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高速学習と個別指導(#2) [61. High Speed Learning]

 2,007年12月12日  ebisu-blog#013
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 高速学習についてなにか好いことだらけのような印象を与えたかもしれないので、高速学習は万能処方箋ではないことをお断りしておきたい。物事には両面があります。いいえ、もっとたくさんの面がある。ひとつの比喩に過ぎませんが、森羅万象ことごとく多面体であると言えるのかもしれません。

 今回は数学の高速学習の危険性についてお話します。

 高速学習は、①生徒の性格、②消化スピード、③思考パターンの三要素を一人ずつしっかり見抜かないと成果が上がりません
 スピードが速くても、質問の少ない生徒は、なぜ質問が少ないのかをこちらが考えて、質問の少ない原因がどこにあるのか「診断」しながら指導します

【解き方はたくさんある】
 予習中心の授業ですから、わからない問題は答えを参考にして学習を進めさせます。それでもわからないところを質問させます。場合によっては別の解法を考えさせることもあります。解き方が一つではないこと、複数あることを学生のうちに刷り込んでおくことは重要です。これは十数年後の「副作用による病気」へのワクチンの役割を果たします。
 解き方が見当つかなかった問題は、どのように攻めれば好いのか、「戦略眼」の醸成や「着眼大局」のトレーニングの題材に利用します。問題にすぐ手をつけずに「鳥瞰」することの重要性を実例で教えてていきます
 答えを参照した問題には識別マークをつけさせますが、指示を守らずにマークをつけない生徒もいるので、問題集をときどきチェックして状態を確認します。

【好奇心が脳の硬直化を防ぐ?】
 質問がでない原因が、問題関心の狭さや、好奇心の欠如にあると思われる場合は、指導の仕方を変えるべきです。要所を押さえて数学の広がり・他の分野との関連の説明をして興味を広げる手伝いをします
 疑問の出ない生徒は、引っ込み思案か数学の体系が見えていないのかのどちらかです。引っ込み思案でなければ部分部分に虫眼鏡を当てて、その解法を覚えているだけの可能性があります
 このような状態を放置すると脳に特定のパターンの思考回路が形成されます。繰り返すことで慣れてしまって、いつか習慣になり、脳は特定の思考パターンに染まり、柔軟性を失います。いわば堅い回路ができてしまいます。それゆえ、解法パターンを覚える勉強を辛抱強く繰り返した生徒ほど、成績は好いが臨機応変な思考のできない硬直脳になってしまうのです。民間企業でこのような人材は必要ありません。創造力が必要とされる重要な仕事を任せることができないからです。任せたらその部門は駄目になります。学校の成績はよくても、社会人としては落第です。

【覚えるだけのパターン練習の弊害】
 私は企業人として先輩や同僚、新入社員をいくつか業種の異なる会社で多数見て来ました。だから、覚えるだけの学習の弊害がみえます。昔からある典型的な詰め込み教育、パターン練習による学習は、成績は上げますが、それを繰り返すことで脳の柔軟性を根こそぎ奪います。パソコンによる学習は昔の詰め込み教育のパターン練習そのものです。さまざまな解法パターンを覚えるために繰り返し練習します。点数が上がっても先がありません。袋小路が待っているだけです。だから、代ゼミや駿台予備校はビデオ授業やDVDは補助教材で使うに過ぎません。人によるナマの講義が中心にあります。

【小田実&吉田松陰???】
 わたしは若かりし頃、代ゼミで作家である小田実の英語授業を受けたことがあります。赤い派手な色のアロハシャツを着て、頭をかきむしりながらせっかちに少しドモリ気味に、機関銃のような早口で教えてくれたことはよく覚えています。講義には全人格的な何かが表出されますそれにも生徒は触発されるのです。古くは吉田松陰の松下村塾があります。吉田松陰の強烈なカリスマ性を抜きにして、松下村塾から明治の元勲が多数輩出したことを理解することはできないでしょう。日本橋人形町界隈を昼休みに散歩していて、吉田松陰が刑死した刑場跡を偶然見つけたことがあります。小さなお寺になっていました。一瞬道路を走る自動車の音が消え、時間が縮まって切腹するときの姿がみえたような気がしました。「粗にして野なれど、卑に非ず」、松蔭のファンであった山口県萩市出身の上司が酒の席でつぶやいた一言を思い出しました。今も昔も教育にとって一番大切な要素は教師と生徒の人間としてコミュニケーションではないでしょうかこれを抜きにしたら教育は語れないでしょう

【私塾は日本固有の伝統文化】
 一人ひとり手間隙を注いで育てていく、それがニムオロ塾のやり方であり、昔からの日本の私塾のあり方と共通する部分ではないでしょうか。私塾は日本固有の文化です。世界中を眺めても、江戸時代に私塾が3万もあった国は日本以外にはありません。当時の世界中のプライベートスクール(私塾)の90%が日本にあったのではないでしょうか。日本は圧倒的に民間の教育熱の高い国です。私塾は誇りとしうる伝統文化です。

【教育は生徒の一生を視野に入れて行うべき】
 硬直脳を作り出してしまうという理由から、わたしは今話題の陰山方式を中学生以上に応用するのは危険だと思います。陰山氏は生徒たちが企業人となったときを見ていません。たんに小学生のときの成績を見ているに過ぎないのです教育は生徒の一生を考慮に入れてなされるべきだと私は思いますその場の成績だけが上がれば好いと割り切るのは、ビジネスであって、教育ではありません。ビジネスと教育が同時に成り立っているのが本来の私塾の姿ではないでしょうか。

【危険性がある場合の対処】
 なぜ?どうして?あれとの関連はどのように理解したら好いの? こういう疑問が次々に出てくる生徒はほうっておいても大丈夫です。
 質問の少ないと感じた生徒は、復習の仕方をチェックし、指示通りにやっているかどうかを確認します。それでも問題がある場合は、テスト前3週間から高速学習をやめて、プリント問題でテスト範囲の理解度のチェックをします。これで、ほとんどの問題は解消します。

【“覚えるよりも考える”授業は個別指導しかない】
 一人ひとり、性格も学習の仕方に影響していますから、教える側はまず生徒自身をよく観察します。その次に具体的にどのように問題を解いているのか、ノートの書き方を観察して確認します。質問しながら解く過程をチェックしてもいいし、ノートの書き方を見てもいい。ケアレスミスが頻発する原因に、ノートの使い方が拙い場合があります。そういうチェックもします。その上で必要があればノートの使い方を指導します。
 大事なことは、学習するほど質問が増えるように指導することです。10理解できたら、さらにその次のわからない領域が3くらい見えてくるようならしめたものです。
 ニムオロ塾では“覚えるよりも考える”ことを主体に授業を工夫しています。何も覚えなくても好いということではありません。英語だって単語や文法は覚える必要があります。数学の公式もそうです。そのうえで考えるということです。この問題が解けない、なぜだろう?問題を3つに分割してみたらどうなるか、5つに分解すればどうなるだろうか。分割すると簡単になる場合が多いことを学ばせます。分割しすぎると役に立たないことも体験させます。下敷きはデカルトです。

【デカルト&ユークリッド】
 哲学者であり科学者でもあり数学者でもあったデカルトが『方法序説』のなかで4つの規則(岩波文庫p.28)を提示しています。その2番目で「第二は、わたしが検討する難問の一つ一つをできるだけ多くの、しかも問題をよりよく解くために必要なだけの小部分に分割すること」と言ってます。数学の問題を解くときや英作文の指導をするときに、生徒がどうして好いのかわからない場面にぶつかったときに、このデカルトの第二規則を使って解いて見せます。古典の名著である『方法序説』の該当ページ数とともに、該当箇所の文そのものを紹介することで、哲学への生徒の興味を広げきっかけができます。古典の本文を理解することで、問題を解く場合に必要な根本的な何かが体得できるのです
 三平方の定理は教科書の証明よりも、ユークリッド『原論』に載っている2500年前の証明のほうがよほどスマートです。記号はすべてギリシャ文字で書かれています。原著のコピーを渡して、教科書の証明と比較検討するだけで、何かが生徒に伝わります。大判の大きな『原論』の印象が頭の片隅に残るだけで充分です。古典は機会があるごとに、その実物や原文を紹介します見たり聞いたり、体験があれば必要なときに生徒自身が思い出して手に取ります。それまで待つ。お酒の醸造のように、仕込んでゆっくり発酵を待ちます。じっくり育てることで好いお酒、いえいえ、社会人となっても潰れない好い大人に育ちます
 古典をたくさん読み、さまざまな考えに触れることは、オーム真理教のようなカルトに対するワクチンとしても有効です。一つのものを絶対視せずに、相対的なものの見方ができるようになります。

【高速学習の要諦】
 高速学習の要諦は生徒をよく観察し、理解することにあります。実に手間隙がかかります。かかるのではなく教育とは一人ひとりの生徒に手間隙を書けることを言うのだろうと思います
 一人ひとり性格もスピードも違います。性格とスピードを考慮して臨機応変に対処してはじめて成果が上がります。ほうったらかしにすると、自分はできているつもりでも単に受験問題の解き方を記憶しただけの学習となり、自己流を繰り返すことで思考パターンが硬直化してしまいます。これが、高速学習の危険性です。教えるほうは脳の硬直化を予防しなくてはなりません。スピードは標準に対して、1.2倍速、1.5倍速、2倍速の三段階くらいに大まかに分けた対処するとうまくいくようです。とにかく生徒をよく見る(診る?)ことに尽きます。

【覚える学習の副作用って何?】
 解き方を覚えるだけの学習は社会人になってからその人の人生を台無しにするほどの強烈な副作用がでます。一緒に仕事をした人の中に東大や一ツ橋出身者が5人ほどいましたが、精神的な障害を抱えてしまう例が高頻度でみられました。覚えるだけの学習を繰り返したために、社会人になってもそうした思考の癖が抜けないのではないかと思います。テーマをブレイクダウンして、具体的な指示をすると、その指示の範囲内ではじつにスピーディな仕事をします。そういう点では優秀です。ところが、「あなたの部門あるいは会社で来期利益を1億円あげなさい」というような抽象的な目標を与えると、途端にパニックになります。経費を削るだけの、ほとんど白痴に近い行動に走ります。何をどうしたら利益を生み出せるのかがわからないのです。
 こういう人は、解法を覚えるだけの思考パターンを繰り返すことで、そうした思考の仕方が習慣となり、その習慣が性格にまでなってしまっています。社会人になる前に、直す機会を失っているのです。習慣化した思考パターンは、堅い回路として脳に刻み込まれてしまうようです。私は脳科学者でも何でもありませんが、観察しているとそういう風にみえるのです。

【硬直脳の行く末⇒管理職になるとどうなるのか】
 現実の問題には決まった解法はありません。たとえば、長期計画が決定され、来年度「君の部門で1億円の利益をあげろ」と年度計画の具体的な部門目標を提示されたときに、脳が硬直化した人は対処の仕方がわからなくて、高い頻度で鬱病になりるます。「利益を1億円増やす」という数字の上では具体的で、達成方法に関してはひどく抽象的な目標に決まった解法があるわけではないのです。今までの経験がまったく役に立たない数学の問題は完璧に解けたのに、現実の問題は解けないどころか、どのように対処して好いかまったくわからない。現実は決まった解法のない問題だらけですから、臨機応変な柔軟な思考が要求されます。
 「覚える」だけの学習を繰り返した人は民間企業人には向きません。前例を踏襲するだけでよしとするような職種が向いています。

【話題の陰山方式対算盤】
 陰山方式が話題になっていますが、小学生には有効な勉強法ですが、中学生以上に有効な勉強方法とは思えません。典型的なパターン学習です。昔、四谷大塚テスト全国2位の生徒を東京渋谷の進学塾で個人指導したことがあります。すごい勢いで問題を解きますが、解法を覚えていて、パターンに当てはめて解いているだけで、頭をあまり使っていないようにみえました。こういう生徒にとっては、既知の解法パターンを適用するだけで解ける問題は、脳に負荷がかからないのでしょう。脳がこういう思考パターン(ほとんど休止状態)に慣れてしまうと、それが習慣化しフル回転しない脳がつくられてしまいます。表面上は一生懸命に勉強しているように見えますが、実際はワンパターンのゲームを繰り返しているのと変わらなくなります。
 百升計算よりも日本の伝統文化である算盤のほうがはるかに優れています。根室の子供たちの半数ぐらいが昭和30年代はそろばん塾に通っていました。だから、中学1年生の60%が基礎計算に問題を生じることなどありえませんでした。繰り返しますが、算盤のほうが遙に効果が高い集中力でも計算力でも、算盤を日本の子供たちが習う限り基礎計算力は世界一です。ところが、いま小学校では算盤を教えていません。そろばん塾へ通う生徒も少なくなりました。基礎計算力が落ちるわけです

 ・・・それではこの稿の結論です。
 脳は繰り返されることに慣れてしまいます。覚えるだけの学習を何年間も継続すると、そういう脳になるのは理の当然でしょう。陰山方式もパソコンによる学習も、その欠点をよく理解した上で、弊害が小さくなるように工夫して生徒に与えないと、社会人になってから大きな副作用となって生徒自身の成長を阻み、ときにはノイローゼによるサラリーマン生活の破綻を招くことにもなるのです。解法を覚えるだけの高速学習だけはニムオロ塾はやりません。その副作用の大きさを35年間いくつかの上場企業で働く中で、上司や同僚や部下の貴重な実例から学びとったからです。お陰様で、生徒一人ひとりがサラリーマンになったら20年後にどのようになっているかがだいたい見当がつくようになりました。

【刹那主義的な考え方の行く末を案じる】
 「学生時代は楽しければ好いんだ」という声が聞こえますが、そういう人はそれなりの人生を歩むことになります。自分の人生ですから、それも善しとしましょう。世の中の厳しさをかみ締めることになるでしょうが、そこで気がついて成長するしかありません。ぜひ、コヤシにして一回り大きな人物へ成長されることを祈ります。「成績がよければそれだけで好いんだ」という人も似たようなものです。惻隠の情のない、薄っぺらな大人があなたたちのの周りにもいるでしょう。
 気がつかない人もいます。そのような人は成長できないだけのことです。年輪を重ねてきてこういうことがようやくみえるようになりました。わたしも若いうちはわかりませんでしたから、年寄りの戯言と聞き流してくださっても結構です。若かりし頃は、トラックバック(#14の「期末テスト(3)」)した方とそう大きな違いはなかったと思います。でも一生懸命に生きていました。いまも人生を三期に分け、最後の時期を駆け抜けたいと思っています。三期とは「学習のとき」「仕事のとき」「社会貢献のとき」です。すっぱり切り分けられるわけではありません。どこにより大きな比重を置くかの問題です。いろいろな人に助けられてここまでこれたのですから、自分にやれることをやって駆け抜けたいと思います。

  

 


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