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#1836 日本人の仕事 : 三浦しをん『舟を編む』を読んで Feb. 9, 2012 [A4. 経済学ノート]

 この頃、本を読むと自然に"仕事"へ関心が向いているのを感じる。日本人の仕事観は欧米人や中国人とは相当異なる。たとえば、ギリシア人は労働は奴隷のすること、そこから解放されていることが生活の理想となるから、そういう価値観がベースになっていればいずれその国は財政破綻するのは必定なのだろう。
 日本人は仕事から解放されたことにあまり喜びを感じない、それどころか仕事がなくなると社会から疎外されたように感じる者が多い。日本人にとって働くことは喜びでもある。喜びである仕事に手を抜くようなことをする職人はさげすまれる。社会の根底にある仕事に関する価値観の違いは大きい。

 さて、最近、三浦しをん著『舟を編む』を読んだ。出版社で辞書を編纂する仕事が採り上げられている。主人公馬締(まじめ)君は他の部署で働いていたのだが、定年間近の辞書編集者荒木さんに見込まれて辞書編集部員となる。最初は気の進まない仕事で何をどうしたらよいかもわからないが、次第に仕事が面白くなる。そういう馬締の素質を棚の整理をしている姿をみただけで見抜いて編集部員に引き抜いた荒木さんの眼力もたいしたもの、小説にしても巧くできている。辞書の改定には10年あるいは20年という長い年月がかかる。仕事を続けているうちに馬締君は次第にのめりこみ、プロフェッショナルになっていく。改定作業中の辞書の名前は『大渡海』。
 十数年がたって馬締は美人板前の女性香具矢と結婚している。そのお店で馬締の部下の女性編集部員が尋ねる。

「まじめさんのどこがいいと思われたんですか」・・・
辞書に全力を注いでいるところです
・・・
洗い物をする手を休めず、香具矢はつづけた。
美味しい料理を食べたとき、いかに味を言語化して記憶しておけるか。板前にとって大事な能力とは、そういうことなのだと、辞書づくりに没頭する馬締をみて気づかされました
・・・
「辞書編集部でのお仕事はいかがですか」
めずらしく香具矢から発された問に、岸辺は笑顔で答えた。
最初は戸惑うことばかりでしたが、いまは楽しいし、やりがいを感じています
こんなに晴れやかな気持ちで言える日が来るなんて、移動した当初は予想もしていなかった

 岸辺さんは馬締の部下として女性雑誌の編集部から異動してきた。なぜ私が辞書編集部に異動?としばらくは不満もあったし、新しい仕事がわからずとまどうことばかりだった。

 『大渡海』専用の特注紙のチェックシーンがある。岸辺は1年8ヶ月の間編集室にある辞書を片っ端からめくって、どの出版社のどの辞書か即座に言い当てられるほどになっている。どういう感触の紙がいいのかニュアンスを製紙会社の営業マンと開発担当者へ伝える。そしてその最終チェックの場面を馬締から任される。全幅の信頼を受けて大仕事である。205ページにあるから、その場面はぜひ本を読んで味わっていただきたい。でも、ちょっとだけ紹介しておきたい。著者の表現のさえているシーンがある。

 岸辺は無言のまま唾をのみ、ゆっくりと紙をめくった。一枚、二枚、辞書のパージをめくるように紙の束をめくっていった。
 しばし、耳の痛くなるような静けさが部屋を支配した。耐え切れなくなったのか、言葉を発したのは開発担当者だった。三十代半ばぐらいだろう。眼鏡をかけた細身の男性だ。
 「いかがでしょうか」
 開発担当者は、自信と不安がないまぜになった表情で岸辺を注視している。

 私は根室という田舎育ちだが、街中に家があったので夜中には酔っ払いの声や自動車の通る音でけっこう騒々しかった。あるとき、友人の誕生日を一回りほど歳が離れたお姉さんが祝ってくれたことがあり、そこへおよばれして泊まったことがある。そうしたら時計の音だけが響いて静かなこと極まりない、まるでシーンという音がしているかのような錯覚に襲われた。「耳の痛くなるような静けさ」という句を読んだときに四十数年前のことを思い出した。

 話しを元へ戻そう、辞書の監修者の先生が辞書刊行一月前に亡くなる。
 辞書編集には何の興味もなかった二人が十数年を経てそれぞれ辞書編集部に異動になり、仕事をするうちにのめりこみ、辞書編集の楽しさを味わうようになる。そして肝心の監修者が亡くなった直後に改訂版が出る。

 日本人にとって、仕事がなんであるのかがよく書けている。毎日それに携わっているうちにのめりこみ、次第にその仕事が面白くなり、さらにのめり込んでプロの技倆が磨かれていく。
 損得を度外視して仕事に没頭する姿は辞書の監修者も前任の編集長も馬締君も編集部員の岸辺さんも同じだということが丁寧に描写されている。

 『言海』『広辞苑』『日本国語大辞典』『大辞林』などおなじみの国語辞典の定義が比較検討されるさまも面白い。国語辞典ばかりで白川静先生の辞書が出てこないところが残念ではあるが、しかたがない。でも、そこまで突っ込む方法はあったはずである。縦糸の国語辞書と横糸の漢和辞典、言葉の楽しみ方を啓蒙するにはいい方法ではなかっただろうか。
 辞書を引かない生徒たちが増え、本を読まない、読めない生徒たちが増えている。言語の大海原に漕ぎ出でる者たちが激減している時代だからこそ言葉に関する啓蒙小説が必要なのではないだろうか。

(私が使っているのは『広辞苑』と『大辞林』のふたつだ。それに岩波の『古語辞典』(これはちょっとイレギュラーの部類に入るだろう)、角川の『漢和中辞典』、白川静『字統』『字訓』。辞書を引くのは楽しいからもう一つ『字通』がほしい。
 英語の辞書は5年ごとくらいに買い換えている。コウビルドが最初だった。英英辞書の電子版の機能が年々よくなっているので、三種類を使っている。そしてブログを通じて根室出身の専門家が薦めてくれた小西友七『英語基本形容詞・副詞辞典』『英語基本動詞辞典』が一昨年から書棚にある。折に触れて辞書を引くのは楽しいものだ。いくつか並べて同じ語の定義や用例を比較検討してみると面白さが増す。)

 作品中の架空の辞書『大渡海』は「言葉という大海原を航海するための舟」となっている。

舟を編む

舟を編む

  • 作者: 三浦 しをん
  • 出版社/メーカー: 光文社
  • 発売日: 2011/09/17


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