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#2499 個別指導と戦略思考 Nov. 17, 2013 [57. 塾長の教育論]

 TOSS(Teacher's Organization of Skill Sharing)*の模擬授業を見る機会があった。つかみ、展開、じつにスムーズで、計算しつくされたものだった。上手だな、というのがわたしの印象である。なんとはなしに古典落語の世界を連想した。大学時代の友人に落研のメンバーが一人いた、一関の呉服屋さんの跡取りだった。
 授業は一つの芸だ、職人芸といってよいだろう。だから世の中には名人のような者もいれば、一人前といえる技倆の者も、半人前の職人も、そしてとてもプロとはいえない技倆の者もいる。
 教えるスキルを集めて共有しようというのがそもそもの出発点の団体である。
*TOSS (ウィキペディアより)
http://ja.wikipedia.org/wiki/TOSS

 ブログ「情熱空間」のZAPPERさんが、時折、集団授業技術について解説することがあるが、他の人たちはともかく、わたしは学ぶべきことが多い。立ち位置の問題とか、教科書や教材の読み込み、毎回計算しつくす授業計画など。

 授業には価値観や動機に応じてそれぞれのスタイルがある。わたしにはふるさとに11年前に戻り、私塾を開いた動機があり、それが授業スタイルに深く関わっている。
 小学校における家庭のシツケ、学校における基礎基本トレーニングが社会人の仕事の能力の「核」をつくっている。その後に、中高での学習スタイルが加わり、その人の学習スタイルの個性がほぼ形成されてしまうように感じている。それはおそらく大学で勉強しても、その後に社会人となっても変わらぬスタイル=性格になっている。
 社会人となり、30代40代で管理職となって責任ある仕事を任されたときのことも考えながら、ときに必要なワクチンを打っておくのが、ebisu流の授業スタイル。長期のスパンで教育を考えると、いま何をやっておかなければならないかがはっきり見えてくる。ではそういう視点をもたないで、視野を狭くして日々の授業ばかりにとらわれてしまうと何が起きるのか?
 意外なのは、学校の先生たちが生徒が社会人となったときのことをあまり考えないで普段の授業をしているということ。それは羅針盤のない航海のようにみえて危なっかしいどこへ向かっているのかをしっかり意識して教える先生がもっと増えてほしい

 社会人となってから、あるいは管理職として大きな仕事を任されてから、うつ病を発症したり、自殺したりする例が決して少なくない。小学校時代のシツケや中高時代の学習スタイルの選択を誤らなければ、ほとんどが回避できるのではないか。
 責任ある地位についたときに、私利私欲のためにズルをするような人間にならないような学習のさせ方があるのではないか。

 心根がまっすぐで自立して思考・判断・行動のできる人間を育てる、こういう具体的な教育目標があっていいではないか

 生徒のニーズや保護者の教育に対する考え方は多様だから、いろんな授業スタイルの私塾があることが望ましい。全員に最適な塾なんてあるはずもないから、教える先生との相性も含めて自分に最適な塾を選ぶことだ

 同時に10人までなら、科目や学年が混ざっていてもわたしは個別指導が可能だが、これもひとつの職人芸だろう。自分が学生だったらこういうスタイルの塾へ通いたい、それが根っこかな。
 facebookのある掲示板に書き込んだ、ある日の授業を紹介する。

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 誤解を怖れずにいうと、じつはわたしは行き当たりばったりの授業スタイルでやっています。
 さまざまな学力の
5人から10人程度を同時に相手にして個別指導をするので、そういうスタイルが適切と判断しているからです。

 たとえば高校から札幌に進学するトップレベルの生徒には小学生の
5年生のときに、速度を上げて中学卒業時までに数Bまで教えるスケジュールを伝えてあります。5年間の年度単位の長期スケジュールを具体的に説明しておくのです。56年の2年間は英語の指導はしない、国語と算数のみの指導をして、基礎作りをする。中学生になってから英語の指導はするが、ハイピッチでやることだけを説明しておきます。力量次第で中学生用問題集が終われば、その時点で「Grammar In Use(留学時の語学研修所用問題集)をやらせることも説明します。あとは、普段の授業でスピードをモニターしていればいいだけです。この生徒の目標は札幌の高校(南・北・西)へ進学した後に、トップクラスの成績(偏差値70超)をとることにあり、決してそこへの入学が目標ではありません。選択した職業にはそれくらいの学力が必要だから、個別の事情に合わせてそういう目標設定になっています。中学卒業時までに、数学は数ⅡBまで、英語は ' Grammar In Use 'をやっておけば、 高校になってから全国模試で偏差値70を超えることはそう難しいことではないでしょう。いまのところ、学力テストで平均90点前後ですから、予定の軌道を歩いています。学校の学年順位にはこだわるな、目標は中学卒業までに数学ⅡBと Grammar In Use だと繰り返し説明しています。首都圏の難関私立中学受験生に比べたら、ずいぶんのんびりやっています。

 別の事例を挙げましょう。看護学校へ進学希望の中学生には、3年次に学力テスト5科目210点(300点満点)をクリアしていれば、高校3年になってからでも道内の看護専門学校へはどこでも進学可能だと説明しておきます。中学1・2年生には学力テストで400点超(5科目500点満点)をいう目標値を設定します。そして、普段からその目標に沿った個別指導をします。この生徒もほぼ予定の軌道に乗っています。
 もちろん、そのラインに達しない生徒がいますから、それはまた達成可能な別の具体的な目標値を設定して段階的な指導をしています。全員が希望通りになればいいのですが、届かないケースもでてきます。わがままな生徒がむずかしい。家庭のシツケは学習習慣の獲得という観点からは大きなファクターです。小学校低学年でしっかりやっておくべきですね。

 成績トップクラスの生徒には、授業技術の巧拙はあまり関係がありません。目標値にあわせた長期的な戦略プランの有無が結果を大きく左右します。

 成績下位の生徒も必ず混じっていますから、教材もスピードも別です。連立方程式ができない中3の生徒に(成績下位20%)「今日の目標、連立方程式20題」と宣言してやらせましたが、90分でたった8題でした。「来週毎日補習においで」と声をかけておきましたが、3回もやるうちに90分で30題できるようになればこの生徒はとりあえずOK
 他の中
3は図形の相似の問題をやらせていました。手間のかかる生徒には黒板に出てきて問題を解かせて途中経過をチェックします。
 その間に週末課題プリント問題で質問のある高校2年生に三角関数の説明、それが終わると黒板で問題を解いている生徒の途中経過をチェックし、ずれているところを指摘、ヒントを与え、巡回しながら生徒のノートを確認してまわります。

 概ね、授業の都度、授業目標は説明しません。予習してきてわからないところを質問しろと普段から言っています。
 じつに好い加減にやっているようですが、理由があります。自分で勉強するようなスタイルを身につけさせたいからです。なにもかもこちらでお膳立てすると、箸をもってご飯とおかずが出てくるのを待っているような人間に育ってしまうような気がしています。
 民間会社のほうからみると、そういう人材はいくら受験勉強ができても必要ないのです。自分で考え、自分で独立して判断ができ、行動できる人間を育てたい、だから、あまりわかりやすい授業は危ないような気がします。いくつかの民間会社で
26年間仕事して難関大学卒を含むいろいろなタイプの新入社員を見続けたからかもしれません。
 教師が教科書を読み込むだけでは不十分だと思います。職人芸としての技のほかに、専門分野についての深い学識が後ろにあるべきです。生徒の中には感覚の鋭い者がいるのでゴマカシは利きません。

 だから、授業は好い加減でよい、それがわたしのいまのところの結論です。(笑)
 しかし、先日の○○先生の「メッツ」授業、あれにはシャッポを脱ぎます、いいものはいい。


 (オリジナルに加筆した)
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< さまざまなスタイルの授業並存がよい >
 学校は学校の授業をしっかりやればいい、それには職人芸を磨き名人の域に挑戦するもよし、教えている科目について深い学識を涵養するのもよし、己の信ずる道を進めばいい。
 集団指導塾は集団指導に必要なスキルを磨くのは当然のこと、学校の授業をはるかに上回るスキルの高い授業を提供すればいい。
 個人指導塾は、集団指導では補えないところを補完すればいい。それは成績下位層への補習授業であったり、トップ層への戦略的な指導であったりする。

 わたしはかつて商学部会計学科の学生だった。高校時代から会計学や原価計算が大好きで公認会計士2次試験参考書で受験7科目の勉強していた。ひょんなことから原価計算ゼミの試験当日はずせない用事ができて根室へ戻っており、履修を逃してしまった。何度か喫茶店で数人の友人とともに先生を交えて議論をしたことがあったので、申し訳ない気がしていた。ところが、根室から戻って掲示板を見たら一般教養ゼミの募集があり、学部を超えて参加できるとあった。哲学の教授が指導するとある、何が幸いするか分からない、小論文を書いて応募したらOKがでた。高校時代に『資本論』を読んで体系構成がどうなっているのかさっぱりわからなかったので、そうした問題意識を温めながら、『資本論』と『経済学批判要綱』をテクストにしたゼミで2年間毎週市倉宏祐先生(哲学・倫理学)の指導を受けた。北海道の大学ではこういうレベルの教授の指導を受けることはほとんど不可能だろう。
 印象的な授業では経済学史の内田義彦先生、大学院では西洋経済史の増田四郎先生、これらの先生たちはとくに授業技術がお上手だったわけではない、しかし、その学識の深さには頭が下がった。学風の異なるお二人からもずいぶん勉強させていただいた。
 小中学校では授業の職人芸を磨くこともたしかに重要な要素だ、しかし、学識の深さにモノを言わせるというスタイルもある。
 八百万の神々のすむ大和にはいろんな価値観もまた共存していいのでしょう。それぞれが己の信ずる価値観でベストを尽くす、それでいい。


*#2500 11月7日 中学1・2年生 学力テストの結果  Nov. 17, 2013 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2013-11-17-1

 #2499 個別指導と戦略思考 Nov. 17, 2013 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2013-11-17

 #2498 中学校 英語授業進捗管理の実態 Nov. 16, 2013 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2013-11-16-3

 #2494 (2) 根室管内版解説 : RC-2, RC-3 <例証:データの限界>  Nov. 14, 2013 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2013-11-14

 #2492 (1) 根室管内版解説 : RC-1と偏差値 難易度の高い問題を授業でやるべし  Nov. 13, 2013 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2013-11-12

 #2093 教員の質向上はどうやる?⇒ "Educating educators" Sep. 25, 2012 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2012-09-25-1



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ZAPPER

山の頂上の視界は360度。体をぐるりと一回転させればすべてを見渡すことができる。そこに至るまでは実に多くのルートがあるものの、自分の仕事に打ち込んできた人は、他者の仕事のありようをもまた鳥瞰できるようになる。

ebisuさんがご指摘の部分、私はそのように捉えております。山の9号目。等高線に沿ってぐるりと一回りするのはさほどの作業ではない。しかしその麓となれば、時間は膨大にかかっても景色を一望することはまるで叶わない。同じ登山をしていていても見えている景色は驚くほど違う。

TOSSという団体は、明確に登山ルートを定め、実直にそこを伝って頂上を目指そうとなさっている稀有な団体だと私は思っています。しかし、下からそれを見上げては批判をする勢力がまたやけに多い。批判も結構でしょうけれど、高みが違うので「見えている景色」がまるで違う。自分にはそれが見えない。相手にはそれが明確に見えている。でも、見る努力もしようとせずに批判ばかりを繰り返す。

でも、他のルートから登ってきた人間にはそれが分かるんです。批判をしている連中、まだあんな高さにいるんだ。それでいながら、さも頂上に立ったかのように吹聴しているんだ、と。職業に貴賎なし。その本当の意味はこうしたことなんだろうって思います。
by ZAPPER (2013-11-18 15:20) 

ebisu

ZAPPERさん、たとえがお上手です。

>他のルートから登ってきた人間にはそれが分かるんです

模擬授業を一度見ただけで充分でした。
逆説ですが、男が何ごとかをするときは、他から批判があるくらいでないといけません。

ほら、あなたのブログもわたしのブログもあちこちで物議をかもし、批判する人がたくさんいます。
それにまさる味方もたくさんいます。

物議をかもさないようなブログは時間の無駄のような気がして、暇なときにしか書かないようにしています。(笑)
by ebisu (2013-11-18 23:11) 

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