、そういうところで足踏みしないですっと自分でトレースできる。

 「読み・書き・そろばん」の速度の違いが一日の時間量の違いになってしまう。「読み・書き・そろばん」の基本動作が標準の2倍の生徒には一日は48時間となる。これでは高校での成績に圧倒的に差がついてしまう
 中1年生数名に入学したての4月に四則計算問題をやらせてみたら、一番速い生徒と一番遅い生徒で35:1の速度差があった。上位10%と下位10%の速度の平均値を算出したら、根室の市街化地域の3校では1:10を超える差があるだろう。速度の遅い生徒が3時間勉強しても、速度の大きな生徒の18分間と学習量が同じということだ。学力に大きな差がついて当たり前で、それほど計算速度の差は学習量の大きな差となってしまう。こんなに差があると、時間が経つほど学力差が大きくなり、永遠に追いつけない。それほど計算速度は学習量の観点から重要なのである。速度の大きい上位10%を基準にすると、速度の遅い下位10%に一日はたったの2.4時間しかないことになる。
 計算だけではない、「読み・書き」も同じことだ。計算速度ほどの差がないにしても、上位10%と下位10%では3:1以上の速度差があるだろう。
 速く正確に音読できる生徒は文章全体の理解も正確になる傾向がある量に差がつくだけではなくて、速度が大きければ学力という点からは質も飛躍的にアップしてしまう。工場にたとえると生産性と同時に品質が飛躍的にアップすると考えていい

 実社会では人の2倍も時間を掛けなければ同じ精度の仕事ができない者は就職試験をパスすることが困難だ。よく実施されているSPI試験は速度重視の試験である。スピードは仕事でも最重要項目であるということ。

 スピードの大きい者はひとつのことをしながら他の案件も頭の中で同時並行処理できるようになる。余裕が生まれるからだ。並列処理のコンピュータと一つのジョブを逐次処理するコンピュータを比べるようなもので、仕事のコントロール能力に比較にならない差ができてしまう。並列処理ができる人間にとって、外側の時間は実にゆったりと流れているように感じるもの。
 自分の子どもを頭をよくしたかったら、小学校低学年で徹底的に「読み・書き・そろばん」のトレーニングをやらせることだ。毎日1時間くらい、10分単位で時間を測って、音読、書き取り、計算トレーニングを課すことだ。3年間お母さんが一緒にやってあげたら子どもはそれが生活習慣となるから、後は放っておいても大丈夫だ
 中学校になっても本も読まない、勉強に身が入らない、ブカツ三昧、スマホやゲームに夢中なら、それはもう手遅れだ。しかし、手遅れではすまない、なにがなんでも生活習慣を変えさせるべきだ。手間がかかるよ、しかし手間隙を惜しまずかけてやるべきだ。いつか必ず変ると信じよう。
 勉強しないことが生活習慣化しているから、塾へ行かせても一年くらいではなかなか治らない。一番よいのは大事な大事な自分の子どもを「生活習慣病」にしないことだ。予防はできるし、それが最善である。小学校低学年の時期に家庭学習習慣の躾けをしてもらいたい。

*#2647 問題消化速度1対35の衝撃(1):学習量=速度×集中力強度×時間 Apr.18, 2014 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2014-04-17-1

 #2649 問題消化速度1対35の衝撃(2):学習量=速度×集中力強度×時間 Apr.18, 2014  
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2014-04-19


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(編集および校正:9月23日午前10時半)
(編集作業:9月23日午後1時)
(追記:9月24日午後11時半)


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たこやきと河内音頭

ebisu先生こんにちは ニュースでさんま祭の光景を見ました。他人さんが食べてるのを見ると美味しそうですよね。でも、背骨はともかくおなかの骨は、みなさんどうなさってるんでしょうか気になりました。

さて本題です。昔家庭教師をしていた頃の経験ですが、レクチャーの時に「知の枝葉」を繁らせると目をキラキラさせてくれる生徒さんは、こちらの日々の疲れも忘れさせてくれるほどに貴重な存在でした。しかも複数教科科目に亘っての知恵と工夫の術を身につけてくれる。でもそういった「脱線」は公教育の場、しかも45分か50分のなかでというのは望めませんよね……
釧路の小学校が土曜日にも授業をとのニュースも見ましたが "Education is firing." の雰囲気にしてくれるといいですね。

by たこやきと河内音頭 (2014-09-23 11:12) 

ebisu

たこやきと河内音頭さん

こんにちは
野外、炭火で焼いて食べるサンマは格別です。網の上でジュウジュウ音を立てて焼きあがったところを醤油をたらして食べるのですから、美味しいに決まっています。サンマの鮮度もとびっきりいい。
腹の細かい骨はとる人と、気にせずそのまま食べる人、人それぞれです。頭から骨ごと食べる人を知っています。会津の人です。福島県郡山市でサンマ定食を食べたときに、頭から骨ごとバリバリ食べていました。歯の丈夫な人ですね。根室でそういう食べ方をする人は見たことがありません。

脱線は公教育の場ではできませんか、それならやはり哲学を世紀の科目とするという選択肢をとるべきなのでしょう。

民間会社の経営者の考え方の基本は、「いいことだったらできない言い訳を考えるのではなく、どうやったらやれるのかを考えろ、そのために給料を払っている」というもの。

工夫のできる社員はよい社員、工夫をしようとせず言い訳ばかりするのはダメ社員です。

学校にはそれが通用しない。たしかに、仰るとおり「望めませんよね・・・」、でも望みたい。(えへへ…)

周りの状況がどうあろうとも小数ですがよいと思うことを大胆にやってみる先生は必ずいます。わたしが知っている範囲でも、そういう先生が根室管内の学校に三人いらっしゃいます。
"Education is firing."
なにやら放火魔のようですね、生徒の心に次々火をつけまくる、先生の役割ですがなかなかむずかしい。
先生自身に火がつかないといけません。燃え尽きてもらっては困りますが…
生徒も先生も自家発火する人が増えるようになればいいですね。

釧路の土曜授業、いい話です。釧路の仲間達が釧路の教育改革のいろんなシーンでがんばっています。市議会副議長の月田さんを筆頭に、いろんな立場の人が教育改革の現場を支えつつあります。「釧路の教育を考える会」はそうした人材の「培養器」なのかもしれません。

自分の損得を度外視して住んでいる町の教育改革に動く人間が5人集まればそのうちになんとかなる、10人集まったら現実を変える力になります。釧路にはそういう人間がいろんな分野にいたということです。人材が枯渇していなかった。

根室人よ、自分の損得勘定ばかりしていないでふるさとの未来を優先して考え、行動してみないか?
by ebisu (2014-09-23 12:43) 

合格先生

 「知の枝葉」で時間を使うならいいのですが、いまだに「自分の子供自慢」をしたり、余計な雑談で授業をつぶしてしまう学校教師が後を絶たないのも事実です。また、説教で長々と時間を使って授業時間をつぶす教師の話も入ってきますよ。
by 合格先生 (2014-09-24 05:44) 

ebisu

合格先生、おはようございます

「知の枝葉で時間を使う」とはぴったりの表現です。評価は二分していましたが、高校でそういう先生がお一人いらっしゃったようです。
圧倒的に多いのが、雑談や自慢話で時間を潰す先生です。これは団塊世代のときにもかなりの割合でいらっしゃいました。高校生のときにはさすがにバカバカしくて、つまらぬ雑談がはじまるとわざとらしく机に突っ伏して寝てました。
プロだったら授業をちゃんとやれという抗議のつもりでしたが、ダメですね。そういう授業スタイルが癖になっていますから。毎日繰り返しているうちに習慣となり、1年間やればその先生の授業スタイルになります。
雑談が始まったとたんに突っ伏して寝る生徒の他には、だれからも批判されませんから、何年間もそれが続き、性格にまでなる。
プロとしての自覚のある先生は違っていました。四人に一人ぐらい「これぞプロの仕事」という授業をしてくれる先生が居ました。もちろん、授業中には寝ません。ときに目がランランと輝くような「知の枝葉」を茂らせてくれました。
予習していてすでにわかっている範囲でも、聴く値打ちがありました。すでに亡くなった先生もいますが、思い出しても感謝の気持ちがわいてきます。そういう先生たちは自分が教えている科目の専門書をよく読んでいました。
振り返ってみると、プロの印象の強い先生たちはよく勉強していました。
学校の先生の三人に一人が「知の枝葉」を茂らせるような授業をしてくれたら、日本の未来は変えられます。
教育の役割はかぎりなく大きい、だから仕事に対する責任も大きいということです。
by ebisu (2014-09-24 10:37) 

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