#2557 基礎学力問題対話(3) : 教師の仕事とは? Jan. 5, 2014 [A7. J&K対話]
今日は『風とともに去りぬ 五』を読んでいる。南部は民主党の地盤で、北部は共和党、なんとなく逆だと思っていた。あなたはどうか?
初回は基礎学力問題と就職について議論した。そして前回は労働時間と仕事時間という考え方の差異、そして学校と民間企業の仕事時間の総意についてだった。今回は教員の仕事のナカミについての対話である。
K:考えの違うところは承知しつつ、具体的な論点を取り上げながら、議論を深めたい。それで今回は仕事のナカミをとりあげてみようと思うが、どうか?
J:それではわからない、もっと具体的にいってもらいたい。
K:先生の仕事の中心は授業だろう、そこをとりあげたい。教師の仕事のコア(核)の部分といってよいだろう。
J:なんだ、授業か、取り上げることについては異存はないよ、何が問題なんだ?
K:3校6回のフリー参観授業でわかったことは、中学校の先生たちはあまり勉強していないということ。それは教員免許ともなんとなく関係がありそうに思えるんだ。
J:証拠もなしに「あまり勉強していない」というのは言いがかりだ。
K:では具体的な話しをして見たい、どういうことかというと論点は二つ三つある。一つ目は学習指導要領との関係だ。文科省は一昨年に学習指導要領は教える内容の最低基準だと定義を変更したのだが、現場の先生たちは切り替えができない、あいかわらずこれまでそうだったように、学習指導要領に記載のある事項しか授業で教えていない。そこからはみ出した授業はフリー参観授業でついに一度も「目撃」しなかった。
一例を挙げると、現在完了の継続用法のところでの文例は現在完了進行形をつかった例文が一つも挙げられていない。学習指導要領にないからか、教師用の本に載っていないからだろうとわたしは推測している。学習指導要領をはみ出しているから以前は教えてはいけないことだったが、いまは教えていいのだよ。でも、長年の授業が癖になって、一歩前に踏み出せない。もっと授業研究していいはずだ。
生徒のノートをモニタリングしてのことだが、数学の「場合の数」は中2の分野だが、コンビネーション記号nCrやパーミュテーション記号nPrを解説した先生を知らない。中学校で上手に教えていいのだよ。大半の生徒が高校数学Aを苦手としているのは、中学校の授業のやり方に問題があることを示している。中学校の授業は高校の授業とのつながりを意識してメリハリをつけてやるべきだ。ニムオロ塾では成績上位層には教えている。考え方がわかれば、大丈夫だ。
二次方程式の一般解だって解法手順を教えてやれば、成績上位の生徒30%ていどは理解できるだろう。37年前に東京渋谷の進学教室で教えていたときは自分の担当の生徒には全員教えていたし、自力で一般解を導き出せない生徒はほとんどいなかった。二次関数も数Ⅰの範囲まで拡張して説明していい。頂点の移動と式がリンクするのは楽しいはずだ、要点だけ解説して知的興味をそそってあげたらいい。東京の中高一貫校では中3年生に数Ⅰの二次関数を教えているよ。隣の釧路の武修館中学だってやっているはず。
塾は元々学習指導要領を超えてやるのがあたりまえの世界だから、授業進度を学習指導要領に縛られることはないから、生徒のニーズに合わせて教えている。中3のトップクラスの生徒には、中級レベルの語学研修所用の問題集"grammar in Use"すら何度も使っている。高校から大学教養課程レベルだろう。
J:学校の全部の授業を見たわけではないだろう、結論が早計ではないのか?
K:それはそうだが、全部を見るなんて不可能な話だから、そんなことを議論しても始まらない。見た限りで物をいうしかない。
長年の習慣は改められないものだ、癖になっているから、ベテランほど切り換えが困難だろう。いままでの授業パターンが身についてしまっている。「癖」をとるのは案外むずかしい。
J:二つ目はなんだ?
K:教えている科目の素養の問題だ。たとえば英語の授業だ。4年ほど前まで使っていた教科書には'will' と'be going to'の誤用が載っていた。どの学校の英語の先生もその誤用を指摘しなかったよ、不思議だった。高校の英文法の副読本にはきちんと出ているし、NHKラジオ講座でも、テレビ講座でも10年も前からそういう解説をしていたり、使われるシーンの違いを説明していたからね。つまり、自分の教えている科目についての新しい情報を見ていない、あるいは無関心ということだろう?知っていてあえて目をつぶっていたという可能性がないとはいわぬが・・・
大学の学部時代の知識レベルにとどまっている教員が少なくないのだと思わざるをえない。それにはシステム上の理由もある。
J:二つ目の論点は、教えている科目についての教員の勉強不足、専門知識不足ということか。ところでそのシステム上の理由というのはなに?
K:OJTさ。学校にはOJTがない。On the Job Training は民間会社ならどこでもやっている。新入社員は3年ぐらいOJTで上司から指導され、叱られて一人前になる。学卒の知識なんて基礎の基礎だ。OJTを経なければほとんどが使いものにならない。
J:学校だって研修はやってるぜ。
K:そこが違うのさ、民間企業は毎日の仕事がOJTだ。三年くらいみっちり仕込まれてから仕事を任される。もちろん、OJTがすんだあとも、「ホウレンンソウ」はあたりまえだ。
J:なんだいその「ホウレンソウ」って。
K:報告・連絡・相談だ、それを一文字ずつとって「報連相」というんだ。OJTに話しを戻すと、たとえば英文科を卒業した新入社員が、輸入商社で一人前の仕事ができるようになるには3年ほどかかる。大学でやる程度の勉強では実務はこなせないということだ。学校の先生は教員に採用されたら、OJTなしにすぐに授業をやることになる。OJTなしに三年で一人前になれるものなんて10人にひとりだろう。つまり、必要なトレーニングを積んでいない者たちが、授業をしている。専門知識も足りないし、授業技術の指導もうけていない、これではうまくいくはずがない。だから、教師用指導書の通りの授業になってしまう。同じ科目については同じところをやっていたら滑稽なくらいそっくりな授業になっている。
J:うーん、反論材料のもちあわせがない。
K:教育大の教授たちは具体的な指導技術をもっていないのだろう。やたら屁理屈のような教育論を振り回すだけ。師範学校だったら、授業技術の習得にもっと力を入れていいし、教える指導技術ももっともっと具体的であるべきだ。
J:教員免許の話しがあったね、それが三つ目かい?
K:そうだ、その点はわたしよりもジローのほうが知っているだろう?教員養成大学は単位をとればどの科目でも免許取得可能だということ。一般大学では学部学科で教員免許の種類が限られている。その反面、交付される免許の科目については4年間みっちり勉強する建前になっている。ところが教員養成大学では何単位かそれぞれの科目に必要な単位を修得するだけでいいのだろう?教育大ではないのでわたしはそのあたりのことをよく知らない。
J:そうだ、そうなってたはず。そんな風に聞いた。
K:もともと教える科目について、教育大出身者と一般大学出身者とでは専門知識の量に差がある。そのうえ、OJTがないとなったら、どういうことになるか想像がつくだろう。授業を参観して、どうして専門知識が浅いのか理由がわからなかったのだが、昨年ようやくそのあたりに気がついたという次第だ。
J:大学で不十分なら、卒業してからやればいい。
K:そこが問題なんだ。不勉強な先生が多いというのを事実と假定すると、OJTがないことは致命的だ。おざなりな数日の研修などほとんど効果のあるはずがない。OJTは日常的なトレーニングなんだ。上司は何人かの中からはいあがった管理職あるいは主任・係長クラスだからルーチンワークのスキルはしっかりもっている。毎日の仕事を通してそのスキルを伝えるわけだ。
学校の教員にはそういうあたりまえのトレーニング・システムがない。
J:もっと何かありそうだな?
K:いい勘している、ピンポーンだ。ここからはわたしの持論だが、「労働」*という考えがいけない。労働能力を時間で切り売りしているという意識こそが癌だ。北教組や日教組の先生たちは、マルクスの賃労働概念をよくご存知だ。時間を切り売りしているという感覚で「労働」したら、どうしたら得すると思う?それはナカミを薄くすることだ。ロシアの農業労働者が雇い主に隠れて作業中に酒を飲んだくれ、仕事の手抜きをするというシーンを見たことがある。NHKの特番だった。マルクスの労働概念を受け入れてしまうとああいうことになる。
「労働」ではなく「仕事」と思えばまったく態度は違う。仕事は元来神聖なもので、他人に言われなくても手を抜くことが許されない。神々への捧げものをつくるのが仕事の本来の意味だ。どんな職人仕事も神聖な部分を秘めている。教員を知を伝える職人だと定義したら、仕事の手は抜けなくなる。仕事の手を抜くような者は半端職人としてさげすまされる。毎日、己の専門知識を深め、授業技術を磨く、それは教員のあたりまえの義務だ。そういうことを欠いたら、まともな仕事にならない。教員も他の職人たちとなんら変るところはないとわたしは考えている。正面から向き合ったら、教員というのは実にたいへんな仕事なのだろうと思う。一流の職人はどんな分野でもそれなりの厳しいトレーニング、研鑽を積んでいる。
J:学校の先生たちは専門分野について勉強不足、そして学卒者が一人前の教員になるシステム=OJT学校にはないというのがケンの主張か。
K:全部の先生がそうだというのではない、参観した授業の限りではそのとおりだ。だが、授業スキルについてはトレーニングを積み重ねその技倆を高め共有している先生たちがいることを知っている。わたしはそういう先生たちを高く評価しているから、全部否定ではないのだよ。
さて、そろそろジローの子育て、家庭学習の躾け方についてうかがおうか。次回は小学校に入学するお母さんたちのための講座だ。
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*【労働と仕事:概念の差異】#2556より抜粋引用
労働と仕事はまったく異なる概念で、言葉は正しく使うべき。自分の授業が労働だなんてカン違いしている要因はいまからその考え方の誤りを正して仕事に励んでもらいたい。とても大切な概念なので再掲する。
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J:労働時間の話か。
K:それがいけない、仕事時間だ、労働時間の「労働」ということばはマルクスや古典派経済学の濃い色がついている。労働の労はワカンムリの上の点は旧字では火が二つ並んでいる、そしてテヘンがあった。白川静『字統』には次のように載っている。
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労:声符は労(ろう)。労はもと聖火をもってスキ(力)を祓い清める意で、農耕儀礼に関する字であるが、のちひろく労働をいう。
働:声符は動(ドウ) 動はもと農耕に従事することを意味する字。重の部分はもと童、すなわち家ドウ(ドウの字はニンベンに重の字)、すなわち召使をいう。働はわが国で作られた字であるが、中国の字書にも入れられており、労働の字に用いる。
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労働の労の字は火をもってスキを祓い清めるという意味だ、手で掬い取ることを意味する。働の字が意味深だろう、自ら働くのではなく、ご主人様がいて、召し使われるという意味だ。西洋のlaborの訳語としてふさわしい。「汗水流して働く」「苦しむ」「苦役」という意味がlaborにはある。本をただせば、ギリシアの市民社会=奴隷制社会にいきつく。ご主人がいてその命令で汗水流して働くことをいう労働の本来の意味がここにある。
奴隷制度の存在しない日本には古来「労働」をいう概念はない。あるのは「仕事」だ。「仕」は「学ぶ」「仕える」の意であり、「仕えるために学ぶ」こと。「事」も「つかえる」の意で、「宦学して師に事(ツカ)ふ」という語があり、「仕官のために学ぶことをいう」。
日本語の仕事は八百万の神々あるいは天照大神に捧げるものをつくることをいう。仕事は神聖なものだ。だから年の仕事始めには禊をして仕事をし、神に捧げる。刀鍛冶の仕事を想起してもらいたい。仕事が神聖なものなら手を抜くことは許されない。一人前の職人はけっして仕事の手を抜かない。抜けばそれは仕事に対する冒涜だから。必要なスキルは日々磨くし、仕事のできばえに直結する道具の手入れも怠らない。それは工場労働者ですら同じだ。工場の機械の手入れ、清掃の手を抜かないのが日本人の工場労働者だ。それは工場の職人という意識があるからだろう。米国の労働者なら5時のチャイムがなった途端に、仕事を放り出してそのまま終業だろう。日本人は片付けの時間を計算して、周りをきちんと片付けて仕事を終える。これは職人仕事の伝統からきている。仕事を始める前よりも終わったときのほうがきれいだと思えるくらい片付けと清掃の手を抜かない。
製造業の5S運動は職人仕事の文化の上に咲いた花だ。その淵源はおそらく縄文土器の製造にまで遡るから、5000年の文化的背景がある。日本製品の品質を高めている理由の一つは5000年培ってきた職人文化だ。
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*#2555 基礎学力問題対話(1) :社会が悪い⇔低学力層は就職が困難 Jan. 4, 2014
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2014-01-04
#2556 基礎学力問題対話(2) : 労働時間と仕事時間 Jan. 5, 2014
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2014-01-05
#2557 基礎学力問題対話(3) : 教師の仕事とは? Jan. 5, 2014
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2014-01-05-1
#2558 基礎学力問題対話(4) : 勉強の躾け方 Jan. 5, 2014
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2014-01-06
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