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北方領土返還運動異論 [21. 北方領土]

2,007年12月15日   ebisu-blog#023
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 私事であるが、癌で闘病中の叔母が余命いくばくもない。一人娘の従妹からメールが来た。7日に再入院して腎機能が低下してきたという。年を越すのがむずかしい状況である。老人の死はまず腎臓に現れる。腎臓から死んでいく。まず腎が機能停止し、水分排泄ができなくなる。点滴を続けると細胞内の水分が排泄されずに身体にむくみを生じる。ことここに至ると患者は苦しいばかりだろう。点滴をやめるべきタイミングである。ついで肝が機能停止してゆく。そして心がとまり、脳が死ぬ。叔母達の中では一番明るく人間味に溢れた人なので、寂しさはひとしおだ。

 叔母はよく根室に遊びに来た。貸しボート小屋と石造りの突堤があった頃、膝まで水につかればウニが獲れた。石でたたいて割って口に放り込み、「美味しい」といかにも嬉しそうな顔をして何度も言っていた。
 もう50年になろうとしているのに、あのときの表情がまぶたに浮かび、その声が今も聞こえるようだ。懐かしい白い砂粒の混じったふる里の海岸を思い出していたことに、今頃ようやく気がついた。私が愚かだった。その心情が子供の頃とはいえわからなかった。ただ単に、無邪気な叔母であると思っていた。
 叔母は択捉で生まれ育った。戦時中に島を出て青森で看護婦として働いた。終戦後しばらくして結婚した。その叔母が、生まれ育った択捉へ行きたくて、北方領土の墓参団に加わろうとしたことがある。果たせなかった。

 理由は簡単なことであった。「引揚者でないからだめ」だという。北方領土の墓参団は引揚者しか認められないらしい。当初は人数を制限せざるを得なくてそうしたのかもしれない。しかし何度もふる里の地を踏んだ「引揚者」がいることも事実である。
 ひと回りはなれた妹は引揚者である。彼女は数度、訪問している。島で暮らした期間は死の床に伏している叔母のほうが長い。たまたま、大人になって島の外に働きにでていた。妹はまだ幼く島にいて引揚者になったというだけのことだ。くどいようだが同じ「引揚者」が何度も訪問しているのに、引揚者ではない元島民は一度も訪れることができない。
 元島民同士、親子・兄弟・姉妹であったり、同じ学校に通った同級生であったり、先輩後輩である。一度も訪れることのできない元島民がいるのに、どうして2回目には譲ろうとしないのだろうか。人としての情、そして社会性や人間性をどこかに置き忘れてきたようにみえる。

 北方領土返還運動関係者は引揚者で占められている。事情はよくわからない。しかしである、北方領土返還運動は元島民が主体であるべきではないのか。「引揚者」は元島民の一部である。「引揚者」と引揚者ではない元島民とどちらのほうが数が多いのであろう。根室経済圏に属していた北方領土の島民のかなりの部分が根室や函館などへ働きに出ている。そういう元島民を排除してなされる北方領土返還運動とはいったい何のための、誰のための運動なのか。

 たとえば、根室で生まれ育って東京で暮らしている人々がいる。私も5年前まではそうした人間の一人であった。東京で暮らしても、生まれ育ったのは根室である。根室がふる里であるのは、根室に住んでいる根室人も、東京に住んでいる根室人も変わらない。今どこに住んでいようが、生まれ育った土地がふる里である。団塊世代であるわたしたちは、誰言うともなくいつのころからか東京にいる者が集まり、同窓会を開くようになった。地元よりも回数はずっと多いだろう。在京のT先生を交えて、いまでも懐かしい故郷談義に花を咲かせていることだろう。T先生は東京生まれの東京育ちであるが、根室で30年ほど教員生活を送り、根室をふる里と思う心は私たちと変わらない。
 このような常識が返還運動に携わっている「引揚者」には通じない。すべての引揚者がそうだというつもりはまったくない。ほんの一部だろう。その一部の「引揚者」が心ない対応をしただけのことだろう。
 幸いなるかな、叔母はまもなく天に召され、季節はずれの南風に乗り、自由にふる里を訪れる。
 私が伝えるべきは、「了見の狭い人たちの返還運動などあたしには関係ない」と叔母同様に思う元島民が少なからずいることである。

 関係者はなぜ北方領土返還運動が盛り上がらないのかを、考えるべきだろう。元島民にすら共感をもたれない返還運動が国民の共感を呼ぶはずがない。「引揚者」ではなく元島民を主体にした運動に切り替えるべきだ。元島民は老齢化し、叔母のようにふるさとの地を訪れたいという願いを果たせずにこれからも次々に死んでいく。そして連帯すべき担い手を失った「ふる里返還運動」は引揚者たちの「北方領土返還運動」に矮小化され、エネルギーを失ってゆく。

 墓参団には引揚者でも元島民でもない地元有力者が加わっていた。いつもニコニコして根室の貴重なオピニオンリーダーでもあるその人がこんな話を聞いたら驚き、そして言うだろう。「私は好いですから、どうぞ替わりにいらしてください」、そういう人柄だ。
 どうして、択捉で生まれ育った叔母が墓参団に加わることを拒否したのか、惻隠の情のない一部の「引揚者」はその心情において日本人といえるのであろうか。人間の器がこういうところに出てしまう。運動を担う人々の人としての大きさが問われていると私は思う。甥として、死の床にある叔母に代わってこの事実をブログに記して、ごく小数の読者に伝えようと思う。

 叔母の姉である私の母ももちろん元島民である。択捉で生まれ育った。しかしこのような事情で返還運動にはまったく関心がない。もう足腰が弱って、母親の眠る蕊取の墓地を訪れることは不可能である。本人はとっくにあきらめ、領土返還運動にあきれ果てている。そして「引揚者」ではない元島民の二人の叔母は、島を一度も訪れることなく亡くなっている。その死んだ叔母二人のちょうど真ん中の叔母は年を越せそうにない。
 ふる里の浜辺を歩くことなど彼女にとってはすでにどうでも好いことかもしれない。叔母はこの世での愛憎などとっくに超越しているだろう。もういいよとニコニコ笑っているような気もする。しかし、かなうことなら生まれ育った蕊取の浜にいつの日か散骨してあげたい。  


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