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#1862 西高校生 卒業の挨拶 : 家業を継ぐということ  Mar. 2, 2012 [17. ちょっといい話]

 今日(3月1日)は市内の道立高校2校の卒業式だった。
 6時頃に教室のドアをノックする人がいた。ドアの窓にかがんでいる頭部が映っていた。誰だろう?大きい男だな。ひょっとして・・・、根室西高校を卒業した生徒が挨拶に来た。
「お、卒業式だな、無事卒業したか(笑い)、おめでとう」
「先生お久しぶりです、卒業しました」

 小学校5年生から高校入試まで来ていた生徒で、数学は学校の宿題だけやる、英語はそっぽを向いてまったくやらない生徒だった。「家業をつぐのに小型船舶免許がいるから試験勉強をする時期が来るよ、少し勉強しておけ」といくら言ってもやらない。自営業の家の生徒は勉強せずとも就職に困るということがないから、家業を継ぐ長男はハナから勉強する気のないものが半数近くいるのではないだろうか。やっかいなことに、マチの仕組み上そうした者たちが将来根室を背負うことになる。実例は枚挙にいとまがないが、個人名や役職を挙げると差しさわりがあるのでやめておく。市政関係者で全国的に著名なある人もそうした中の一人である。
 ニムオロ塾でも優秀な能力をもっていながら高校へ入学してしばらくして家業を継ぐからと勉強をやめてしまった生徒がいた。"がんばれば"であるが北大水産学部くらいなら入学可能な生徒だったが、高校を卒業したらすぐに家業を継ぐと言って勉強をやめた。彼の場合は本当は勉強が好きだったのだろうと思う。勉学への未練を断つように塾を辞めたので止められなかった。サイクリングコースに彼の家があるが、どうしているかなと視線が右に流れてしまう。
 (勉学に励むと、都会で働き家業を継がないことになると親が心配することもある。一時期、一心不乱に勉強して、根室に戻ってきてほしいのだが、なかなかそういう事例は少ない。そういうわたしも家業を継がなかった。(笑い) あんなに流行ったビリヤートと焼き肉屋だったのに、東京へ出て行った私が根室の戻ったのは35年後、オヤジが亡くなってから9年も過ぎてからだった。跡継ぎをなくした家業はとっくに廃業していた。美味しい焼肉のタレのレシピはオヤジ直筆のメモを渡されたが、大甕一杯に作るのに材料費が10万円ほどかかるし、発酵・熟成のコントロールがやっかいなのでやってみる気がしない。なにより美味しい肉を仕入れるルートがない。オヤジはそのルートがなくなると、いろいろルートを試して半年ぐらいで見切りをつけて焼き肉屋をやめた。同じレベルの美味しい肉をお客さんに提供できない、仕入れるたびにかなりの量の肉を捨てていた。仕事に納得が行かなければどんなに流行っていてもあっさりやめる、そういう潔い男だった。仕入れルートの開拓は人的なつながりも重要なのだ。腕のよい職人同士の信頼関係で最良の肉の仕入れができる。片方が亡くなればそのルートはなくなり、別のルートを開拓しなければならぬ。60代後半になっていた親父には新たなルートを開拓するだけの情熱が残っていなかったのかもしれない。なにしろ一人息子が家業を継ぐつもりがないし、肉を扱う修業もしたことがないのだから、あきらめざるを得なかったのだろう。どちらの店も繁盛したのはオヤジとおふくろの努力もあったが、たくさんの常連さんたちが店を利用してくれたからである。そのお陰でわたしは東京で勉学に励むことができたから、ふるさとのマチとたくさんのお客さんたちに感謝している、そうした思いがあったからこ35年間目に根室に戻って来た。十数年はまだふるさとの役に立つことができるとそのとき思った。わたしはオヤジやお袋とは別な能力でふるさとのために尽くせばいいのである。
 人生にも四季がある。勉学の季節、仕事の季節、社会貢献の季節が春夏秋だ。第4の季節、冬は人のお世話にならないと生きられない季節である、その前になすべきことをきちんとしておきたい。)

 高校1年のときにこの生徒と同じ地域に住む同級生がいた。あるとき腕相撲をしたのだが、家業(昆布漁)を手伝っているので引手が強い。握力が65㎏あり長柄の鉞を振り回して身体を鍛えて腕力の強かったわたしでも互角だった。そいつは短大を卒業した年に税理士試験に合格し21歳から税理士をしている。東京有楽町に事務所がある。根室高校生徒会副会長でもあったが、なかなか優秀な奴だった。

 小学5年生のときに市営球場で野球の試合があり見に行った。一人だけ中学生のような大柄の生徒がベンチに入っていたのが後に西高生となる彼だった。あの頃は目がぎらついていたので、将来を心配した。団塊世代の私の周りにもそうした目つきの者が何名かいたので、勉強よりも目が穏やかになることを祈ってそっちを優先した。ガタイが大きい上に家業をずっと手伝っていたようだから腕力が強い、暴れ者になったら半端ではすまない、人に大怪我させることになる。腕力が強ければ強いほど自制心も大きくなくてはならぬ。加速性能の良い車はブレーキ性能も比例してよくないと危ういのと同じである。人間も車もよく似ている。
 だが、根が素直なので余計な心配だった。そちらの性質が次第に勝ってきた。勉強は相変わらず手抜きし放題だったが、目に宿っていたよくない光は中学生になってからだんだん消えて影を潜めた。三年生の頃にはやさしい目に変わっていた。あ~よかったとそのとき感じた、もう心配いらぬ。
 中学・高校とサッカーに明け暮れていた。あのガタイで突進してきたらぶつかられた方はたまらぬ、吹っ飛んでしまうだろう。

 高校に入学してから2ヶ月ほどで連絡が来た。小型船舶免許試験を受験したいが、勉強に集中できないのでどうしたらいいかという相談だった。まさかこんなに早くやる気を起こすとは思っていなかったので驚いた。教室まで来てもらって「根性を決めてやるしかない、とにかく考え込む前に男なら自分でトコトンやってみろ」と言っただけ。表情が真剣だった、「あ、変わった」というのが第一印象だった。勉強しなかったから根室西高校への進学は当たり前のことで、それを正面から受け止め、次の戦を始めている、気持ちが負けていないのである。「そうか勉強が嫌いか、いまはいい、でもな、やるべき時期が来たらやるのが男」と授業の合間になんども煽った。あえなく沈没するだろうから小型船舶の試験勉強を一緒にやってやるつもりだった。試験が済んでしばらくしてから教室に会いに来た。
「先生、合格しました」
 なんと、小型船舶操縦試験に一発で合格した、二人で大笑い。あいつはいい笑顔だった。生まれて初めて勉強に確かな手応えを感じ、自信がもてたのかもしれぬ。
 それから2年半。ガタイは大きい、力も強い。"気は優しくて力持ち"を絵に描いたような立派な男になった。とっくに家業を手伝っている。ご両親もさぞかし心強いことだろう。
 本人の名誉のために書いておくが、根室西高校へ入学してからは大嫌いな英語も勉強して成績はいいほうだったようだ。変れば変るものである。教育は待つこと、ムリに矯める必要はない、この生徒の場合はそうだった。
(いま、中1の生徒を無理やり矯めようとしている。この生徒はそうする必要があるからだ。教育は一人一人の生徒をよくみることからはじまる。)

 海に出るときは防水の携帯電話を身につけろと中1の頃に話した記憶がある。あの頃はまだ防水の携帯がなかったがいまはある。漁をしていると海に落ちることがある。たいがい冷たい海水で心臓が止まってしまうのだろうが、落ちたことを連絡できれば助かる確率はあがる。確認はしなかったが何度も口を酸っぱくして言ったから当然やっているだろう。
「先生は、□□が海へ落ちて死んだなんてニュースは聞きたくないからな、防水の携帯をかならず身につけて海に出ろ」
 あの時だって素直に「はい」と返事したぞ。

 一緒に勉強していた根室高校の仲間のことを心配して、
 「先生、○○○卒業できたらしいよ」
 「そうか、成績だけでなく出席日数も足りないと噂が流れてきたから危ないと思っていた。そうかだいじょうぶだったか、○○○は高校で変われなかったようだな、残念だ。だがあいつだって社会に出たら変わらざるを得なくなる、まだ時間が要るのだろう、おまえは見事に成長したな、うれしいよ」
 一緒に机を並べていた中に釧路湖陵高校へ進学した生徒がいた。医学部志望だったが、どうなったかな。粒のそろった小さな字で書くのが速かった。学力テストで国語がいつも90%以上の得点。できる生徒もできない生徒も和気藹々で机を並べていた。

 教室をのぞいて、
 「わーなつかしいな」
 と一言。補習に来ていた中1の生徒と中2の生徒たちを眺めて帰った。

 「元気にやれよ」
 「先生もお元気で!」
 いい男になった、めんこい生徒である、名前を書いてこういう奴もいるって自慢したいがやめておこう。

 この男は地元に残り家業を継ぐ、ふるさとの将来を担うメンバーの一人になりうるだろう。学力とまっすぐな心根の両方が揃えば一番いいが、一人の人格で両方もてなければ、片方ずつもった人間が集まればいい。

 ニムオロ塾は30年後に古里を支える人材を育成したいとは思うがそうではない、生徒たちはニムオロ塾という坩堝の中に飛び込んで勝手に成長して一角の人材に自らを鍛え上げるのだろう。
 社会人となってどれだけ成長できるか、本当の勉強は卒業の朝からはじまる。 


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