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#2375 就活と実際の仕事で必要なコミュニケーション能力とは Aug. 18, 2013 [A.6 仕事]

 MSNニュースで標記の話題が載っていた。私のつけたヘッダーとはちょっと角度がちがって、

「【プロが教える就活最前線】コミュニケーション能力って何?取り違える学生が急増」
http://sankei.jp.msn.com/economy/news/130818/fnc13081807010001-n1.htm

 となっている。

 筆者(水本幸太郎氏)はコミュニケーション能力を三つに分類している。
(1)話す力
(2)聴く力
(3)読む力

 就活の面接を想定しているからこういう定義になったのだろう。「読む力」を面接官の質問の意図を読む力と解説している。

 わたしは企業の上場に何度かかかわり、思うところ(マルクスの労働観に違和感がありその正体を突き止めたくて*)があり業種を変えて転職を繰り返したので、コミュニケーション能力が重要であることはこの筆者とは別の意味で感じている。就活時ではなく社員となってから求められるコミュニケーション能力について書くのがわたしの役割だろう。

 就活がうまくいったとして、実際に企業人として働くときに必要なコミュニケーション能力は、次の6つである。

(1)話す力
(2)聴く力
(3)読む力
(4)書く力
(5)計算する力
(6)考える力

 「読み・書き・ソロバン」に「話す・聴く・考える」を加えただけの簡単なものが六つ並んでいるだけだから、わかりやすいだろう。

 企業では複数の部門の人材が集まらないと解決不可能な複雑な問題はプロジェクト方式で仕事が進められる。
 分野の違う部門からプロジェクトに参加する者たちはぞれぞれ専門分野を異にしており、相互のコミュニケーションがむずかしいのは普通のこと、それゆえプロジェクトに参加する人材には複数の専門分野を専門用語を使いながらこなせる人材がいたほうがスムーズに仕事を進めることができる。
 そうした観点からは、「複数の専門領域を学び仕事として経験している」というのが「高いレベルのコミュニケーション能力」の要件である。でも、そうしたスーパー人材は千人に一人、希少種である。

 重要なことは稟議書や打ち合わせの確認書などの文書で処理されるので、「書く力」に秀でていることが「高度なコミュニケーション能力」のもう一つの要件となるだろう。
 文学的な表現能力が問われるわけではない、分かりやすい説明が求められるのであり、表や図を用いてこれからやるべき仕事を解説し、その結果何がもたらされるのかと明確に描いてみせるという表現能力が求められるのである。もちろん、スケジュールを示し、数値でそれらを描かなければならない。描いた事柄は「コミットメント」となる。なにがなんでも達成しなければならない約束である。
 部長クラスから取締役への階段を昇るにはこういう能力が必要である。でも、なかなかこういうレベルの取締役がいないのが実態だから、そういう意味では民間企業もまたこうしたレベルの人材不足の渦中にある。
 
 書く能力はアウトプット力と言い換えてもいいだろう、それは話す能力にもつながる。分かりやすい文章、わかりやすい話し方は何年もかかって磨き上げられる。大量のインプットがなければ良質のアウトプットができるわけがない。普段から知的好奇心の赴くままに読書をしろということだ。習慣にしてしまえばどうってことはない。その基礎は中高生や大学生のときにつくられる。読書が好きだというのはほとんど性格だろう、長年繰り返すことで習慣が性格にまで熟成してくる。

 最後は、「考える力」である。人の発言の意図を読む力(聴く力)は相手の意図を想像し考えることに他ならない。インプットを大量に繰り返しても、考える力のないものは頭の中が情報の洪水になるだけで、情報の海の中から必要なものを拾い集め、有機的に関連付けて総合することができない。
 書かれた文章の行間を読むにも考える力が関係してくる。字面を読むだけでは文章の真意は理解できない、行間を読んでこそ、書いた人の意図が伝わる。

 わけのわからない問題にぶつかり、1時間考え、1日考え、1週間考え抜く、そしてさらに抽象的で困難な問題を「発見し」数ヶ月、1年考え抜く、そうしたことを繰り返すことで、ある日問題解決の具体的な方法がひらめく。次になすべきことはそれを権限をもった者に説明して了解をもらうことである。企業規模が大きくなれば稟議書ということになる。これは書く能力が求められる。
 そういう一連の経過を経て、民間企業では実務がなされている。

 だから、コミュニケーション能力とは「読み・書き・ソロバン、話す力・聴く力・考える力」とebisuは定義したい。ものごとは三つぐらいにまとめるのが一番分かりやすいことを考慮すると、昔から言われている「読み・書き・そろばん」がやはり一番大事な三つなのである。

 小中学校はこの基礎学力に費やす時間を減らしている。日本語の読み書きが少なすぎる。重要な伝統文化と計算技術であるそろばんを教えない小学校が増えている。
 日本語語彙力が小4程度の中学3年生がいまや4人に一人はいる。小6で逆九九ができない生徒も10~20%いるし、分数や小数の四則演算の不確かな中学1年生は3人に一人を超えているだろう。学力テストの答案をみれば根室の小中学校の先生たちは肯けるのではないか。

 社会人となったときに、「読み・書き・そろばん(計算)」という基礎学力に問題のあった生徒はebisuが定義する高度なコミュニケーション能力をもつことができない。年収や生活にダイレクトに響くことになる。
 基礎学力を軽視してはならない。北海道14支庁管内最低レベルの根室の子どもたちの学力向上を果たさなければ子どもたちの未来は暗いし、根室の町の経済の活性化も、でたらめな市政も変えることができない。変革に必要なのは、たしかな基礎学力とまっすぐな心根である。

 市議選挙の投票日は9月である。根室市議選挙に立候補しているみなさん、なんのための立候補か今一度考えてもらいたい。根室の町に変革の嵐を起こすためなら確かな基礎学力とまっすぐな心根のぶたつのアイテムが必要である。変革するつもりがないなら、市議は要らない。市長が恣意的な市政で根室の町の財政を破綻に導いてくれる。それも選択の一つである、夕張市の市民はそういう選択をしてしまったし、市議たちは浮かれてハコモノ行政のチェックができなかった。夕張市と同じ道を選ぶかどうかは市民の選択だが、90%いままでの市議が当選するようなありさまでは、市民に選択肢が示されているとは思えない。だから、いまいる市議たちが変らなければ根室の未来はない。

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*【マルクスの労働観批判:違和感の正体】
 工場労働者の労働は単純労働に還元される。生産手段から疎外され、喜びを見出せない労働観は日本人の仕事観と大きく隔たっている。
 工場労働者ですら日本人は工程の改善を繰り返すことに生きがいを見出し、いきいきと働いている例がじつに多い。あらゆる職業は職人によって支えられており、それぞれの職種ごとに「名人」がいる。名人の仕事は単純労働には還元できない性質の仕事であり、西洋の「労働」という概念ではとらえきれない。わたしは「職人仕事」とよびたい。ebisuの経験ではやらされ感はなかった。仕事は自己実現の手段であり、全人的な表現であった。他の人から仕事を引き継ぐたびに大きく仕事を変えた。4人で2ヶ月かかった仕事をゼロにして、仕事の精度を飛躍的に上げることだって現実には可能だった。会社を動かす仕組みを変えることで、仕事を楽にし精度を上げつつ売上高粗利益率を15%もアップすることもできた、結果として円安と円高のたびごとに赤字と黒字を繰り返していた会社は安定して高収益の黒字会社に生まれ変わった。
 そういうわけで、終電で帰宅することが多くても仕事はとっても楽しい。土日に知的興味のある分野の専門書を読み、その技術を現実に仕事で使って効果を自分の目でみて、能力の拡張を確かめることも楽しいのである。仕事をやることが人間疎外だなんてマルクスの主張は日本の現実にはまったく合わぬ。

 たとえばギリシアにみるように西ヨーロッパの一般市民の理想は労働からの解放であるが、日本人はなんらかの仕事を生きがいにして生活するのが理想である。日本人が「仕事から解放」されて感じるのは多くの場合「疎外感」だろう。
 千年以上もいい仕事をすることが立派なことだと教えられてきたから、それは伝統文化の一部をなしており、日本人には仕事が善であることは常識的な事柄に属する。それは神事とも関係している、刀鍛冶の仕事を想像してもらいたい。農業もそうだが作ったものを神に捧げるのである。だから日本人は仕事の手を抜かない。仕事に没頭しているときに命の喜びを感じることがある、文字通り命が喜んでいる。

 物を作るということは豊穣とつながりそれゆえ神事とどこかでつながっている。セックスに関する考え方もそうした文化の基底層にあるものから影響を受けている。豊穣につながるから、セックスは神事でもある。天岩戸を開くときホトを広げて踊るのは文化的な理由があるのだ。
 日本の伝統的なお祭りは乱交の場でもあったのだが、そこで妻が妊娠しても自分の子供として育てることがあたりまえに行われた。普段は閉じている村落共同体が他の共同体に開かれるのはお祭りの期間だけ。遺伝子の劣化を防ぎ、よい遺伝子を積極的に向かいいれることも普通に行われていた。都のそれなりの人が旅で村に宿泊するときには夜伽と称して娘を差し出すことだって特別なことではなかった、日本人のセックス観はじつにおおらかなのである。そうした習俗のひとつに「歌垣」**があるのだが興味のある人はネットで検索してみたらいい。

 仕事場にはいまでも神棚を祭っているところがたくさんある。刀鍛冶に限らない、歌舞伎や文楽などの伝統芸能もそうした世界である。根室の漁師達だって必ず家に神棚を飾っている。そしてそれは単なるお飾りではないのだ。神に祈ることは大漁につながり、命がけの仕事をしてとった獲物を神に捧げる。

 奴隷制度を経験した国々の労働観は日本人の職人仕事観とはまったく違っており、労働からの解放が全人的な人間回復の絶対条件であるかのようだ。
 儒教の国も手仕事の労働を軽視、あるいは侮蔑する。そうした仕事に携わる者たちの社会的身分が低い。
 そうした国で最高級の品質の製品など作れるはずがないから、日本人は職人仕事の粋を集めて、最高品質の製品をつくればいい。そういう伝統を守っていけば、世界経済の中での日本は北極星のごときものとなる。

 「マルクスの労働観」を日本人の「職人仕事観」に置き換えると、まったく違った経済学が展望できる。それこそが21世紀以降数百年間の新しい経済学となるとしたら、日本の世紀がはじまっているのかも知れぬ。未来は明るい。

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【歌垣】
 黒岩重吾に『弓削の道鏡』という作品がある。その下巻383ページに歌垣の場面が描かれている。余命幾何もない称徳天皇(女帝)が命じて歌垣を催させる。この歌垣のことは『続日本紀』にも記述がある。
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 歌垣は春や秋の穀物の祭りから起こったもので、若い男女が歌を歌って踊り、気に入った相手を見つけ山野で媾合(まぐわ)うのである。
 由義宮での歌垣は女帝の要望で行われた。河内に住む渡来系の氏族、藤井・船・津・文・武・生(ふ)・蔵の六氏から選ばれた男女が、麻の疎目(あらめ)の布を山藍で青く摺染めにした衣服を纏い、長い紅の長紐を垂らし、歌い踊った。六氏から選ばれた男女は二百三十人だった。
 道鏡と女帝は急造の楼観から歌垣を眺めた。歌垣には、これまで女帝が知らなかった人間の生命力が、華やかさの中に溢れていた。まさに人間賛歌である。女帝は歌垣に酔い、五位以上の官人、内舎人、また女の孺(めのわらわ(=幼い子の意))と呼ばれている女帝に仕える女官達にも、歌垣に加わるように命じた。
「皆人間に戻るのじゃ、身分や誇り、また羞恥心は捨てよ、気持ちと身体のおもむくまま歌い、踊るのじゃ、気が合えば媾合って構わぬ」
女帝は顔を紅潮させて叫んだ。
 この歌垣には、また女帝の要望で歌人が作った歌が歌われた。

 乙女らに 男立ちそひ 踏みならす 西の都は 万代(よろず)の宮
 淵も瀬も 清くさやけし 博多川 千歳を待ちて 澄める川かも

『続日本紀』にはニ作しか記していないが、もっと多くの歌が歌われたであろう。・・・」

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【歌垣】大辞林より
 ①古代の習俗。男女が山や海辺に集まって歌舞飲食し、豊作を予祝し、また祝う行事。多く春と秋に行われた。自由な性的交わりの許される場でもあり、古代における求婚の一方式でもあった。人の性行為が植物にも生命力を与えると信じられていたと思われる。のち、農耕を離れて市でも行われるようになった。かがい。
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【まぐわい】「目合い」大辞林より
①目を見合わせて愛情を通わせること。目くばせ。
②情交、性交。

 『日本書紀』にも『古事記』にもよく出てくる単語である。古事記冒頭には伊弉諾の命と伊耶那美の命の2神の媾合が書かれている。なんとこの2神の媾合で大八嶋すなわち日本の陸地が産み出されるのである。これが国産み神話だ。お母さんの脇の下から生まれた(お釈迦様)とか処女マリアが受胎した(キリスト)という苦しい言い訳はみったくない。もっともロシア語通訳の米原真理(故人)によれば、ヘブライ語からラテン語への翻訳のときに間違えて、「未婚の女」が「処女」と誤訳されてしまったのだそうだ。マリアには何人かボーイフレンドがいたのだろう。
 古事記を読んでHの結果の壮大さに度肝を抜かれてみたらいい。正しい媾合が万物を産み出す根元であるというのが太古から日本人が抱いてきたセックスにかんする原・イメージなのである。個人の繁栄も国の繁栄もそこからはじまる。どうだ、セックスがおごぞかで神聖なものだという気がしてきただろう。
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 高校生よ、古典は面白いぞ、古来日本人はセックスにはおおらかだ。それは豊穣につながり、神事につながるからだ。自然なものだからいやらしいなんて感情はない。
 極端な例をあげると、高校生になっても付き合っているのに相手の手すら握れない草食系男子が存在するのでは、人間の本源的な欲望を健全に育て損なっているのではないかと心配になる。
 大学入試なんて一回ぐらい滑ってもいいから『源氏物語』を全巻読んでみたらいい。好きになることとセックスは大人の恋愛ではイコールの関係にあった。『枕草子』もそういう観点から読んでみたらいい。『和泉式部日記』はもっと過激だ。高校の古典の授業は、高校生が興味のある古典の面白いところを全部削ってしまっている。知的興味の赴くままに授業の枠を超えてみたらいい、別世界が君達をまっている。
 夢中で読んでいるうちに学力は勝手にあがってしまうものだ。学力向上なんて、目標ではない、ただの結果だよ。


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弓削道鏡〈上〉

弓削道鏡〈上〉

  • 作者: 黒岩 重吾
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 1992/07/01
  • メディア: ハードカバー

弓削道鏡〈下〉 (文春文庫)

弓削道鏡〈下〉 (文春文庫)

  • 作者: 黒岩 重吾
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 1995/06/10
  • メディア: 文庫

 本のページ数は文庫本ではなく、1992年の初版本である。
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コメント 2

Hirosuke

「もっと過激だ」なんて書いたら、
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『和泉式部日記』を閉架に、根室教委
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のニュースが全国を駆け巡っちゃいますよ。


読まねば。

そして、生きねば。

by Hirosuke (2013-08-19 02:08) 

ebisu

Hirosukeさんおはようございます。

ユーモアのあるコメントありがとうございます。

濃密な恋愛経験がいくつかないと和泉式部日記の過激さは理解できないでしょうね。「身体知」に基く想像力がなければ理解できない領域があります。
しっかりした恋愛経験のある高校生なら楽しめる本です。

道元の『正法眼蔵』を何度読んでも内容が分からないのですが、それは仏教の専門用語に疎いというだけでなく、修業という身体知を欠いているからではないかと思っています。

そういうこともあって、高校生はもっと思春期の自分の身体のいうところに素直に耳を傾けて恋愛していい。妊娠したら産めばいい。そういうことを社会が認めて祝福してあげたら、少子化なんて現象はなくなるのかもしれません。
子供を産んだ後で、大学へ進学する人が10%も出てくればなお素晴らしい。
そういう選択をした若者たちを金銭的に支援する制度創設も必要ですね。

源氏物語では関係した女の生活の面倒をあれこれみるのが「お約束」になっているので、高校生の男子には無理ですね。お金と権力があったとしても、よほどマメで根気がなければ光源氏のような恋愛は無理。
千年前から恋愛にはルールと責任が伴っています。

半ば冗談、半ば本気の、境界線の定まらないあたりでの自由な論議は楽しいですね。
by ebisu (2013-08-19 09:46) 

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