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「画一的」といわれる教育が目指す画一的ならざるもの #764 Oct.19, 2009 [57. 塾長の教育論]


  日本の教育は画一的だといわれるが、ほんとうなのだろうか?日本人の教育に対する考え方は欧米より広い。日本人の価値観では教育の場は学校に限らないからだ。

 江戸期は私塾が3万あったといわれている。主として町人や下級武士が通って勉強した。論語の素読が広く行われた。意味がわかる必要はない、ひたすら読み続けると、意味は自然にわかるようになる。さらに意味を意識して素読すれば意味の理解は無限に深まっていく。私塾では躾もきびしい。各藩には藩校があったが、ここで学べるのはエリート武士の子弟だから、私塾が江戸期の教育の主流であった。

 どのような仕事も職人が担っていたが、その教育はどうだったのだろう。たとえば、宮大工は棟梁へ弟子入りする。仕事が終わるとひたすら鉋の刃を研ぎ続ける。しまいには砥石に鉋の刃が吸い付くようになる。斜めになって刃のところが砥石にくっついてしまうのである。飽くことなく鉋を研ぎ続けて身体で覚える。先輩職人や棟梁の技を「見て盗む」のである。
 職人の修行の仕方は料理人も宮大工も船大工も浄瑠璃の人形作りも、仏壇職人も、三味線職人も、琴を作る職人も、江戸指物師、彫師も刷り師も皆似たようなものだろう。
 教えてもらうのではなく「見て盗む」ことが要求される。考えない者、同じ作業を繰り返しやることに飽きる者はその道の名人にはなれない。渾身の力」で鉋を研ぐ。刃物の切れ味の良し悪しが仕事の出来を左右する。鉋をかけた柱に指一本あてて撫でただけで技倆がわかるものだとある棟梁がいっていた。知っている職人の現場へ行って、こっそり後ろ手を組み指の腹で柱を撫でる。これ見よがしに触ってはいけない。それが礼儀だ。撫でた途端に「あっ、腕が上がった」とわかるのだという。

 職人は単調な作業を繰り返すことで深みに到達する。実はそれが一番の近道なのだ。深みに達してから、その職人の技が自由をえる。基本がしっかりしていなければ、頭の中に描いた物をつくり上げることはできない。単調な基礎トレーニングを我慢できない者はよい職人にはなれない。師の技を「盗む」ことのできないものは所詮は師の技を超えることができない。だから手取り足取り教えることはない。そのような教え方をしたら、弟子がダメになる。

 優秀な生徒、辛抱強い生徒に出遭ったときに、教えすぎたらダメにしてしまうから、一歩手前で止めておく、そういう微妙な間合いが楽しい。疑問を育て、独力で考えることから学べることは大きい。先生がそれを邪魔してはならぬ。そうした観点からは、教育の原点は教えられるものと教える者との対話にあると言える

 英語はHirosukeさんが音読重視のやり方を提唱している。意味、キモチ、形に注目して英語を身体にしみこませていく。「渾身の力」で音読することが近道であると自らの体験を通して教えてくれている。

 数学も同じだ。四則演算、小数の乗除算や分数計算は計算の基礎である。この基礎トレーニングをしっかりしない者が高校数学の二次関数や積分計算をしっかりやれるわけがない。証明問題は三段論法や背理法や帰納法(ドミノ倒し)、これら3つのパターンを紙に何度も書いて学ぶ他ない。型が身につけば自在に証明問題が解けるようになる。
 だから数学においても単調な基礎トレーニングは「渾身の力」を込めてある時期やり通す必要がある。これを辛抱できない生徒は数学が苦手となる。

 珠算も「渾身の力」で、単調なトレーニングをすることが腕を上げる秘訣だ。10分とか2分とか時間を区切って集中力を上げる。珠算で培った集中力は他の勉強にも応用できる。英語の単語なら100を30分で暗記できるようになる。社会も暗記科目だ、こういう記憶で点数がとれる科目は集中力を上げることが武器になる。

 意外なようだが、小学生の時代に名作と言われる日本文学の作品をひたすら音読し、書き写すことはたいへんな効果がある。小学校や中学時代にそうしたことをひたすらやり通し、後に著名な小説家になった人は少なくない。『坊ちゃん』『夢十夜』『走れメロス』『平家物語』『断腸亭日乗』でも、なんでもいい、自分の気に入った作品をひたすら音読し、書き写してみればいい。一年やれば書く文章が目に見えて違ってくる。二年やれば・・・、三年やった人は作家になるかもしれない。

 フィンランドの少人数、個別的な教育がもてはやされている。しかし、私たちは日本人である。伝統的な日本の教育は画一的と批判されがちだが、じつに奥の深い教育的配慮に基づいてできあがっている。型を身につけるためにある時期我慢を強いるのが日本の教育の根底にある。それは学校教育に限らない。すべての職業の修業(=教育)に共通だ。
 表面だけ欧米を真似てもだめだ。日本の教育のいいところをしっかり残しつつ、外国に学ぶべきところがあれば学ぶべきいうのが私の主張である。日本文化は奥が深い、教育も然りである。日本人の日本人たる所以、そこを変えるのは慎重であってよい。

 ソムリエもワインと食の職人だ。イタリアにも型の文化はあるのだろう。ある時期は決まった型のトレーニングがあったのではないのかと想像する。ワインを飲みながら聞いてみたいものだ。"極東のノムリエ"さんのコメントに触発されて、こんなことを考えた。

 ***お知らせ***
 根室高校演劇部の公演がある。
  日時:10月21日(水)18:00から
  場所:根室市総合文化会館 小ホール
  演目:第1部 「パジャマ」
      第2部 「文学探訪~夢十夜より第一夜」
           「文学探訪~永訣の朝」(宮沢賢治)


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