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#2771 金刀比羅神社例大祭 part 4 Aug. 11, 2014 [88.金刀比羅神社のお祭り]

  台風11号崩れの雨は都合のよいことに午前9時頃やんだ。お神輿が御旅所から出る12時半にはすっかり道路は乾いていた。曇り空で少し暖かい、気温は19.8度。
 剣道の達人の先輩と御旅所の所で雑談しながらお神輿が出発するのを見送った。向かい側には市長候補鴨志田リエ氏がオレンジ色のヨットパーカを着て見物していた。
 行列は三吉神社を回り、1時間ほどで緑町に戻ってきた。緑町二丁目交差点でお神輿を出迎えた。神社の獅子舞にはY香、Kリ、それからもう一人Yトが出ていた。ひとりは地元に残り、二人は根室から巣立っていく。各祭典区の行列を全部見送ってから3時近くに家に戻った。

 それにしても、うまい具合に雨空が曇り空にかわった、金刀比羅神社の神様のご利益だろうか。

<余談>
 HTBで根室空襲を取り上げていた。1945年7月14日と15日。市街地の8割、2300戸が焼失、211人が死んだ。
 他に根室港を出たばかりの輸送船が飛行機からの魚雷攻撃で沈んだ、択捉島へ行く船だった。100人余が亡くなっている。ジャパンタイムズがとりあげたことがある。船に乗っていた択捉島蕊取村の山本さんの証言だ。この人のおじいさんの兄弟は黒田清隆の副官だった。
 根室空襲の時には21歳だったお袋は着の身着のままで逃げた。環状に焼夷弾を落として逃げ場を塞ぎ、真ん中に大量の焼夷弾を落とした。外側に逃げなかったものが焼死した。お袋はホロムシリの方へ逃げて助かった。食べるものはもちろん、何も持ち出せなかったからパンツの替えもなくて困ったと言っていた。死体の処理ができずに、リアカーに載せて海へ運んで流すのを手伝ったという。ebisuが小学校の頃は花咲小学校下の砂浜にも、弥生町の砂浜にも、砂に人間の骨らしきものが混じっていた。
 この空襲の後で北の勝の碓氷商店は酒造用米を炊き出しに供出した。ひもじい思いをしのいだ人がたくさんあったのではないだろうか。
 市役所の辺りから芭蕉湾を眺めたら、海との間は焼け野原が広がっていた。空襲の後、何にもないところからスタートした人が多かった。空襲の修羅場を潜り抜けてきたおふくろ、旭川の部隊から満州へ行って落下傘部隊に転じたオヤジの世代は精神的に強かった。戦後の困難も命がなくなるわけではないから、どうってことはなかった。
 豊かになりすぎると精神のほうは弱くなるものらしい。かくいう私もお袋世代に比べたらまぎれもない軟弱者だ。修羅場をくぐっていない若い人たちが、これから修羅場を生きぬかなくてはならない。貿易収支は赤字、経常収支も今年から赤字になりそうだ。それは構造的な変化のはじまりだ。経常収支赤字、人口減と少子高齢化がトリプルパンチとなって日本経済を襲う、たいへんだな。しかし、そうした修羅場を経験することで屍を乗り越えて生き残る者たちはまた強くなっているだろう。20代、30代が根室の未来を切り開く。まっすぐな心根と基礎学力が未来を切り開く武器となる。学べ、ひたすら学べ、自分とふるさとのために。


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