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#749 フィールズ賞受賞数学者小平邦彦と藤原正彦の教育論  Oct. 4, 2009 [57. 塾長の教育論]


 小平邦彦は数学の分野ではその実績の大きさから巨人の一人に数えられるが、数学に興味のある人はそれほど多くはないから、あまりなじみのない名前だろうと思う。優秀な学者は教育論についても自らの体験に基づいたものを書いている。もう一人の巨人、岡潔がそうだし、『国家の品格』の藤原正彦も教育論を書いている。
 根室の生徒の学力が急降下している現実に目を奪われすぎてはならない。わたしたちの周りにある木を見ると同時に、たまには森全体を見渡しておくべきだろう。日曜日には目の前の現象から離れて、原理・原則に戻って物事を考えてみたい。日本の教育の問題点を30年前に小平邦彦が指摘しており、彼の危惧は30年後の今日、現実となっている。
 さて、優秀な数学者は戦後の教育についてどのように考えたのだろう。以下、3月28日のブログに一部加筆して再掲載する。

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 今日は数学者の教育論を紹介したい。ひとつは小平邦彦が三十余年前に書いた「初等教育論」である。戦後まもなくの頃、プリンストン高等研究所を中心に18年間米国生活のある数学者であり、ノーベル物理学賞の湯川秀樹とも親交があった。
 もう一人は『国家の品格』を書いた藤原正彦であるが、彼も英国ケンブリッジ大学や米国での研究生活経験が十数年あるようだが、小学校では日本語をしっかり勉強すべきだと小平と同様の意見を述べている。少し言い方がきついので、穏やかな小平のほうを紹介する。

子供が言語を修得する能力に優れているうちに国語を十分時間をかけて徹底的に教えておこう」(『怠け数学者の記』小平邦彦著、岩波現代文庫102ページ)

 小学校の時期は、子供たちが言語を修得する時期にあたるので母国語を徹底的に教えておくべきだというのが彼の主張で、戦前の教育はそうなっていたという。言語修得期には母国語をしっかり教えるべきだと言うがなぜだろう?この点は藤原正彦も同じ主張をしている(岡潔は「日本的情緒」が数学的発想の源泉だという。それは日本の古典や日本語で書かれた書籍をたくさん読むことや、日本の風景、芸能、人情に親しむことで育まれる。日本の風土そのものだ)。つまり、小学校で英語を教える必要はないというのが彼らの意見だ。母国語の修得期に英語を教えたら多くの場合、母国語の基礎能力に影響がでる。
  ごく小数の例外があるが、早い時期から英語を学んだ子供たちの国語の成績や数学の成績をよくみればいい。少なからざる数の生徒が国語や数学の成績に影響がはっきりでている。国語や数学の勉強時間を削ってしまうから当たり前のことが起きているだけだが、子供の学力全体への影響が懸念される(根室高校の模試の順位表をみてもその影響が読み取れる。英語の成績がいいのに、国語や数学の成績が振るわないグループが存在する。私の個人的経験では、東京で教えた帰国子女数人にそういう弊害が極端な形で現れていた)。
 小平や藤原によれば、小学生に英語を教える必要はない、子供の言語の発育段階を考慮すると小学生は日本語をしっかり学ぶべき時期だということになる。
 小学生に英語を教えてはいけないし、教える必要はないというのが彼らの意見だが、大きな副作用を覚悟の上でどうしても教えたい場合は、教える側に細心の注意が必要だということだろう。
 小学生時代は毎日のように英語の勉強時間を採って、健全な日本語能力を育むための読書時間や算数の基礎計算トレーニングの時間を減らすことがあってはいけないということだ。日本語の運用能力や数学の基礎能力に後遺症が出てしまう。

 文科省は小学校から英語を教えるという。4月から新しい学習指導要領を先行実施する意向のようだ。国語と算数の軽視はここにきわまれりと言っていい。泉下の小平は亡国の教育政策と嘆いている。

昔の小学校では修身、唱歌、体操を除くと、二年までは国語と算数以外は何もなく、図画が3年から、理科が4年から、地理と歴史は5年からであった。そして国語は1年のとき週10時間、2年から4年までは週12時間あった。」

 国語と算数を重視した戦前の教育スタイルが理想だと小平は語っているが、日本人は戦前や戦時中の軍国主義教育の弊害を排除するために、教育の大切な骨格まで破壊してしまった。小平ばかりでなく、藤原正彦も小学低学年で社会科を教える必要はなく、国語と算数の計算トレーニングに集中すべき時期だという。
 「国際人」となるためにも、日本の古典といわれる本をいくつも読んでおく必要があると藤原正彦は言う。彼らの付き合ってきた欧米人は教養のレベルが高い。そういう人たちは母国の伝統文化を理解していない人間を相手にしないという。相手にする価値もない教養のない人間とみなされてしまうのだそうだ

 源氏物語は読まなくても、夏目漱石、芥川龍之介、森鴎外、幸田露伴、永井荷風、泉鏡花、太宰治などの作品群は読んでおくべきだろう。読みやすい古典である『徒然草』が入門書として薦められる。世界最高水準の芸術書である世阿弥『風姿花伝』も大学生頃には読んでおきたい。日本の伝統文化である能の極意書だが、「国際人」の教養書としても欠かすことができないだろう。肉体の発達段階ごとの能のトレーニングの要諦、否、要諦を越えて極意が記されているから至高の教育書や芸術論として読めるし、人生訓や哲学書としても読める。
 小学生には読みやすい宮沢賢治の作品群がいい。健全な倫理観を育むために太宰治『走れメロス』や夏目漱石『坊ちゃん』はいい読み物だ。幸田露伴の『五重塔』は職人仕事を描いていい。中学生には職人仕事がどのようなものかを語る西岡常一『木のいのち木のこころ〈天〉』と、その弟子である小川三夫『木のいのち木のこころ〈地〉』も読ませたい本である。日本人の伝統文化を支える心意気の一端に触れることができる。思春期にこそ読むべきだ。こうした本を足がかりに、自分の進むべき道や職業について考えさせてみたい。
 とにかく、小中学校の時期にたくさん本を読ませるべきだ。それがその後のコヤシとなる。数学も、社会も理科も教科書は日本語で書かれている。だから日本語の読解能力は高いほど他の教科の成績によい影響が出るのはあたりまえのことだろう

 センター試験の委員を3年務めた佐藤恒雄は『佐藤の数学教科書シリーズ』を12冊出しているが、問題文の読解を強調して、高校数学の問題を500弱のパターンに分け、問題ごとにそのテクニックを解説している。センター試験においては問題文の理解が正解へ扉を開ける重要なファクターとなっている。テクニックの解説書特有の欠点もあることは注意しておかねばならないが、それでも「良書」に入れていい。独自の思想で高校数学をまとめ「数学教科書シリーズ」を著したユニークさを買う。

(高校数学全体の展望をえるためには、『数学読本(全6冊)』(松坂和夫著、岩波書店)がいい。様々な定理の解説や証明が丁寧になされているのはこのシリーズのみではないだろうか。数学の好きな高校生に薦めたい。いまなら入手できる。一時、どの巻か手に入らないことがあった。絶版になる前に買っておけ。全巻そろえると2万円に近い。もちろん社会人になっても使える。高校生が正月の小遣いを使って惜しくない本だろう。自分の能力を高める投資は身銭を切って積極的にすべきだ。ゲーム機を買うお金があったら、こういう本を高校生のうちに身銭を切って買う習慣をつけておきたい。そういう子供は必要な知識や思考の源泉である優良な本を自分の目で見て選び、身銭を切って買う大人になるだろう。繰り返しやることは習慣となり、いつか性格の一部を形成し、その人の運命を左右する。)

 小平邦彦は34年前、数学教育に強い疑問を呈している。その問題はいまもって当時のまま放置されている。

数学における技術では基本的なのは計算の技術であって、その基礎となるのが小学校の算数で学ぶ数の計算である。・・・小学校の算数で最も重要なのはこの計算の訓練である」(124ページ)
昔から読み書きそろばん、と言われているように、読み方、書き方、計算の仕方を教えるのが初等教育の基本である。」(同書125ページ)

 小平は初等数学教育での基礎計算トレーニングの重要性を強調している。他の箇所で、集合を小学校や中学校あるいは高校で教える必要はないと言っている。歴史的順序で数学を教えるべきで、論理的順序で教えるべきではないという。ユークリッド幾何学を中学校で十分に教えるべきで、そうすれば学問の体系である公理的構成も自然に理解できる。他の諸学、たとえば経済学の理解に不可欠だ。

 高校数学は2次関数も三角関数も指数関数も対数関数もベクトルも数列も微分積分も、計算力が要求される。基礎計算能力の高い生徒ほどテストの点数が高くなる傾向がある
 意外なようだが高校数学においてこそ基礎計算能力がものをいう。商工会議所珠算検定2級程度の技倆があれば、基礎計算能力において高校数学では圧倒的に有利だろう。受験数学には一定程度以上の計算速度と計算精度が要求されている

 ところが、全国44番目の北海道14支庁管内で最低の学力と公表された根室の中学1年生の40%近くが、小数の乗除算や分数計算が満足にできないそしてこの数年間で中学生の計算能力がさらに落ちている。原因の一つは小学校で基礎計算トレーニングに割いている時間が少ないからだろう

 家庭学習習慣をもたない子供が増えたことも原因の一つだ。根室市教委が全国学力テストと同時に実施されている学習状況に関するアンケート調査の結果を公表(2009年9月)した。その調査によれば、根室の中学三年生の5割はゲームやモバゲに代表されるインターネットの利用に毎日2時間以上も時間を奪われている。部活を6時までやり、二時間「ケイタイ」やパソコンにしがみついていたら勉強する時間がなくなるから学力が低下するのは当然だ。

(子供たちの生活習慣が崩れている。子供や孫をシツケできない両親・じっちゃん・ばあちゃんが増えている。50年前は戦後教育ではあったが、厳しくシツケる家庭が三分の一ほどはあった。いま、子供たちは甘やかされ放題だ。じっちゃんやばあちゃんはお金を持っている。要求されるままに何でも買い与えてしまい、我慢するということを教えない。
 戦後20年ほどは大半の家庭が貧乏だったから、親は子供に我慢をさせた。子供も我慢せざるを得なかった。そういう環境が「我慢のできる」「辛抱のできる」人間を育んだ。
 過剰な商品の氾濫、そして経済的な余裕の期間が続いたことで、大人すら「我慢力」や「辛抱力」を失ってしまった。入ったお金で生活するのではなく、カードで入るはずのお金を先に使ってしまう。収入の予定が狂うことはよくあることだ。お金は入ってから使うものだ、そういう正常な感覚がいまの若い人たちにはなくなっているようだ。
 子供の教育への投資よりも、来週の土日はどこへ何を買い物に行こうとか、どこへ遊びに行こうかと考えてしまう。10年20年先に家族がどうありたいかを考え、想像する力が失われている。過剰な商品に取り囲まれて我慢する力を大人も失ってしまっている。
 我慢のできる子供を育てるのがとても難しい環境の中にいることを自覚しないと、大きな流れに流されてしまう
 子育てをテレビやケイタイやゲーム機やパソコンに任せてはいけない。子供が欲しがるままにすべてを買い与えたら、その子供は確実に我慢や辛抱のできないダメ人間に育ってしまう家庭のシツケが人間の基本を作るのは昔も今も変わらない
 自分の子供を健全に育てたかったら、意識的に我慢させることだ。きびしくシツケるべきだ。シツケは漢字で書くと「躾」、身を美しくすると書く。躾されていないみったくない子供が増えた。これは私たち大人の責任である。
 社会人でもきちんと挨拶できない者がいる。そんな人は社会人として失格だ。教室へ入ってくるときに、「こんにちは」「こんばんわ」、出て行くときに「さようなら」と生徒は快活に挨拶する。挨拶は人間の基本だ、きちんと挨拶をしない生徒は退塾してもらうのが当塾の基本方針だが、今まで挨拶のできない生徒は一人もいなかった。だから、そう悲観したものでもない、毎日することを先ずきちんとすればいいのだ。それを繰り返すこと。勉強も、帰ってきたら他のことを後回しにして30分やってみること、それを毎日繰り返すと習慣となり、当たり前になる。努力せずとも帰ってくると自然に机に向かうようになっている。しまいには、勉強しないと気持ちが悪くなる、何かし忘れた感じがはっきり自覚できるようになる。それでいい。
 あなたの子供は他人の家に、友達の家に遊びに行ったときに、その家の親にきちんと挨拶をしているだろうか?していなければ、明日からさせればいい。そういう細やかなことをおろそかにしないことが躾の要諦だろう。)

 そろばん塾へ子供を通わせる親が激減したことも基礎計算能力の低下に影響しているようだ。日本の伝統文化の一つである珠算を小学校で教えなくなって久しい。基礎計算力は今後も落ち続けるだろう。

 小平邦彦の国語と数学教育への危惧は、残念ながら三十有余年を経て現実となりつつある。わが町だけの問題ではない。

 2009年3月28日 ebisu-blog#559

*5月3日blog#569『英語教育論:藤原正彦『国家の品格』より抜粋』
 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2009-05-03-1


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katu

国語力の話、納得しますね。

自分は、保育所の時代にいっぱい歌を教えてくれた先生がいて、日本の美しい歌は私の子供の頃の良い国語教育だったように思います。

今の子供は日本の唱歌知らないのが残念。

国語ってどうやって勉強するか一番悩む教化ですね・・
by katu (2009-10-04 23:51) 

ebisu

保育所で歌を通じた日本語教育はいいやりかたですね。いまでも同じ方針でやっているのかな?保育所の方針だったのか、先生の個人的な指導方針だったのか、子どもをどう育てるか、保育所選びも重要なファクターなんですね。

卒業式でも「蛍の光」や「あおげばとうとし」を歌う小中校はとっくにありません。唱歌は美しい日本的情緒を謳いあげたものが多い。これも今の子供たちは知らない。世代を超えた共通の歌がいつの間にかなくなっている。日本的情緒の共有と伝承が唱歌を通じてなされてきた側面があるから残念です。

ところで岡潔と藤原正彦が日本的情緒のあることが大数学者を出す条件だと言ってます。国語の重要性は小平邦彦と藤原正彦が強調しています。
数学者が日本的情緒とか国語の重要性を口をそろえて強調するのは意外でした。
藤原氏が書いていましたが、インドの大数学者ラマヌジャンのふるさとには美しい寺院がいくつもあるそうです。そして自然が美しい。藤原は大数学者を生み出すためには美しい環境が必要条件であるという自説を確認するために現地を見て回っています。
国後島までも歩けそうな流氷の海、春国岱の空を悠然と飛ぶオジロワシ、オホーツクに沈む美しい太陽をみて感動する子供たちの中から将来、大数学者が生まれるかもしれません。
無限の可能性を持っている子供たちと学習する機会をもてることはうれしいことです。
by ebisu (2009-10-05 00:43) 

国語力なくてすみません

国語力、たしかにそうですが・・・しかし、昔の本は教科書も小説の本も新聞も横にひらがなのルビがうってありますよね。なんで今はそれを廃止しちゃったんでしょうか。ルビをうたれている昔の国語教育は優れてたはずなんですよね?それなのに今のお偉い人達の考えとしてはルビがうたれている教科書はけしからんのでしょうか?今でもルビがうたれていれば、もっと多くの人、若い人から大人までもっと本をよく読む習慣つくと思うんですよね・・・わかんない読み方の漢字が出てきた!さぁ調べよう!で・・・読書の流れが一度ぶった切られます。難解な感じを多く使っている本だと、そういう連続で途中で読むことを私は嫌になってしまいます。“間違った読み方したくないからっていう気持ち”と、でも、”何度も辞典で調べなきゃぁ~だけど読書における文脈を追う流れとか読むリズムとかに水を差すなぁ”っていう二つの思いのジレンマ。だんだん本を読むのが苦痛になってきませんか?本離れってそういうところも工夫次第でなんとかならないでしょうか。
by 国語力なくてすみません (2015-10-10 03:10) 

tsuguo-kodera

 おはようございます。素晴らしい数年前の記事に遭遇できたのは、コメントがあったおかげです。ずぼらな性格ですので、このような良い記事があったとは。(笑)
 昨日は息子と渋谷先生とオグシオの小椋さんの登場する講演会を聞いてきました。とても面白い実演もある文武両道論のような話でした。ある中学の全校生徒と父兄の有志、そして一部の先生方が皆さん喜んで見聞きしていたように思えます。もちろん私たち夫婦は南無阿弥陀仏と言いながら、良い冥途への土産ができたと喜んで帰ってきました。
 でも、何か欠けている様な気がしたのですが、この論旨だったようにも今朝思えました。眠気が覚めたらまた読んで考えてみます。ありがとうございます。
by tsuguo-kodera (2015-10-10 05:03) 

ebisu

「国語力なくてすみません」さん

こんにちは。
ルビの問題ですが、出版にコンピュータが使われだしてから、性能の関係でルビが触れない時期がしばらく続きました。
それまでは新聞はルビが振ってありました。
わたしは、小学4年生のときから北海道新聞の「卓上四季」や社説、そして1面の記事を読み漁って、語彙を増やしました。ルビが振ってあったからです。もちろん、大人の本もルビが振ってあったので、流れを途切れさすことなく読めました。

コンピュータの性能がアップしたので、性能上の問題はと多くになくなったのですが、ルビ振りをしていた世代がとっくに引退してしまったので、現在の新聞記者や出版関係の人たちは、どの程度ルビを振ったらいいのかわからないようです。

自分の経験から言うと、小学校で習う漢字についてはルビは振る必要がありません。それ以降に出てくる漢字にルビを振ればいいと思います。

読めない漢字が出てきて、流れがぶった切られるのは実に腹立たしいものです。

専門家だけしか読まない本はルビの必要はないでしょうが、普通の本は漢字の使用制限をやめて、ルビを振ってもらいたい。
本が売れない原因のひとつは、ルビが振っていないので読みにくいということもあります、新聞社や出版関係の方にご協力をお願いしたい。ルビをふってもらいたい。
by ebisu (2015-10-10 11:03) 

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