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#2103 知的好奇心の効用(2):染色体画像解析装置をめぐって Oct. 21, 2012 [A.6 仕事]

 #2102の続編を書こうと思う。
*#2102 知的好奇心の効用(1) :異質な分野の専門知識獲得 Oct. 18, 2012 
 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2012-10-18

 仕事は核になるものがなければならない。他に秀でる分野が必要で、私の場合は高校2年生の時から公認会計士二次試験参考書を使って勉強していたから、経理分野であった。大学院で学んだ理論経済学も仕事上の武器=基本アイテムの一つとなった。足りないことはあっても、学んだことで無駄になることはひとつもない。

【システム開発技術の蓄積】
 パソコンとNTサーバーが仕事で使えるようになったのは90年代以降だった。94年に買った"Windows NT The COMPLETE REFERENCE" (written by Allen L. Wyatt)は翻訳がなかなかでないので原書で読まざるをえなかった本だ。その後NTサーバーが業務使用に耐える性能をもち、レイドアレイと並列処理が普及してあっというまに汎用大型コンピュータを駆逐した。96年10月に"Inside Windouws NT Server 4"と"The Essential Client/Server Survival Guide second edition"を買って読んでいる。その2年後にラックマウントしたNTサーバーを治験合弁会社に導入し、画像データの改ざんができないように軍事レベルの強力な暗号化ソフトを採用した。本を読んで専門知識を増やすとそれを使う仕事が来る、不思議なことだがそういうケースが多かった。
 70年代後半にコモドール社製のパソコンをいじったことがあるがオモチャだった。そのころは中小企業にオフィスコンピュータが普及していった時代である。79年に中途入社した産業用エレクトロニクスの輸入専門商社であるSe社にも1年前に給与や経理業務にオフコンが導入されたばかりだった。ワードプロセッサーが出たばかりで80年に会社が買ったA4縦サイズの画面をもつ三菱製品は200万円もした。
 この会社は社員180人ほどのまとまりのよい中小企業で日本橋小網町に本社があった。長期計画や年次予算、外国為替管理、輸入実務デザイン、個別業務ごとのシステム化、自社経営分析、収益構造と財務構造の改革など、じつにさまざまな仕事をオーナー社長が入社したばかりの私に任せてくれた。仕事をこなしてくことでスキルは飛躍的に上がった。大きな仕事をいくつも任せてくれた二代目社長に心の底から感謝している。
 手元にあったオフコンはアッセンブラに近い言語で動いていた。COOLというダイレクトアドレッシングのプログラム言語である。3日間講習にいってプログラミングを覚えた。程なく上位機種に変えたが、これはPROGRESS-2というコンパイラー系の言語だった。系統の異なる言語をふたつ覚えた。入社して1ヶ月後にHP-67(11万円)、さらに2ヶ月してプリンターがついたとHP-97(22万円) という科学技術計算用のプログラマブル・キャリュキュレーターを社長が米国出張のついでに買ってきて仕事で使っていいと私にプレゼントしてくれたから、統計計算プログラミング使いなれていた。過去5年間の自社経営分析に25項目の経営指標を計算して線形回帰分析を電卓でやっている私を見かねて、買って来てくれたのである。一日中、電卓を叩いて計算をし続けているのをみかねたのだろう。この科学技術用計算機を使うと、一日かかった計算が1時間かからずに終わる。一度プログラミングしてしまうと入力データのチェックだけでいいから、他のことをやる時間が空いた。逆ポーランド方式の入力で線形分析をはじめとしていろいろな統計計算には便利な計算機だった。それと比べると、オフコン系の言語は帳票出力をコントロールするコマンドが多いことが特徴である。
 面白くて2年くらいの間にシステム開発の専門書を二十数冊読んだ。必要があり、調べるために買ったコンピュータ及びシステム開発専門書の数は百冊弱。人工知能に関する専門書まであった。チョムスキーとの出遭いは自動翻訳の分野だった。73年頃、生成文法の勉強をしたことがあったので、チョムスキーの言語理論に関する著作とその解説書も何冊か読んだ。会計情報システムについては米国で出たばかりの700ページほどもある本がたいへん参考になった。
 83年までにばらばらにシステム化した業務を統合システムにすることが役員会で決定され、わたしが担当することになった。他には専門家がいなかった。
 取扱商品はマイクロ波計測器が主力だったために、計測器の測定原理に関する社内講習会(毎月1回)に入社してからやめるまでの5年間、出席した。欧米50社の総代理店だったので毎月のように海外メーカーからエンジニアが新製品の説明に来て、営業向け説明会を開いていたが、これにもほとんど出席した。計測器はどれもディテクター部と制御およびデータ処理用コンピュータ部から構成されていたから、「門前の小僧」は制御用コンピュータにも詳しくなっていった。

 そのあと国内最大手の臨床検査会社に84年2月に転職して、3月半ばには当時国内最大規模の富士通製の大型コンピュータを使って進められていた東証Ⅱ部上場のための統合システム開発を担当した。サブシステム間のインターフェイス仕様を4月下旬に1週間で書いて各サブシステムの担当SEに渡した。ebisuが担当した経理・支払システムは8ヶ月で本稼動、トラブルなしの完璧な立ち上げ。ebisuが外部設計と実務設計を担当し、ソフトハウスがのSEが内部設計を担当した。担当したNCDさんのSEが凄腕だった。それまでにわたしと一緒に仕事をしたエレクトロニクス輸入商社時代の担当SEはオービックのSさんと臨床監査会社ではNCDのMさんだが、どちらも(上場企業の)役員になっている。両方とも一流の職人だったから、その仕事を見て学んだことも多い。
(実はもう一人、日本電気情報サービスのTaさんというSEと数ヶ月だけ仕事をしたことがある。産業用エレクトロニクスの輸入商社の社長が、統合システムを開発するのでNEC社内でトップクラスのSEを派遣してくれることがNEC製の汎用小型機導入の条件という要求をしてくれた。そのときにきたのがTaさんだった。このときは産能大方式の事務フロー図で実務設計をやった。あとはサブシステム間インタフェイス仕様書を書けばいいだけだった。このSEとは退社後付き合いがなかったのでその後の消息を知らない。)
 1年以上前からスタートしていた購買在庫管理システム、原価計算システム、売上債権システムが経理・支払システムのあとから稼動した。原価計算システムはラボ部門にシステムの専門知識のある者や実務設計のできる者がいなかったので1年遅れた。試行錯誤だったのである。売上債権システムがトラブルがあり開発に3年余かかった。購買在庫管理システムは経理がらみだから、専門知識のない者たちと打ち合わせが面倒なので、上場要件を満たす帳票類の外部仕様書を半数くらい書いて渡した。購買課でやっている業務は担当にいくつか質問し、帳簿類を閲覧させてもらえば数日で理解できるから、新しい実務デザインを頭に置きながら外部仕様書をまとめることは、実務設計経験やプログラミング経験のあるわたしにはなんてことのない仕事だった。渡したのはプログラム仕様書レベルの外部設計書。

【上場準備に関わる仕事さまざま】
 システム開発をしながら全社予算編成の統括責任者としても並列で仕事をした。営業部門とラボにはそれぞれ管理部門があったから、そこが予算のとりまとめをしてくれるので、交渉する相手が少ない。高収益会社はこういう部門にたくさん人員を割けるから、実に仕事がやりやすい。他には二つの新規事業分野の責任者とネゴするだけでよかった。
 上場を意識して固定資産管理システムも並行して作り直した。減価償却予算が算出できるようになったことと、4人2ヶ月かかっていた固定資産税申告が自動出力できるようにした。当時は例がなかったので、八王子市役所と電話で出力要件を確認、出力された申告書添付の固定資産明細表は5センチほどの厚さになった。前年までは手書きで作成していたのだが、担当者が機器の現物をみていないから台帳の記載が間違いだらけでたいへんだったのだ。たとえば、「インキュベータ、フランキ、、フランキー、腐乱器、孵卵器、恒温槽」、これらは全部同じものである。過去に固定資産管理台帳を担当した者たちが、現物を見ずに台帳へ記載していたからだろう。固定資産棚卸しの手順を決めて、現場と台帳管理者が立会いで年1回確認することにした。
 ついでに機器を分類してコード化して名称を統一した。これにはラボ管理部の機器管理担当者にも手伝ってもらった、じつに楽しい作業だった。できあがった分類コード表は美しかった。これでだれが担当しても固定資産台帳の機器名称に迷うことはない。統合システム開発をしている忙しいときに固定資産管理業務を引き継ぎ、ラボへ行って全部の機器を棚卸しして台帳表記を直してしまった。Hラボ群の検査機器の棚卸しだけで三日間かかった。Hラボ群は先端機器の山、電子顕微鏡もレーザーラマンも質量分析器も原子吸光光度計も、ガンマカウンターもカールツァイス製の蛍光顕微鏡も日立製の生化学自動分析機も・・・ようするになんでもある。日本一の臨床検査ラボの設備を全部「見学」できるのである。検査課の課長を立ち合わせて1点1点チェックして行ったら、使えないものがかなりあった。現場は処理に困っていた。場所塞ぎだが、棄てられない。数千万円かけたメーカーとの共同開発製品がいくつか青いシートをかぶっているのをいくつも「発見」した。「アンタッチャブル」扱いだった。なかでもラボの副所長の「趣味?」でやったもののほとんどが失敗だった。そんな失敗をいくつ重ねても責任を問われることのない幸せな体制だったが、上場審査上問題が生じるので、これらの不良資産の除却とメーカーとの共同開発案件のチェック、とくに権限が上位の者が進める開発案件については、審査を厳しくした。「購入協議書」はわたしが全部受付け審査してから、決裁権限表に決められた権限者へ協議に回すように実務フローを変更した。開発途中だった染色体画像解析装置もメーカとの契約更新を取りやめてもらった。結果としては正解だった。いくらやっても要求スペックを満たす製品ができるはずがない方法に固執していたのだから、それはニコン製のレンズである。ニコンの子会社にニコン製のレンズ以外は考えられなかったのだろう。

 上場前準備をし始める前は、内部牽制体制がほとんどなかったから、営業も開発もシステムもラボも購買も問題が多かった。社内ない監査体制を整備したらある部門長の1億円にのぼる私的流用が「発見」されたこともあった。あっちこっちで好き勝手がまかり通っていたので、上場準備という錦の御旗がひるがえるまで、だれもとめられなかった。

【コストカッター】
 入社2年後に年間80億円ほどあった原材料費のコストカットの作業(製薬メーカーとの価格交渉)にタッチして、10%強コストカットした。そのあと原材料費管理のためにそのまま購買課へ異動し購買在庫管理システムのメンテナンスと検査機器を担当することになったのである。本社管理部門で全社予算の統括をしていた者がラボ部門へ異動することなど、その前も後も例がない、私はラボの中で特別の存在だったから、仕事を通じて検査課長たちへ人脈を広げていった。

【染色体画像解析装置導入とその後出向した会社2社の関わり:つながっていた糸】
 ニコンの子会社と染色体画像解析装置の共同開発をやっていたのだが、見込みがないので中止させたら、ラボ管理部門の担当者が虎ノ門病院が導入した英国製の染色体画像解析装置の見学に同行しないかと連絡してきた。染色体検査課の課長と係長そしてラボ管理部門のOさんと私の4人でテストサンプルを5つもっていった。一通り説明を聞いてから、テストサンプルを処理したら二十数分で処理が完了した。高品質のレーザープリンターで染色体が大きさの順に並び替えられて出力された。これには驚いた。まるで印画紙に直接焼き付けたような仕上がりで、こんな高品質のレーザープリンタを見たことがなかったからだ。世界中の品質のよいレーザープリンタを二十数種類試して決めたという。「こいつらのやることは徹底していて信用できる」そう判断した。
 あとで輸入元である日本電子の子会社の営業を通じて、英国メーカーのIRSのエンジニアを呼び、技術的な点を確認した。
 われわれの疑問は、マジスキャン(当時の画像解析専用コンピュータで数千万円した)を使っても、データ処理に1検体2時間もかかったのになぜ5分足らずで処理できるのかということだった。データ処理部に使われているコンピュータはボードを数枚並べただけの自作のものだったからだ。そんなにパワーがあるわけがないことはエレクトロニクス輸入商社で計測器用の制御系・データ処理コンピュータをたくさんみていたから経験上判断できた。輸入商社でマルチコントローラを自社製作したときのボードコンピュータそのものだった。だから製造原価も検討がついた。秘密はディテクターにあった。CCDカメラをたくさんつけてデータを取り込んでいた。レンズで画像データを取り込むとデータ処理量が膨大になるのである。ニコンの子会社は得意のレンズにこだわったから、いくらやっても当時最高レベルの画像解析専用コンピュータをもってしても、処理スピードが追いつかなかった。200万円以下のコストで自作したボード・コンピュータで充分な性能があった。ばかばかしいくらいおかしかった。われわれのターゲットは1検体10分の処理速度だったが2時間もかかって四苦八苦していたのに、2倍の速度をもった染色体画像解析装置がそこにあった。記憶が確かでないのだが、88年ころのことだったと思う。
 ラボ管理部のOさん、染色体検査課の課長のIさんとすぐに購入することに決めた。5000万円の装置を3台一括購入した。
 このときに輸入元の会社からテイジンの臨床検査子会社と東北の会社から引き合いが来ていることを知り、それ以来この2社に興味をもっていた。売上30億円以下のラボがこの分野に手を出すのは売上が足りないからで、そうだとすると早晩経営危機が深刻化することになると読んでいた。当時S社は染色体検査市場でシェアー80%を握っていたから、小さな会社では検体を集めることができない。技術的に興味があっても人員と設備にコストがかかりすぎるから、経営の重荷を一つ増やすだけだろうと想像していた。事実はその通りだった。東北の会社への出資交渉と資本提携を一人で担当したし、15カ月間経営建て直しのために出向もした。テイジンの臨床検査子会社は赤字部門の治験分野で合弁会社設立とその後の経営に関わることになった。買収交渉にも関わった。これがSRLでの最後の仕事になった。

【開発部の仕事とラボ見学担当】
 染色体画像解析装置の導入にタッチしたお陰で、現場を見させたもらって検査手順を覚えてしまった。
(これが東北の会社へ出向して仙台の遺伝子ラボの調査の際に役に立った。経営管理部門の人間が調査に来たと思っていたから、技術的なことはわからないと思っていた似に話しが分かるので、質問に答え、本音で技術的な点を詳細に説明してくれた。これが経営改善の重要なポイントとなった。)
 89年の12月に学術開発本部へ異動になり、本部内の開発部の製薬メーカとの検査試薬開発の仕事と学術情報部のラボ見学案内の仕事と担当、そして精度保証部の仕事も手伝うことになった。
 検査試薬開発業務にPERTを導入して、各自バラバラに行われていた仕事のやり方を標準化し、個別のスケジュール管理が容易にできるようにした。担当各自が相互にどのステージにまで仕事が進んでいるのか理解できるようになった。
 ある日のことである、学術開発本部長であるI取締役からラボ見を担当するように指示があった。学術情報部の担当者三人ができるわけがないと反対しているというありがたいお墨付きがついていた。無理もない、全部案内したら4時間ほどもかかる東洋一の規模の検査ラボ群なのだからできるわけがない。三人の担当者が作った説明用の資料は1cmほどの厚さがあった。附属の資料をあわせて厚さ5cmのファイル一冊を渡された。一度見学に同行させてもらい、その次に、彼らを同行してわたしがお客様を案内した。ガンマカウンタがずらりと並んだRI検査部は60日ほどの半減期のI-125を標識に使っていた。半減期に応じて毎日カウント数が変化するので、専用のコンピュータシステムで精度管理をしていた。私は輸入商社のSe社時代に科学技術用のプログラマブル・キャリュキュレータで統計計算業務をやっていたので、精度管理上使われている統計はRI部の制度管理担当課長の説明を一度聞いただけで同じレベルで理解できた。コンピュータシステムについてはわたしのほうが専門家だから問題なし。液体シンチレーションカウンターを使う検査部があった。初めてラボの検査機器の棚卸しをしたときにはガラスのバイアルを天井近くまで積み上げてガチャガチャ音をさせながら動いていた。ファルマシアLKB事業部が濾紙フィルター方式の液体シンチレーションカウンターのカタログを持ってきたときには驚いた。Se社でも液体シンチレーションカウンターは取扱商品になっていたから、同じフロアにおいてあるバックアップ用の機器を見慣れていた。もちろんバイアル方式である。横25cm×縦20cmくらいのプレートに96穴が開いていて、濾紙がみえている、そこに検体を滴下して計測する。バイアルは一掃、検査室は見違えるほどすっきりした。しばらくの間、日本であのタイプの液体シンチレーションカウンターはS社だけだっただろう。こういう経緯はラボ見学担当者たちは知らない。細胞性免疫部にはリンパ球をカウントする検査装置が5台ほどあったが、それはDEC(当時最高性能のミニコン)の製品を使っていた。これも検査機器とサブシステム間でのデータのやり取りなど、説明には困らない。インターフェイスバスがGP-IBでないところがマイクロ波計測器との大きな相違だ、検査機器のインターフェイスは時代遅れだった。使う側のニーズがない、つまり、この業界はド素人の集団。
 結石検査室のロボットは、検査管理部のOさんと一緒に担当したので、開発過程の苦労話を交えて説明できる。病理検査課は課長とお友だちだったから、新しい機器が入るたびに仕事を見せてもらった。ブロックわけしてミクロトームで上手に薄切する職人技、全国から送られてくるさまざまな検体、やってみたいなと思った。まさか17年後に自分の胃がここで検査されるとは思わなかった。ウィルス検査部のHIV検査室はレベル3仕様で、遺伝子操作もできるレベルの実験室。陰圧の部屋から外に空気が出ることはない。感染防止のために随所に気を使った管理体制がしかれていた。蛍光顕微鏡質にはドイツ・カールツァイス製の物が十数台並んでいる。ニコン製品の2倍近い値段だった。わたしが検査機器購入を担当することになってからは、検査品質を高めるために世界最高級の機器を購入することにしていた。あるときに根の傾向顕微鏡の購入協議書が出たので検査課長を呼んで、「カールツァイスのほうがいいだろう?」と聞いたら「もちろんそのほうがいいけど値段が高くて・・・」、「全部通してやるから協議書を書き直しておいで」というと、喜んで書き直してきた。もいろんラボ管理部の担当者には根回しをしておく。高品質の検査をするためには技術者が優秀で使う検査機器も世界の一流品を使わせるというのが購買機器担当者の方針だった。自分が購買課の機器担当としてやっていたのだから間違いない事実。電子天秤は世界最高のメトラー製品をラボ標準機として採用した。部署を異動してメーカーが異なると説明書を読むのが時間のムダとなるから、ドイツのメトラーに決めて値段の安い国産品は買わないようにしていた。ラボの社員食堂はデンマーク製の椅子とテーブル、国産品の2倍強の価格の製品であるがこういうところにはコストを惜しまない会社だと説明。ひととおりお客様を案内して無事終了。
 I取締役は私の初回のラボ見の後で担当三人を呼んで、感想を聞いたと笑っていた。それからは海外メーカーからの見学希望者と担当三人の手が間に合わないときに大学の先生たちのラボ見を担当することになった。大学の先生にはラボ見を終わって一緒に応接室で珈琲をのんでいるときに「ところでebisuさんはどの検査部で仕事していたのですか?」と何度か質問をいただいた、光栄だった。「元々経理屋でコンピュータシステムのことや検査機器のことはわかります、一度検査をやってみたいのですが人事部が異動を許可してくれません」と正直にご返事をすると、「え!」と絶句。それまでのいろんな勉強と経験がラボ見案内に役に立ったわけだ。無駄になる勉強や経験はひとつもない。
 ラボ見学案内は海外製薬メーカからの見学申し込みが開発部関連が多かったので、海外メーカのラボ見学が私の担当となった。英会話が堪能な日本法人の社員がついてくるので、わたしが英語で説明する必要はない。日本語で説明して、どういう英語で説明するか聞いていればよかった。翻訳しきれないところだけわたしが英語で説明していた。検査課ごとに専門用語を使って説明できるような知識をもった人はほとんどいなかった。私は主要な部分は説明文章カードを作って暗記していたから、専門用語を使って説明できた。「英会話はできませんよ」と前置きしてから、案内していたから、通訳の役割でついてきた日本人社員が「ebisuさん人が悪い」となじるので、そうではないと種明かしをすることが何度かあった。外人向けの英文のラボ見学資料もついでに作った。自分が書いた手塚治風の絵をひとつ、そして美大出のバイトに十枚くらい検査現場の写真を撮ってそれをアニメ風のイラストにしてもらった。イラストには左下に小さく作成者の名前を入れさせてあげた。世界的な雑誌TIMEには素晴らしいイラストが載ることが多いが、それらすべてに作成者の署名がある。作成者に対する敬意の表れだろう。

【出生前診断MoM値日本標準設定に係わる産学協同研究】
 K大学医学部産婦人科のドクター数名とやった仕事だが、オリエントは白人よりも基準値が30%高いことが3000人の妊婦のデータ解析から分かった。3項目、エストリオール、hcg、AFPの検査値と妊娠週令、体重、人種データを入力して多変量解析。データ解析はS社研究部の応用生物統計の専門家F君がやった。この仕事を持ってきたのは学術営業のS君で、いま栄養医学研究所の社長だ。
 S君が資料を集めるようにK大のドクターから依頼されてニューヨークから取り寄せた資料から、カーブフィッティングで算式を求めた。HP-41cを使っていたからできた仕事。妊娠週令や人種、体重などは通常の検査の入力項目にないので、パソコンでシステムを開発して検査データを取り込んで別処理した。経緯は別のところで書いたのでこれ以上は省略する。

【vivigen社の買収】
 ベルトハイムシュローダ銀行という国際的な金融機関が米国の出生前診断専門のラボの買収話しをもってきた。二人の金融マンが1.5cmほどの厚さの資料をもってきて、説明をして行った。3日ほどで要旨の翻訳をして社内稟議書を作成した。かれらの分析手法はわたしが産業用エレクトロニクス輸入商社Se社でやっていたものとほぼ同じだった。同じわけだ、わたしは米国で出版された管理会計や経営分析に関する本を何冊も読みモデルを作って自社経営分析に使っていたのだから。会社を売却したらどれくらいの値段になるかも経営分析上の重要な指標だった。
 米国では出生前診断を生業とするためにはラボに医者が十数人必要だった。価格は妥当な線が出ていた。売上高成長率や経常利益率、今後3ヵ年くらいの収益見通し、財務状態などで買収価格が決まる。結論は当時のS社ではコントロールできないというものだった。数十億円の話しではなかった。
 英語ができるだけでは仕事ではほとんど武器にはならぬ。特定の専門分野に英語の能力と日本語表現の能力がプラスされてはじめて誰にもできない仕事が可能になる。英会話だけなんて、海外旅行にいくだけのもの、仕事で使う英語のレベルはそういうものではない。

【産学協同プロジェクト:日本標準臨床検査項目コード】
 学術情報部の仕事はもう一つ手伝った。それは日本標準検査項目コードの検討会の仕事である。3年ほど前に業界第2位の検査ラボのシステム部長の提案で検査業界で検査項目コードを統一しようと言う提案がなされた。S社のシステム開発部のK課長がその話しを管理会計課(85年当時)の私のところにもってきた、一緒に行かないかというのである。わたしが生活習慣病を中心に全国の大学病院や大病院をネットワークでつなぐ臨床診断支援システム構想案を書き上げ、社内稟議で予備調査の承認をもらっていたからだ。200億円の事業に創業社長は資料を見ただけで経営会議で承認してくれた。こういうところが日本一面白い会社だ。そのプロジェクトの中に検査項目コードの統一という項目があった。十数個のプロジェクトに作業を分解してあった。システム開発部長は標準化に反対だったが、その下にいるKu課長が反対を押し切ってわたしを大手6社の検討会に引っ張り出した。二人で協議して業界だけでやっても病院の先生たちが使うはずがないので、臨床病理学会を引っ張り出そうということになった。臨床病理学会の項目コード検討委員会の委員長は自治医大のSa助教授(当時)だったが、その先生から管理会計課にいたときに項目コード検討委員会の仕事を手伝えと頼まれたことがある。手伝いやすい部署への異動は社長に要請するからということだったが、理由があってお断りした。もともとS社は臨床病理学会長のKa先生のお薦めで特殊検査として設立されたから、Ka先生の一番弟子で顧問でもあるSa先生からの要請があればそれぐらいの会社内の人事異動は可能だった。そういう経緯があったので、Sa助教授には顧問をしていた臨床化学部の女性部長Kawさんから通じて連絡してもらい、事情を説明して6社の検討会を臨床病理学会の項目コード検討会との産学協同プロジェクトとすることに了解をもらった。6社検討会には検査業界だけで検討しても全国の病院が使ってくれなければ意味がないので、臨床病理学会の項目コード検討委員会に参加してもらって、検討結果は臨床病理学会の項目コード検討委員会から公表するということに決めた。検討会は続いており、その作業にオブザーバーとして再び参加することになった。各社のシステム部門と学術部門が参加していた。コードは出来上がっており、B社のシステム部においた事務局が検査点数が改訂されるたびに媒体に入れたコード表を配布することになっていた。日本は世界に通用する標準コードをつくったことがほとんどない。わたしは世界標準をつくるつもりだった。S社は事務局を自分のところに移したがったが、システム開発部長(当時)が標準コード検討に反対だった経緯をSa先生はご存知だったので、いまさら何を言うと許可しなかった。そこへebisuが再び顔を出すことになった。元々は臨床診断システム構想の一部で、ebisuの個人的な構想が発端の産学協同だから、S社に事務局を移すことを了解してもらいたいというと、「わかった」と笑っていた。それ以来、検査項目コード事務局はS社内にある。日本中の病院のシステムがこの検査項目コードを使っている。実質的な日本標準臨床検査項目コードとなった。

【世界一厳しい品質管理基準米国CAPライセンスへの挑戦】
 精度保証部はCAPライセンス取得のために3000検査項目の標準作業手順書を和英両方で作成してたのでその仕事も手伝った。学術開発本部スタッフという肩書きは便利だ。仕事柄、各検査部の標準作業手順書を閲覧できたので、興味のあった検査項目に眼を通した。こんな資料を直接見る機会は二度とないから仕事が楽しくて仕方がなかった。染色体検査の標準作業手順書を閲覧して、現場で見たことと重ね合わせて理解した。
 染色体画像解析装置をつくっているIRSの副社長は分厚い染色体の専門書の著作のある学者であるが、ラボで講演会を開催してもらった。歌うような美しい英語だった。スコットランド訛りの強いエンジニアとはクラスの違いを感じさせた。

【偶然か、必然か?因果はめぐる糸車・・・】 
 偶然とは怖いものである。染色体画像解析装置を導入した東北の臨床検査会社の経営分析と出資交渉をわたしが担当することになった。諸事情があり、91年4月に学術開発本部から新設された関係会社管理部に異動したが、そこで北陸の会社と東北の会社の経営分析と業績改善の具体策、そして出資と買収交渉を担当することになったのである。これにはおまけがついている。もうひとつ東京羽村にあるテイジンの臨床検査子会社がやはり染色体画像解析装置を導入していたのだが、97年にそことの治験合弁会社の経営を担当すると同時に行きがかり上臨床検査子会社買収にも関与することになった。
 96年11月に一番旧い臨床検査子会社T社で大きな仕事を進めつつあったのだが、合弁会社の立ち上げプロジェクトが暗礁に乗り上げ、本社に呼び戻されてしまった。治験事業でシステムを担当しているベテラン社員が、暗礁に乗り上げた船を正常の軌道に戻すには私しかいないと名前を挙げてしまった。子会社のT社を拠点に本社を呑み込みグループ会社を再編してしまう計画がスタートする矢先だった。子会社を飛躍的によくすれば、親会社を呑み込むことができる。賃貸借していた建物の契約が切れるのでラボの移転を計画していた。強度の弱い老朽化した建物だったので、何本も鉄の柱で補強していたが補強の仕方が充分でなく不安だった。買い取って建て替えをすると、その間はやはり他のところへ移転せざるを得ない。土地を確保して200m以上の平面ラインでの大規模な自動化を考えていた。計画が明らかになれば本社とラボ配置について調整交渉が生じる。そうすればHラボ群の移転問題を俎上にのせられる。Hラボ群の移転であっても好いし、親会社を呑み込めるほどの高収益の子会社の出現であっても好い、いずれにせよグループ会社全体の価値を高め、株価を上げることができる。社員持株会にはいっている社員が喜ぶだろう。Hラボ群は4箇所に分散して非効率でそれ以上の機械化が困難になっていた。退くことのできぬ一石を投じることはできただろう。
 ラボ移転については子会社社長のMさんと合意が出来ていた。Cラボのシステム再構築を関係会社管理部の担当者として手伝い、その後子会社Tラボに出向して1年、ようやく信頼関係が築けたところで、ラボ移転計画を検討し始めたところだった。大きな計画の一部がスタートする寸前の本社からの帰還命令、そして合弁会社経営担当、これも天命と受け止めた。

【C社経営改善計画】
 話しの本題は郡山の関係会社C社のことである。仙台にある遺伝子ラボを見学したが、そのときに染色体検査の課長から詳しく話しを聞いた。培養液の相違による、培養成功率の違いや一人当たり処理量などをメモしていった。地方のラボがコストに見合うほどたくさんの染色体検査を受託することは不可能だった。なにしろSRL社が市場の80%を握って、寡占状態だからだ。品質の高さが全国の大学病院や大病院から評価されていた。
 作業手順を統一してS社とC社で染色体検査の分散処理をすれば、飛躍的に業績が改善できることがわかった。出向してから数ヶ月目のことだ。北陸のラボの買収とC社への1億円の出資の二つとも創業社長Fさんの直轄だったから、わたしは副社長と社長のFさんに直接報告・相談をしていた。
 いざ、具体案ができあがり、数パタンのシミュレーションができたころに、副社長から呼び出しがあった。本社に行って社長と副社長と三人で会議をしたら、そのような計画は聞いていないと二人が口裏を合わせていた。かれらはわたしが怒って反論するとでも思っていたのだろう。ボケ老人じゃあるまいし当時は40代半ばである、なにをいつどのように誰に報告・相談したかは覚えていて当然である、彼ら二人は身構えていた。わたしの返事はこうだった。
「わかりました、相談していないと仰いますか、ならばわたくしの勇み足ということ、申し訳ありません」
 ふたりはキョトンとしていた。わたしがこんな重要なことでだまって引き下がるような男でないことは副社長が重々承知していた。
 わたしにはすぐに事情が飲み込めた、嫌だったのである。わたしが入社したときは過去五年間売上高経常利益率12%を維持する高収益会社であったのだが、その本社をしのぐ売上高経常利益率の関係会社ができるのが嫌だった。C社社長は一緒に仕事をして半年ぐらいで子会社化に同意していたから、業績がナンバーワンとなったら本社役員のポストをいずれは考えないといけなくなる。C社の社長はS社グループ会社のカラーにあわなかった、コントロールの利かない野人であるとみられていた。権限のある創業社長と副社長に気持ちがなければそれまで。
 モデレイトな案が別にあったが、これはシステムに強いと自負心のあるC社社長の自尊心を根底から砕きかねない方法だったので、他に方法が見つからないときの切り札として伏せたままにし、ついに開示することはなかった。

【結論】
 仕事には文系も理系もないのだ。困難で成果の大きい仕事はそれらがクロスオーバーする領域にある。
 経理や理論経済学畑に足場をおいて、関連するコンピュータシステムを足がかりにマイクロ波計測器、臨床検査機器、日本で使われている検査項目コードの標準化、大学病院との出生前診断検査基準値に係わる共同研究のコーディネイト、製薬メーカとの検査試薬の共同開発、企業買収や出資交渉、赤字子会社の黒字化と分野を増やしていった。異質な分野の知識や技能を習得するたびに、仕事の総合的な能力はアップしていった。それらすべての原動力はあくなき好奇心と基礎学力(読み・書き・ソロバン)である。

*#2241 新出生前診断(北海道新聞):できない言い訳はしない Mar. 10, 2013 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2013-03-10
 
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