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#2213  わたしの擬似臨死体験 Feb.16, 2013 [38. cancer]

 臨死体験と言っていいかどうか、その直前のあたりといったほうがいい。それ以来死に対する恐怖がなくなり、私欲も著しく小さくなった。観念ではなく現実の小欲知足の世界へ足を踏み入れることになった、不思議だ。心が変容を遂げた気がしている。病気というのは心の再生を促すある種のシステムなのかもしれない。

 2006年6月初旬にスキルス胃癌と巨大胃癌を併発した。数ヶ月前から異常を感じていた。オヤジの兄弟とオヤジは、みなことごとく癌で亡くなっている。術後の生存期間では癌の手術をしてから2年間生きた親父が一番長かった。オヤジ以外は入院したまま亡くなっている。

 おかしな話だが、はっきりとスキルス胃癌の自覚があったので、胃の出口手前で塞ぐ巨大胃癌を内視鏡で診てもらった後に粘膜の検査もお願いしたが、消化器外科医のいないところで粘膜のサンプルを採るわけにはいかないので、設備の整った病院へ検査入院を薦められた。すでに食事を摂れる状態ではなかった。出口がふさがって、食べたものが胃を通過していかない状況だった。中学校の期末テストの17日前だった。医者がとめるのも聞かずに、ヨーグルトだけで17日間生徒に教え続けた。もうもどって来れないかもしれない、そう思いつつも、なぜか不安がないのはどうしてだろうと自問していた。
「お腹にオデキができたので入院してとってもらう、1ヶ月ほどかかる予定だからテスト結果はメールで携帯に送っておいて」
そう生徒に話したら、みんなどっと笑い転げていた。期末テストの当日の朝、入院のために釧路医師会病院へ向かった。

 5月の連休に釧路へ遊びに行ったときに、丘の上に白い建物が見えた。ホテルかなと思ってワイフに聞いたら、病院だという返事。入院するならああいう眺めのいい病院にしたいものだと、ふとつぶやいた。まさか一月半後にそこに入院するとはそのときはわからない*。それまで入院したことはなかったし、大きな病気もしたことはなかった。

 手術までの経緯はすでに書いたので端折る。ベッドから担架に載せられて、手術室へ運ばれるときに、付き添ってくれている術場の看護師さんが天使に見えた。うれしくて涙が流れた。不安がなかった。麻酔で眠るときはまぶたがだんだん重くなり、あけていられなくなった。そのまま眠った。
 開腹して、執刀外科医は臓器をチェックした、すでに手遅れだった。入院まで17日、検査に3週間ほどかかったいる間にスキルスは大きくなっていた。入院してから冷たく重いものが胃の付近で上方に向かって大きくなっていくのがはっきり自覚できるようになっていた。
 手が止まった若い外科医にベテランの院長が声をかけた。「ざっくりとりなさい」、それで6時間の手術が始まった。リンパ節へ転移、大腸にも浸潤していた。アケトジの典型的な症例だったが、若い外科医とベテラン外科医の院長そして手遅れの患者と偶然が積み重なって、オペ続行となった。釧路市立に入院していたら、ベテラン外科医が手術をあきらめて閉じただろう。
 術後に切り取った臓器は病理検査のために国内最大手の臨床検査会社会社SRLへ送られた。病理診断書には「スキルス胃癌と巨大胃癌の併発」と書かれていた。リンパ節にも転移していた。検査を行った八王子ラボは元の職場である。患者名で私だとわかったかもしれない。

 若い外科医だったが術式の説明を聞くうちにウマが合った。この外科医なら、命がなくなっても腕を上げるためにわたしの身体を使ってもらいたいと考えるようになっていた。全部お預けしたいという気持ちになっていた。しかし腕は確かだった、助かるはずのなかった私がこうして生きている。感謝、本当にありがたい。助からなくても信頼関係があったから、これでいいと努力に感謝しつつ死ねただろう。痛くも苦しくもなかったのだから。後から聞いたら、出血はわずか700CC、輸血はなし、すごいものだ。

 術後に集中治療室に運ばれた。手術が終わったら声をかけてくれるはずだったが、癌が進行していて予定を2時間オーバーしたのでそのまま麻酔で眠らせてくれた。
 集中治療室に運ばれてすぐに冷え切った体が体温を上げるための反応=痙攣を起こし始めた。寒い手術室で裸同然で6時間だから、低体温症になっていたのだろう。ベッドの上で体がエビのように跳ね始めた。そのときに麻酔がかかっているにも関わらず冷静に事態を眺めている意識があった。体が撥ねているので、「ホッチキス」でとめてあるお腹がまた開いてしまわないかと心配している自分がいた。身体は指一本自分の意思では動かせないのに、すごい勢いでエビのように撥ねていた。看護婦さんの声が聞こえた。「押さえて!」、「電気毛布もってきて」、身体は容赦なく思いっきりバウンドしようとする、「体が生きようとしている」、そう思った。意識が身体を離れて状況を把握していた。しばらくすると温かみが感じられ、痙攣はとまった。ああ、助かったと、そのまま深い眠りについた。意識は身体にもどっていった。
 ワイフは、集中治療室に運ばれてきて、体の撥ねるのを見てもうだめだと思ったそうである。見ていられなくてすぐに集中治療室をでたと後で聞いた。

 体が撥ねているときに、死ぬかもしれないと思ったが、ちっとも怖くはない。死とはこんなものかと理解した。痛くも苦しくもない、とっても自然なことのように感じられたのである。それ以来、死ぬということに対する恐怖がなくなった。人間は死ぬべきときに死ねばいいのである。

 体が衰弱してくると、食べ物を受け付けなくなる。すると衰弱が加速し、精神はどんどん透明になっていく。みんなに見守られつつ、静かに息を引き取る。子どもに死ぬ姿を見せて、死は怖くないということを教えることも親としての最後の大事な役割である。

 だから私は、ピンピンコロリはごめんだ。静かにある程度時間をかけて衰弱して死んでいきたい。

 不思議なことはもう一つある。自分のために生きようとは考えなくなった。世のため他人のために生きてみようと心の底から思えるようになった。自分の心の変化をまるで他人事のように見つめている。

 死は怖くない、生あるものが死ぬのは当たり前のことである。ただそれを受け入れればいいのである。
 
一昨年オフクロが息を引き取る姿を小一時間眺めていた。呼吸がだんだん弱く速くなり、そのあと緩慢になって途切れ途切れになった。そして息をしなくなった。家族に看取られながら、半年お世話になった江村病院で穏やかに亡くなった。お手本のような死に方だった。「おまえもこうおやりなさい」、そうお袋が言ったような気がした。

 古里にもどって私塾を開いて10年が過ぎた。看護師になった塾生が何人かいるし、今も専門学校で学んでいるものや、高校生で看護師目指して勉強している者、中学生で看護師志望の生徒、医師を目指して学ぶ小学生がいる。まだすこしは役に立てそうである。昨日も看護師志望の高校2年生から群数列の質問を捌いて授業が終わってから10分ほど地域医療について話しをした。高校は来週、学年末試験である。日々研鑽を怠らず志の高い看護師になってもらいたい。

 食べられなくなったら、そのまま逝かせてくれていい。チューブにつながれて延命はごめんである。食べられなくなれば自然に枯れてしまうから、そうさせてほしい。
 いつか終わりを迎えるときには、看護師となった塾生に看取ってもらえる幸せがあるかもしれぬ。そのときはゆっくり静かに逝きたい。一月もあれば充分だ。
「そろそろさようならだ、ありがとう」
感謝しつつ消えていく。死ねば何にも残らぬ、ただ消えるのだ、怖くはないよ。


*(母方の遺伝的な影響で霊的な感受性が人より少しばかり強いかも知れぬ。こういうことはたまにある。夢で見たのと同じ場面に現実で遭遇し驚くことも。しかし、この遺伝子は女系に強くあらわれるようで、男の私には影響が薄い。択捉で生まれその地で亡くなった母方の祖母は、霊的能力が強く、若い頃に千葉のお寺(成田山新勝寺(?))から、修行に来るように誘われたという。おばの一人は自分の両親が亡くなる一月前から、その霊能ではっきり見えてしまい泣きとおしていた。「予言した」通りの順番で一月後、1週間の間に「父と母」が相次いで死んだ。一人は病気だったから、縁起でもないことを言うと家族から疎まれたが、まだ少女だった叔母はいろんな人から頼まれて「みる」ことが多かったし、言うことが当たるので、余計に疎まれることもあったに違いない。生涯独身だった叔母は時折遊びに我が家を訪れ数ヶ月間いることがあったが、見えても言わない人だった。
 高校生のときに柔道部の友人のN君が腎臓病で亡くなった時、ゴーっと音がして2階の窓の向こうに大きなものが飛んでいくのが見えたが、そのときに叔母が一緒だった。「聞こえた?見えた?」と訊いたら「うん」とうなづいた。言うと気味悪がられるから自分からは言わないようにしているとそのとき話してくれた。「誰が亡くなったのか」とは叔母には訊けなかった。葬儀の折込に死亡時刻が載っていた。N君はちょうどその時間に亡くなっていた。
 亡くなる一週間ほど前に、高下駄を履いて学校帰りだったかもしれない、鳴海公園のあたりですれ違い、声をかけた。「おーい、N、退院できたんだ」と通りの反対側から声をかけた。腎臓病だったからむくんだ顔をしていた。少し立ち話をして別れた。当時は人工透析技術がなかったから、釧路の病院に通院していた彼は治療の手段がなくなって、退院したのだとあとから気がついた。根高の柔道場で一緒に受身や乱取りの練習をした仲間だった。

 霊感が強くて先の不幸がはっきりと見えてしまうのは、本人にとっては悲しいだけだ。見えたことは必ず起きる、そしてそれを防ぐ手段はないことを悟っている。人には見えないいろんなものやことが見えてしまう、先のことがわかるのは人を幸福にはしないものだということを叔母を通して知った。 
 ebisuの姉も距離や空間を越えて「ものや出来事が」見えてしまうことがある。突然見えてしまうから始末に終えない。本人にはコントロールできない、うれしいことも悲しいことも、見たいことも見たくないものも見えてしまう。
  お袋は、「あ、誰々さんが来ている」と言って、お酒の好きな人だったら窓のところやテレビの横にお酒を供えることがあった。飲まない人ならコップに水を入れておいていた。決まって訃報はその後に届く。
 親戚のオバサンが釧路の病院へ入院していたことがある。入院して半年以上たっていたが、容態がよくないことは知っていた。一度見舞いに釧路まで汽車で母は行ってきた。ある日の朝のこと、起きてから二階にあるリビングに行くと、お袋が正座している。何か様子が違うから訊いてみたら、釧路に入院しているおばさんが朝早く来たのだという。「カギが閉まっていたはずだけど」とオフクロが問いかけると、「下が閉まっていたから二階の窓から入ったよ」と応えたという。「亡くなったの?」わたしがそう訊いたら、「そのようだね、来たから・・・」。母にははっきり姿が見えるようだ。気配で知らせる人もあるらしい。誰が来ているかは母にはわかる。その日の午後になってから電話で訃報があった。午前中に亡くなった。
 お袋にははっきり見えても、近くにいる私にはその気配も察知できない。
 択捉育ちのお袋は東京山の手の上品な言葉を完璧に使い分けることのできる人だった。きちんとした席での挨拶や振る舞いは映画の場面を見ているような感じであった。幼いころの躾けは一生の宝である。子ども達はだれもそれをコピーできなかった、うますぎたし、中学生になったら子ども達の自主性を認めて厳しい躾けをしなくなった。あれだけはおふくろは間違っていたのだろう。シツケをされないと上品な挙措や言葉づかいはできないのである。品のよい挙措は厳しく躾けをされてこそ始めてできるようになるもの。そういう大人が世の中からほとんどいなくなってしまった。子どもの躾けが満足にできなければどうなるのだろう?躾けのできる大人が増えてほしい。

 わたしは岐路に立ったときには一切の欲を離れて天の声を聞くことにしている。どうしてこんな選択をするのと人に問われることがある、「損だ」と心配してくれるのだが、そうではないのである。私的な損得を超越したところにこそ真実が現れるものだ。それを離れることのできぬ者に物事の真実はついにみえない。実相と言い換えてもいいだろう。だから、岐路に立ったときは何も考えないでただ天の声にしたがうのみだ。不思議と迷いは消えていき先が見えないのに安堵感が広がる。迷いは露ほどもなくなり、天が開いてくれている道へ踏み出す。ときにそれはそれまで積み上げてきたものを棄てることを要求する。「レベルの低い出家」みたいなものだ。何度か繰り返した、おかしいでしょう?)

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