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#1093 テストの花道:勉強の仕方 July 3, 2010 [57. 塾長の教育論]

 土曜日は「テストの花道」の再放送日だ。今日は勉強の仕方の一つ、「比較」を採り上げていた。フィッシュ・ボーン・チャート、ブレーン・ストーミング、KJ法などの亜流と思われるような勉強テクニックを紹介していた。これらは一般的な「問題分析法」や「問題解決法」に属するものだろう。
 「テストの花道」は勉強の仕方がわからなく悩む高校生にこうした勉強テクニックを「マニュアル化」して紹介する番組である。

【8時間の勉強は学習スタイルの鋳型をつくる】
 大学生が数人サポート役に回って参考意見を述べていた。夏休みには毎日6~8時間勉強をやるという。
 ここで気がついた。高校生時代の勉強の仕方がその後の学習スタイルの鋳型になるのではないかという假説だ。
 受験勉強は答えのある勉強である。効率的にやることを教師も求めるし、生徒もそうありたいと効率的な勉強の仕方を探す。
 受験生はしばしばそういう落とし穴にはまる。明治大学教授の斉藤孝の勉強法がそういう学習スタイルの典型かもしれない。難しい問題はとにかく答えをみて解き方を覚えてしまうというスタイルである。これは斉藤氏に限ったことではなく、多くの受験生が採っている学習法だろう。

 ちょっと考えてみてほしい、この方法は難問題を数日考え続けるチャンスを端から棄てているのである、もったいないとは思わないか?いずれ現実社会へ出て行けば、正解のない難問題にたくさん遭遇するから、難問題を抱えて何日も考え続けることはいわば社会人になったときの「準備運動」や「基本技のトレーニング」のようなものだ。
 すっかりマニュアル化された勉強スタイルが身についた者は、社会人になってから沈没する。マニュアル化された方法論では現実の問題の解決案は出てこないからだ。他人とは違った視点から物事を眺め考え続けることからしか解決案は出てこない。
 多くの受験エリートが社会人になって管理職になったときに、自分で目標設定や課題設定ができなかったり、設定された目標がクリアできなくてノイローゼになる。それは受験勉強でつくり上げてしまった学習スタイルの「鋳型」に起因するのではないだろうか?

 大学時代や大学院のときの一つ先輩・友人・同期・後輩のうち8名ほどが大学に残っているが、どの人も大学受験でこうした勉強スタイルを採らなかったのではないかと思う。大学生になってから本を読むうちに、なにか問題意識が芽生え、猛烈な勉強を開始したのではないだろうか。困難な問題を考え抜くという「鋳型」は大学に入ってからつくり上げたようにみえる。
 受験勉強でマニュアル化された解法を身につけるのは危険なことなのだ。せいぜい中学生まででやめておいたほうがよい。高校生の時期からは学習スタイルを変えるべきだと思う。パターン学習などはほどほどにしておいたほうがいい、それを徹底するのはもってのほかである。考え抜く習慣を育むような学習スタイルに意識的に切り換えるべきだ。

【岡潔の学習スタイル】
 大数学者の岡潔は、学生時代(旧制中学)だったと思うが、数学の問題は難問から解いたと自著で語っている。もちろん、その問題1題しか手がつけられず時間切れのこともあったようだ。それでも自分のスタイルを崩さない強さがある。
 岡潔の学習スタイルとテストの花道で紹介された受験テクニックを比較すると面白いことがわかる。今日再放送された「テストの花道」では、現役大学生5人ばかりが標準問題は何かと検討をつけ、その上で難問題は避けると話していた。
 受験勉強のテクニックとしてはたいへん有効な方法だろうが、そういうイージーなやり方をテストのたびに続けていると、それが習慣になる。習慣はいつか癖になり、性格を形作る。大人になったときには難しい問題は避けて通るような性格の人間になっている。民間会社で一番不要な性格の人間である
 難問題を飽くことなく自分の頭で考え続け、解決案を見出すような人材こそがどの分野でも求められているのだが、受験勉強を効率的にやった人間ほどそれとは正反対の学習スタイルが鋳型として定着してしまっていて、使い物にならないという現実が理解できるだろう。 

【私自身の経験】
 手前味噌になり恐縮だが、わたしの学習スタイルは高校時代にその「鋳型」ができたように思える。家業を毎日数時間手伝っていたので普段はあまり学習に時間が割けなかった。その反動で夏・冬・春休みは2週間毎日十数時間の勉強をした。頭の回転がなかなか止められなくなるところまで勉強した。頭は面白いもので刺激になるような材料を放り込めば放り込むほど消化力が巨大化していき、しまいには自分のコントロール外になる。たぶん、思春期特有の異常な集中力のなせる業なのだろうが、そのまま続けたら、戻ってこれなくなる。布団の中に入っても頭は思考を停止せず、暴走が始まってしまい、勝手に考え続ける。ガス欠するまで暴走は続き、疲れ切って空が明るくなってからでないと寝付けなくなる。学習効率はよくなるが、暴走する頭脳はその人を一時期は狂人にするに違いない。わたしには2週間が限度だった。そこでいったん小休止しクールダウンだ。
 こうした集中学習に伴う危険は集中力が爆発的に強くなる思春期特有の現象だったのかもしれない。のちに、ヨーガの座禅・瞑想と呼吸のコントロールで頭の暴走が止められるようになってからは2週間の制限がなくなった。たいしてよくない頭でも何日も考え続けるパワーがあれば、研究も会社経営上の問題も統合システム開発も、大概のことはなんとか解決案が出てくるものである。
 高校2年生から、公認会計士2次試験受験参考書を使って勉強していた。近代経済学とバランスをとるかのようにマルクス『資本論』やヘーゲルの著作を読み漁った。ニーチェやハイデッカーもさっぱりわからなかったがこの時期に目を通した。時折、わずか数行が理解できなくて何日も考え続けることがあった。頭の中に文章を暗記して繰り返し思い出して考えるスタイルは、いつでもどこでも、寸暇を利用して考えを深化できるので、便利な学習スタイルだった。暗記しようと思わなくても理解できないところが頭の中に鮮明に残ってしまう。
 たとえば、数学の問題は問題を暗記して繰り返し頭の中に再現するうちに解決法が見つかることが多い。公認会計士の受験勉強も高校生にとってはそういう学習スタイルを採らざるを得ない領域だった。わからない文章にぶつかると頭の中で何度でも反芻する。そうしているうちにわけがわかってくる。
 ベッドの中でも目をつぶって問題を思い出してそれまでの思考をトレースしたり、それまでの思考過程を遮断してあらたな角度から眺めたりすることは、実社会での問題解決に大きな効力をもたらした。
 高校時代は実に非効率で回り道の多い学習スタイルを続けていたことになる。受験は失敗したが、それと引き換えに社会人や研究者となったときに効果を発揮することになる「鋳型」をつくり上げることができた
 受験勉強はほったらかしで、公認会計士の受験参考書や経済学や哲学の専門書を読み漁っていた。わからない問題にぶつかるとどうにも思考や読書が止まらなくなるのだ。「鋳型」は性格の一部にすらなっていた。

【学習スタイルは個人の人生選択に関わる問題】
 どういうスタイルがいいのかそれはその人自身の選択である。どういうふうに自分をつくり上げるのか、どういう理想像に向かって自己形成するのかという問題が、高校時代の8時間を超える勉強スタイルの中に存在する。
 研究者になるつもりがあるのなら、効率的なマニュアル化された普通の受験勉強はしてはならない。研究者としては致命的な瑕を負うことになりかねないからだ。
 民間会社でサラリーマンとして生き抜いていくという場合も、マニュアル化された学習スタイルは薦められない。
 どのような職業を選び、どのような生き方をするのか、そういう人生にとって重大な選択が、高校時代に培う学習スタイルに潜んでいる。

 社会人になってからでは遅い、たくさんの新入社員や同僚をみてきたからこそ、「鋳型」を作る時期の高校生に生まれ故郷の根室で教えてみたいと思った。
 一ツ橋や東大に入学できても、マニュアル化された受験勉強にどっぷりつかってしまったら、将来はないだろう、アウトである。出来上がってしまった「鋳型」はほとんど作り直せないものらしい。管理職になり、部下と仕事を任されたら、あるいは経営を任されたときに「鋳型」の欠点が露呈することになる。
 黒を白と言い訳に終始する者あり、部下に責任を擦り付ける者あり、任された仕事ができずにノイローゼになる者ありと、屍累々である。それが現実である。
 「学問に王道なし」、マニュアル化された受験勉強という安易な方法を選ぶ者には20年後30年後の大事な時期に厳しい現実が待っていることを知るべきだ。マニュアル化された勉強法に寄りかかる者は、鋳型=自己形成の基礎を作るべき時期に怠けたことになる。大工なら新聞も読まずテレビも見ずにひたすら鉋の刃を研ぐ修行の時期のそれを怠るようなものである。高校生は人生の修行時代、つくづくゴマカシは利かないものだと思う。


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