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#2566 フィンランドの教育の誤解:制度の根幹にあるのは課程主義 Jan. 18,2013 [64. 教育問題]

 フィンランドの教育がもてはやされたり、日本からさまざまな視察団が訪れ、表面をなでた報告がなされたりしているが、なかなか本質をえぐった分析がないのがもどかしかった。ところが、すぐれた分析が「身内」に見つかった。
 「釧路の教育を考える会」の合格先生は、会の中では分析力随一であるが、フィンランド教育の根っこにある考え方=課程主義を日本の年齢主義と比較しながらその実体をくっきりと浮かび上がらせてみせてくれた。PISAでよく話題になるフィンランド教育に興味のある人は必読です。

 ブログ「情熱空間」より
http://blog.livedoor.jp/jounetsu_kuukan/archives/7044348.html
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2014年01月14日

フィンランドではなく日本に学べ!

大数学者の岡潔さんが、その著書の中でおっしゃっていて、私も同様に思うことがあります。「戦前の教育から軍国主義的要素を除いたもの。それが最良の義務教育ではないだろうか(論旨)」本当にそう思います。江戸時代の寺子屋を素地に築き上げた日本の義務教育制度は、世界に冠たるものでしょう。

戦後教育の可否はここでは論じませんが、ゆとりをはさんで少しばかり輝きを失ったにせよ、日本の義務教育制度は相変わらず世界一級品です。さて、日本最初の近代的学校制度を定めた学制、その公布は1872年。(その後、教育令へバトンタッチ)同時期のアメリカ、奴隷解放宣言は1863年ですから、いかに日本が進んでいたのかが分かろうというものです。

戦後は、アメリカの教育の模倣が続いて現在に至るわけですが、その中にあっても「読み・書き・計算」の徹底習得に関しては変わらないできましたね。ところが、最近はその部分がおかしいんです。ちゃんと身についていないのに、「さあ、自分で考えなさい」などとやるわけです。ちょっと待った。それ、日本が世界に誇る、子どもの教育なんかじゃありませんよ。公文式は、今では世界48の国や地域に広まっているそうです。世界各地においても「読み・書き・計算」の徹底習得が強く求められていることの現われだと思います。

「読み・書き・計算」の徹底習得に重きが置かれてきたことにより、日本の義務教育には留年の制度(厳密には「現級留置」という制度があるらしい)がなかったのでしょう。さて、フィンランド型の教育を賞賛する方々にお聞きしたいのは、留年をどう考えるかということです。それを導入すると、留年があるわけですから、「子ども達が伸び伸びできる」などとは幻想そのものです。お得意の、「競争へと駆り立てられる」ということになるはずです。

隣の芝生は青く見えるということなのでしょうか。フィンランドの人口は543万人ほどで、日本の5%にも満たないものです。第二次大戦後はソ連の勢力下に置かれ、一方で、自由民主体制を維持し資本主義経済圏に属していた国ですね。現在の地位を築いたのは、ソ連崩壊後に西側陣営に接近し、EUに加盟してユーロを導入したことによるものと言えそうです。

合格先生がフィンランドの教育に詳しいのですが、聞けば聞くほどに、日本にはおよそ馴染まないことが分かってきます。簡単に言うとこうですね。詰め込み教育の最たるもの。子どもにとっては、日本よりはるかに厳しいものでしょう。しかし、教える側の教師は、高度な専門教育を受けたプロフェッショナルであって、社会的地位がとても高い。前者(高度な専門知識)はないけれど、後者(社会的地位)だけは欲しいって、そりゃちょっと虫が良すぎってものじゃありませんかね。

フィンランドが独自の方式をもって子どもの教育にこだわり続けるのは、他でもありません。自国のためですよ。フィンランドに学ぶのではなく、古き良き日本から学ぶべきだろうと思います。ええ、自国のために。

《追記》
「課程主義」を導入したならば、釧路の子ども達のおよそ半数は小学校を卒業できない。本当に、強く強くそれを実感しますね。当該学年の1つ前の学年の級の漢字検定と算数検定。その合否を指標にしても、同様のこと(半数以上は合格できない)になるでしょうね。ひどいんです。ええ、本当にひどいんです。

●「年齢主義」と「課程主義」
http://www002.upp.so-net.ne.jp/singakukouza/jijimonndai.html#Anchor-10407

《引用開始》
フィンランド式は教師の首を絞めることに

 世界的に見ると、義務教育課程の中心となっている方式は「年齢主義」と「課程主義」という2パターンに分かれます。日本は年齢主義で、特別な事がない限り同一学年は同一年齢ですよね。それに対しフィンランドは「課程主義」の方で、例えば、学校に入っても授業についていけないようなら入学を1年遅らせたり、義務教育内容をきちんと習得していないと判断された場合は、もう1年義務教育課程を増やす、などの方式を採っているんですね。要するに、多少に年齢に違いは生じても、身につける物をきちんと身につけているかどうかで進級を判断するという方式です。

 さて、年齢主義の場合、どのような授業になるかというと、結局は「勉強内容が身についているか身についていないか」に関わらず1年過ぎれば次の学年に進級するわけですから、根本的に「なるだけ多くの子に学習内容を身につけさせるようにしよう」という姿勢で授業が行われます。すなわち「詰め込み式」の授業が主流になるわけです。日本は従来、この形式でした。
 それに対し、課程主義の場合、結局、身につけるか身につけないかは「本人次第」。進級したかったら勉強しろ、と、こうなるわけです。結局、身についていない子は、家で必死になって勉強しなければならない訳で、当然、お父さん・お母さんも子供につきっきりで勉強を教えることになります。すなわち、学校のカリキュラム上は「詰め込み式」になっていないように見えますが、その「詰め込み」は実は家庭で行われているわけです。

 ということは、子供達にしっかり勉強できるようになってもらおうと思うと、結局はどこかで、基本技能や基礎知識を「詰め込まなければならない」ということになります。それが「学校」なのか「家庭」なのかの違いである、という事なんですね。
 ところが、ゆとり時代の日本の状況は学校でも家庭でも「詰め込み」は行われず、結果、子供の学力が下がっていってしまった、という訳です。

 そもそも義務教育課程のシステムが違う訳ですから、義務教育の手法も違っていて当たり前なんです。日本の場合、年齢主義を続けるということであれば、学校できちんと「基礎・基本の習得」を目指した「詰め込み」が行われなければ、子供達の学力はついていきません。そしてもしも「詰め込みは悪」と考え、自ら考えて行動できる子を育てたいというなら、本当に考えて行動出来ているか~該当学年の内容が身についているかどうか、卒業試験を行い、身についていない子は卒業できないというシステムを導入すべきなのです。いわゆる過程主義で行われているシステムを導入すべきなんですね。
 さらに、もしも、この方式が導入されれば、釧路の子供達は、おそらく半数は小学校を卒業できません。そうなると、間違いなく、小学校の教師は何を教えているんだ、と非難にさらされることでしょう。全国的に見ても酷い状況~恥ずかしい状況になることは明白です。すなわち、不毛な研修を続け、おかしな主義・主張にこだわっている教師は、全員、教員として学校にとどまれなくなります。そちらの方が好都合と言えば好都合ですが。

 釧路では、独自の学力テストを行っている訳ですから、その結果を真剣に見て、基礎・基本の習得~ハッキリ言って「詰め込み」をきちんとやりなさい。ここから目を背けても、まともな結果は出ませんよ。
《引用終了》

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ZAPPER

地上の楽園、北朝鮮。
その喧伝とまったく同じですね。

何年か前にフィンランドが住み良い国とされた際、当のフィンランド国民は困惑したそうです。

 高校生による銃乱射事件。
 日照時間が少なくて暗い。
 自殺者も多いし、薬物汚染も深刻。

教育学の学者さんとやらは、青い鳥を探すのがお好きなようです。
青い鳥は、すぐそこにいるのですが。
by ZAPPER (2014-01-18 13:13) 

Hirosuke

♪Somewhere over the rainbow...♪

そう・・・、
足元に在るんですよ、
虹の向こうじゃなくて。

すぐ隣とか、
すぐ後ろとか・・・。

知らず、
気付かず、
無知なだけ。

ヤマト高校♪合唱部◆わがマイルストーン 2.014

by Hirosuke (2014-01-18 23:22) 

後志のおじさん

フィンランドは、日本では、甚だ誤解されやすい国なのです。―――――2次大戦では、英仏の支援を受けた国であり、かつドイツと共にスターリンのロシアと戦った国なのです。(この事実を知る日本人がどれほどいることか?)―――そして、ロシアを苦しめた軍人の名を冠したビール銘柄の一つがTogo(東郷平八郎のことです。)というお国柄。―――――かの国の国民感情は、日本とはまるで異なります。「何かあったら牙をむく。牙をむくことができなければ、国が無くなる。でも大国を操って、国と民族の独立を守れることが、第一義。」―――――外交面で、実にしたたかな国で、そういう素地を国民に要求する訳です。そしてもちろん、国民にもそういう認識がある。―――――フィンランド教育なるものは、そういう考え方の上に成り立つ「ふるい分け教育」であろう。が私の認識です。

by 後志のおじさん (2014-01-18 23:39) 

Hirosuke

フィンランドに関する、
それも英語に関するエピソードを、
そろそろ書かなきゃいけませんねぇ。

社会人として余りにも恥ずかしい、
「だからこそ、英語を突き詰めた。」
とも言える程のエピソードを。

教科書でも、
受験英語でも、
英字新聞でも英検でも、
TOEICでさえも学べない、
【ビジネスの現場】という奴を。

by Hirosuke (2014-01-19 00:28) 

ebisu

驚きですね。後志のおじさん、そんな史実があるのですか。

>2次大戦では、英仏の支援を受けた国であり、かつドイツと共にスターリンのロシアと戦った国なのです。(この事実を知る日本人がどれほどいることか?)

英仏の支援を受けながら、ドイツとともにソ連と戦った。なんだか鵺のような存在です。まったく知りませんでした。

Hirosukeさんもフィンランド・ネタでなにかあるようですね。
コメント欄が面白い。

by ebisu (2014-01-19 00:47) 

後志のおじさん

ソ・フィン戦争、マンネルハイム元帥あたりで検索するといろいろとわかると思います。――――歴史の中でのタイミング(年レベルではない、時刻レベルでの)は絶妙なものがあります。――――冷戦時代には、「フィンランド化」など、冷笑の代「形容詞」でしたが、どうしてどうして、実にしたたかな小国外交です。―――但、この緊張感の高さがそのまま国民生活に持ち込まれれば、「過度な競争に駆り立てられる」訳ですけれど、生き延びるためにはやむを得なかったのがかの国だろうと。かように理解しております。
by 後志のおじさん (2014-01-19 01:58) 

合格先生

 教育システムのお話で行くと、フィンランドは、現在の教育制度になる前は、完全にスエーデンのコピーだったそうです。ところがその方式では学力が伸びず、また「スエーデンの真似をしていたのでは結局はスエーデンに勝てない」ということで、独自路線を歩み始めました。
 ですから、競争はない、というのは全くのデタラメで、現在の教育システム自体が「他国との競争に勝つ」という代物なのです。
by 合格先生 (2014-01-19 05:35) 

ebisu

こんにちわ

合格先生は6時頃に就寝したのでしょう。すやすやいい夢を見てください。(笑)

後志のおじさんのお薦めに従い、ソ・フィン戦争やマンネルハイムを検索キーにして調べて見ました。

教育制度の視察のために創られた授業だけ見てくるというのは愚かな話ですね。
フィンランドの教育制度は地政学的な状況や歴史と不可分ですね。
スコットランド王国の属国だったフィンランドはソ連とも国境を接している。両方から完全な独立を果たしたい、というのがフィンランド国民の長い歴史の中での夢だったのでしょう。

他国に侵略されないためには物まねではダメで、スコットランドやソ連よりもすぐれた教育システムを構築して国民教育しなければならない。そこで競争原理を軸とする教育システムを創りあげたということ、いわば国家の生き残り戦略なのですね。マンネルハイム元帥のようなすぐれた人材を輩出できたら圧倒的な軍事力の差があっても、国の独立を保つことができるとわかったのですね。

考えてみると、日本も江戸時代末期に植民地化されなかったのは私塾が3万という世界にも稀に見る教育システムが津々浦々に普及しており、識字率がおそらく7割くらいあったからでしょう。庶民が軒先で本を読んでいるなんて光景は当時のヨーロッパにはないし、世界中を探しても日本以外になかった。宣教師が驚いて「こんなに文明度の高い国を植民地にするのは不可能だ」と本国に書き送っています。
識字率の高さでいうと、日本は数百年先を走り続けていたということです。フィンランドが教育改革に乗り出す400年も前に日本はそれを実現していたのです。
日本人というのは世界でも稀に見るほど知的好奇心が強い国民だということ、そして天皇という王朝システムが2000年間続いているという面白い国です。

教育を語るなら、まず日本の教育システムの歴史から学べという結論になりますね。教育に関するおろかな拝外主義はもう好い加減にやめたらいい。

そうそう、思い出しましたよ。地理の授業で西アフリカをとりあげたのですが、モノカルチャーを理解するには西アフリカの歴史を見ないと理解できません。西アフリカの大判のマップをを見ながら年代を追いつつ数カ国の植民地化の歴史と植民地政策としてのモノカルチャー化が進んでいく様子を学ぶ、地理と歴史の融合授業、とっても知的で楽しいものでした。いまでもあのときに購入した西アフリカの地図が書棚のどこかに折りたたんでしまいこんであるはずです。中高等学校の教科教育、学習指導要領とはなんと狭く窮屈で、学問の楽しさを疎外するものなのでしょう。あれは最低限度を示したものであることをもっと徹底しなければいけませんね。
そして、学力の高い生徒群にはこうした教科横断的な授業を放課後1時間を充てて、毎日やるべきです。ブカツしたい生徒は勝手にやればいいし、知的好奇心が旺盛な高学力層にはその学力に見合った授業を提供すればいい。文科省は高学力層用の「複合教科授業」のメニューを公表したらいい。1学年200人を超える中学校や高等学校ではそうした授業を受ける機会を提供すべきです。国家戦略として高学力層を育てる具体案をもつべきです。
それにはそうしたニーズに応えられる教員を要請しなければなりません。教職大学院と法科大学院を除く大学院卒の者に無条件で教員免許を交付し、給与も優遇すればいい。

物事は地政学的な位置や軍事・政治的な背景などを横軸とし、歴史的経緯を縦軸とし、糸を織るようにしてみないと、わからないということです。
中高生は地理は地理、歴史は歴史、日本史は日本史、世界史は世界史として個別的に分断された形で学習するから、こういう横糸と縦糸を織るようなものごとの見かたになれていないでしょうね。

大人がこうした議論をすることは、中高生の啓蒙に役に立ちます。
皆さんの、議論に感謝申し上げます。


by ebisu (2014-01-19 12:20) 

後志のおじさん

ebisuさんには申し訳ないのですが、――――ホッカイドウキョウイクダイガク程度で「教授」やってますっていう程度の人たちやその「教え子さんたち」には、とうてい無理な授業ですね。

――――ぶっちゃけた話、ホクダイにさえ(ホクダイ程度の大学は首都圏では30校以上ある。)入れなかった人が、大学内部のしきたりにしがみついて教授になった程度の人たちがま「ホッカイドウキョウイクダイガク教授」なのではないでしょうか?――――昔、大学にいた頃、周りの人たちは外国の文献を「原書」と呼んでいました。無条件にまず受け入れて、(日本国内での)情報優位を見せつけるあるいは、無言の権威付けのようで、不快な言葉でしたが。
彼らは、外国の目新しものを持ち込めれば大学教授でいられたのですが、2014年のホッカイドウ キョウイクダイガク教授は、40年前の日本の大学教授の意識でしかないのです。―――その前に、「アタマワルスギ」ですけど。
by 後志のおじさん (2014-01-19 22:21) 

ebisu

後志のおじさんへ

参りましたね、地理と歴史、同じ社会科でも教科横断的な授業は無理ですか。

>ホッカイドウキョウイクダイガク程度で「教授」やってますっていう程度の人たちやその「教え子さんたち」には、とうてい無理な授業ですね。

競争の激しい民間企業で働いていると、何か問題が持ち上がるとプロジェクトが編成されます。
たとえば臨床検査会社で何か問題が持ち上がったとしましょう。
もちあがった問題は、経営や会計学的な側面、コンピュータシステムの問題、医学的な側面、検査技術的な問題、測定機器の問題、検査試薬の問題、廃液処理の問題、需要予測など理系や文系を問いません。つねに多面的なものとして現れますから、複数の分野の専門知識を収集し、実務で使って磨いておかないと問題の具体的な解決案が出てきません。

どうも学校というところは現実社会と遠く離れたところにあるようです。
教科ごとに分割して基礎的知識を授けるのは、中位以下の生徒群にはいい方法でしょう。しかし、成績上位群の生徒には複数の教科の知識の統合とか融合があってはじめて見える世界があるのですから、そこをのぞかせてあげるべきです。そういうフィールドで素質のよい人材がぐんぐんその能力を伸ばします。

それにはたしかに教える先生の専門知識レベルが問題ですね。受験問題レベルの知識ではとても間に合いません。

とくに北海道教育大出身者でなくても、こうした教科横断的、あるいはクロスオーバした分野の授業をやりうるだけの専門知識をもっている先生はどんなに多くても5%程度でしょうね。
給与やボーナスがいっしょではバカバカしくてやるきになれない(?)。民間会社では複数の分野をクロスオーバできる能力の人材には、それにふさわしい仕事が回ってきます。ボーナスも2倍ほどになるし、昇給や昇格も業績と連動していますから、インセンティブが働く。
一生懸命にやっている先生たちを存じ上げていますが、どんなに一生懸命にやっても年収の面では報いられない。

日本は国際的には高い学力ということになっていますが、成績上位層に教科横断的なあるいは教科融合的な授業を提供して、毎日放課後1時間補習体制を組めたら、教育分野にもビジネス分野にも、尖端の仕事を担える人材を輩出できるでしょうね。

わたしは経済学が専門なので、北海道教育大札幌分校の経済学担当教授のことを書きますが、経済学が専門ではない人が教えています。専門知識があればいいのですが、???です。あれでは学生が育ちません。札幌分校ですらあれでは、後は推して知るべしかもしれません。学生が可愛そうです。首都圏の偏差値45くらいの大学のほうがしっかりした教授がいます。
能力の高い学生がすぐれた先生に師事するということは大切なことです。

>(ホクダイ程度の大学は首都圏では30校以上ある。)

入試偏差値もそうでしょうが、教授陣のレベルはもっともっと格差がひどい。首都圏の大学には優秀な学者が多い。一つの学会で国内で三本指に入るような学者のほとんどが首都圏の大学に集中しています。
哲学と経済学史と西洋経済史はそういうレベルの先生に教えてもらいました。奇跡みたいなものです、ラッキーでした。

だから差が大きすぎて道内の大学は生徒には薦めたくありません。無理をしても首都圏の大学で学ぶほうがいい。
道内企業が少ないですから、東京に本社のある会社への就職活動もお金がかかって、道内大学は圧倒的に不利です。3年生になると100社は応募するのがあたりまえと、進路指導の職員からはっぱがかかっています。

>昔、大学にいた頃、周りの人たちは外国の文献を「原書」と呼んでいました。無条件にまず受け入れて、(日本国内での)情報優位を見せつけるあるいは、無言の権威付けのようで、不快な言葉でしたが。

わたしはいまでも「原書」という言葉を使います。『資本論』はドイツ語版とフランス語版で内容が違います。諸概念の構成の仕方が違う。どちらもマルクスが書いていますからテキストクリテークは不可欠です。『経済学批判要綱』も学術論文を書くには元のドイツ語の新メガ版を当たらないといけません。翻訳書に対してやはり「原書」と呼ぶしかありません。
しかし、『風とともに去りぬ』は'Gone with the Wind'を「原書」と呼ぶのは抵抗があります。(笑)

話しを戻すと、団塊世代が大学生の頃は外国の学説を受け売りするだけ、そういう先生が多かった。へたくそな翻訳で無批判に外国の諸説を紹介するだけ、自分の頭で考えられないそんな教授たちがウヨウヨしていました。
いまでも学者の10人に9人は他人の学説の受け売りですから。

後志のおじさんの意見は、教科横断的な授業は現在の学校では無理ということですね。

必要だとしたら、それを可能にするにはどうしたらいいのかということを論じてみたい。
人口減少時代へ突入したという歴史的な視点を欠いたアベノミクスは、日本の国家財政を破綻へと導き、大きな災厄をもたらすことになるでしょう。
おそらく一世代、30年間はきつい時代が続くことになります。そうなったときに、困難な時代を担える人材を育てておくにはいま何をどのようにすべきなのか、文科省はそういう視点から教育戦略を見直してもらいたい。これもないものねだりと、後志のおじさんに叱られそうですね。(笑)

by ebisu (2014-01-20 00:28) 

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