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#2782 手仕事と職業観そしてシツケ Aug. 20, 2014 [A.6 仕事]

 昨夜はベッドの中に入ってから幸田露伴『五重塔』を音読してみた。最初の数ページは読みにくかったが、すぐになれた。なれると露伴の文体は妙に舌になじむ、調子がいいのである。
 親方源太とのっそり十兵衛が五重塔の普請請負を競うが、和尚は意外な裁定を下す。二人で相談して決めろというのである。決めたら檀家を説得してその通りにしてやると。和尚は二人を前にお経の話をする。川に丸太を渡してあるが、向こう側へ行くのに兄がわたるときは弟が丸太を揺らし川へ落とし、弟がわたるときは兄が丸太を揺らして川へ落とす。お互いにずぶぬれになるという話だ。仕事がこんなことになっては和尚が困る。どちらの腕もたしかだ。さあ、二人で遺恨を残さぬように話し合って結論をもってこいというのである。職人の腕の見極めも利く、なかなかの和尚だ。

 前置きはこれくらいにして本題に入ろう。大工は徒弟制度の中で教育されてきた。
 明治以降の日本の教育は二つの柱で支えられてきた。ひとつは学校教育であり、もうひとつは徒弟制度である。
 学校教育は先生が教えるものであるが、徒弟制度の教育は教えられるものではなく、師匠や親方の技を見て盗むことで学ぶのである。学んでやるぞというつもりのない者はハナからダメだ。
 同じことを毎日毎日繰り返して身体に技をじっくりしみこませていく。5年10年と修行を続け、道具を使い続けるうちに、その職にふさわしい手ができあがる。身体もまたその職業にふさわしい身体につくり変えられる。

 親方の技を学ぶには、親方のやることをコピーする。弟子入りしたら同じ家で一緒にご飯を食べ、親方の身の回りの世話や掃除、食事の支度などをしながら、技も考え方も生活の仕方も学んでいく。親方は教えない、やって見せるだけである。見てわからなければ「何を見ていたんだ」と檄が飛ぶ。親方の仕事を見て、真似てやってみる、そして違いがなぜ生ずるのか考え、試行錯誤をしながら親方の仕事に近づいていく。一つ一つの仕事の微妙な手加減など口で教えられるものではないそうだ。繰り返し身体に覚えこませてはじめてわかってくる。

 同僚や兄弟子への口の利き方、仕事の依頼主への態度や口の利き方、用材ごとの品質の見極め方、材木屋との応対の仕方、他の職人への仕事の割り振り方など、全てが学ぶべきことになる。一人前の職人となったときに、自分ができなければならないからだ。
 こうして、親方の仕事の仕方や挨拶の仕方、取引先との口の利き方、応対の仕方、兄弟子との口の利き方など、シツケ全般がなされる。一人前の職人とは仕事の腕だけではない、用材の見極め方、回りの関係者との口の利き方、挨拶の仕方、応接の仕方、食事の仕方や酒の飲み方、遊び方を含めて、一人の職人としてきちんと処して行ける術を身につけているということだ。
 5年、10年したら技倆に応じて責任ある仕事が任される、そうして仕事に対する責任の重さと、それを引き受けてやりきる度胸も学んでいくのである
 仕事の依頼主には大工仕事の目利きがおり、そういう目利きは仕事相応の代価を支払ってくれる代わりに仕事を見る目も厳しい。そういう目利きの批評や期待に応えて仕事をすることも腕を上げる力になる。職人が精根込めてつくり上げた品物を高い値段で買ってくれる消費者がいないと職人仕事が成立たぬのは道理だから、そう考えると、大量生産大量消費、大量廃棄のいまの生産方式は、職人と品物の価値を見分け、いい品物には高額の代価を支払う目利きたる消費者をまとめて絶滅に追いやっている。
 職人たちが受け継いできた職業観も大量生産時代のなかで急速に失われつつある。中高生達が職業観をもてないのは回りにそういう職人達の姿が消えうせたことが大きく影響しているに違いない。見ていないものはわからないのだ。

 5年、10年の修業が終わる頃には手は職人のそれとなり、口の利き方、仕事への責任感のあり方などがしっかり身についている。それで一人前のお金のとれる職人となる。

 修業期間は学ぶ期間だから、昔は小遣い程度しか対価は支払われなかった。あたりまえだ、最初の内はお金の獲れる仕事ができない、ただで一人前の職人にしてもらうのだから、一人前の給料が出るはずがない。最低賃金法はそうした徒弟制度を日本経済社会から根こそぎ取り除いてしまう。いま昔のままの徒弟制度で内弟子をとり、育てたら法律違反になるのである。無批判に西洋の制度を日本に移植するとこういうとんでもない文化破壊が起きて、気がついた時には、日本経済を支えてきた徒弟制度というすぐれた教育制度を失ってしまった。
 職人の給料は腕と速度で決まる。どんなに丁寧な仕事でも、人の倍も時間がかかるようでは半分しか稼ぐことができないし、半人前の仕事すらできない見習い修行の者に払える賃金などありはしないのである。職人の手間賃は弟子を何人も抱えて、貴重な材料を使わせて給料を支払えるほど高くはない。自分の生活を切り詰めないと内弟子を抱えることはできないのが普通だった。

 中高生を見ていると、どんな職について飯を食っていくのかさっぱり考えていないものが多い、考えられないのだろうと思う。
 コツコツ努力を積み重ねて手仕事を身につけようなんて価値観が軽視されてしまっている。それは職人文化が消えつつあるからだろう。
 たとえば古典落語ならそれなりの修業期間を要したのだが、最近のお笑いは禄に修行もなしにでてくる。そしてそういう中には年間億を超えるような金額を稼ぐ者たちが出ている。青年実業家と称する者たちの中にも粉飾決算までして濡れ手で粟をつかむことをよしとする類の者が増えてきている。こんなものをもてはやしていたら、日本の行く末は危うい。

 周りに職人が少なくなってきている。工場で機械を使った大量生産品が安く出回り、そういうものを消費者が買う。工場の機械を操作するコンピュータに名人クラスの職人の経験智をデジタルデータにして入力してしまえば、その瞬間は見た目で区別がつかぬほどそっくりなものができ上がる。しかし、大工仕事に関していえば、木の癖までも見抜いてさまざまな用材を使い分けている名人クラスの大工の作ったものは何百年ともつが、工場生産した材料は正確に刻まれていても、組み上げて数年経ったら木が思わぬ方向に反り、建物は軋みを生じて長持ちしない。
 再生可能な自然素材を使った手仕事の品物が失われていった。職人もいなくなってしまった。だから、職人がもっていた文化や職業観もまた失われつつあるのだろう。

 わたしはいくつか業種の異なる会社で、経営管理や経営企画、そしてコンピュータシステム開発、実際の経営などをやってきた。システム業界では30年ほど前にKE(ナレッジエンジニア'knowledge engineer)という職種がSEの上の階層に位置づけられたことがあるが、いまそういう用語がつかわれることはない。
 わたしは自分を事務仕事の職人だと思っている。必要な技術はその都度自分で学んできたし、学んだものはどういうわけかすぐにそれを使うような仕事が舞い込むようなめぐり合わせになっていた。直接現在の仕事に関係のない分野の専門書も興味の赴くままに読み漁ったのだが、準備が整うのをまっていたかのように、そうした専門知識がないとチャレンジできない仕事を任される、不思議だった。仕事があれば本で習得したスキルを磨くことができる。大工さんの請負仕事と同じで、一切合財任されてやってみることで度胸がつきスキルが上がる。
 管理会計の専門書群、経営管理の専門書群、マイクロ波計測器に関する本や大量のカタログ、システム開発技術の専門書群、言語学の専門書、医学関係の専門書など、その都度仕事のかかわりのあるもの、ないもの両方を興味の赴くままに読み漁り、仕事に使って腕を磨いてきた。
 そして正直に誠実に渾身の力で仕事をするのが最善であることを仕事を通して学んだ。会社の経営はお客様を大事にすることだけでなく仕事に関わる取引先も、そして何より大事なのは会社を支えてくれている社員を大事にすることでうまくいくことも仕事を通して学んだ。

 昔とは異なるタイプの職人が日本に生まれつつあるような実感がある。新しい分野だから師事すべき'親方'はいない。わたしは30年早かったのだ。日本人はそろそろ大量生産・大量消費・大量廃棄社会を卒業すべきときに来ている。団塊世代の中には新しいタイプの職人が少なからずいるはずで、仕事を通じて磨いたそのスキルを30代に引き継がなくてはならない。それをうまくやれるかどうかで日本の30年後100年後が変わる
 再生可能な材料を使い、自国でつくれるものは自国で生産し、生産者の顔の見えるものを使う内需中心の経済社会を創るべきだ。人口は3000万人まで減少していい。戦争をしなければ人口を増やす必要はない。しばらくの間は少子高齢化と人口減少時代が進行し、百年経たぬうちに少子高齢化は終わる。そうした変化にふさわしい社会、職人仕事を中心に国内に仕事を確保してやっていく道を探せばいい。強い管理貿易(鎖国)がふさわしいとebisuは考えている。昔の鎖国と違うのは、飛行機や船で海外へは自由に行き来できることだ。(笑)

 『失われた手仕事の思想』 塩野米松著

 この本のふたつの章をお読みいただきたい。
 「第三章 徒弟制度」
 「第四章 手の記憶」

 著者はさまざまな分野の職人仕事の取材を積み重ねてきたジャーナリストである。この二つの章を読めば、大きく変わりつつある日本の経済社会の現状がみえてくる。ebisuとは違って文章の品もよい。
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「職人が消えそれを支えた社会も変質しようとしているが、よい道具やよい品物をそれなりに評価する智慧は社会の底流として残るものである」 289㌻
「手の時代の倫理や職業観、経験を尊ぶ社会は暮らしやすさを求めたうえに生み出されたルールであった。これらは手仕事の時代であった。」 289㌻
「 携帯電話やパソコンのように手仕事の時代の後から出てきたものは、その使い方にマナーが出来上がっていない。以前の手仕事の時代の倫理では間に合わないことが多くなってきているのだ。このことは、前の思想がほころんでしまったことを証明してはいないだろうか。
 これらの横行が暮らしづらいことであれば、いずれルールが生まれてくるだろう。
 常にその時代の倫理は、一生懸命生きることから生まれてくる。
 安易に簡便さを望み、それだけを追い求めれば、混乱の時代が続くかもしれない。
 現在は、作り手が見えない、経験がいらない、積み重ねが不要の時代である。送り出されてくる機械は、手もいらず、肉体も必要としない。名もなく、実を追うものばかりである。人間不要の時代であるように思える。
 そうではないと思う。
 改めてその時代に適した「人間」という概念が生み出されるのだろう。
 手の仕事の時代が終わり、手を失った時代の思想は?
 それはこれから決まってくるものである。まだ橋はできていないが、いずれできる。そこでの倫理や職業観は、行きやすい方向へ行くはずである。そういうものは生活の智慧だから必ず行きやすいところに行き、低みを見つけ水が貯まるように、そこに安定を見つけ出すだろう。そして、そこが安定の場所でなければ、また水を移すであろうが、落ち着くところに落ち着く。
 そこには新たな倫理や人の生き方が築かれるだろう。
 そのときに、私たちが立ち会った職人が活躍した「手仕事の時代」の倫理や職業観が、新たな道を模索するときの指針になるだろう。」 290㌻
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失われた手仕事の思想 (中公文庫)

失われた手仕事の思想 (中公文庫)

  • 作者: 塩野 米松
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2008/03/23
  • メディア: 文庫


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