SSブログ

#2046 『謹訳源氏物語七』を読む Aug. 9, 2012 [44. 本を読む]

 昨日は雨が降り続き3時頃でも13.5度という寒い日だった。今日(9日)から三日間は金比羅さんのお祭りで、朝7時頃頭部祭典区の山車が太鼓の音を響かせて通過していった。その後、雨がザーッと降ったが10時頃にはやみ、いま(11時少し過ぎ)東部の先太鼓と金棒が通っていった。祭りの寄付集めの大事な行司である。夜も雨の予報だから、緑町交差点での催し物がちょっと心配、夜だけやんでほしい。

 さて、本題である。昨夜林望訳の源氏物語7冊目を読み終わった。7分冊目には「御法(みのり)」の巻が含まれている。源氏51歳、若宮たちを育てていた最愛の紫上が亡くなる。
「やがて、野辺送りの場(にわ)に亡骸は送られる。
 広々とした野の、どこにもここにも立錐の余地もなく会葬の人々が立て込み、限りなく盛大な葬儀となったが、荼毘に付された亡骸は、うっすらとした煙になって、はかなく空へ昇っていってしまった。これまた、世の常のことだけれど、あまりにもあっけなく悲しいことであった。」(314㌻)

 源氏はあらためて無常ということはこういうことかと思い知る。
「末の露本の雫や世の中の後れ先立つためしなるらむ(葉末の露が先か、それとも枝元のほうの雫が先か、いずれが先でも後でも、いずれみな儚く消えていくのが露の世の定めというものだ)」(315㌻)

 葬儀が終わって源氏は息子の夕霧の大将とともに30日の忌み籠りをする。妻恋しさに出家したと世間の人に言われることを慮って、源氏は出家もできぬ。なんとも情けない姿を紫式部は容赦なく描いてみせる。

 巻が紫上が亡くなる「御法」から、源氏が亡くなる「幻」へと替わる。新しい年が開け源氏は52歳の春を迎えるが、紫上のいいところばかりが思い出されて後悔しきりである。
「中納言の君、中将の君など、以前は源氏の閨(ねや)に侍したこともあった女房たちは、御前近くに侍(はべ)って、また昔物語などするのであった」(332㌻)
 そうしながら、源氏は自分が出家するとこれらの女房たちがますます嘆いて、悲観してすごすことどもを想像して思い悩む。

 忌み籠りが終わり源氏は女君たちのところをへ巡るのだが、満たされぬ思いが募るばかり。
 入道の宮(女三宮)のところを訪れ、山吹の花を眺め、紫上が亡くなっても山吹の花は相変わらず美しく咲き誇っていると物思いに沈んでいた。そんな源氏の様子を見て、入道の君が歌を詠む。
 「光なき谷には春もよそなければ咲きてとく散るもの思ひもなし」
 出家したからわたしには物思いなどありませんと言わぬばかりの素っ気のない歌に心底がっくり、仏道に入っても人の心を慮ることもできぬ情けない人であったと思い知る。小さい頃から手塩をかけて大事に育てた紫上とは所詮モノが違ってあたりまえなのだが、源氏は身の軽率さから柏木の子を身ごもった女三宮に人としての成長についていくらか期待があったのだろう。その期待が微塵に打ち砕かれる様を紫式部は源氏の心の内を描くことでありありと読者の前に広げてみせる。
 根っこがダメだと与えられた成長の機会をものにできぬもの、根の素直さと辛抱強さを忘れてはならぬとは、人生訓かはたまた紫式部の人生観なのか。

「<こんな折も折、ほかにいくらでも引くべき歌もあろうに、なんという情けない返答であろうか・・・・・>と、つくづく呆れ果てる思いがする。それにつけても、<・・・・・まずこうしたちょっとしたやりとりだって、あの紫上は、こちらがそんなことは言わないでほしいと思うような慮外なことはいっさい言ったりしなかったものだった>とその少女時代からの思い出をずっと追懐して、<ああ、あの折、この時、いつだってあの人は才気煥発で、心配りが利いていて、それでいて風情の豊かな人柄、振る舞い、そして奥床しい言葉の数々・・・・・>とそれからそれへと思い出しては、またいつもながらの涙もろさに、たちまちはらはらとこぼれ出るのも、まことに辛い」(343㌻)

 自分も若い頃、父桐壺帝の后である若い藤壺に恋をして同じことをしでかしてしいるので、因果応報、どうにも自分を止められなかった柏木の恋の思いを一概に責められないと思い至る。何もかも知りながらその件で一言も苦言を言わなかった父桐壺帝の苦衷もいまになってよくわかる。紫上のような隙のない人だったらこんなことはなかっただろうにと、また(紫上のことが)思い出されて涙がこぼれてしまう。

 興ざめして源氏は明石の御方のところへ渡っていく。ところが入道の宮よりは格段に勝っていると思ったとたんに、また紫上と比べてしまい再び落胆。

 「・・・・・などなど、すっかり夜が明けるまで、昔今(むかしいま)の物語をしつつ、<いっそ、このままここで夜を明かしてしまってもいいのだが・・・・・>と源氏は思いながら、やはり帰っていくのを、女も格別の感慨を以て見送る。こんなふうに、女のもとに夜通しいながら、なんの色めいたこともなく引き上げていく自分の心のほどが、<なんとわれながら訳のわからぬ心ばえよな>と、痛感される」(347㌻)

 源氏は52歳だが、紫上を失って、女たちのところへ通ってもセックスする気にすらなれないが、女たちはそうではない、源氏と語らう内に自然に身体が火照ってくるのである。思うに夜中に渡ってきて閨をともにしないなどということはなかったのだろう。翌朝早朝に後朝の文を受け取って、明石の御方が落胆している姿は哀れ。

「せっかく通って来ながら、宿りも果たさずに帰っていった昨夜の源氏の振る舞いは、・・・恨めしい感じのすることであった」(348㌻)
 明石の御方はまだ女の色香を残して源氏がわたってくると自然に残り火が燃え盛る、通ってこなければその気にならなかっただろうに・・・。

 桜の花も散り四月、賀茂の葵祭の日が訪れ、中将の君と戯れる。中将の君は色めいた気色だが、源氏はさっぱりその気が起きない。源氏はフェロモンを出していないと思うのだが、源氏が渡ってくると女たちは発情してしまう。女は死ぬまで女であるようだ。

 源氏は恋=セックスに興味をなくしたまま年の暮れになり、いよいよ命が残り少ないことを自覚する。死んだ後にいろいろ残っているのも未練がましいので、捨てきれずに残してあった紫上の古い恋文を、信頼できる女房二三人に命じて破り捨てさせる。

「亡くなった人の手跡を見るのは、胸に迫るものがあるものだが、まして紫上の手紙ともなれば、涙また涙で目の前は真っ暗になり、文字もなにも見分けられぬほと滔々と流れ落ちる涙が、水茎の跡も麗しい筆文字の上を流れ下る。」(365㌻)

 水茎とは「瑞々しい茎(筆)」のことである。紫上の筆跡は瑞々しくも麗しく、それが目に入ったとたんに紫上の性格の麗しさや挙措の美しさが思い出される。これほどの人はいなかった、なぜもっと早く気がつかなかったのだろう、もっともっとやさしくすべきだった・・・、涙は滂沱と流れおちる。

 源氏の最後は書かれていない。『~八』は源氏のいない世が描かれる。余韻を残して紫式部Aはここで物語を閉じたのだろう。読者の想像力に源氏の亡くなる様子を委ねている。濡れ場を一々書かずに読者の想像にまかせたごとく・・・、じつに紫式部Aらしい閉じ方ではないだろうか。

 源氏の亡くなる直前の描写はすごい、紫式部Aはどういう想像力をもって書いたのだろう。
 恋=セックスをしたくなくなった源氏は同時に生きるエネルギーもなくしてしまう。人間が健康に生きるには恋=セックスがたいへん重要な役割を果たしている。
 インドにはヨーガがあり、中国には仙道房中術があり、日本には医心法(房内篇)がある。生きている間は存分に楽しめるように、古来からそちらのほうの研究は積み上げられ、呼吸法やさまざまな「技」が伝えられている。
 この分野でも勉強熱心でトレーニングを続けたものにはかなりな効果がある。眉唾の条も多いから取捨選択は読み手に任されている。アダルトビデオばかりみていたらセックス観がゆがむ、本来はもっともっと深くゆったりしたもので、肌のぬくもりを通じた人と人とのコミュニケーションでもある。
 確かなことは呼吸法に秘密があることぐらいかも知れぬ。武道も座禅もずべからく身体を使う技は呼吸法が基本にある。ゆったり長い呼吸の向こう側には別世界がある・・・。好きな人を見つけて一緒に奥深く分け入ればいい。

 遺伝子のほうから見れば、人間はDNAの運び屋にすぎない。セックスの歓びも遺伝子が確実に生き延びるために用意されているもの。だから、運び屋として役に立たなくなった人間は生きる力を失うようにDNAにプログラムが組み込まれているのだろう。細胞のアポトーシスに似ているアルゴリズムが生体全体にあるのだ。遺伝子の運び屋ではなくなった人間は遺伝子の側から見れば役に立たぬ存在として廃棄処分の対象になる。こうして心身ともに老い、逝くことで、次の世代へ座を明け渡す。この世は無常、常なるものは何一つないのは千年前もいまも同じ。他人事ではないのですよと紫式部が耳元で囁いている。ずいぶんいたずらっぽい人のようだ。

 源氏物語がこんなにも素晴らしいとは思わなかった。千年前にこんなにレベルの高いものが書かれたというのが不思議だ。高校生や大学生、20代の社会人に読んでほしい本である。訳文の格調高さは引用でお分かりいただけただろう。原文と対照しながら読むのも楽しい。とにかく各自が好きに読めばいい。

 折りよく、リアイアブルブックスに注文してあった『謹訳 源氏物語八』が届いた。主人公なしでも小説は書ける(?)をやってみせたのは紫式部Bか(?)、不思議な巻だ。読めば仕掛け(Bの意図)が見えてくるのだろうか?予断をもたずに楽しみたい。




*#1871 ほんとうはとっても面白い古典文学:源氏物語を読む Mar. 8, 2012 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2012-03-08

 #2027 『謹訳源氏物語六』を読む  July 26, 2012 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2012-07-26

 #2046 『謹訳源氏物語七』を読む
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2012-08-09

  #2278 『謹訳源氏物語九』 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2013-04-29

 #2395 『謹訳源氏物語十』を読む:至玉のひと時 Sep. 4, 2013 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2013-09-04

  #2396 ヨーロッパと米国の性風俗事情(ジャパンタイムズ記事より) Sep. 4, 2013 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2013-09-05


 

にほんブログ村 地域生活(街) 北海道ブログ 根室情報へ
にほんブログ村

謹訳 源氏物語 七

謹訳 源氏物語 七

  • 作者: 林望
  • 出版社/メーカー: 祥伝社
  • 発売日: 2011/12/03
  • メディア: 単行本

nice!(2)  コメント(3)  トラックバック(0) 

nice! 2

コメント 3

Hirosuke

「宇治十帖」と呼ばれる最後の巻々は、
源氏と中将の息子達が、
登場人物やエピソードは異なれど、
親と同じ悩み・過ちを犯す様を最初から順番に、
非常に圧縮した形で語っているのだそうです。

本編のストーリー展開は密教の「六曜道」に忠実で、
宇治十帖も然り。

最終的に示されているのは、
「未来永劫に続く無常」
なのかと。

by Hirosuke (2012-08-09 12:15) 

Hirosuke

「モチーフ=【古典文学】」の段 
[【世界】の【古典の世界】]
http://hironagayuusuke.blog.so-net.ne.jp/2012-04-25

YAMATO高校♪合唱部『わが◆マイルストーン』2

by Hirosuke (2012-08-09 12:25) 

ebisu

六曜はもともと暦で、仏教とも神道とも関係ありませんが、真言密教の開祖の空海が宿曜術を持ち込み、宿曜道が生まれたようですね。平安時代に陰陽道と並立しているようです。

いままでの巻でも、柏木が若い頃の源氏と同じ過ちを繰り返しています。輪廻や無常観がテーマというよりも、時代背景からそうした思想が入って当然なのだろうと思われます。
源氏物語は前半と後半、書き手を変えて時代思想に物語が収斂していくのでしょうか。

愛とセックスと老い、たしかに永遠に繰り返される無常観の格好のテーマではあるでしょうね。
源氏物語の千年後のいまも日本全国あまねく繰り返されています。

暇を見つけて古典の名作を格調高い名訳で味わうのは楽しい。
by ebisu (2012-08-09 13:38) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0