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#546 C.3 告知 [38. cancer]

C.3 告知

 (2006年)6月になった。数日前から胃がもたれて、食事の後、お腹が苦しい。膨満感が3時間たってもなくならず、寝ると胃液が喉にところまで上がってくる。横になったり、天井を向いたりするが、ときどき胃酸が喉元まで上昇して、喉が胃酸で焼けるのか痛い、なかなか眠れなかった。

 そんな自覚症状が数日続いていた。自然に食事の量が減り、女房がどこかおかしいのじゃないかと訊いてくる。胃がおかしいと打ち明けた。病院に行ったほうがいいと言われ、数日我慢していたが、眠つけないほど苦しくなっていた。食事もほとんど喉を通らない。見かねた女房にまた叱られる。
 そんなに具合が悪いのに、病院へ行かないほうはない。理路整然と言われてはどうしようもない、こっちがぐずぐずしているだけ。

 この頃は、もう気がついていた、癌だ。なぜそう思ったか理由を書いておこう。
 オヤジの兄弟が皆癌で亡くなっていた。二人の病名は肝臓癌と肺癌だ、検査で入院したままあの世へ行った。オヤジは大腸癌で術後2年生き延びた。典型的な癌家系といっていいだろう。三人三様、それぞれ癌の部位が異なるから、癌抑制遺伝子が壊れるタイプだろう。だから、それぞれの食習慣の好みや嗜好品の影響とか生活習慣によって癌になる臓器が異なる。
 たぶん身体の弱い部分に出るだろう。私の場合は幼少期から胃腸が弱かった。中学2年まで肉類がほとんど食べられなかった。無理すると吐いてしまう。偏食癖があった。お腹が冷えることが多く、高校生の頃ハラマキをしたことがあった。胃腸薬である「キャベジン」もずいぶん飲んだ。だんだん薬への依存が強くなるので、ある時心配になりやめたら、そのほうが調子がよかった。寝ているときにお腹が冷えて気になると、自分の手をこすり合わせて暖かくして、「手当て」しながら眠ることもよくあった。

 癌については仕事で、塩野義製薬と膵臓マーカーを、そして外資系製薬メーカDPCとⅣ型コラーゲン共同開発を学術開発本部スタッフとして担当(開発部兼務)したことがあって、90年頃の先端情報については若干の知識があった。そして、八王子検査ラボの病理課長と購買課機器担当時代に仕事を通じて仲がよかったことや、90年代中頃に出向先の会社の病理検査ラボで、病理医からパソコンを使った病理画像管理システムを個々の事例を見ながら説明を受けていたので、癌のフェーズごとの様相も概略は知ってはいた。術後に摘出したわたしの胃やリンパ節、浸潤していた大腸はSRL八王子ラボへ送られて、病理検査が行われた。病理検査で名取課長は名前に気がついたかもしれない。すぐに死んだと判断しただろうな。しぶとく生きてるぜ!

 普段から、いつかは癌になるだろうと覚悟はしていた。だが、私の予測では65歳から70歳だった。オヤジと伯父貴(オヤジの兄)の発病時期が70前後だったからだ。術後2年生き延びたオヤジが一番もった。検査入院したまま二人が亡くなっていた。わたしはこのブログを書いている時点で術後2年半である、幸いにして、すでにその「壁」は越えた。
 予定とは違って50代半ばを過ぎるとすぐにやってきた。「冗談きつい、俺はまだ故郷でやることがある」そういう気持ちだった。

 病院へ行く決心をした。我慢ができなくなってしまったからである。6月7日のことだが、この前日が村上ファンドの村上世彰が逮捕された日だ。

 生徒の期末テストが26日からだった。病院へ行けば結果はわかっていた。単に確認に行くだけの話だから、行きたくはなかったが、どうにも我慢ができないほど苦しくなっていた。前日の朝にカキフライを食べ、昼にうどんを食べただけで、それ以降食べ物を口にしていなかった。口にできなかったと言ったほうがほんとうだろう。

 地元の消化器内科の専門医であるO先生に見てもらうことに決めていた。お父さん先生がオヤジの大腸癌を見つけてくれて、釧路市立病院への入院を勧めてくれた。オヤジは術後2年で亡くなった。最後は市立根室病院で面倒を見てもらった。ありがたかった。

 O医院では消化器内科専門医の若先生が診てくれた、根室高校の後輩だ。問診が始まった。遺伝的に癌家系であることを告げた。「自覚症状からおそらく悪性腫瘍だと思う、それも進行性の可能性がある」、症状が急激に悪化し始めたことを話し、内視鏡検査をお願いした。

 生まれて初めての内視鏡検査である。呼吸の仕方を教えてもらってから、麻酔のシロップを喉のところに溜めたまま5分間薬の効いてくるのを待つ。ヨガで呼吸のコントロールをしていたから、検査は途中から楽になった。呼吸の仕方が飲み込めたからである。ゆっくり長い鼻呼吸をする。
 内視鏡が口から入ると、喉を通過するときにちょっとげぼっと来たが、それ以上の事はない。画像には昨日食べたものが見える。昨日昼のうどんやカキが胃を通過せず、残留していたので邪魔になって胃カメラの操作が難しいようだ。
 少しすると「あっ!」とドクターが声を上げた。「カンシだして!」と看護師さんに指示をした。細い管を内視鏡に通し始めた。細い弾力のある管の先にカンシがついている。それで胃壁をつかみ、剥がす。少し出血するのが見えた。病理用生検材料を3箇所採った。

 内視鏡検査が終わり、診察室へ入る。画像を見るとイチゴの表面のように潰瘍ができていた。ドクターが説明を始める。幽門のところが詰まってほとんど穴が塞がって見えない。内視鏡がその先へ入れられない。
 穴をふさいでいるところが病変しているのが素人目にもわかる。腫瘍で晴れ上がっていた。ドクターに聞いてみたら、視線を落とした。「腫瘍ですよね」と念を押すと、肯く。「悪性ですか?」と聞いたら、やはり「そうです」との返事。こうしてドクターは申し訳なさそうに癌を告知した。気の毒だと思われたのだろう。念のために病理検査に出すという。検査報告書が来るまでに1週間かかる。

 「もう、塞がっていて、食事をしてもほとんど胃を通過しない。総合病院だと即日入院の臨床所見です」と今度はきっぱり言う。

 市立根室病院はその当時は消化器外科医がいなかった。釧路の病院を勧められたので、どこがいいのか聞くと、釧路市立病院か釧路医師会病院だという。医師会病院なら大学の先輩でが副院長だからすぐに入院手続きをとれるとのこと。釧路市立病院なら1か月くらいまたされることがあるという説明を聞いたような気がする。オヤジは生まれ故郷の釧路市立病院を選んだが、わたしは医師会病院を選択した。自覚症状からスキルスがあるはずだから、検査を続行してほしいと頼んだが、外科的処置のできる病院でないと胃壁の標本を採れないから、すぐに入院検査をするように説得された。
 25日までは中学生の期末テストと高校生の前期中間テストがあるからすぐには入院できないと事情を話した。ドクターは無理だ、第一もう食事ができないと強く即日入院を勧める。とりあえず腫瘍マーカと病理検査の結果がでるまで様子を見ることで納得してもらった。
 
 翌日、休塾のお知らせを作成した。スキルス胃癌を確信していたから、入院したまま死ぬこともありうる、ならばギリギリまで授業をやろう、そう思った。どうせいつかは死ぬ、ならば前のめりで死にたい。
 日中はホカロンをお腹に入れて温めた。夜は湯たんぽを入れて体を温めた。そうすると不思議と膨満感が消えて、三分の一ぐらいに調整した食事が消化されているようだ。ずいぶんと症状が楽になった。
 もともと、体が冷える体質だった。とくにお腹のところが冷えていることが多かった。だから、お腹を温めると楽になった。「温熱療法」で癌が縮小しないだろうか、少なくとも進行は遅れるかもしれないと淡い期待もした。

・・・生徒になんと説明しよう。
「お腹にオデキができたので、とるために1ヶ月入院する」そう説明しよう。
 冗談めかして、面白おかしく話したら、「先生、オデキできたの、お腹に、内緒にしとくね」と大笑いしてくれた生徒がいた。どのような冗談だったか、いまとなっては思い出せない。あの大笑いで気がずいぶん楽になった。
 13日に病理検査の結果がでたので病院へ行った。この日の朝は五分の一くらいの量のカレーライスとヨーグルトが食べられた。この頃には71キログラムあった体重が67キロ台に落ちている。
 病理検査結果は癌ではなかった。採った細胞が癌でなかっただけで、内視鏡検査画像を見る限り所見には間違いがなかった。
 血液検査の結果もでていた。CA19-9は腫瘍マーカーをして古典的な検査だが、2580あった。基準値が40以下だったと思う。以下はドクターの所見である。
「採った組織が癌細胞でなかっただけで、(腫瘍マーカの値から判断して)裏側からの浸潤の可能性もある。つまり、胃癌ではなく膵臓癌も疑われる」
 原発性膵臓癌で胃へ浸潤していたらほとんどアウトだろう。膵癌マーカーは別名「死のマーカー」とも言われていた。1990年ころ、兼務の開発部で塩野義製薬と膵癌検査試薬の共同開発を担当していた。「死のマーカ」とは検査で陽性になったらすでに手遅れで命がないという意味である。膵臓癌は胃の裏側にあり見つけにくい。たいていは胃に浸潤するくらいになってから見つかるから、手遅れになることが多いのだ。

 CA19-9は癌の部位は特定できないが、癌があるとデータは高くなる。縁とは不思議なものだ。SRL経理部へ転職した年に、この検査試薬の購入価額のネゴを任されて担当したことがある。1984年だった。東証Ⅱ部に上場するために統合システム開発を担当しているときのことだ。CA19-9は新規の大型検査項目で輸入試薬だった。うなぎ上りに検査数が増えていた。SRL親会社の富士レビオの子会社である東レ富士バイオの取締役が交渉相手だった。上場準備で関係会社間の取引は利益移転の疑いがあってはいけないので、為替変動を考慮し、1ヶ月の移動平均値を基準に取引レートを決めた。産業用エレクトロニクス輸入商社で考案した方法である。為替予約と合わせることで為替変動による損失を回避できる。東レ富士側にはそのレートで為替瀬予約を入れてもらい、為替差損がでることを防いだ。1984年の大型新規導入項目だが、いまだに腫瘍マーカでは有力な検査である。そのような経緯があって、よく知っている検査だった。縁は異なもの味なものとは男女間のことだが、仕事と病気でもそういうことがある。

 湯たんぽやホカロンで楽になったと言うと、ドクターから「一時しのぎだから、いつ詰まってもおかしくない」と再度入院を強く勧められた。内視鏡でまたサンプルを採ったが、これ以上やるわけに行かないという。消化器外科医がいないと危ないのでこれ以上深いところからサンプルを採るわけには行かない、消化器外科医のいる病院で再検査すべきだと叱られた。26日月曜日入院ということで、釧路医師会病院へ入院手続きをとってもらった。
「詰まったらすぐに入院ですからね」と念を押された。もう観念していたからドクターの勧めに素直に肯いた。最初の予兆が半年前、二度目の予兆が3ヶ月前のことだった。かすかに感じていただけで見分けられなかった。

 健康な人へ伝えたい。
 かすかな予兆がある、自分のためにも家族のためにも、共に働く仕事仲間のためにも、贔屓にしてもらっているお客様のためにも見逃すな。自分ひとりで生きているのではない、生かされている。
 
 2009年2月14日 ebisu-blog#546
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