#2619 祝&感謝:音更町「木野東クリニック」開院 ドクターG Mar. 17, 2014 [38. cancer]
帯広市の隣、音更町の十勝大橋の近くに消化器内科・外科・肛門科の「木野東クリニック」が昨年12月に開院した。3ヶ月がたち、落ち着いた頃だろう、お祝い方々お世話になった院長のことを少し書きたい。
ebisuは2006年6月に胃癌を患った。癌である自覚があった。地元の消化器内科の専門医のO先生に内視鏡検査をお願いしたら、30分ほどで癌の診断が下りた。6月6日だったかな、胃の下部に腫瘍ができていて食べたものが通らない状態だった。食事ができないのと、腫瘍が大きすぎて内視鏡が通らないので詳細に検査するために消化器外科医のいる病院へすぐに入院検査を勧められたが、生徒たちが期末テストを控えていたので入院は期末テスト当日(23日)で調整をお願いした。無茶だといさめながらも応じてくれた。市立根室病院には当時は消化器外科医がいなかったので、病院は釧路市立病院と釧路医師会病院のどちらかを選ぶようにいわれた。いま振り返るとどちらを選択するかということが運命の分かれ道だった。腫瘍が大きすぎて胃を塞ぎ食事ができない状態だったので、入院は緊急を要したのだろう。進行性の癌であることも自覚があった。どういうわけかスキルス胃癌の確信があった。ヨーグルトと水だけで2週間授業を続け、23日に釧路医師会病院へ入院し、消化器内科医の副院長がなんどか種類の異なる検査してくれてついにスキルス胃癌のあることを見つけてくれた。7月20日頃に手術をした。20歳前からヨーガの真似事をしていたので、手術までの一月ほどは自分の身体の中で「悪性新生物」が大きくなっていくのがはっきり感じられた。重く冷たいものが体の中で日に日に大きくなっていくのがわかり、気色が悪かった。
スキルス胃癌と巨大胃癌の併発で、リンパ節に転移、大腸にも浸潤が認められたからほとんど助からぬ症例である。
運がいいのか悪いのか、きわめて状態の悪い患者の手術を担当してくれたのが、当時30代半ばの消化器外科医、ドクターGだった。開腹し状態を確認して手が止まったという、手遅れである。そこへ立ち会っていたベテラン外科医の院長が「ざっくりとったら?」と勧めてくれた。外科医はたくさんの患者を手術しないと腕が上がらない。あきらめずに思い切りよくよく切ってくれた。すでに手遅れ、「典型的なアケトジ」の症例だったそうだ。「アケトジ」というのは文字通り「開けて閉じる」だけ。
50歳前後のベテランの外科医なら転移を確認した時点で手遅れと判断して手術をせずに縫合しただろう。オヤジは釧路市立病院で大腸癌の手術を受けて、その2年後に担当外科医の予告したとおりに再発し、2度目の手術は全身転移が認められて「アケトジ」だった。平成5年に亡くなっている。
7月20日の術後数日してドクターGから、肝臓転移が疑われるので、1ヵ月後に肝臓切除手術の可能性をいわれた。あの時は参った、2度の手術を続けざまに受ける気力が残っていなかったから、転移アリなら運命とうけとめ、手術をしないつもりだった。ドクターは手術のときに肝臓を触って診断してくれていた。CTやMRI検査でも肝臓に異常所見が認められたが、幸いなことに7年たって転移はなかったから、たんなる膿疱あるいは結節だったのだろうか?
術後の抗癌剤治療はなかなか厳しいものだった。白血球数が基準値をはるかにわり、逆隔離ギリギリのところまで下がる。日和見感染を避けるために一月以上も無菌病室へ入院しなければならなくなるので相談の上、再発のリスクを覚悟で何度か薬の量を減らしてもらった。
朝食を摂ったあとで、横になり昼寝、昼食を摂りまた昼寝を1時間、そして2時過ぎにもう一度軽い食事をしてから、教室へ出かけて授業をした。無茶は承知で何とかやるうちに身体は慣れてくるものだ。抗癌剤治療は1年半ほどで終了したので、その後はずいぶん体調がよくなった。
私の手術をしてくれた1年半後にドクターGは首都圏の病院へ修行の旅に出た。外科の技術をさらに磨き、内視鏡操作技術を習得するためだったようだ。開業医としてのニーズは消化器外科よりも消化器内科のほうが大きいから内視鏡技術の習得が必要だったのだろう。両方できる開業医は北海道にはほとんどいないのではないだろうか。
首都圏の三つの病院で開業に必要な技術をマスターし、ふるさとへもどって、昨年12月に開業した。音更町の皆さん、よかったね。
わたしがいま生きて仕事ができるのは、地元の消化器内科の主治医であるO先生と、木根東クリニック開業し院長となったドクターGのお陰である。
わたしは身体に異常を感じると地元の消化器内科医のO先生の診断を仰ぐことにしている。診察してすぐに専門医を紹介してくれるから安心なのである。パソコンで紹介状を作成し、インターネットで転院先のドクターへ連絡してくれる。根室のO医院がそうであるように、たぶんインフルエンザも診てくれる。なにかあったらとにかく掛かりつけ医に診てもらうことだ。
病歴を熟知しており、心から信頼できる掛かりつけ医がいるというのは患者にとってはたいへんにありがたいことだ。
術後7年半がたち、身体が胃のないことに慣れてきたが、1~2ヶ月に一度、O先生に診察をお願いしている。
たくさんの患者が地元のO先生を頼りにして、病院は患者でごった返していることが多い。木根東クリニックの院長も地元の患者さんから頼りにされる先生になるだろう。
何年もお会いしていないので、暖かくなったら音更町まで訪ねてみたい。
音更町と帯広の皆さん、消化器系に異常を感じたら、木野東クリニックの院長に診てもらうといい。腸の末端である肛門科もテリトリーだ。外科処置もOKだ。人柄もいい。
ありがたいことにわたしはスキルス胃癌と巨大胃癌を併発して助けてもらった。7年半たって生きてふるさとの子どもたちを育てる仕事をしている。
長生きして楽しく仕事をしながら学力が低下していく根室の子どもたちの教育を通じてほんのすこし人のお役に立つこと、それが命を救っていただいたわたしの、世間様へのささやかなご恩返し(笑)
木野東クリニック
http://www.kinohigashi-clinic.com/
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ebisuは2006年6月に胃癌を患った。癌である自覚があった。地元の消化器内科の専門医のO先生に内視鏡検査をお願いしたら、30分ほどで癌の診断が下りた。6月6日だったかな、胃の下部に腫瘍ができていて食べたものが通らない状態だった。食事ができないのと、腫瘍が大きすぎて内視鏡が通らないので詳細に検査するために消化器外科医のいる病院へすぐに入院検査を勧められたが、生徒たちが期末テストを控えていたので入院は期末テスト当日(23日)で調整をお願いした。無茶だといさめながらも応じてくれた。市立根室病院には当時は消化器外科医がいなかったので、病院は釧路市立病院と釧路医師会病院のどちらかを選ぶようにいわれた。いま振り返るとどちらを選択するかということが運命の分かれ道だった。腫瘍が大きすぎて胃を塞ぎ食事ができない状態だったので、入院は緊急を要したのだろう。進行性の癌であることも自覚があった。どういうわけかスキルス胃癌の確信があった。ヨーグルトと水だけで2週間授業を続け、23日に釧路医師会病院へ入院し、消化器内科医の副院長がなんどか種類の異なる検査してくれてついにスキルス胃癌のあることを見つけてくれた。7月20日頃に手術をした。20歳前からヨーガの真似事をしていたので、手術までの一月ほどは自分の身体の中で「悪性新生物」が大きくなっていくのがはっきり感じられた。重く冷たいものが体の中で日に日に大きくなっていくのがわかり、気色が悪かった。
スキルス胃癌と巨大胃癌の併発で、リンパ節に転移、大腸にも浸潤が認められたからほとんど助からぬ症例である。
運がいいのか悪いのか、きわめて状態の悪い患者の手術を担当してくれたのが、当時30代半ばの消化器外科医、ドクターGだった。開腹し状態を確認して手が止まったという、手遅れである。そこへ立ち会っていたベテラン外科医の院長が「ざっくりとったら?」と勧めてくれた。外科医はたくさんの患者を手術しないと腕が上がらない。あきらめずに思い切りよくよく切ってくれた。すでに手遅れ、「典型的なアケトジ」の症例だったそうだ。「アケトジ」というのは文字通り「開けて閉じる」だけ。
50歳前後のベテランの外科医なら転移を確認した時点で手遅れと判断して手術をせずに縫合しただろう。オヤジは釧路市立病院で大腸癌の手術を受けて、その2年後に担当外科医の予告したとおりに再発し、2度目の手術は全身転移が認められて「アケトジ」だった。平成5年に亡くなっている。
7月20日の術後数日してドクターGから、肝臓転移が疑われるので、1ヵ月後に肝臓切除手術の可能性をいわれた。あの時は参った、2度の手術を続けざまに受ける気力が残っていなかったから、転移アリなら運命とうけとめ、手術をしないつもりだった。ドクターは手術のときに肝臓を触って診断してくれていた。CTやMRI検査でも肝臓に異常所見が認められたが、幸いなことに7年たって転移はなかったから、たんなる膿疱あるいは結節だったのだろうか?
術後の抗癌剤治療はなかなか厳しいものだった。白血球数が基準値をはるかにわり、逆隔離ギリギリのところまで下がる。日和見感染を避けるために一月以上も無菌病室へ入院しなければならなくなるので相談の上、再発のリスクを覚悟で何度か薬の量を減らしてもらった。
朝食を摂ったあとで、横になり昼寝、昼食を摂りまた昼寝を1時間、そして2時過ぎにもう一度軽い食事をしてから、教室へ出かけて授業をした。無茶は承知で何とかやるうちに身体は慣れてくるものだ。抗癌剤治療は1年半ほどで終了したので、その後はずいぶん体調がよくなった。
私の手術をしてくれた1年半後にドクターGは首都圏の病院へ修行の旅に出た。外科の技術をさらに磨き、内視鏡操作技術を習得するためだったようだ。開業医としてのニーズは消化器外科よりも消化器内科のほうが大きいから内視鏡技術の習得が必要だったのだろう。両方できる開業医は北海道にはほとんどいないのではないだろうか。
首都圏の三つの病院で開業に必要な技術をマスターし、ふるさとへもどって、昨年12月に開業した。音更町の皆さん、よかったね。
わたしがいま生きて仕事ができるのは、地元の消化器内科の主治医であるO先生と、木根東クリニック開業し院長となったドクターGのお陰である。
わたしは身体に異常を感じると地元の消化器内科医のO先生の診断を仰ぐことにしている。診察してすぐに専門医を紹介してくれるから安心なのである。パソコンで紹介状を作成し、インターネットで転院先のドクターへ連絡してくれる。根室のO医院がそうであるように、たぶんインフルエンザも診てくれる。なにかあったらとにかく掛かりつけ医に診てもらうことだ。
病歴を熟知しており、心から信頼できる掛かりつけ医がいるというのは患者にとってはたいへんにありがたいことだ。
術後7年半がたち、身体が胃のないことに慣れてきたが、1~2ヶ月に一度、O先生に診察をお願いしている。
たくさんの患者が地元のO先生を頼りにして、病院は患者でごった返していることが多い。木根東クリニックの院長も地元の患者さんから頼りにされる先生になるだろう。
何年もお会いしていないので、暖かくなったら音更町まで訪ねてみたい。
音更町と帯広の皆さん、消化器系に異常を感じたら、木野東クリニックの院長に診てもらうといい。腸の末端である肛門科もテリトリーだ。外科処置もOKだ。人柄もいい。
ありがたいことにわたしはスキルス胃癌と巨大胃癌を併発して助けてもらった。7年半たって生きてふるさとの子どもたちを育てる仕事をしている。
長生きして楽しく仕事をしながら学力が低下していく根室の子どもたちの教育を通じてほんのすこし人のお役に立つこと、それが命を救っていただいたわたしの、世間様へのささやかなご恩返し(笑)
木野東クリニック
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2014-03-17 00:10
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