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#2520 PISAで日本の高校1年生の学力上昇中 Dec. 6, 2013 [64. 教育問題]

 PISAとは
 Programme for International Student Assesment
  OECDによる国際学力調査である。

 「釧路の教育を考える会」には分析力随一のハンドルネーム「合格先生」がいるが、PISAの結果に関する興味深い分析をブログで提供してくれている。この人の並みはずれた分析力にわたしはしばしば驚かされる。どのような新聞の論説も彼の解説には遠く及ぶまい、パトリオット*の面目躍如、鋭い分析をぜひお読みいただきたい。 

ブログ「情熱空間」より
http://blog.livedoor.jp/jounetsu_kuukan/archives/6973702.html
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2013年12月06日

あっちの水は甘いぞ

甘い話には罠がある。おいしい話。甘い誘い。そうしたものに乗らない。悪徳・悪質商法の被害に遭わないための心得ですね。さて、子どもの勉強(学習指導)についても同じことを感じるといったお話です。

子どもに楽をさせて、それでいて勉強がしっかりできるようになる方法。そんなもの、ありゃしません。フィンランドの教育を手本にすべきだという意見がいまだに根強いですが、そこにはそうした臭いを感じます。

隣の芝生は青く見える。やれ政治がダメだ。やれ経済がダメだ。やれ若者がダメだ。歴史教育もそうですが(苦笑)日本人は何かにつけて「自虐的」ではありますが、合格先生も指摘の通り、日本よりも治安が悪い、日本よりも経済状態がよろしくない、日本よりもはるかに歴史の浅い、そうした国に頭を垂れて学べって、理解不能です私には。

よきエッセンスはよき参考にし、それでいながら日本の伝統的子育て、日本の伝統的教育といったものに立ち返るべきだって思います。というわけで、同志 合格先生のサイトから。

「楽しく学べる学習環境」って、あっちの甘い水、隣の青い芝じゃないんですから。一見、理想的に見える家族だって、絶対に何らかの問題なり悩みなりを抱えています。他人をうらやむんじゃなくって、自分をして理想に近づくようにすればいい。そう思います。

●OECDの学力調査
http://www002.upp.so-net.ne.jp/singakukouza/jijimonndai.html#Anchor-10388

《引用開始》
道新の見出しに、ガッカリ

 12月3日に2012年度に行ったOECDの学力調査の結果が発表された。日本は前回より順位を上げ、学力は回復傾向にある。(北海道新聞より)
 ということなんですが、北海道新聞の見出しを見て、さすがにガッカリ。31面に「楽しく学べる学習環境を」だって。あのね、このテストを受けている子って、高校生。小学生じゃないんだって言うの。おまけに、上位の国や地域で「楽しく勉強してます」っていうところ、どこさ? 将来を見据えて、上位校に進学するための受験が厳しいところばかりでしょ。おまけに「欧米に学べ」って、日本より治安も経済も悪いところに何を学べっていうの。日本をPIGSにしたいんだろうか。

 また、ここに出てくる大学教授で、フィンランドについて語っているのがいるけど、フィンランドの教育、分かってるんだろうか。フィンランドの「宿題が少ない」っていうのは、半分、嘘だぞ。フィンランドでは、その日の学習内容をその日のうちにしっかり身につけるという事が前提で、学校で勉強した内容を「学校で全部処理出来る子」は宿題が無いけど、「処理できなかった子」は全部家に持ってかえって、家の人が必死に教えなきゃならないんだっていうの。子供によっては夜の8時・9時まで毎日勉強しなきゃならないの。だから、数年前の調査結果では、勉強嫌いの子の割合が世界トップクラスだったでしょ。おまけに「学校に遅刻する」や「学校をサボる」子の割合も世界トップクラス。それを隠して「学習時間も少なく、宿題も少なく」だって、バカじゃないの。「たいした努力もせず、成果がトップクラス」なんて思っている事自体、おバカ発想。そんな虫の良い話があるわけない、と眉唾で聞いておくのが普通だっていうの。そういう状況になっているのは、学校だけで事を済ますことの出来るレベルの子だけなんだから。
 さらに言うと、その上位者は、小・中学校で勉強習慣がついていないもんだから、高校・大学に行ってから大変な思いをする事になっていて、フィンランドでは、この「上位者の育成」が大きな課題となっているんだぜ。冗談じゃない、こんなところの真似をして、何か、良いことあるか? ちなみに、若者の就職状況は、年々、悪化しているという話だぜ。

 もっと言うと、フィンランドでは、入学時点で子供が「学校の指導に馴染まない」と判断されたら「入学を一年遅らせましょう」という話になるんだっていうの。だって、無理矢理入学させたところで、親が毎日勉強を見てあげなければならないから、そうなると、親も子供も大変でしょうに。だから、ある程度、ちゃんと先生の話を聞けるような子でないと、親と教育担当者が協議をして、入学させるかどうか、という話になってしまうわけ。きちんと勉強について行けないと思われる子を、こうして対応しているんだもの、平均が高くなって当たり前でしょうに。どこを見て話をしているんだ、この教授。
 道新もさ、こんなおかしな教授のコメントを取ってくるな、って。

 フィンランドの良いところと言うと、それは、学校側の「学んだ、その日のうちに、しっかり学習内容を身につける」という意識と「読書を子供達にしっかりさせる」という教員の本に対する研究姿勢だっていうの。それともう一つ、学習障害者や特別支援が必要な子に対するのシステムの充実。日本が学ぶのは、この点だって。
《引用終了》

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*<パトリオットについて>
 いささか長すぎる解説であるとは承知しているが、重要な概念なのでパトリオティズムとパトリオットについて過去ログから引用を許されよ。

*#1029 『現代語訳 帝国主義』幸徳秋水著・遠藤利國訳 May 16, 2010
 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2010-05-16
<抜粋>
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 日曜日になると、ゆっくりと長いブログが書きたくなる。今日は、旧友・遠藤利國による現代語訳、幸徳秋水原著の『現代語訳 帝国主義』を採り上げる。奥付を見ると「5月10日初版印刷、5月25日初版発行」となっているから、まだ初版が印刷されたばかりで、書店には並んでいないかもしれない。

 原著である幸徳秋水『帝国主義』は1901年(明治34年)4月の出版である。内村鑑三の「序」がついているくらいだから、秋水はこの時すでに相当に期待された論客であったようだ。
 幸徳秋水の格調高い美文は現代の若者にはもはや読みにくいものであるようだが、岩波文庫で原著『帝国主義』が出ているので、ぜひこの書と併せ読まれたい。

 1901年といえば日清戦争(1894年)と日露戦争(1904年)のはざ間にある。中江兆民が幸徳秋水を可愛がったようだが、兆民亡き後、政治的な後ろ盾を失い孤立していったと訳者はみている。その延長線上に大逆事件が起き、直接の関係はないにもかかわらず処刑される。
 わたしはどういう点で民権論者の兆民の系譜を引いているのか『三酔人経綸問答』(岩波文庫)もざっと読んでみるつもりだ。
 時代の潮流との関わりではもうひとつ挙げておかねばならないものがある。レーニン著『帝国主義論』とのかかわりである。1917年に出版されているが、幸徳秋水の『帝国主義』はそれよりも16年早い。レーニンは金融資本による産業の独占化をベースに論を展開し、資本主義が行き詰ると同時に社会主義革命が必然であると主張している。
 ロシア革命のさ中の高揚の中で我が田に水を引く論を展開したレーニンと、透明な知性で私利私欲を離れて日本的情緒で経済を観察した幸徳秋水の、いずれの論が正鵠を射ていたかは今日の状況から明らかだろう。
 自己や自己の属するの集団の利益を頭の隅のどこかでチラとでも考えたら、その途端に目が見えなくなるものであるらしい。ケチな根性で経済を観察しても、大事なところで論を誤るものであることは注意したい。
 資本主義化が遅れたロシアで革命が起こり、70年後に行き詰ったのは共産主義経済の方であった。だが、物質的欲望の拡大再生産装置である資本主義もまた地球環境問題を中心に行き詰まりをみせている。
 馬場宏二氏のように生産力の野放図な発展が地球環境を破壊し、人類の生存にとって危機を招来しつつあると、過剰富裕化論を展開している経済学者たちも小数ながらいる。
 最近十年間を見ると、生産力の発展や金融工学の発展によりグローバリズムや資本主義そのものが自壊作用を呈しているのは間違いのないところだ。

 遠藤利國氏の前著でつい先ごろ3月に出版された『明治廿5年 九月のほととぎす 子規見参』は子規の死の10年前の一年間を追った著作であった。どういう偶然か『現代語訳 帝国主義』も明治34年、幸徳秋水が刑死する10年前の出版物である。

 『帝国主義』は愛国心と軍国主義をキー概念に論が展開されている。古代ギリシャでは愛国心を煽ることで一兵卒が多数戦場で死に、生きて帰った者も荒れ果てた田畑で収穫もなく奴隷に身をやつさざるをえなかったことや、ビスマルクが愛国心を煽って中心に北部ドイツを統一することでプロイセンの版図を広げていったことなどを例に挙げて、愛国心と軍国主義を論難している。

 秋水はナショナリズムとパトリオティズム(郷土愛)を区別せずに愛国心をすべからく偏狭で排他的なものであると定義しているが、わたしは郷土愛とナショナリズムは区別したい。その点の説明は藤原正彦著『国家の品格』に譲る。
 #1030 『nationalism とpatriotism』 May 17, 2010
  http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2010-05-17


 秋水は自国への愛は他国への敵愾心と裏返しの関係にあり、「野獣的天性」に基づくものとみなしている。

「これを遺伝的な性情であり、どうすることもできぬものであると言ってはならぬ。思ってもみよ。自然に発生する弊害や毒を防ぎ、食い止めることこそ、まさに人類の進歩と言える所以ではないか」
 
 秋水の言うように、人間はあるグループに属すると、近隣の他のグループに敵愾心を抱くように遺伝的にプログラムされているように思える。だからそれを制御しなければならない。欧米社会はこの野獣的本性を野放しにしてきた。日本もまた同じだというのが秋水の立論である。
 わたしはいささかこの論に異論があるのだが、明治34年、日清戦争後の兵卒たちの困窮振りや、階級の上の者と一兵卒の戦死者への補償の極端な格差を前にすれば、心情的に無理のないことは理解できる。

 秋水は愛国心に対して惻隠の情や憐憫の情を対置している。武士道の根幹を形作る日本的情緒が普遍的なものとして秋水の価値観の中にゆるぎなく存在しているようにみえる。理や知を説きながら彼自身も日本的情緒の只中にいるのである。そして理性による欲望の制御を次のように説く。

「自然の欲情を最も多く制御する人民は、最も道徳の進歩した人民である。・・・文明の福利を享受しようとするものは、自然に盲従してはならぬのである。」P.50

 次々に武力と暴力で世界中を植民地にし、領土拡大を図るのは自国の商品を売りさばく市場を確保するためと喝破している。帝国主義の時代は「貿易は国旗に続く」時代でもあった。
 秋水は武力や暴力をもって強いるのでなければ貿易ができぬという理由はないとし、富の分配を公平にすることで、自国民の購買力を高めることで解決できると主張している。
 訳者はあとがきでフォード自動車を例に挙げ、幸徳秋水の着眼の確かなことを実証している。フォードは自社の社員の給与を上げることで社員が自社製品を買うのを目の当たりにして、国内に広大な市場が存在していることに気づくのである。

 秋水は次のように結論を書き、その著書を締めくくった。
「ゆえに我は断言する。帝国主義という政策は、小数の欲望のために多数の福利を奪う者である。野蛮的感情のために科学的進歩を阻害するものである。人類の自由平等を殲滅し、社会正義と道徳を毀損し、世界の文明を破壊する害虫である。」

 訳者「あとがき」によれば、フランスで『帝国主義」の翻訳が進められているようだ。なかなか感性の鋭いフランス人がいるようだ。現代的意味ありと判断したからだろう。
 ところで、訳者はこの書の現代的意味を次のように述べている。

「現在の日本がその豊かさを維持しようとするなら、国際社会のなかで良好な関係を維持して行かなければならないのが、今日の日本の運命であり、使命である以上、「国」とか「愛国心」という言葉を使用する場合には、なおさら周到な配慮が必要であろう。この『現代語訳 帝国主義』がその点でいささかでもお役に立つことがあれば、あえて現代語訳にして出版しようという本書の使命は果たしたことになるのである。」P.156

 わたしはこの書を社会科を担当する教員に読んでもらいたい。たとえば、高校「日本史B」の教科書では大逆事件は採り上げられているが、幸徳秋水の思想には一行だに触れられていない。「この時(大逆事件)警視庁内に特別高等警察(特高)とよばれる思想警察がおかれた」とあるだけである。『帝国主義』は現代の状況を見てもその意義を失ってはいない。派遣労働者を含む非正規労働者=経済的弱者への惻隠の情は、日本的情緒の本流をなしているからだ。
 本書と比較対照しながら原著を国語や英語担当の先生にも読んでもらいたい。とくに英語を担当する教員は日本的情緒意識しながら語学教育に当たってほしい。

【"三方よし"の商道徳と職人経済社会への展望】
 ここからはシロウトの勝手な論である。幸徳秋水についてはわたしはまったくの門外漢だが、惻隠の情を強調しているヒューマニスト幸徳秋水が現在の日本の状況に直面したらどのような警醒の書を著すのかを想像してみたい。対外的な関係については訳者の遠藤氏が「あとがき」で言及しているので、わたしは国内問題に目を向けて少しく論じてみたい。

 日本の伝統的な商道徳である近江商人の「売り手よし、買い手よし、世間よしの三方よし」は自分さえよければという弱肉強食の野獣の論理であるグローバルスタンダードとは対極にある価値観である。
 近江商人の商道徳であるこの「三方よし」は「宝暦4(1754)年に70歳となった麻布商の中村治兵衛宗岸(そうがん)が15歳の養嗣子に認めた書置(かきおき)のなかの次の一節である」が原典であるらしい。URLを掲げておくので読まれたい。
 http://www.shigaplaza.or.jp/sanpou/ethos/ethos.html

 ひとり近江商人に限らず、商売に関しては日本人が普遍的に受け入れることのできる価値観だろう。呉服商である越後屋(三越)の「定価販売」もこうした流れのひとつである。顧客に駆け引きをせずに正直・誠実な販売を旨とする。「士魂商才」は三越の前身である越後屋でも鴻池の家訓にも見えるらしい。武士の信義に基づいた商いをするとの意味だろうが、広く商家の家訓として伝えられている。
 商道徳に関しては"三方よし"や"士魂商才"のような信義を第一とする考え方が支配的になっているから、本邦では自分(売り手)さえよければ買い手がどのようになろうと構わないという商売のやりかたは歓迎されず、一時の儲けに走り長続きせざる商売のやり方そして品位の非ざるものとして侮蔑の対象となる。
 住友家の家訓にも「浮利を追わず」という一条がある。信義を守り、私的利益よりも公的な価値を重んじ、恣意的な振る舞いを慎むという共通の思想がさまざまな商家の家訓として時代を超えて伝わったところから推測すると、近江商人以前からこうした価値観が広く共有されてきたのではないかとも思う。
 売り手よし、買い手よし、そこで働く人間にとってもそこそこの利益から分配がなされることで幸せはあまねく広がり、世間よしとなるのである。日本の商道徳は数百年の伝統をもつものではあるまいか。縄文時代から森や海と共生してきた日本人の原点にまで遡れる価値観の可能性もあるだろう。沖縄やアイヌに遺風がいまなお伝えられている。

 『帝国主義』全体に流れているのは、日本的情緒から溢れ出たヒューマニズムであろう。それは武士道の惻隠の情であり、弱者に対するいたわりの心である。秋水は社会の底辺の一人一人が幸せにならなければいけないと説く。

 派遣労働法が成立して以来、この十数年で、正規労働と非正規労働の賃金格差は2~4倍にも広がっている。派遣労働のシェアーは年々広がり、すでに雇用全体の30%を超えてしまった。企業収益は前年比25%の伸びを示しているが、利益は給与やボーナスとして分配されていない。労働者の実質収入は年々小さくなり、購買力が落ちて国内市場が縮小しつつあるようだ。

 幸徳秋水がいま現れたら、格差を放置し続けた企業経営と労組批判の書を著さないだろうか?
 偏狭な愛社精神は競争他社への敵愾心に基づくものだから、秋水のいうところの「愛国心」そのものである。社員をリストラして非正規労働者を増やすのも、企業が栄えれば非正規労働者の生活がどのようになろうともかまわないという偏狭な利己主義に映る。正規社員は自己の特権的立場を守り、弱者である非正規社員を省みない。企業経営もまた非正規社員を利用するのみで省みない。秋水はローマの一兵卒を例に挙げているが非正規労働者もそれに類似していないだろうか。

 その一方で、ロシアや中国の実態を知ったら、状況を打開するためにいまさら「社会主義革命」とは言わないだろう。かの国の政治経済は、一党独裁、偏狭なナショナリズムの塊でしかない。そこには弱者への憐憫の情や少数民族へのいたわりの心など一片もない。漢民族と小数の共産党幹部と資本家の利益のみを考慮する社会である。露骨な情報統制と独裁の世界であり、武力と暴力が支配する社会である。

 状況打開の鍵は日本にある。「売り手よし、買い手よし、世間よしの三方よし」がその鍵だ。正直・誠実に仕事や商取引を行う。慎み深く利益を分配し、係る誰もが得をすることを心がける。
 あらゆる労働者は職人であり、己の技倆を日々高めるために研鑽を積む。勤勉だった日本人の本来の姿は職人仕事に凝縮してあらわれている。
 職人仕事は伝統工芸にとどまらない。たとえば、左官・大工・内装・鉄筋・鳶職など建築関係は職人仕事によって担われている。どの職種も高度な技術を磨く名人がいる。そして職人仕事は工場にも存在している。日本流の「改善」は工場労働者が担ってきた。医者が職人であることは論をまたないだろうし、事務職ですら、たとえばSEやプログラマーは職人仕事である。日本ではあらゆる仕事が専門知識や技倆の研鑽をを要求する。そして職人はあらゆる職種にあまねく存在している。
 職人は仕事の手を抜かない、正直な仕事をする。他人が見ていないところで仕事の手を抜くことは恥だと考える。西欧流の奴隷や農奴起源の労働ではなく、刀鍛冶に代表されるような神聖な「職人仕事」が仕事のありようの理想とされる経済社会という側面が日本にはある

 利己的な欲望を押さえ、だれもが誠実な仕事をし、自分一人で利益をむさぼらす、公の利益(世間よし)を優先して考え、行動する経済社会が理想だろう。いまよりよほど住みよくなるし、学力や経済的な弱者である低所得層を詐欺的商法で引っ掛けるサブプライム・ローンのような悪質な商品は姿を消す。
 生産力が人類が生存可能な地球環境維持の限界を超え行き詰まりを見せているが、新たな経済社会の扉を開ける鍵は日本型職人労働と商道徳「売り手よし、買い手よし、世間よしの三方よし」の伝統的な価値観と日本的情緒にある。祖国の伝統的な価値観や情緒を愛するのはパトリオティズム(祖国愛)であるが、幸徳秋水に是非を訊いてみたい。

 アダム・スミスは『諸国民の富』のなかで「神の見えざる手」による経済社会の制御を主張したが、わたしは「人間の叡智によって動物的な欲望を制御する経済社会」を対置したい。そのことは西欧型古典派経済学に、日本の伝統的な価値観に基づく経済学を対置することになるだろう。
 秋水も人間の動物的欲望を抑えるべきことは『帝国主義』のなかで繰り返し主張している。この"三方よし"の原理と正直・誠実を旨とする職人仕事があまねく広がれば世界経済はあらたな経済社会へと生まれ変わる可能性が拓ける。

 "三方よし"や職人仕事をキー概念に、アダム・スミス『諸国民の富』やリカード『経済学及び課税の原理』、マルクス『資本論』を超える新たな経済学が展開できるのではないだろうか
 
 わたしは泉下の幸徳秋水と話しがしてみたい。

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#1030 nationalism とpatriotism :遠藤利國訳・幸徳秋水『帝国主義』May 17, 2010 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2010-05-17
<抜粋>
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 数学者藤原正彦のナショナリズムとパトリオティズムの二つの用語の使い分けについて『国家の品格』から該当箇所を引用して補足しておく。

「愛国心」ではなく「祖国愛」を
 私はいつぞや、アメリカ人の外交官に「お前はナショナリストか」と訊いたことがあります。そうしたら、「オー・ノー」と否定されました。そこまではよかった。
 ところが「パトリオットか」と訊いてしまった。そしたら「もちろんだ」といって今度は怒り始めた。自分が生まれ育った祖国の文化、伝統、自然、情緒をこよなく愛することは、当たり前中の当たり前である。外交官でありながら、そんな質問をされたことを侮辱ととったのです。明治になってから作られたであろう愛国心という言葉には、初めから「ナショナリズム」(国益主義)と「パトリオティズム」(祖国愛)の両方が流れ込んでいました。明治以降、この二つのもの、美と醜とをないまぜにした「愛国心」が、国を混乱に導いてしまったような気がします。言語イコール思考なのです。
 この二つを峻別しなかったため、戦後はGHQの旗振りのもと、戦争の元凶としてもろとも捨てられてしまいました。わが国が現在、直面する苦境の多くは、祖国愛の欠如に起因するといっても過言ではありません。・・・ 私は愛国心という言葉は、意識的に使いません。手垢にまみれているからです。そのかわりに「祖国愛」という言葉を使い、それを広めようと思っています。言葉なくして情緒はないのです。(藤原正彦著『国家の品格』114ページ)

  『国家の品格』が260万部も売れているのは単なる流行だけではなく、しっかりした論が展開されているからだろう。 

 手元にある辞書2冊をみると定義は次のようになっている
Nationalism: 2 a great or too great love of your own country
Patriotism: When you love your own country and are proud of it
     (Cambridge Advanced Learners Dictionary)

Nationalism: 2 the belief that your nation is better than other nations
Patriotism: strong feelings of love, respect, and duty towards your country
     (Macmillan English Dictionary)

 ナショナリズムはtoo great love of your own country(度を越した祖国愛)だったり、他国を省みない排他的なニュアンスがあるが、パトリオティズムにはそういう負のイメージはなく、生まれ育ったホームタウンへの素朴な郷愁や誇りにすぎない。しかしそれも程度問題で、容易に排他的愛国主義(ジンゴイズム)へと転化しかねない危うさももっている。
 Patriotism can turn into jingoism and intolerance very quickly. 

・・・・・・
 さて、訳者はパトリオティズムについてどのように考えているのかメールで訊いてみたので、彼の解説を披露したい。遠藤はラテン語に詳しいから、語源学的な話しを交えた解説は話しを面白くする調味料の役割をするはずだ。大学生や高校生には勉強の仕方について示唆を与えてくれているに違いない。
 以下はメールからの引用である。
 
 藤原氏の「峻別して使う」という話はもっともです。patriotはギリシアの都市国家の時代から使われていた語で<父祖の地、あるいは国>というような意味ですから、祖国愛というのであれば良い訳語ですね。nationはラテン語系統で血筋とか出生等の意味する言葉ですが、ローマ人が祖国愛というような意味合いで使う時は、やはりギリシア人から受け継いだpatriotを使ったようです。nationalismという言葉は近代になってからの言葉なのでしょう。もっとも秋水は愛国主義の語にパトリオチズムのルビを振っているので困ってしまうのですが、おそらくジンゴイズムとかショービニズムとの区別を、あるいは語そのものを知らなかったのかもしれません。
 
藤原氏の引用された文の中に「明治の人達はこの区別を曖昧にした云々」とありましたが、曖昧にしたのではなく知らなかったというのが実情でしょう。なにしろ戦国の遺風そのままの感覚で西欧と向き合ったわけですから、「やるか、やられるか」以外に判断の基準があるとは思わなかったのでしょう。「ほととぎす」でも引用した樺山海相の蛮勇演説も、漢語が混じっているので意味が不鮮明になっていますが、簡単な話がヤクザのミカジメ料を脅し取るときのセリフ、「ここでノウノウと商売できるのは誰のお蔭だ」と同じですから、当然、言われた方も「やるか、やられるか」の感覚で大騒動になったわけです。
この区別が分っていたのは福沢諭吉ぐらいなものでしょう。

 樺山海相「蛮勇演説」のくだりは注をつけておかなければ事情がわからないだろう。『明治廿 五年九月の ほととぎす 子規見参』205ページから引用しておく。

 「薩長藩閥といわれた頃のことである。民党側の薩長横暴の非難に業を煮やした海軍大臣樺山資紀が帝国議会の衆議院予算本会議で、「維新以来内外の多難に贏(か)ち得て、国民を安んじ、国家の安寧を保ち得たるもの、所謂薩長政府の力にあらずして何ぞや」(『明治天皇紀』)という「蛮勇演説」をやらかして大騒動がもちあがり、議会解散となったのは、ハーンが熊本に転任した翌年の12月22日のことである。」

 明治期に諸学のさまざまな概念が日本語に翻訳された。基本的には漢字への翻訳である。明治期は漢学の素養が基本的教養としてあったから、翻訳に際して選んだ漢字のセンスがいい。

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 【5月28日遠藤氏から追加情報あり】
  前回、秋水はjingoismとかchauvinismという言葉を「帝国主義」の時点では知らなかったのではないかと書きましたが、秋水の書簡を見ていたら、明治39年の英文書簡に始めてjingoismという語が出てきました。
 
これは秋水がアメリカから帰国してから海外の友人に宛て日本の事情を説明した書簡に出てきたのですが、この語はやはりサンフランシスコに半亡命していたときに始めて知ったように思えます。

 
 明治39年になってからjingoismという用語を使っているのだから、明治34年の『帝国主義』出版前にjingoismとかchauvinismという言葉をその時点で知っていたかどうかは判然としない。
 いずれにせよ、いい辞書が簡単に入手できる現代と幸徳秋水の時代を同列に論じることは公平さを欠く。愛国主義にpatriotism とルビを振ったところから言えるのは、排他的愛国主義を意味するjingoismと区別がなかったということだ。藤原氏の言うように、あるいは辞書に載っているように、現代のわたしたちはこれらの用語あるいは概念を分けて考える必要がある

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 #2093 教員の質向上はどうやる?⇒ "Educating educators" Sep. 25, 2012 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2012-09-25-1



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コメント 7

合格先生

 お褒めの言葉、ありがとうございます。

 実は、ZAPPERさんのブログにもコメントしたのですが、実情がハッキリしないため本文中に書かなかったことがもう1点あります。
 それは、フィンランドでは義務教育終了時点で、学習内容をしっかり身につけていないと判断される子に「もう一年、義務教育のやり直し」がありますが、問題は、この子たちがPISAのテストを受けているのかどうか。ここが分かりません。
 もし、この子たちが「義務教育が終了していない」などの理由で受験していないなら、フィンランドの平均は、比較の対象にはならなくなってしまうということなんです。

 この点について情報のある方がいるとうれしいのですが。

 
by 合格先生 (2013-12-09 22:49) 

ebisu

こんばんわ

「こんばんは」と書くのと「こんばんわ」と書くのと二通りあるようですが、わたしは「こんにちわ」を幼少の頃に見慣れてしまったので「こんばんは」とは書く気がしません。
ある中学校の校長先生が学校通信でとりあげていましたが、「は」のほうでした。根拠は「今日はご機嫌いかがですか」の後段を省略したものだという説でした。なるほどとは思うのですが、感覚的に納得できません。
他の方の意見も聞いてみたいものです。

フィンランドに知人のいる方いませんか?フィンランドでは留年した人たちはPISAを請けているのかいないのか、問い合わせてもらえませんか?

PISAの対象は15歳ですからね、本来は15歳が留年の有無に関わらず全員テストを受けていなければ比較の材料とはならないのですが、実務を考えると受験してなさそうですね。成績最下位層が受験していなければ、平均値は高くなるのが当然です。
高校で受験するのに、中学校にいる15歳は受験できるわけがないような気がします。
気がするだけですから、実際にどのようになっているのかどなたか確認してほしいです。
フィンランド大使館へ問い合わせないといけないかな?
by ebisu (2013-12-10 00:35) 

ZAPPER

ここにこうあります。
義務教育終了段階の15歳。
http://www.finland.or.jp/Public/default.aspx?contentid=293968&nodeid=41206&culture=ja-JP
by ZAPPER (2013-12-10 01:09) 

ZAPPER

留年、含むみたいですね。
こちらの資料P9末尾から。
http://www.oecd.org/pisa/keyfindings/PISA-2012-results-japan-JPN.pdf
by ZAPPER (2013-12-10 01:28) 

ebisu

ZAPPERさんありがとうございます。

最初の資料ではフィンランドでは無作為に選抜された生徒の90%が参加したとなっています。残りの10%の学力がどうなのかがわかりませんが、意外と不参加の割合が高いのですね。
不参加(あるいは参加)の割合の一覧リストもあってもいいですね。

2番目の資料で、留年組みも試験を受けていることが読み取れますね。
15歳が優先されるキーになっています。だからいろんな学年の15歳がいるようです。
日本は全員が高校1年生ですね。

PISAの実施要領は比較可能性をほじするためにしっかりしているようです。
ネットで検索できるというのはありがたいですね。
by ebisu (2013-12-10 09:09) 

合格先生

 ここが解釈上、どのようになされているか、という点なんです。実は、フィンランドは留年がありません。1年入学を遅らせるか、1年義務教育を追加するか、の2パターンだけなんです。そこで、これを留年という扱いにしているか、どうかなんです。
 それで、ZAPPERさんの検索してくれた最初の方を見てみると「義務教育を修了した段階の15歳」に上記が当てはまるか、という事なんです。ここが義務教育を終了していないと判断され、受験していない可能性もありますし、今回のテストも約1割が受験していませんし。

 留年というと、おそらくは香港などで行われている、いわゆる日本で言う留年と同様のものを差しているのではないか、という事も考えられるので、この点を踏まえて、実際のところを知りたいと思っています。
 フィンランドのホームページを見ても、やはり結果のみで、受験者層は分かりません。もちろん、日本でも「どの高校のどういう子供たちが受けているのか」という事まで情報提供しているところは無いので、それと同様なんでしょうね。
by 合格先生 (2013-12-11 04:17) 

ebisu

おはようございます、といっても、もうぐっすり寝ている時間ですね。(笑)

当初の疑問を維持し続けるその姿勢に敬意を表したいと思います。

>1年入学を遅らせるか、1年義務教育を追加するか、の2パターンだけなんです。

後者は日本の「常識」では留年ということですが、フィンランドでそうであるかどうかは別問題ですね。制度がどうなっているのかよくわかりません。
前者の入学を遅らせるパターンだと、このテストを高校で実施したら、もれてしまいますね。不参加人数にカウントされることになります。

統計というものは結局は原データがどのように収集されたかまでをみないとわからない部分があるということ。
PISAが周到にデザインされていても、教育制度の異なる各国でどういう解釈でデータが収集されたのかにまで踏み込まないとわからない部分があります。
もし、10%の不参加に義務教育未終了という解釈でテストを受けなかった人たちが半分も含まれていたら、結果に大きく影響しているでしょうね。

PISAについてこういう風に具体的な疑問の声を上げることはじつに大事なことのように思えます。
by ebisu (2013-12-11 10:20) 

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