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#2600 常識外れ、こんな校長にはならないように、ご用心 Feb.20, 2014 [64. 教育問題]

 「北海道小学校長会・会長のコラム」とうのがあるそうで、外部の人たちともっと積極的に付き合わないと一般社会の常識からこんなに外れてしまうんですね。これでは北海道の子どもたちの学力が上がらないわけです。
 公人を批判するときは具体的でなければなりません。何がどういう根拠でおかしいのか、明示する必要があります。ZAPPERさん、はっきりお書きになっています。
 どうぞご覧ください、読み応えがあります。

 全道の小・中・高の校長先生と教頭先生、異論や反論があればコメント欄へお書き込みください。匿名のハンドルネームでけっこうですから意見交換しましょうよ。管理職ではない学校の先生たちもどうぞ参加してください。まさか、ここに挙げた校長先生のような主張の方ばかりであるはずがない。世間から隔絶しているから、こういう非常識な主張が次第に頭の中を侵食していくのでしょう。こういう主張の校長先生はこの人だけではないはず。異論・反論をお聴きしたいと思います。

ブログ「情熱空間」より、一挙に4本ご紹介。
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http://blog.livedoor.jp/jounetsu_kuukan/archives/7111418.html

2014年02月19日

えっ、まさか!(北海道小学校長会・会長のコラムから)

驚きました。顎が外れそうになりました。管理職でらっしゃる某先生からお送りいただいた資料を読んで。「北の教育」という機関紙に、つい先日、掲載されたという、北海道小学校長会・会長が寄稿なさったというコラムです。もう一度言いますね。これをお書きになったのは、何と何と何と!北海道小学校長会・会長なんですって。

以下、順次、滅多斬りにして参ります。まず、ぜひぜひ、全文をお読みくださいませ。ええ、北教組の機関紙なんかじゃありませんよ。現職の北海道小学校長会・会長が執筆なさったコラムなんです。お読みのみなさん、どうぞビシバシとコメントをお寄せくださいませ。しかしまぁ、びっくりしました。北海道の校長会って、「実は抵抗勢力そのもの」ってことの証なのでしょうか、これって?

武士の情け、お名前は伏字にしておきますが、はっきり言って、その公職とやらから、潔く身を引いた方が賢明なのではないでしょうかね?小学校長会・会長が実は抵抗勢力だって、本道の学校教育が日本全国から笑われちゃいますよ。あー、びっくり。でもって、こうも思います。こっ恥ずかしいったらありゃしない。


北の教育(2014.1.31 第69号)

発行所 日本教育会北海道支部
発行人 支部長 ××××


巻頭言
「学んだ成果を自覚」できるような授業の組み立て
北海道小学校長会 会長 ×××××


 冬季オリンビックが近づいてきた。上位に入賀しそうな有望選手の特集が新聞紙面を飾る。そして、注目度の高い選手ほど、「金メダル」を口にする。

 選手個人として、結果にこだわることを否定するものではないが、勝ちか負けか、メダル獲得か否かの二者択一的な結果重視の姿勢を、子どもたちはどのように受け止めるだろう。

 教育は、進歩や成長といった成果を大切にする。たとえ結果に表れなれとも、進歩や伸びがあればそこを評価し褒め励ます。しかし、有名なアスリートが「結果がすべて」「一番良い色のメダル」と話す姿を、テレビを通して嫌というほど見せつけられている子どもたちが、その言葉を素直に受け止められるのか一抹の不安を覚える。

 学力調査における本道の子どもたちの状況を見ると、「知識」に関する問題に比べて「活用」に関する問題における課題の重さがクローズアップされている。

 活用力は学校教育法にも規定されているように、学習や生活で習得した知識や技能を活用し、思考力・判断力・表現力等の能力を発揮しながら課題を解決する力である。したがって、活用力の育成には、思考力・判断力・表現力等の能力を育てることが求められる。

 では、どうすればそれらの能力を育てることができるのだろうか。文科省教科調査官だった津井陽介氏は、「知識や技能を使って考えたり、それを表現したりする授業を通して、子どもたちがすでにもっている知識や思考力、表現力を引き出し結び付け、課題解決を通して『知識や技能を使って考えれば解決する』という実感を味わわせる。学んだ成果を自覚させる。こうした学習経験の操り返しを通して育てていく」と語っている。

 つまり、行きつくところは授業の改善・充実なのである。

 学校が一つ一つの課題に丁寧に取り組んだり、教師が創意工夫を凝らした授業を作り上げたりするには、時間がかかる。また、子どもたちが「学んだ成果を自覚」できるような授業を組み立てるためには、教師自身が幅広く学んだり考えたりする時間の余裕が必要である。つまり、授業の充実のためには、十分な時問的余裕と豊かな着想を保障する自由な裁量が学校に与えられていなくてはならないのである。

 ところが、いくつかの調査結果に表れているように教員の多忙感は一向に解消されない。実際のところ、他の職業と比べてどれほど「忙しい」のかはわからないが、問題はその多忙感がどこからきているのかである。ある教育機関の調査では、多忙と感ずる業務のトップに子どもと直稜かかわらない業務(集金・報告書作成・等…三十二%)があげられ、授業の準備や子どもと向き合う時間を確保できない教員の叫び声が問こえてくる。

 学力調査における本道の子どもたちの状況は・現場の努力がしだいに成果となって表れつつある。ぞの成果を確実なものに育てていくためには、「知識や技能を使って考えれば解決する」という実感を味わわせる授業を地道に積み上げていくしか道はない。そのためには、学校が地域の歴史や文化を背景に、保謹者・地域とカを合わせ自ら授業改善に積極的に取り組めるように、「現場の力」を高めることが必要だ。

 多忙化の中で、現場の「思い」とは異なる計画や評価、マニュアル等に縛られると、学校の裁量の幅は狭くなり、やがて豊かな発想でものを考えることができなくなる。さらに、結果ばかりがことさら強調される結果主義が教育の世界でも横行すれば、学校が選択できる手段は限られたものとなる。

 「現場の辺を高めるためには、学校の余裕と自由度を高める方策の拡大が必要ではないだろうか。教育界が、安易な結果主義に走らないことを望みたい。

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http://blog.livedoor.jp/jounetsu_kuukan/archives/7111465.html

2014年02月19日

北海道小学校長会・会長のコラムを斬る!

さて、滅多斬りを開始しましょう。

 冬季オリンビックが近づいてきた。上位に入賀しそうな有望選手の特集が新聞紙面を飾る。そして、注目度の高い選手ほど、「金メダル」を口にする。

 選手個人として、結果にこだわることを否定するものではないが、勝ちか負けか、メダル獲得か否かの二者択一的な結果重視の姿勢を、子どもたちはどのように受け止めるだろう。

 教育は、進歩や成長といった成果を大切にする。たとえ結果に表れなれとも、進歩や伸びがあればそこを評価し褒め励ます。しかし、有名なアスリートが「結果がすべて」「一番良い色のメダル」と話す姿を、テレビを通して嫌というほど見せつけられている子どもたちが、その言葉を素直に受け止められるのか一抹の不安を覚える。


どういう精神構造をなさっているのか、まったくもって理解に苦しみます。「注目度の高い選手ほど『金メダル』を口にする」って、そりゃそうでしょう。プロフェッショナルのアスリートなんですから。「結果にこだわることを否定するものではない」って、ちょっと、あーた、何を言っているのさ?オリンピックって、徹底的に結果にこだわって、こだわってこだわって競い合う、そうした場所でしょーが。競争がそんなに嫌いなら、見なきゃいいべさ。

「勝ちか負けか、メダル獲得か否かに二者択一的な結果重視の姿勢を、子どもたちはどのように受け止めるだろう」ってさ、TVにかじりついて寝不足になっている、目の前の子どもに聞いてみればいいだろーが。葛西選手の銀メダル。あれを見て、すごい!がんばればできるんだ!かっこいい!勇気をもらった!ってほとんどの子ども達はそう思っているわけであって、あの姿を見て、どうせ自分は…。と落ち込んでは途方に暮れる子ばかりだと、そうおっしゃりたいわけなのでしょうかね?あのー、ちょっとすみません。大丈夫ですか?

で、そうした結果主義のオリンピックを引き合いに出して、「教育は、進歩と成長といった成果を大切にする」(だから、結果が出なくてもいいんだ)ときたもんだ。あのー、それってお好きな「知徳体」とやらの「体」の部分、スポーツだってまったく同じことですよね。進歩と成長を確かめ、競い合う。で、スポーツって、競い合うから楽しいんじゃないの?「たとえ結果に表れなくとも、進歩や伸びがあればそこを評価してほめて励ます」って、それもありだって思いますよ。で、それって、何歳までそうするわけ?相手が15歳でも、20歳でも、30歳でも、ずーっとそうしていればいいんですかね?もしかして、教師もまたそうされるべきなの?実力は不問。でもしかし、ほめられるべき存在ってわけ?

「しかし、有名なアスリートが『結果がすべて』『一番良い色のメダル』と話す姿を、テレビを通して嫌というほど見せ付けられている子どもたちが…」あのー、オリンピックを見たくない子は、家の自分の部屋で、ネットやゲームに興じているんじゃないの?こっちの方がいいや、って。日の丸を背負い、勝ってきます!メダルを獲ってきます!全力を尽くします!ってその姿。大半の子ども達は、憧れのまなざしをもって見つめているんでないのかい?「見せ付けられている子どもたち」って、何をどうやったなら、そういった解釈になるのでしょうか?あのー、またまたすみません。大丈夫ですか?

ご自身は、もしかして、その《日の丸》からしてお嫌いなので、そうした論調におなりなのかも知れませんが、道民だけでなく日本国民の大多数から、総スカンを喰らうご意見だろうって、私は思いますよ。しかしまぁ、目が点になりそうな、実にびっくりなご意見ですね…。村社会に長く住んでいると、こうまで感覚がズレちゃうものなのでしょうか。アスリートが全力で戦う姿を、北海道小学校長会・会長という方が、そうした視点で眺めているなどとは…。


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http://blog.livedoor.jp/jounetsu_kuukan/archives/7111493.html

2014年02月19日

北海道小学校長会・会長のコラムを斬る!②

続きです。

 学力調査における本道の子どもたちの状況を見ると、「知識」に関する問題に比べて「活用」に関する問題における課題の重さがクローズアップされている。

 活用力は学校教育法にも規定されているように、学習や生活で習得した知識や技能を活用し、思考力・判断力・表現力等の能力を発揮しながら課題を解決する力である。したがって、活用力の育成には、思考力・判断力・表現力等の能力を育てることが求められる。

 では、どうすればそれらの能力を育てることができるのだろうか。文科省教科調査官だった津井陽介氏は、「知識や技能を使って考えたり、それを表現したりする授業を通して、子どもたちがすでにもっている知識や思考力、表現力を引き出し結び付け、課題解決を通して『知識や技能を使って考えれば解決する』という実感を味わわせる。学んだ成果を自覚させる。こうした学習経験の操り返しを通して育てていく」と語っている。

 つまり、行きつくところは授業の改善・充実なのである。

 学校が一つ一つの課題に丁寧に取り組んだり、教師が創意工夫を凝らした授業を作り上げたりするには、時間がかかる。また、子どもたちが「学んだ成果を自覚」できるような授業を組み立てるためには、教師自身が幅広く学んだり考えたりする時間の余裕が必要である。つまり、授業の充実のためには、十分な時問的余裕と豊かな着想を保障する自由な裁量が学校に与えられていなくてはならないのである。


おぉぉ、飛躍しますねぇ。まるで、日の丸飛行隊みたいだな、うん。あのね、「活用」も大事だけどね、その前段階の「知識」の時点でダメダメなのね、北海道はさ。「医者」を書けない子がこれだけ多いってね、単に知識が足りていない。そのためのトレーニングもまたダメダメってことなわけですよ。調査官がどうのこうのって、北海道ではまだちょっと先の話でしょう。

「活用力の育成には、思考力・判断力・表現力等の能力を育てることが求められる」って、よく分かりませんけれど、基礎力が固まった先に応用力ありきということでしょうね。基礎・基本を軽視して、応用力だけをつけさせようなどとは、土台無理ってものですからね。でもまぁ、言葉遊びですよね、それって。何度読んでも、まるで意味が分かんないんだもん。「行きつくところは授業の改善・充実なのである」同感ですね!で、それでそれで?

「教師が創意工夫を凝らして授業を作り上げたりするには、時間がかかる」あぁ、そうですか。では、着任後何年までがそうして時間がかかるものなのでしょうかね?5年、10年、20年ですか?それとも、定年までずっとそうなの?民間では普通、そうした期間、一人前になるまでの期間をですね、1年とか2年とかに想定しているんですけれど、ご存知かな?それに、創意工夫を凝らしたとて、肝心の学力の定着を図れなかったなら、それって単に自己満足の世界ではありませんかね?また、教師個々人の技量の問題はどうなるのでしょうか?

飛躍はさらに続きます。葛西選手の飛距離を軽々と超え、ぶっちぎりで金メダル確定ですね、こりゃ。「授業の充実のためには、十分な時間的余裕と豊かな着想を保障する自由な裁量が学校に与えられていなくてはならない」す、すごい。開き直っちゃいましたね…。時間がない。だから授業が充実しないんだ、って。もうもう、K点をはるかに越えちゃいました。腕の良い料理人は、ごく短時間の間においしい料理をこしらえちゃうわけですが、あれって、十分な時間的余裕とやらがあって、だからそれができるようになったんでしょうかね?

「豊かな着想」って、どんな着想なんですか?「豊かな着想」「たしかな学力」って、抽象的で耳障りのいい言葉が大変にお好きとお見受けしますが、内から外へは抽象的で耳障りのいい美辞麗句を並べる。しかし外から内に入ってくるものは、ただひたすらに迷惑な押し付けである。との解釈なのでしょうか?子どもに「ゆとり」を与え、その結果どうなりましたか?誰よりも一番それを見続けてきたのは、他ならぬ、あなた方なのではありませんか?それなのに、学校に教師に、「ゆとり」を与えよ、って、そうおっしゃりたいわけなのですね。しかしまぁ、すごいコラムだこと。暴走ですね、こりゃ。


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http://blog.livedoor.jp/jounetsu_kuukan/archives/7111534.html

2014年02月19日

北海道小学校長会・会長のコラムを斬る!③


ここで再度、確認です。お書きになったのは、北海道小学校長会・会長でらっしゃいます。では、続けます。

 ところが、いくつかの調査結果に表れているように教員の多忙感は一向に解消されない。実際のところ、他の職業と比べてどれほど「忙しい」のかはわからないが、問題はその多忙感がどこからきているのかである。ある教育機関の調査では、多忙と感ずる業務のトップに子どもと直稜かかわらない業務(集金・報告書作成・等…三十二%)があげられ、授業の準備や子どもと向き合う時間を確保できない教員の叫び声が問こえてくる。

 学力調査における本道の子どもたちの状況は・現場の努力がしだいに成果となって表れつつある。その成果を確実なものに育てていくためには、「知識や技能を使って考えれば解決する」という実感を味わわせる授業を地道に積み上げていくしか道はない。そのためには、学校が地域の歴史や文化を背景に、保謹者・地域とカを合わせ自ら授業改善に積極的に取り組めるように、「現場の力」を高めることが必要だ。

 多忙化の中で、現場の「思い」とは異なる計画や評価、マニュアル等に縛られると、学校の裁量の幅は狭くなり、やがて豊かな発想でものを考えることができなくなる。さらに、結果ばかりがことさら強調される結果主義が教育の世界でも横行すれば、学校が選択できる手段は限られたものとなる。

 「現場の力を高めるためには、学校の余裕と自由度を高める方策の拡大が必要ではないだろうか。教育界が、安易な結果主義に走らないことを望みたい。


「実際のところ、他の職業と比べてどれほど『忙しい』のかわからないが」って、じゃー黙ってなさい。もしくは調べてから論じなさいって!教員以外でこの記事をお読みのみなさんは、その一文を目にして、ひっくり返ってピクピク悶絶してらっしゃいますよ、きっと。ちなみに、まぁ似たような仕事ではある学習塾の場合だと、8月のお盆明けからノンストップ。3月初頭の公立高校入試まで、休みなどなし!ってなもんですよ。でもって、それって、ごくごく普通であたり前のこと。忙しいとかってブーブー文句をたれるヤツなんざ、いませんてば。よし、やったるで!ってなもんですわ。

多忙感、多忙感ってね、民間企業のごく普通の社員に聞いてごらんなさい。「そんなの、あたり前でしょ?」ほぼ例外なくそうした返事が返ってくることになるはずです。そればかりか、よくできたまともな社員ってね、その多忙感に感謝しているんですよ。「おかげさまで、忙しいね。ありがたいね」って。お次だよ。その多忙感がどこから来るかってね、その人の事務処理能力のキャパシティに求められるんですよ。つまり、仕事が早いか遅いか、正確か否か、自発的にやるか否かって部分ね。それもまた、村社会以外の人に聞いてみるようにしましょうよ。仕事人は、多忙感を言い訳になどしないものなんですよ。こうも言えるね。責任感が多忙感に勝ると、文句はほとんど出なくなるもの。

「『知識や技能を使って考えれば解決する』という実感を味わわせる授業」って、すいぶんとまた抽象的で難しい表現がお好きなんですね。それって単に、「分かる」「できる」を実感できる授業ってことでしょ?問題を解決するってさ、たかが小中学校の、しかも学校の授業で教える指導内容において、眉間に皺を寄せながら、「うーん、問題である」「この問題を、解決せよ!」ってな、ご大層でハイレベルなものってあるのかい?(まぁ、単に問題解決学習がお好きなだけなんでしょう)

多忙だから、授業の準備ができない。多忙だから、生徒に向き合えない。多忙だから、地域・保護者との連携が進まない。多忙だから、授業がうまくなる暇がない。多忙だから、豊かな発想ができない。だから、学校に裁量を与えよ。だから、学校に命令をするな。だから、マニュアルを排除せよ。そして、学校には結果など求めるな!まさしく、どこぞの教職員組合の主張そのものですね。ってか、十中八九はそちらからのご出身なのでしょう。そうした論調をもって、これまた驚きのクロージングへ。

「現場の力を高めるためには、学校の余裕と自由度を高める方策の拡大が必要ではないだろうか」おっと、これまた、なかななかすごい締めくくりですね。これ、こう読み替えたなどうですかね?「子どもの学力を高めるためには、子どもの余裕と自由度を高める方策の拡大が必要ではないだろうか」そう、ゆとり教育そのものですよ。教育現場を破壊し尽くしてしまった。最後に。これをお書きになったのは、北海道小学校長会・会長でらっしゃいます。それだもん、学力が上がらないはずです。ご意見・ご感想を、どんどんお寄せくださいませ。

《追記》
この方って、先日、札幌で発生した女児誘拐事件。無事で本当に良かったあの事件。被害者の女児が通っている小学校長なんですね。事件発生は1月27日。このコラムの掲載号は1月31日発刊とか。そして、犯人逮捕は2月2日。そこに、何やら運命的なものを感じてしまうのは、私だけでしょうか?

ネット上には、「深夜の会見でヘラヘラしていた校長に腹が立った」というものも見かけます。このコラムも執筆なさり、良くも悪くも、一躍有名におなりになったということでしょうか…。でもしかし、本当に無事で良かったですよね。

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【ebisuの辛口コメント】
 民間会社なら、この程度の人は係長どまりですね、部下を預けられません。全道の小学校長会のメンバーに皆さん、他にもっと見識のある方はいないのですか?いくらでもいるでしょうよ。なぜこんな人が会長になるのかまったく理解できません。恥ずかしいから校長会なんて組織は一度解体したらいかが?
 校長室、あれがカン違いさせる癌かもしれません。生徒数が300人以下の規模の学校に校長室なんて要りませんよ。職員は20~30人でしょう。そんな小さな規模の会社に「社長室」は不要です。職員室に校長と教頭の机を置いていればよろしい、そして先生たちと「報・連・相」(コミュニケーション)すればいいのです。授業の進捗管理だっていっしょの部屋で仕事していれば気軽に確認できます。別室をあてがうようなことをするから、お山の大将になったような勘違いと管理の不手際が起きるんです。
 全道の校長先生、匿名でのコメント期待しています。



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2月22日追記
http://blog.livedoor.jp/jounetsu_kuukan/archives/7115075.html

2014年02月22日

感動をありがとう!(そして、それを否定する「教育者」の方へ)

感動しました。真央ちゃんの演技、すばらしかったですね。ミラクル真央。彗星のようなデビューを果たすも、幾多のスランプ、そして大切なお母さんの死を乗り越え、加えて、メダル獲得への超絶なまでのプレッシャーの中にあって、まさに万感の想いで終えたフリー。胸にこみ上げてきたであろう、様々な想い…。見ているこちらも、目頭が熱くなりました。

一番いい色のメダルが欲しい。それを、お母さんの墓前に供えたい。との切ない想い。判官贔屓な人もそうではない人も、日本国民の大半は今、こう思っていることでしょう。「よくがんばった」「感動をありがとう」「金メダル以上の価値だよ」そして、「本当におつかれさま。笑顔で帰ってらっしゃい」と。

さて、この話はもうこれっきりにしたいと思いますが、何度思い返しても、いくらなんでもそれはないでしょう。一般社会の常識、常識というか人としてのごくあたり前の感情。つまりは人情。閉鎖社会に長く住み続けて、そうしたものすら、もはや完全に「やられてしまった」という方の、物事のとらえ方について。

冬季オリンビックが近づいてきた。上位に入賞しそうな有望選手の特集が新聞紙面を飾る。そして、注目度の高い選手ほど、「金メダル」を口にする。

 選手個人として、結果にこだわることを否定するものではないが、勝ちか負けか、メダル獲得か否かの二者択一的な結果重視の姿勢を、子どもたちはどのように受け止めるだろう。

 教育は、進歩や成長といった成果を大切にする。たとえ結果に表れなれとも、進歩や伸びがあればそこを評価し褒め励ます。しかし、有名なアスリートが「結果がすべて」「一番良い色のメダル」と話す姿を、テレビを通して嫌というほど見せつけられている子どもたちが、その言葉を素直に受け止められるのか一抹の不安を覚える。


日の丸を背負い、感動を与えてくださった選手のみなさんに、感謝。感動をありがとう。子ども達は、みなさんの姿を、がんばる大人の姿を見て、夢を膨らませ、勇気と希望をいただいたことでしょう。

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ZAPPER

前代未聞?空前絶後?見方を変えたならスパイ?適当な言葉が見当たらないほどに、呆れ返ってしまいました。よくもまあ、自分の立場も社会的地位も弁えずに、こうしたことをぬけぬけと書いたものだと、ある種の感動すら(笑)。

一般社会ではあり得ないことですよね。仮に組合のバリバリの専従者が出世して経営側の参画したとて、それはそれ、これはこれとして、自分の立ち位置に応じて相応の振る舞いをするものです。

まるで駄々っ子、いや駄々っ子そのものですね。こんなもの(失礼)が校長であって、しかも校長会の会長などとは…。北海道教育ムラという閉鎖社会。その闇の部分が垣間見えた気がします。
by ZAPPER (2014-02-20 16:33) 

ebisu

おはようございます。
ZAPPERさんが釧路新聞の「巷論」を転載していますが、

http://blog.livedoor.jp/jounetsu_kuukan/archives/7112837.html

この人は元北海道中学校長会の副会長ですね。村社会の住人でもこの方は外部に目を開き、日本人の一人として村社会の利害を乗り越えて見事な論をまとめて公表している。

こういう方が中学校にはいるのに小学校にはいない。個人の資質の問題化それとも校長会という組織そのものに根ざす問題なのかを考えてみましたが、おそらく両方なのでしょう。校長会に人材不足は明らかです。
それも郡部校の統廃合をさぼり、たくさんの校長を生産してしまった文教政策にも責任があるのでしょう。
根室は十数人の校長先生がいらっしゃるが、市内全体で1学年220~260人しかいませんので、小学校2校、中学校2校の4校にまとめてしまえば、レベルに達していない校長を格下げできます。粗製乱造でレベルの低下は子供たちの学力よりもひどいものがあるのでしょう。
by ebisu (2014-02-21 08:58) 

Hirosuke

「選手とコーチ」=「生徒と先生」
http://tada-de-english.blog.so-net.ne.jp/2009-08-01-1 
[塾講師として]
by Hirosuke (2014-02-21 11:02) 

ebisu

「選手とコーチ」=「生徒と先生」読みました。

その通りですね。
ナカミはわたし達が日々やってきたことと同じです。

できのよい生徒は苦労がありませんが、できの悪い生徒に出遭うと数年間悪戦苦闘が続きます。
あきらめてはいけない、生徒との戦いでもありますが、自分と戦っています。回りにも迷惑をかけるし、塾でやった問題の復習すらやってこない、態度は悪い...、探せばいくらでもクビにする口実が見つかります。

可能性を信じて、叱咤激励し続け、あきらめない。気がついたらこっちが鍛えられて強くなっています。教育しているのではなく、教育されている。ワッハッハ。
by ebisu (2014-02-21 12:19) 

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