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#2395 『謹訳源氏物語十』を読む:至玉のひと時 Sep. 4, 2013 [44. 本を読む]

 夜寝る前に読んでいた林望訳の『源氏物語』も最終巻を読み終わってしまった。なんだか名残惜しい気がするのはどうしてだろう。

 今上帝の后の明石の中宮は光源氏の娘である。この二人の息子が匂宮で、いい女がいると心のままに行動し、文を送り、そしてすぐに手をつけてしまう。見初めただけですぐに行動にうつる場合もある。気に入れば見境がなく、とりあえず「いたしてしまう」、たとえて言うと種馬のようなイケメン。

  少し脱線してみよう。この時代の高貴な育ちの女は御簾の奥に隠れて男に姿を見せないのが恋愛のお作法だった。御簾をあけて男にみられることは「わたしもあなたに気があります、あなたとエッチしたいです」とサインを送るようなもの。だからあからさまに姿をさらすことはいかにも品がない行為だとされた。
 「媾合」は「まぐわい」と読むが、これには異字があり「目合ひ」とも書く。字は意味をよく表しており、目が合うことがエッチと同義語になっている。つまり、御簾を上げて目を合わすことは女が男を気に入り、エッチを了承したサインなのである。いつのころからそうだったのかは定かではない。
 弊ブログで前に解説したことがあるが「歌垣」の場では男女が集まって短歌を読み「目と目が合ふ」と、手に手をとってすぐにエッチに及ぶことはごく普通のことのようである。おおらかな風俗はおそらくは縄文時代から数百世代に受け継がれて続いているのだろう。
 相手の目にじっと見入ってしまい、ドキドキ感が生じたことはないか?あればあなたも1万2千年の歴史の中に存在している日本人であるのだろう。
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【目合ひ】大辞林より
①目を合わせて愛情を交わすこと 「目合ひして 相婚ひたまひて」(「古事記」より)
②情交、性交 「唯その弟 木花佐久夜姫を留めて一宿目合ひたまいき」(「古事記」より)
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 本題に戻ろう。もう一人の主人公は薫である。薫は女三宮と柏木の不倫の子であるから光源氏とは血のつながりはないのだが、建前上は光源氏の子ということになっている。柏木が恋の遊戯がヘタだったように、薫もその血を引いているせいか優柔不断なところが随所に見られ、心ならずも係わる女を不幸にしてしまう。強引にことに及べば一時はそれなりの幸せの中へと導くことができただろうに、御簾の中に入り込んで添い寝までしても、ナニをいたさないのだから、なんと決断力のない男よ。何度も押し倒す機会を逃してしまう。女心も女の扱いもまるで下手なのである。

 浮舟は匂宮に迫られ「されそう」になるが、危ういところで難を逃れるのだが、半分くらいはその気になりかかっていたようにも読める。匂宮にも薫にも、かぐわしいフェロモンを振りまく男二人に半端な扱いを繰り返されたら若い女が懊悩し気がおかしくなるのはあたりまえのことだ。
 薫は匂宮から浮舟を引き離すために宇治の山中の屋敷に囲ってしまう。だが、都からは距離があってなかなか通えない。囲いものにしているのに、薫は遠慮がすぎて浮舟を抱いていないのである。なんとも宙ぶらりんで危なっかしい。
 浮舟は匂宮と薫の両方に言い寄られた挙句に懊悩して精神を病み、ある日屋敷の傍を流れる激流に身を投げて行方不明となってしまう。屋敷のほうでは書き散らかしていた文から自殺と判断し、葬式をすぐに済ませて荼毘に付すが、遺体がないからすぐに燃え尽き、おかしいと勘ぐる人もでてくるが、とにもかくにもこうして浮舟は死んだことになる。
 浮舟は川から得体の知れない物の怪に担がれ、木の根片で意識朦朧状態で助けられるが、記憶をなくし静かに暮らす。美貌の若い女を拾い助けた尼君は亡くなった自分の娘の生まれ変わりと喜んで一緒に暮らす。しかし、尋常一様の美貌ではないのでどこか高貴の出の事情のある女だと尼君は判断している。月日が経つうちに浮舟は少しずつ記憶を取り戻していく。そしてまた懊悩がはじまる。薫か匂宮にゆかりの者が山里を尋ねてきて見つけられては困る、見つけられたらどうしようと尼君の屋敷に出入りする人にすら会おうとしない。
 いろいろあるのだが、薫に察知されてしまうが、先手を打ち浮舟は出家してしまう。尼君の兄が近くの山寺にこもる僧都であり、その僧都が何度も浮舟に頼まれて出家の儀式を執り行う。しかしこんなに美人で若い女を出家させてよいものかどうか、出家の儀式をした後でも悩んでいる。薫は僧都に会い、浮舟が山里にいることを確認してから、(浮舟の)実の弟(小君)を使いとして訪ねさせるが、浮舟は小君にすら会わない。かたくなに拒絶するのである。
 薫は小君(浮舟の弟)から報告を受ける。そしてかつて自分がそうしたように、今度は匂宮が浮舟を山里に隠しているのではないかと見当違いの邪推をするところで物語りは終わっている。「どうしようもない殿方ね」という紫式部のため息が聞こえてきそうなエンディングである。

 光源氏は女の扱いが上手で、生活の面倒の見方、心配りのたしかさがあった。そうした最初の巻やそれに続く光源氏が主人公だったときの数々のことどもと思い浮かべると、薫の女の扱いの下手さや見当外れの邪推など、イケメンでありながら実際はダメ男ぶりがなおさら強く印象に残ってしまう。

 匂宮もそうだが、薫もかぐわしい体臭を振りまき、その匂いをかいだ女達が歓び騒ぐ。ようするに女達を発情させずにはおかないほどかぐわしいフェロモンを漂わせる男として描かれている。匂いというのは案外本能的な部分で記憶に残るものなのである。紫式部自身がそういう体験をしたのだろうか。
 あなたは同じ香水をつけている女が通り過ぎただけで、思わず振り向き昔を思い出したことはないだろうか?

 揺れ動く浮舟の女心、本能のままに自由奔放な匂宮、理性が働きすぎて恋愛遊戯の下手な薫、それらが織りなす恋と心の動きの綾は千年たってもちっとも古くなっていない、この本は千年後も読み継がれているのだろう。悠久の時間の中に存在する物語である。

 読まれた恋の歌につけられた解説も書誌学者であるのにうるさくなくて読みやすかったし、本の造りが凝っていて昔の本のように糸綴じで完全に左右に開いて読めるから、そうした配慮もうれしい。品のよい訳で楽しい時間を過ごさせてくれた林望氏に感謝。

 岩波文庫の最終巻『源氏物語六』をツタヤで注文した。

 『謹訳源氏物語』は恋をしている大学生に薦めたい、これから恋をする早熟な高校生にも薦めたい。恋愛が高度な知的コミュニケーションを伴うと、歓びも嘆きも倍加するものであることを知ってほしい。源氏物語に書かれた平安時代の恋愛=セックスはなかなかレベルが高いのである。
 願わくば日本人が受け継いできた健全な恋愛観やセックス観を次の世代へそのまま渡してほしい。私たちは文化や伝統を次の世代へ渡すという役割を背負って生まれてきたのだから。
 そのためには私たちが暮らす国土を放射能で汚染してはならぬ、日本人が受け継いできた遺伝子プールの情報を放射能汚染で壊してはならない。原発は日本列島には不要だ。




*#1871 ほんとうはとっても面白い古典文学:源氏物語を読む Mar. 8, 2012 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2012-03-08

 #2027 『謹訳源氏物語六』を読む  July 26, 2012 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2012-07-26

 #2046 『謹訳源氏物語七』を読む
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2012-08-09

  #2278 『謹訳源氏物語九』 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2013-04-29

 #2395 『謹訳源氏物語十』を読む:至玉のひと時 Sep. 4, 2013 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2013-09-04

  #2396 ヨーロッパと米国の性風俗事情(ジャパンタイムズ記事より) Sep. 4, 2013 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2013-09-05

 

謹訳 源氏物語 十

謹訳 源氏物語 十

  • 作者: 林望
  • 出版社/メーカー: 祥伝社
  • 発売日: 2013/06/10
  • メディア: 単行本
源氏物語〈6〉 (岩波文庫)

源氏物語〈6〉 (岩波文庫)

  • 作者: 紫式部
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1967/11
  • メディア: 文庫


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【余談(1)】
#2375 就活と実際の仕事で必要なコミュニケーション能力とは
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2013-08-18
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【歌垣】
 黒岩重吾に『弓削の道鏡』という作品がある。その下巻383ページに歌垣の場面が描かれている。余命幾何もない称徳天皇(女帝)が命じて歌垣を催させる。この歌垣のことは『続日本紀』にも記述がある。
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 歌垣は春や秋の穀物の祭りから起こったもので、若い男女が歌を歌って踊り、気に入った相手を見つけ山野で媾合(まぐわ)うのである。
 由義宮での歌垣は女帝の要望で行われた。河内に住む渡来系の氏族、藤井・船・津・文・武・生(ふ)・蔵の六氏から選ばれた男女が、麻の疎目(あらめ)の布を山藍で青く摺染めにした衣服を纏い、長い紅の長紐を垂らし、歌い踊った。六氏から選ばれた男女は二百三十人だった。
 道鏡と女帝は急造の楼観から歌垣を眺めた。歌垣には、これまで女帝が知らなかった人間の生命力が、華やかさの中に溢れていた。まさに人間賛歌である。女帝は歌垣に酔い、五位以上の官人、内舎人、また女の孺(めのわらわ(=幼い子の意))と呼ばれている女帝に仕える女官達にも、歌垣に加わるように命じた。
「皆人間に戻るのじゃ、身分や誇り、また羞恥心は捨てよ、気持ちと身体のおもむくまま歌い、踊るのじゃ、気が合えば媾合って構わぬ」
女帝は顔を紅潮させて叫んだ。
 この歌垣には、また女帝の要望で歌人が作った歌が歌われた。

 乙女らに 男立ちそひ 踏みならす 西の都は 万代(よろず)の宮
 淵も瀬も 清くさやけし 博多川 千歳を待ちて 澄める川かも

『続日本紀』にはニ作しか記していないが、もっと多くの歌が歌われたであろう。・・・」

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【歌垣】大辞林より
 ①古代の習俗。男女が山や海辺に集まって歌舞飲食し、豊作を予祝し、また祝う行事。多く春と秋に行われた。自由な性的交わりの許される場でもあり、古代における求婚の一方式でもあった。人の性行為が植物にも生命力を与えると信じられていたと思われる。のち、農耕を離れて市でも行われるようになった。かがい。
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 「媾合」は『日本書紀』にも『古事記』にもよく出てくる単語である。古事記冒頭には伊弉諾の命と伊耶那美の命の2神の媾合が書かれている。なんとこの2神の媾合で大八嶋すなわち日本の陸地が産み出されるのである。これが国産み神話だ。お母さんの脇の下から生まれた(お釈迦様)とか処女マリアが受胎した(キリスト)という苦しい言い訳はみったくない。もっともロシア語通訳の米原真理(故人)によれば、ヘブライ語からラテン語への翻訳のときに間違えて、「未婚の女」が「処女」と誤訳されてしまったのだそうだ。マリアには何人かボーイフレンドがいたのだろう。
 古事記を読んでHの結果の壮大さに度肝を抜かれてみたらいい。正しい媾合が万物を産み出す根元であるというのが太古から日本人が抱いてきたセックスにかんする原・イメージなのである。個人の繁栄も国の繁栄もそこからはじまる。どうだ、セックスがおごぞかで神聖なものだという気がしてきただろう。
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 高校生よ、古典は面白いぞ、古来日本人はセックスにはおおらかだ。それは豊穣につながり、神事につながるからだ。自然なものだからいやらしいなんて感情はない。
 極端な例をあげると、高校生になっても付き合っているのに相手の手すら握れない草食系男子が存在するのでは、人間の本源的な欲望を健全に育て損なっているのではないかと心配になる。
 大学入試なんて一回ぐらい滑ってもいいから『源氏物語』を全巻読んでみたらいい。好きになることとセックスは大人の恋愛ではイコールの関係にあった。『枕草子』もそういう観点から読んでみたらいい。『和泉式部日記』はもっと過激だ。高校の古典の授業は、高校生が興味のある古典の面白いところを全部削ってしまっている。知的興味の赴くままに授業の枠を超えてみたらいい、別世界が君達をまっている。
 夢中で読んでいるうちに学力は勝手にあがってしまうものだ。学力向上なんて、目標ではない、ただの結果だよ。



【余談(2):原発事故と経済学】
  過剰富裕化論の経済学者である馬場宏二氏が福島原発をどのようにとらえていたのかを広く知ってもらいたいと思う。
 2011年の経済理論学会のために用意されていた報告レジュメであるが、馬場氏は術後の体調が悪く出席できなかった。過剰富裕化論の提唱者の出席がかなっていたらどういう報告になったかは、このメモを手がかりに想像するしかない。


「経済理論学会第59回大会特別部会 東日本大震災と福島第一原発事故を考える 意見・提言集」 26ページ
http://jspe.gr.jp/drupal/files/jspe59teigenshuu.pdf
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1. 原子力発電は過剰富裕化とシャム双生児である。
 質的には、人力で制御し得ない生産力をもちいて、当面の金もうけや生活の安楽の資とし、自然環境を生存不可能なまでに破壊する。量的には、日本原発設置は日本経済が、まさに過剰富裕化水準に達した時点から暴走した。電力消費抑制を含めて、反原発は過剰富裕化批判である。

2. 原子力発電コストは意図的に過小評価されていた。原発なきあとの電力価格は、当然、大幅に引き上げるべきであり、それが環境維持の一助となる。

3. 原発処理を含めて、震災復興費は、付加税によるべきである。国債によるのは、亡びの道である。当代のマイナスは当代で負うべきである。負っても、まだ過剰富裕化状態である。

4. 肉体労働を高評価する風潮をつくるべきである。これが社会再生のカギである。

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 抜粋引用
*#2237 過剰富裕化論提唱者の福島原発事故処理構想:遺稿 Mar. 4, 2013 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2013-03-04


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