#2437 経済学と人間の幸せ(2):中野孝次と馬場宏二の説をめぐって Oct. 6, 2013 [A4. 経済学ノート]
秋晴れ、空気は幾分冷たくなった、朝の気温は14度くらいだっただろう。サイクリング日和だ。
前回のブログ#2436で「小欲知足」という価値観の共有が新しい経済学を拓く鍵だと書いた、この論点は繰り返し弊ブログで述べてきているもの。
『清貧の思想』の著者中野孝次に『足るを知る』という作品があるが、その中に「1 自足のすすめ」というのがある。そこに次の指摘があるので、少し長いが引用して紹介したい。
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だが、過去五十年の日本では、なるべく骨折らないで望むものを手に入れたいという風潮が支配的で、努力などという言葉はなんとなくやぼったい、冴えないひびきしか発しない語になっている。
そういう言葉がいくつもある。わたしがここで取り上げようとする知足(ちそく)もその一つで、知足すなわち足るを知るとは自分の欲望を制し、いい加減なところで満足するくらいの意味にしか、今はとられていない。要するに不景気な言葉なのである。
だが、もしかすると21世紀の地球上の人間にとってこれは最も大事な生きる上で中心になる徳目かもしれないのである。それは、地球環境の悪化がこれ以上見過ごせない状況になっているとか、地球上のマーケットがどこも飽和状態に達し、これ以上無限の生産向上は不可能で、従って経済は今後ずっと成長に慣れてゆかねばならぬだろうとか、そういう地球を囲む条件が変ったせいもむろんある。ともかく、第二次世界大戦の終わった1945年以降ずっとつづいた大量生産=大量消費=大量廃棄による経済発展は、20世紀の終わりとともに終わりに来た。今後は低成長、横ばい経済、すなわちいま不景気といわれている状態がずっとつづくと覚悟しなければならない以上、人の生き方もそれに応じて変わらなければならない道理だ。
が、それだけでなく、物の生産と消費、物価の獲得と所有、科学技術による果てしない進歩の幻想の上に成立っていた21世紀の生き方は、それだけでは人々に幸福をもたらさないことがはっきりした。限度を知らぬ物の所有欲、快適と便利の追求とは違う原理が、今求められている。その原理の一つが、知足という心掛けではないか、とわたしは思うのである。「足るを知る」、それはたんに欲望を抑えるというだけではなく、もっと積極的により深い生の充実に達するための知恵だと思う。
(11-12ページより)
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このあとに中野は、加藤祥造著『タオ―老子』から詩の一節を引いている。少しずつ紹介してみたい。
『足るを知る』は2004年に初版が出ている、すごいと思う。
こういうことを真正面から取り上げた経済学者は過剰富裕化論の提唱者である馬場宏二氏であり、すでに弊ブログで何度もとりあげている。
過剰富裕化論の賛同者は経済学者では青森大学経営学部長の戸塚茂雄氏とほかに数名のみ。馬場氏は宇野弘蔵のシューレ(学派)に属しているが、かれは宇野の三段階論を踏襲しながら、過剰富裕化論によってその枠をはみ出したことをあまり意識していなかったように見える。
過剰富裕化を生み出しつつ生産力の発展で人類はその棲息環境を破壊し滅亡することになると、あたらしい資本主義終末論を説いたのである。従来は資本主義の終焉は恐慌論の分野だった。リーマンショックでも資本主義はつぶれなかったし、金融ディバリイブ商品が実体経済の数百倍に膨らんだままで、米国も日本も同時にゼロ金利と量的緩和をやっているから、リーマンショックとは比べものにならぬ恐慌が起きるのだろう、しかし、それでも資本主義経済はつぶれない。
だからこそ、過剰富裕化論は資本主義終焉を今までにない観点から説いているのでノーベル経済学賞を受賞してもいいぐらいの新説である。生産力の発展だけならマルサスがいるが、過剰富裕化論という視点が新しい。
別の角度からすこしだけ説明をしておきたい。宇野氏はマルクスの『経済学批判要綱』(通称"グルントリッセ")を読んでいない、当時は出版されていないのだから仕方のないことであるが、この本を読めば、流通過程分析で経済学的諸概念がどのような過程を経て洗練され、相互の関係が整理され、体系化されていったかを知ることができたのかもしれない。それは演繹的な体系で、ユークリッドの『原論』と類似の構造をもっている。
宇野氏の「経済学原理論」は厳密にいうと宇野経済学であって、『資本論』とは異なる構造をもった経済学体系となってしまった。自己完結したユニークで精緻な学説ということはできる。
『資本論』を読んでそれが演繹的な体系だということに気づかなかったところに宇野氏の経済学者としての限界が現れているが、「宇野理論」から入っていった宇野シューレの面々は思考停止に陥り、理論の拡張と整合性を確保に腐心したように見える。結果として、このシューレは日本経済や人類の未来に何らかの寄与があっただろうか、わたしは疑問を抱かざるを得ない。
『資本論』が経済学的諸概念の演繹的体系であることに気がつかなかっただけではない。宇野氏はマルクスの経済学理論が奴隷や農奴に端を発する労働概念をその土台に据えており、日本人の伝統的な職人仕事観とまったく相容れないものであることにも気がつかなかった。
宇野氏は日本人の仕事観や仕事に対するメンタリティ、商道徳水準の高さに気がつくことがなかった。だから日本人のすぐれた資質、倫理観、職人仕事観をベースに、資本主義経済を乗り越えるユニークな経済学の芽があることにも気がつかなかったのだろう。頭でっかちで足元の日本の現実をみない経済学説であった。
宇野派に属していながら馬場氏は米国の現実も日本の現実も直視して、人類が生存できないほど生産力が発展し地球環境を破壊するだろ結論に至った。『宇野理論とアメリカ資本主義』は493ページの大著であり2011年3月に出版されているが、その中に「第四部 過剰富裕化論の徹底」が収められている。
馬場宏二の過剰富裕化論は突き詰めていくと二つの選択肢へと漂着する。馬場氏はその一方の人類滅亡のほうへと進んでいることを憂えながら亡くなった。
しかし、もう一つの選択肢があるとわたしは考える。それは日本的仕事観と小欲知足への価値観へのパラダイムシフトによる抑制された新しい経済学の展開である。どちらを選択しても宇野理論は根底から崩れざるをえない。
過剰富裕化論を提唱した馬場氏への学は内部のネグレクト(無視)は、シューレそのものの崩壊へと進みかねない危険を感じ取ったからだろう。
幸いなことに中野孝次は経済学者ではないから特定の経済学派に所属していない、それゆえ特定の経済学説にとらわれない透明な精神で経済の現状をしっかりみており、「足るを知る」ことが21世紀の経済学の鍵であるとはっきり書いた。
馬場氏は人類の未来に深い絶望感を抱いたまま亡くなった。ebisuは「小欲知足」が21世紀の新しい経済学の鍵であると確信している。中野孝次という先達がいたことを発見して力強く思う。
お二人ともすでに故人である、馬場氏には青森大学の戸塚教授を介してお会いするチャンスがあったのだが、わたしが胃癌を患ったあと体調の管理にまごついている間に、馬場先生が胃癌を発症してさっと逝かれてしまった。
戸塚教授が馬場先生から後事を託され、亡くなった後に監修して出版した馬場宏二著『神長倉真民(かみはせくらまたみ)論』という本があるが、一冊いただいた。いかにも学者らしい資料の追及と分析の本である。馬場先生の学風、研究スタイルを惜しみなく公開してくれている。大学院への進学を考えている人には読むべき価値のある本である。
すぐれた研究ではあるが、このような専門性の高い学術書は読者が限定される。馬場夫人が費用の一部を負担して出版にこぎつけたという。わたしはこの本を監修者の戸塚教授からいただいたのだが、スポンサーは奥様であるというメールをもらっていたので、手紙で礼状を出しておいた。数ヶ月経ち、奥様からお手紙をいただいた。
体調を崩されて返事がかけなかったことが綴られていた。ご自愛いただき、馬場先生の分も長生きされて日本経済の行く末を見守っていただきたい。
中野孝次、馬場宏二、お二人の先生のご冥福を祈ります。
『神長谷倉真民』馬場宏二著 開成出版 2013年1月31日
この本はamazonを検索しても出てこなかった。繰り返すが、すぐれた学術書である。メッタに褒めることのすくないebisuが太鼓判を押すので、大学院経済学研究科への進学を考える全国の大学生に読んでもらいたい。
この本の最終章に「結論 過剰富裕化時代の到来」がある。
これもamazonで検索しても出てこないが、過剰富裕化論について文献的な整理をしつつ、統計資料を挙げて過剰労働時間について戸塚教授が自説を展開している。大学の講義で使用しているテクスト。
『過剰富裕化と過剰労働時間 第2版』
戸塚茂雄 開成出版社 2009年4月 (本体¥2200+税)
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