SSブログ

#1090 古典派経済学及びマルクス経済学を超えて(5):基礎概念の検討-2 Jun.29, 2010 [A4. 経済学ノート]

 体系の公理公準としてではなく、労働価値説の中核概念である労働概念についてさらに分析を進めよう。

 自由競争は英国の資本主義を基礎においている。人間を強者と弱者に分けるとすれば、貴族と一般市民、資本家と労働者だろう。食べるものとトレーニングが違うから、体力すらはっきり違っている。それゆえ、自由競争は強者が勝つという意味で、端から勝負は決まっている。「体力」に大きな差がある者が同じ土俵でまみえたら、勝負ははっきりしている。日本ではこれを「卑怯」といい、英国では「自由競争」という。

 英国の貴族に対して、日本の貴族(公家や領主)はどうだろう。お家の跡継ぎとして、死なれては困るから、大事に育てられ庶民よりもひ弱であるのが普通だろう。体力的な差はほとんどないか、英国とは真逆である。
 これらの比較はまたきちんとした文献引用をもって整理してみたい。こういう、人間の間に体力的な差異が明確に存在する英国と日本を比較の対象に採り上げて、英国と日本の違いを押さえておきたい。英国資本主義や米国資本主義と日本資本主義の「性格の違い」は労働概念にも及んでいる。

【古代日本列島の豊かさと「歓びと未分化な仕事」】
 日本列島においてはという限定付きで、「仕事」は古代一つの統合された存在であったという假説をわたしは提起したい。そして縄文期にその起源を見出したいと思う。
  この時代は「仕事」は日常生活での芸術・技術・人間活動そのものであった。食糧の煮炊きや保存に使用した日常生活容器としての縄文土器は、縄目の文様が美しい。森や海岸で暮らした縄文人は、日常生活用品製作に時間をたっぷりかけられるほど、生存に必要な食糧が短時間で手に入った。ドングリ、クルミなどの木の実は秋になれば山間の谷間を埋めるほどたくさんあったし、小さな小川には魚が稠密に生息していて簡単に獲ることができただろう。

【身近な例から縄文期の自然の豊かさを想像する】
 光洋中学校の裏の藪を下ると湿地を流れる小川があった。木の枝を折って、チカ釣りの糸と針だけで川虫を餌に、昼休みのひと時に10匹ほども小魚を釣ったことがある。わたしの腕のよさを自慢しているのではない、幅30センチくらいしかない湿地の小川ですら魚がたくさんおり、短時間で10匹も釣ることができた。周りに住宅が増えたので、その小川がいまあるかどうかはわからない。
 ついでにわたしのつりの腕がどの程度のものかを紹介しておこう。茨城県のある川に誘われて釣りに行ったことがある、1970年代半ばだったろう。2時間ほど釣ったが1匹も釣れなかった。魚影もまったく見えない。幅数十メートルの大きな川だった。一緒に行った地元の人はクチボソなど3匹くらい釣っていた。わたしには中りがさっぱりわからなかった。そんなわたしでも中学生のころは本町の岸壁でチカ(ワカサギよりおいしい=地元でない読者へ)釣りでは2時間ほどで100匹200匹と釣ることができた。何百もの魚が群れているのが見える。釣堀以上に魚影が濃いのだから、釣り糸を垂れれば入れ食いである。技術の良し悪しなど関係なく、いくらでも釣れる。釣果は糸に針を何本ぶら下げるかに依存する。二天秤、三天秤は当たり前だった。魚が食いつくのを目で確認して釣るのだが、もちろん浮きの上下を確認して釣ることもあった。そんな海が家から歩いて5分のところにあったから、魚釣りの技術が良いはずがない。
 そういうわけで縄文時代は小川ですら魚影が現在とは比較にならないほど濃かったと思うのである。
 オンネットのアサリもそうだ。昔(昭和30年代初期に)は砂を掘れば砂の四分の一ほどもアサリだった。10分あれば一日に家族が食べる量のアサリを獲ることができた。
 その昔、花咲小学校の校庭の横に「底なし沼」があった。地球の裏側まで続いているということだったが地球儀を見ればわかるように反対側はブラジル沖の海底である。その沼にカラス貝がたくさん生息していた。大きな貝だった。獲って食べる人がいないから大きくなったのだろう。食用になるそうだ。縄文期はあちこちにああいう小さな「底なし沼」があっただろう。その沼のあったあたりは住宅が建っているが、前を車で通るたびに沈んでなくなってやしないかと気になるが、目に見える範囲では変化がない、不思議だ。ブラジル沖海底に続く「底なし沼」だったはずだが・・・

【統合され未分化な職人仕事の源流は縄文期にあり】
 一部で米の栽培もあったようだが、採集生活が主体だった縄文期は、労働時間が少なかった。余暇をもてあましていたのである。その暇つぶしの典型が縄文土器の製作であった。手間隙を掛けるにいいだけ掛ける。土器の製作は生活必需品=容器を作ることだが、それは暇つぶしの楽しみ=娯楽でもあった。そして作り手の技術に応じて土器の強度や美しさに差が出ただろう。土器製作は芸術・暇つぶし・娯楽であり、そして作り手の個性や技術水準の表現手段でもあった。
 日本人が伝統として受け継ぐ職人技・職人仕事はこうした縄文期の縄文土器製作に行き着くだろう。ここも私の假説にすぎないが、想像力を膨らませてほしい、労働が分化していない。

【ヨーロッパ奴隷社会の労働とその延長線上にある工場労働】
 ヨーロッパでは古代から奴隷制度があった。特権市民と奴隷が存在していた。特権市民は労働から「解放」されており、奴隷は「強制労働」させられていた。どういう種類の仕事に自分の時間を使うかは「ご主人様」が決めるのであり、奴隷が決めるわけではない。自由民の「暇つぶし・娯楽」という要素が奴隷労働に入り込む余地はないし、自己表現の手段でもあり得ない。
 工場労働者の労働も、労働力を商品として売り渡し、「資本家」がそれを生産に使う。どういう種類の労働をさせるかは労働力商品の買い手の自由である。

【職人仕事】
 名人のやる仕事は「芸術家」の作品と同格だろう。並みの芸術家のそれをはるかに凌ぐとさえいいうる。職人が使う道具は「自分もち」だ、他人の道具では仕事は出来ない。道具の手入れは自分でする。種類が多いが、大工がそうだ。宮大工、船大工、大工、建具職人、家具職人などさまざまに分かれるが、使う道具も相当違う。たとえば、同じ本棚でも大工の作ったものと建具職人が作ったものでは一見して違う。使う材料も道具も違うから、出来上がったものはまるで別物だ。わたしの書斎の本棚は建具職人が作ったものだが、短い廊下に壁にはめ込みで造ってもらった、新書やCD専用の棚は大工さんの作品である。

【化外の労働の担い手として扱われたマイスター】
 古代社会で奴隷制度や農奴があった地域では仕事は奴隷労働と職人仕事、芸術仕事の3つに分化した。その身分は領主や特権市民によって制限されていた。近代になって、労働は単純労働と熟練労働、職人仕事へと分化した。スミスやマルクスは、単純労働と熟練労働に労働を分類したが、職人仕事はその範疇に入らない。いわば経済学の「化外の」労働である。
(現実社会は工場労働者のみで動いているのではない。工場労働者はさまざまな職業のごく一部をなしているに過ぎないし、工場の規模が大きくなるほどそこで働く面積当たりの人間の数が少なくなる傾向すらある。スミスやマルクスが考えていた労働集約型の「工場」とコンピュータ制御時代の「工場」は同じ言葉を使ってはいるが別のものであると考えた方がいいだろう。)

 日本ではどうだったのだろう?奴隷制度の農奴社会でもない、日本の村はある程度の自治が認められてきた。たとえば里山での柴刈りがそうだ。村内部のことは村民の協議で決められた。ある程度の自治が歴史を通して存在している。

【技倆とこころ】
 仕事は手仕事が尊ばれてきた。技倆の高い者はその精神性の高さも同時に求められる。こころのありようが仕事のできばえに影響するからである。そういうものを見分ける鑑識眼を多くの人がもっていたということだろう。道具の手入れも厳しい。それは仕事のできばえに直接影響するからである。それゆえ、職人は仕事の手を抜かない。そのときに己のもつ技倆の最高のところで勝負する。手抜き仕事は鑑識眼をもつ者にも同業者にもすぐに見破られてしまう。仕事の手を抜くことはなにより己の恥じである。

【自発性、対価を求めない改善、暗黙のルール】
 日本では職人は時代を超えてあらゆる職業に存在している。それは工場労働者にさえも及んでいる。生産性の改善はそこで働く人々の楽しみでもある。同じ状態を続けることは恥ずかしいことなのだ。何年やっても技倆が上がらない者は「仕事の出来ない奴」と軽蔑される。それゆえ、雇い主や管理職に強制されるのではなく自ら進んで「改善活動」を行うのが日本人の労働者である。賃金がいくらであろうと構わない。改善が1億円の利益を生み出しても、百億円の利益を生み出しても、それに見合う対価をよこせとは日本企業の社員は云わない。利益はボーナスや昇給という形で社員に配分されたり、内部留保されて企業の発展に寄与すると確信しているから、直接的な大家のないことに大きな不満が生まれない。「売り手よし、買い手よし、世間よしの三方よし」の世界がある。「そこで働く人も、資本家であり雇用主である人も、その企業に関連する消費者や取引先も」ともによくなる。利益は個人で独り占めするものではないという感覚が日本人にはある。
 職人仕事と「三方よし」の商道徳は同じものの二つの側面なのだ。両方セットで存在するのは世界中で日本だけと云い得るだろうか。ドイツのマイスター制度は別途きちんとした形で扱い、比較検討しなければならないが、とりあえず検討を留保しておく。

【自動化に関する二つのエピソード:仕事=歓び】
 とりとめなく話は飛んでいくが、自動化に関してエピソードを二つ挙げておきたい。ひとつは臨床検査センターである。日本で最大手の臨床検査センターといえば知っている人は知っているだろう。検体を病院から預ってきて、ラボに搬入すると分注作業が始まる。検査の種類ごとに検体(血液・尿)を分けるのだが、これが単純労働のさいたるもので実にきつい。親指を使って分注器を操作するから腱鞘炎になる。数十人の人間がこの作業に携わる。仕事としては不可欠なものであるが、誰がやっても楽しくないし長期間続けると腱鞘炎を必ず引き起こす非人間的な仕事である。検査室に回った後でもたとえばRI部ではさらに分注作業がある。こういう非人間的仕事を自動化しようということに反対する者はいない。利益を優先して自動分注機の開発に注ぎ込むことになる。社内で十数人がプロジェクトをつくり小さなメーカーと共同で自動分注機の開発に加わる。実際には社内で工学や技術的なバックグラウンドを持たない者たちがプロジェクトに携わって開発してしまう。技術屋は共同開発相手のメーカーにいれば十分である。分注作業の自動化はその精度が上がるにつれて分注ミスに関わるクレームを劇的に少なくしてしまう。処理時間も比較にならないほど速い。こういう自動化は品質管理のレベルを押し上げることになる。非人間的な工程を自動化することで、すべてがよいほうへ回ってしまうのである。「三方よし」である。
 根室の缶詰工場で1960年代初め頃にサンマの仕分け作業の半自動化がなされた。生サンマを大小で分けるのか、切断したあとのものを分けるのかはいまとなっては確認できないが、3人かかりっきりになり、仕事がきついので誰もがやりたがらない仕事だったようだ。現場監督が毎日その作業を観察する。そしてついに樋をつけて水流を利用して3つに分けることに成功する。それ以来、その仕事は一人で楽々できるものに変わった。
 サンマの時期になると、船が着くと原料がどっと工場へ運び込まれる。生ものだから処理時間が勝負だ。残業が続く。最後の殺菌工程がネックだった。殺菌釜の形状に問題があった。蒸気殺菌釜は丸かったのだ。高圧蒸気殺菌だから釜の強度の問題からメーカーは丸い型のものを生産していたのだろう。釜に缶詰を入れて殺菌するのだが、入れにくいし、空きスペースが多すぎる。それで現場監督は角型の殺菌釜造るようにメーカーに要求して殺菌工程の能率を上げた。原料は処理し切れなければ工場近くの海岸に棄てられていた。(それを餌として魚影の濃いこと・・・)
 こうしたことは誰かに言われてやるのではない。そういうセンスのあるものが「勝手に(自発的に)」やるのである。それに対する直接的な報酬はないし、そういうものをやるほうは当てにしていない。効率的になることが嬉しいし、いままでみんなが嫌がり3人でやっていた仕事が、一人で楽々できるようになることで、一番単調できつい非人間的な労働を消滅させえたことが喜びなのである。「仕事の歓び」といっていいだろう。工場の工程改善や自動化にはこうした「仕事の歓び」がある。そこが米欧資本主義で働く工場労働者と日本の「職人主義」で働く工場労働者との顕著な違いである。

 工場労働者においてすら、日本では「仕事」が「歓び」と密接に結びついている。個人の利益ではなくみんなの幸せを考えることが、半自動化や自動化の例に垣間見ることができる。自発的な「改善」は「歓び」であり、仕事そのものである。

 分化してしまい歓びからきりかなされた米欧の「労働」と日本における「仕事=歓び」を大雑把に比較検討してみた。職人仕事は工場労働のあり方にまで影響している。米欧の労働が単純労働と熟練労働に分化し、芸術や歓びと切り離されてしまっているのに対して、日本では仕事は全的なものであり、芸術性や歓び、自己表現の余地を残している。

【展望】
  こうした当たり前のことに日本人自身が気がついていないようだ。経済学者も欧米の労働概念を鵜呑みにするのみで、100年たっても日本の伝統的な仕事観に基づき基礎概念に批判的検討を加える気配がない。自分の足元すら見えないのだろうか。現実から遊離した日本の経済学は、生徒の現実を見ずに学習指導要領どおりの授業をする教師とどこか似ているようにも思われる。
 マルクスが『資本論』を書くことで共産主義国家が生まれた。職人主義経済学の原理を明らかにすることで、信頼に基づく職人主義経済国家がいくつか生まれることをわたしは願っている。 
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0